後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「共産主義という人類の壮大な理想と挫折、そして難しい問題」

2021年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム
明治維新以来、ヨーロッパ文化は日本に大きな影響を与えました。深い影響です。
そのヨーロッパ文化が共産主義という人類の壮大な理想を生みました。しかしそれは悪夢でした。
キリスト教では労働者や貧しい農民が幸せになれなかったのです。そこで共産主義が生まれたのです。
共産主義では財産の共有を目ざし生産手段を共有することにより、階級や搾取がなくなります。全ての人間が平等になるのです。
共産主義の考えは一見素晴らしいもののように見えます。それまでの西洋文明の中でしいたげられ、蔑げすまれてきた下層階級の人々を平等に扱うというのです。フランス革命で謳われた自由と平等な社会が一向に実現しなかったので、共産革命が必要だと主張する人々が現れたのです。
世界で初めて共産主義革命で政府をつくったのはロシアです。1917年のことです。その結果、ソビエト連邦共和国が生まれました。
そのソ連は1991年に挫折して崩壊しますが、それまでの74年間にキリスト教の弾圧を続けました。従来のヨーロッパ文化の根幹をなしていたキリスト教を否定し、弾圧したのです。弾圧によってはかり知れない悲劇が起きました。一つの例だけを示します。

1番目の写真は救世主ハリストス大聖堂の写真です。ハリストとはロシア語でキリストのことです。この写真は1991年のソ連崩壊後に教会が再建された姿の写真です。

2番目の写真は1931年にスターリンの命令で爆破され崩れゆく救世主ハリストス大聖堂の写真です。
共産革命に成功したソ連は全世界を共産化しようとしました。例えば、ソ連は中国共産党と協力してベトナムを共産化しようとしました。彼等の支援で北ベトナムとアメリカが支援した南ベトナムの間に残酷なベトナム戦争が10年間ほど続きました。その結果、共産勢力が勝利して、南北ベトナムは共産主義国家として統一されたのです。
共産党による南北ベトナム統一が終了すると宗教関係者や経済を握っている華僑が弾圧されます。彼等は弾圧を逃れるために船に乗って沖に逃げたのです。いわゆるボートピープルです。
このボートピープルの一人だった人が私どもが通っているカトリック教会の主任神父をしていたヨゼフ・ディン神父さまなのです。主任司祭として優しく信者の面倒をみる素晴らしい神父様でした。

3番目の写真はヨゼフ・ディン神父さまがミサでお祈りの言葉を唱えている場面です。
このディン神父様はベトナムで神学生でした。ベトナム戦争後に日本に逃げて来ます。そして東京大司教区で日本の司祭になったのです。東京のあちこちのカトリック教会の主任司祭を務めてから私共の教会に来たのです。
ディン神父を見る度に共産主義のことを考えたものです。
共産主義では貧民階級が無くなる筈です。南米には貧民街が多くあることで有名です。ですから貧民層の多い南米では共産主義運動が盛んになりました。例えばキューバでは共産主義革命が成功しました。カストロやチェ・ゲバラがか革命を指導したのです。
しかしそれは南米の一部に限られた地域でした。南米の他の地域では相変わらず貧民街が多いのです。
私はある時ベネズエラを訪問しました。行ってみると胸が痛む光景があちこちにあるのです。私はカラカス市に行って貧民街を沢山見てしまったのです。
カラカス市では近代的な中心街を外れた山の斜面に貧しい人々がビッシリと住んでいるのです。それは南米特有の山の斜面にある貧民街です。

4番目の写真はブラジルのリオデジャネロの貧民街の写真です。写真の出典は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A9 です。
私が訪れたカラカス市の貧民街も山の斜面にありました。
山の斜面の下の入り口に、蛇口の壊れた水道が一個あり、水が流れています。半身裸の男の子が水の入ったヤカンを2個持って坂道を登って行きます。レンガやシックイで固めた不揃いの小さな家々が重なるように斜面を埋めて、上へ、上へと続いているのです。
誰も居ません。ガランとした空虚な路地を乾いた風が吹いているだけです。悪臭もせず清潔な感じです。中腹まで登ったら家の前で老婆が編み物をしていました。我々をとがめるように険しい目つきで見ます。案内してくれ人が何か現地語で挨拶すると途端に笑顔を見せたのです。後で彼に聞きました。ガランとして誰も居ないのは、日雇いの仕事で皆な出た後だからと。そして観光客が現地の案内人なしで来ると殺されるから私へ注意するようにと言ったという。

5番目の写真は貧民街で銃をかまえて警戒する武装警官の様子です。

6番目の写真はリオデジャネイロ市のコンプレクソ・ド・アレマンの貧民街です。6万人以上が住 んでいますが、2007年には憲兵隊とギャングの市街戦も起きた場所だそうです。
南米に行って以来、私は時々、カラカスの山の斜面の貧民街の光景を思い出しては胸が痛みます。何故、共産主義が貧民街は解消出来ないのだろうかと考えています。
しかしどんな理想的な政府を作っても南米の貧民街は解消出来ないという考えもあるのです。以下にはその理由が明快に書いてあります。
ブラジル在住の平峰盛敏さんから投稿して頂いた「ブラジル生活あれこれ(1)19歳で日本から移民して感じたこと」という連載記事に書いてあるのです。2017年4月22日 に掲載した記事の中に次のような記述があったのです。
(3)ブラジルにおける貧困層の存在と問題点
アフリカから連れてこられた奴隷は1888年に解放されました。しかしその子孫は130年近く経った今でもその大部分が、最底辺生活から抜け出すことが出来ずにいます。この貧困層の存在は人種差別による貧困では無く、生活能力不足による貧困と考えられています。
この貧困層の問題は、教育不足、就職難、悪い道への下り坂などです。
貧困層が住むスラム地域には、アフリカの黒人系が多く、教育不足、就職難、悪い道の悪循環が何時までも回っているのです。
私がブラジルで高校、大学に学んだ際、ビックリしたのは、貧乏が食物不足を生み、その子弟達は、餓死寸前の環境に何年も過ごすことになることです。 餓死寸前の栄養状態では脳が発達出来ず、知能の発達を妨害しているのです。この事実は医学的にも認められているのです。この貧困層の問題を私が初めて知った時の驚きと暗い気持ちが忘れられません。そこでブラジルの貧困層の歴史を調べました。・・・以下省略します。

嗚呼、地球上から貧民街を無くすことは至難なことなのです。一体 人間とは何でしょうか。何故貧民街を無くすことが出来ないのでしょうか。何故人間には貧富の差があるのでしょうか。アメリカや日本は貧富の差の大きいことで有名です。本当に難しい問題です。
皆様は貧富の差や貧民街の問題をどのようにお考えでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「夏目漱石の短編、『京に着ける夕』を読む」

2021年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日パソコンを使って調べものをしたり文章を書いていると本というものを読まなくなります。こんな状態が10年以上続いています。家内は相変わらず読書です。最近は夏目漱石の「永日小品」を読んでいます。私の学校時代には夏目漱石や芥川龍之介の作品は教養として読んだものです。
さて皆様は本を読んでいらっしゃいますか。読書していらっしゃいますか。

そこで今日は夏目漱石の短編、『京に着ける夕』をお送り致します。
出典は「青空文庫」、https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/777_43437.html です
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夏目漱石作、『京に着ける夕』

 汽車は流星の疾きに、二百里の春を貫いて、行くわれを七条のプラットフォームの上に振り落す。余が踵の堅き叩に薄寒く響いたとき、黒きものは、黒き咽喉から火の粉をぱっと吐いて、暗い国へ轟と去った。
 たださえ京は淋しい所である。原に真葛、川に加茂、山に比叡と愛宕と鞍馬、ことごとく昔のままの原と川と山である。昔のままの原と川と山の間にある、一条、二条、三条をつくして、九条に至っても十条に至っても、皆昔のままである。数えて百条に至り、生きて千年に至るとも京は依然として淋しかろう。この淋しい京を、春寒の宵に、とく走る汽車から会釈なく振り落された余は、淋しいながら、寒いながら通らねばならぬ。南から北へ――町が尽きて、家が尽きて、灯が尽きる北の果まで通らねばならぬ。
「遠いよ」と主人が後から云う。「遠いぜ」と居士が前から云う。余は中の車に乗って顫えている。東京を立つ時は日本にこんな寒い所があるとは思わなかった。昨日までは擦合あう身体から火花が出て、むくむくと血管を無理に越す熱き血が、汗を吹いて総身に煮浸出はせぬかと感じた。東京はさほどに烈しい所である。この刺激の強い都を去って、突然と太古の京へ飛び下りた余は、あたかも三伏の日に照りつけられた焼石が、緑の底に空を映さぬ暗い池へ、落ち込んだようなものだ。余はしゅっと云う音と共に、倏忽とわれを去る熱気が、静なる京の夜に震動を起しはせぬかと心配した。
「遠いよ」と云った人の車と、「遠いぜ」と云った人の車と、顫えている余の車は長き轅を長く連ねて、狭く細い路を北へ北へと行く。静かな夜を、聞かざるかと輪を鳴らして行く。鳴る音は狭き路を左右に遮ぎられて、高く空に響く。かんかららん、かんかららん、と云う。石に逢ばかかん、かからんと云う。陰気な音ではない。しかし寒い響である。風は北から吹く。
 細い路を窮屈に両側から仕切る家はことごとく黒い。戸は残りなく鎖されている。ところどころの軒下に大きな小田原提灯が見える。赤くぜんざいとかいてある。人気けのない軒下にぜんざいはそもそも何を待ちつつ赤く染まっているのかしらん。春寒の夜を深み、加茂川の水さえ死ぬ頃を見計らって桓武天皇の亡魂でも食いに来る気かも知れぬ。・・・中略、続きは、https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/777_43437.html をご覧下さい。
・・・ かんかららんは長い橋の袂を左へ切れて長い橋を一つ渡って、ほのかに見える白い河原を越えて、藁葺とも思われる不揃いな家の間を通り抜けて、梶棒を横に切ったと思ったら、四抱えか五抱いつかかえもある大樹の幾本となく提灯の火にうつる鼻先で、ぴたりと留まった。寒い町を通り抜けて、よくよく寒い所へ来たのである。遥なる頭の上に見上げる空は、枝のために遮ぎられて、手の平ほどの奥に料峭たる星の影がきらりと光を放った時、余は車を降りながら、元来どこへ寝るのだろうと考えた。
「これが加茂の森だ」と主人が云う。「加茂の森がわれわれの庭だ」と居士が云う。大樹を繞って、逆くに戻ると玄関に灯が見える。なるほど家があるなと気がついた。
 玄関に待つ野明のあきさんは坊主頭である。台所から首を出した爺さんも坊主頭である。主人は哲学者である。居士は洪川和尚の会下である。そうして家は森の中にある。後は竹藪である。顫えながら飛び込んだ客は寒がりである。
 子規と来て、ぜんざいと京都を同じものと思ったのはもう十五六年の昔になる。夏の夜の月円に乗じて、清水の堂を徘徊して、明らかならぬ夜の色をゆかしきもののように、遠く眼を微茫の底に放って、幾点の紅灯に夢のごとく柔やわらかなる空想を縦いままに酔えわしめたるは、制服の釦ボタンの真鍮と知りつつも、黄金と強しいたる時代である。真鍮は真鍮と悟ったとき、われらは制服を捨てて赤裸のまま世の中へ飛び出した。子規は血を嘔はいて新聞屋となる、余は尻を端折って西国へ出奔する。御互の世は御互に物騒になった。物騒の極く子規はとうとう骨になった。その骨も今は腐れつつある。子規の骨が腐れつつある今日に至って、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋になろうとは思わなかったろう。漱石が教師をやめて、寒い京都へ遊びに来たと聞いたら、円山へ登った時を思い出しはせぬかと云うだろう。新聞屋になって、糺すの森の奥に、哲学者と、禅居士と、若い坊主頭と、古い坊主頭と、いっしょに、ひっそり閑かんと暮しておると聞いたら、それはと驚くだろう。やっぱり気取っているんだと冷笑するかも知れぬ。子規は冷笑が好きな男であった。
 ・・・
 暁は高い欅の梢に鳴く烏で再度の夢を破られた。この烏はかあとは鳴かぬ。きゃけえ、くうと曲折して鳴く。単純なる烏ではない。への字烏、くの字烏である。加茂の明神がかく鳴かしめて、うき我れをいとど寒がらしめ玉うの神意かも知れぬ。
 かくして太織の蒲団を離れたる余は、顫えつつ窓を開けば、依稀たる細雨は、濃かに糺の森を罩て、糺の森はわが家を遶りて、わが家の寂然たる十二畳は、われを封じて、余は幾重ともなく寒いものに取り囲まれていた。
  春寒の社頭に鶴を夢みけり  (終わり)

尚、漢字に読み方をつけた読み易い文は、https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/777_43437.html  にあります。

それにしても明治時代は遠くなりました。私は明治時代に教育を受けた漱石が書いた文章の漢字が読めないのです。意味は分かりますが読めないのです。
挿絵代わりの写真は明治時代の京都、四条の風景です。出典は、https://blog.goo.ne.jp/teinengoseikatukyoto/e/084666016770e21f702ed4f99d578489 です。



それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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夏目 漱石、
生年: 1867-02-09
没年: 1916-12-09
人物について: 慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。