明治維新以来、ヨーロッパ文化は日本に大きな影響を与えました。深い影響です。
そのヨーロッパ文化が共産主義という人類の壮大な理想を生みました。しかしそれは悪夢でした。
キリスト教では労働者や貧しい農民が幸せになれなかったのです。そこで共産主義が生まれたのです。
共産主義では財産の共有を目ざし生産手段を共有することにより、階級や搾取がなくなります。全ての人間が平等になるのです。
共産主義の考えは一見素晴らしいもののように見えます。それまでの西洋文明の中でしいたげられ、蔑げすまれてきた下層階級の人々を平等に扱うというのです。フランス革命で謳われた自由と平等な社会が一向に実現しなかったので、共産革命が必要だと主張する人々が現れたのです。
世界で初めて共産主義革命で政府をつくったのはロシアです。1917年のことです。その結果、ソビエト連邦共和国が生まれました。
そのソ連は1991年に挫折して崩壊しますが、それまでの74年間にキリスト教の弾圧を続けました。従来のヨーロッパ文化の根幹をなしていたキリスト教を否定し、弾圧したのです。弾圧によってはかり知れない悲劇が起きました。一つの例だけを示します。
1番目の写真は救世主ハリストス大聖堂の写真です。ハリストとはロシア語でキリストのことです。この写真は1991年のソ連崩壊後に教会が再建された姿の写真です。
2番目の写真は1931年にスターリンの命令で爆破され崩れゆく救世主ハリストス大聖堂の写真です。
共産革命に成功したソ連は全世界を共産化しようとしました。例えば、ソ連は中国共産党と協力してベトナムを共産化しようとしました。彼等の支援で北ベトナムとアメリカが支援した南ベトナムの間に残酷なベトナム戦争が10年間ほど続きました。その結果、共産勢力が勝利して、南北ベトナムは共産主義国家として統一されたのです。
共産党による南北ベトナム統一が終了すると宗教関係者や経済を握っている華僑が弾圧されます。彼等は弾圧を逃れるために船に乗って沖に逃げたのです。いわゆるボートピープルです。
このボートピープルの一人だった人が私どもが通っているカトリック教会の主任神父をしていたヨゼフ・ディン神父さまなのです。主任司祭として優しく信者の面倒をみる素晴らしい神父様でした。
3番目の写真はヨゼフ・ディン神父さまがミサでお祈りの言葉を唱えている場面です。
このディン神父様はベトナムで神学生でした。ベトナム戦争後に日本に逃げて来ます。そして東京大司教区で日本の司祭になったのです。東京のあちこちのカトリック教会の主任司祭を務めてから私共の教会に来たのです。
ディン神父を見る度に共産主義のことを考えたものです。
共産主義では貧民階級が無くなる筈です。南米には貧民街が多くあることで有名です。ですから貧民層の多い南米では共産主義運動が盛んになりました。例えばキューバでは共産主義革命が成功しました。カストロやチェ・ゲバラがか革命を指導したのです。
しかしそれは南米の一部に限られた地域でした。南米の他の地域では相変わらず貧民街が多いのです。
私はある時ベネズエラを訪問しました。行ってみると胸が痛む光景があちこちにあるのです。私はカラカス市に行って貧民街を沢山見てしまったのです。
カラカス市では近代的な中心街を外れた山の斜面に貧しい人々がビッシリと住んでいるのです。それは南米特有の山の斜面にある貧民街です。
4番目の写真はブラジルのリオデジャネロの貧民街の写真です。写真の出典は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A9 です。
私が訪れたカラカス市の貧民街も山の斜面にありました。
山の斜面の下の入り口に、蛇口の壊れた水道が一個あり、水が流れています。半身裸の男の子が水の入ったヤカンを2個持って坂道を登って行きます。レンガやシックイで固めた不揃いの小さな家々が重なるように斜面を埋めて、上へ、上へと続いているのです。
誰も居ません。ガランとした空虚な路地を乾いた風が吹いているだけです。悪臭もせず清潔な感じです。中腹まで登ったら家の前で老婆が編み物をしていました。我々をとがめるように険しい目つきで見ます。案内してくれ人が何か現地語で挨拶すると途端に笑顔を見せたのです。後で彼に聞きました。ガランとして誰も居ないのは、日雇いの仕事で皆な出た後だからと。そして観光客が現地の案内人なしで来ると殺されるから私へ注意するようにと言ったという。
5番目の写真は貧民街で銃をかまえて警戒する武装警官の様子です。
6番目の写真はリオデジャネイロ市のコンプレクソ・ド・アレマンの貧民街です。6万人以上が住 んでいますが、2007年には憲兵隊とギャングの市街戦も起きた場所だそうです。
南米に行って以来、私は時々、カラカスの山の斜面の貧民街の光景を思い出しては胸が痛みます。何故、共産主義が貧民街は解消出来ないのだろうかと考えています。
しかしどんな理想的な政府を作っても南米の貧民街は解消出来ないという考えもあるのです。以下にはその理由が明快に書いてあります。
ブラジル在住の平峰盛敏さんから投稿して頂いた「ブラジル生活あれこれ(1)19歳で日本から移民して感じたこと」という連載記事に書いてあるのです。2017年4月22日 に掲載した記事の中に次のような記述があったのです。
(3)ブラジルにおける貧困層の存在と問題点
アフリカから連れてこられた奴隷は1888年に解放されました。しかしその子孫は130年近く経った今でもその大部分が、最底辺生活から抜け出すことが出来ずにいます。この貧困層の存在は人種差別による貧困では無く、生活能力不足による貧困と考えられています。
この貧困層の問題は、教育不足、就職難、悪い道への下り坂などです。
貧困層が住むスラム地域には、アフリカの黒人系が多く、教育不足、就職難、悪い道の悪循環が何時までも回っているのです。
私がブラジルで高校、大学に学んだ際、ビックリしたのは、貧乏が食物不足を生み、その子弟達は、餓死寸前の環境に何年も過ごすことになることです。 餓死寸前の栄養状態では脳が発達出来ず、知能の発達を妨害しているのです。この事実は医学的にも認められているのです。この貧困層の問題を私が初めて知った時の驚きと暗い気持ちが忘れられません。そこでブラジルの貧困層の歴史を調べました。・・・以下省略します。
嗚呼、地球上から貧民街を無くすことは至難なことなのです。一体 人間とは何でしょうか。何故貧民街を無くすことが出来ないのでしょうか。何故人間には貧富の差があるのでしょうか。アメリカや日本は貧富の差の大きいことで有名です。本当に難しい問題です。
皆様は貧富の差や貧民街の問題をどのようにお考えでしょうか?
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
そのヨーロッパ文化が共産主義という人類の壮大な理想を生みました。しかしそれは悪夢でした。
キリスト教では労働者や貧しい農民が幸せになれなかったのです。そこで共産主義が生まれたのです。
共産主義では財産の共有を目ざし生産手段を共有することにより、階級や搾取がなくなります。全ての人間が平等になるのです。
共産主義の考えは一見素晴らしいもののように見えます。それまでの西洋文明の中でしいたげられ、蔑げすまれてきた下層階級の人々を平等に扱うというのです。フランス革命で謳われた自由と平等な社会が一向に実現しなかったので、共産革命が必要だと主張する人々が現れたのです。
世界で初めて共産主義革命で政府をつくったのはロシアです。1917年のことです。その結果、ソビエト連邦共和国が生まれました。
そのソ連は1991年に挫折して崩壊しますが、それまでの74年間にキリスト教の弾圧を続けました。従来のヨーロッパ文化の根幹をなしていたキリスト教を否定し、弾圧したのです。弾圧によってはかり知れない悲劇が起きました。一つの例だけを示します。
1番目の写真は救世主ハリストス大聖堂の写真です。ハリストとはロシア語でキリストのことです。この写真は1991年のソ連崩壊後に教会が再建された姿の写真です。
2番目の写真は1931年にスターリンの命令で爆破され崩れゆく救世主ハリストス大聖堂の写真です。
共産革命に成功したソ連は全世界を共産化しようとしました。例えば、ソ連は中国共産党と協力してベトナムを共産化しようとしました。彼等の支援で北ベトナムとアメリカが支援した南ベトナムの間に残酷なベトナム戦争が10年間ほど続きました。その結果、共産勢力が勝利して、南北ベトナムは共産主義国家として統一されたのです。
共産党による南北ベトナム統一が終了すると宗教関係者や経済を握っている華僑が弾圧されます。彼等は弾圧を逃れるために船に乗って沖に逃げたのです。いわゆるボートピープルです。
このボートピープルの一人だった人が私どもが通っているカトリック教会の主任神父をしていたヨゼフ・ディン神父さまなのです。主任司祭として優しく信者の面倒をみる素晴らしい神父様でした。
3番目の写真はヨゼフ・ディン神父さまがミサでお祈りの言葉を唱えている場面です。
このディン神父様はベトナムで神学生でした。ベトナム戦争後に日本に逃げて来ます。そして東京大司教区で日本の司祭になったのです。東京のあちこちのカトリック教会の主任司祭を務めてから私共の教会に来たのです。
ディン神父を見る度に共産主義のことを考えたものです。
共産主義では貧民階級が無くなる筈です。南米には貧民街が多くあることで有名です。ですから貧民層の多い南米では共産主義運動が盛んになりました。例えばキューバでは共産主義革命が成功しました。カストロやチェ・ゲバラがか革命を指導したのです。
しかしそれは南米の一部に限られた地域でした。南米の他の地域では相変わらず貧民街が多いのです。
私はある時ベネズエラを訪問しました。行ってみると胸が痛む光景があちこちにあるのです。私はカラカス市に行って貧民街を沢山見てしまったのです。
カラカス市では近代的な中心街を外れた山の斜面に貧しい人々がビッシリと住んでいるのです。それは南米特有の山の斜面にある貧民街です。
4番目の写真はブラジルのリオデジャネロの貧民街の写真です。写真の出典は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A9 です。
私が訪れたカラカス市の貧民街も山の斜面にありました。
山の斜面の下の入り口に、蛇口の壊れた水道が一個あり、水が流れています。半身裸の男の子が水の入ったヤカンを2個持って坂道を登って行きます。レンガやシックイで固めた不揃いの小さな家々が重なるように斜面を埋めて、上へ、上へと続いているのです。
誰も居ません。ガランとした空虚な路地を乾いた風が吹いているだけです。悪臭もせず清潔な感じです。中腹まで登ったら家の前で老婆が編み物をしていました。我々をとがめるように険しい目つきで見ます。案内してくれ人が何か現地語で挨拶すると途端に笑顔を見せたのです。後で彼に聞きました。ガランとして誰も居ないのは、日雇いの仕事で皆な出た後だからと。そして観光客が現地の案内人なしで来ると殺されるから私へ注意するようにと言ったという。
5番目の写真は貧民街で銃をかまえて警戒する武装警官の様子です。
6番目の写真はリオデジャネイロ市のコンプレクソ・ド・アレマンの貧民街です。6万人以上が住 んでいますが、2007年には憲兵隊とギャングの市街戦も起きた場所だそうです。
南米に行って以来、私は時々、カラカスの山の斜面の貧民街の光景を思い出しては胸が痛みます。何故、共産主義が貧民街は解消出来ないのだろうかと考えています。
しかしどんな理想的な政府を作っても南米の貧民街は解消出来ないという考えもあるのです。以下にはその理由が明快に書いてあります。
ブラジル在住の平峰盛敏さんから投稿して頂いた「ブラジル生活あれこれ(1)19歳で日本から移民して感じたこと」という連載記事に書いてあるのです。2017年4月22日 に掲載した記事の中に次のような記述があったのです。
(3)ブラジルにおける貧困層の存在と問題点
アフリカから連れてこられた奴隷は1888年に解放されました。しかしその子孫は130年近く経った今でもその大部分が、最底辺生活から抜け出すことが出来ずにいます。この貧困層の存在は人種差別による貧困では無く、生活能力不足による貧困と考えられています。
この貧困層の問題は、教育不足、就職難、悪い道への下り坂などです。
貧困層が住むスラム地域には、アフリカの黒人系が多く、教育不足、就職難、悪い道の悪循環が何時までも回っているのです。
私がブラジルで高校、大学に学んだ際、ビックリしたのは、貧乏が食物不足を生み、その子弟達は、餓死寸前の環境に何年も過ごすことになることです。 餓死寸前の栄養状態では脳が発達出来ず、知能の発達を妨害しているのです。この事実は医学的にも認められているのです。この貧困層の問題を私が初めて知った時の驚きと暗い気持ちが忘れられません。そこでブラジルの貧困層の歴史を調べました。・・・以下省略します。
嗚呼、地球上から貧民街を無くすことは至難なことなのです。一体 人間とは何でしょうか。何故貧民街を無くすことが出来ないのでしょうか。何故人間には貧富の差があるのでしょうか。アメリカや日本は貧富の差の大きいことで有名です。本当に難しい問題です。
皆様は貧富の差や貧民街の問題をどのようにお考えでしょうか?
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)