この季節、木に咲く花のカルミア、ヤマボウシ、バラ、エゴノキの花の写真を近所で撮って来ました。順々に写真をお送り致します。
都会に住んでいると野の花が何気なく咲いている草原を時々思い出しています。そんな草原は地方に行ってもなかなか見つかりません。時代が変われば風景も変わるのです。特に野に咲く月見草は日本から無くなったのでしょうか。もう何十年も月見草の花を見ていません。
幼い頃に自宅の周りの草原に咲いていた月見草の風景が時々甦って来ます。それは戦前の昭和15年の頃だったのでしょうか。
蚊帳を吊って寝る準備をしている縁側から下の草原が見え月見草が一面に咲いていたのです。はっきり見えたのですから月夜だったのでしょう。夏の虫のハンミョウが飛んできて蚊帳にとまったのです。それを捕まえて蚊帳の中に飛ばせて遊んだものです。そのハンミョウも最近はいなくなったのです。
1番目の写真は月夜に咲いている月見草です。この月見草の写真は長野県の伊那地方にお住いの方のブログ、http://tsutomu3.blog43.fc2.com/blog-entry-12.html からお借りした写真です。
このような月見草は子供の頃のあちこちの草原に沢山咲いていました。月見草は初夏の月夜の風物詩だったのです。
私はそんな思い出があるので花の咲いている草原を探していました。車で東京の郊外を走り回って探しました。
そうしたら花々の咲く野原を一つ岳見つけました。
2番目の写真は三鷹市の「花と緑の広場」です。この写真は花園の部分だけを写したもので、花園の左は広い草原になっています。その広い草原では何時も子供達が遊び回っています。
素晴らしい花園ですが残念ながら月見草がありません。もうな何十年も通っていますが月見草を見たことが無いのです。いろいろな栽培種の花々が美しく咲いていますが自然に野に咲く花は無いのです。私は美しい花々に魅了されながらも、深い溜め息をつき呟きます。「嗚呼、月見草は時代の流れで消えたのだ。私も年をとったものだ!」
3番目の写真は青空をバックにした花の写真です。
4番目の写真はいろいろな園芸種の花を絵になるように植え込んだ様子です。花々の間に小径がついて歩き回れるようになっいます。
5番目の写真はストックです。この広場の良い所は写真のように花の間が広く植えてあるので花々が伸び伸びと育っていることです。
今日は懐かしい月見草の咲く風景の思い出と最近の花園の写真をお送り致しました。最後に細川呉港著、「月見草の歌」の抜粋をお送り致します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===細川呉港著、「月見草の歌」の抜粋========
何度も言うようだが、長い人生において、誰しも、驚くほど素敵な花の風景に出くわしたことがあるはずである。特に野草の好きな私は、山歩きや、野山のハイキングの最中に、思いがけず、思いがけない野草の群落を発見し、思わず立ち尽くしてしまうことがあった。その光景は、長い間脳裏に強く刻み込まれていて、時折、頭をもたげては、私を幸せにしてくれる。ちょっとオーバーにいえば、その思い出は人生の宝でもある。その花の群落の美しかったことだけを強烈に覚えているから、はたしてその花の群落がどこであったか、ということも分からなくなっていることもある。いくつかの思い出は、まるで走馬灯のように何度も浮かんでくる。
まだ子どもだったころ、小学校の中ぐらいの学年のころだったかも知れない。私はよく一人で、自宅から山に登った。私の町の背後に、700メートルと少しの起立した山があり、そのすそ野に住んでいた私は、峠に向かう未舗装のバス道路に沿って、しばらく登り、そこからよく山に入った。少し登ったところに、地元の人たちが小松原と呼んでいる松林があって、よくそこで松葉かきをした。持って帰って、焚きつけにするのだ。空いた炭俵にギュウギュウに松葉を押し込んで、ふた俵、追い子に背負って、さらにその上に、松の枯れ枝を束にして積んだ。子どものすることながら、しっかりと家の役に立っていたと思う。
峠に続くバス道は、グルグルと山の斜面を縫うように登っていき、その両側は段々畑だった。このあたりの段々畑は、水の確保が難しく、湧き水のある広い谷のようになったところだけ、田圃があった。春には少ない田圃にレンゲの花が一面、きれいだった。そのころは緑肥としてレンゲを植えていたのである。
山の谷が、狭く、傾斜が急なところは、段々畑も作れないので、そんなところは、昔から墓にしたらしい。段々墓である。縦縞のように襞のたくさんある山の斜面に、尾根の部分や、広い谷の部分は、段々畑や田圃として利用し、狭い谷や、日当たりの悪い谷は、段々墓というわけである。段々墓はあちこちにあった。・・・・・
小学校四年生か、あるいは五年生だったかもしれない。もう夏が終わろうとしていたころ。私は一人で、山に入った。ちょっと長めの散歩である。あちこち歩いては草や花、ヤマガラやジョウビタキを捜し、あるいは谷に降りて清水の流れるのを見たりした後で、山を降りてきた。小松原を通り、いつもと違う道を下ってくると、ちょうどある段々墓の上に出た。段々墓の一番上の方は、少しばかりの尾根になっていて、平らな広場に墓がたくさん立っている。左右はやはり段々墓になっていて谷のそこまで続いていた。夕暮れが迫っていた。まだ少しばかり夕焼け空が残っていて、あたりはほんのりと明るかった。早く降りなければ、暗くなってしまう。
ところが、次の瞬間、私は異様な光景に気がついた。辺り一面、墓という墓の周りに一杯に月見草が咲いていたのだ。黄色い小さな花が、夕暮れのほんのりとしたあかるさの中で、まるで蛍光色のように光って咲いていた。そしてその黄色の群落をさらに盛り上げるように、昨日咲いたであろう濃い橙色のすぼんだ花も無数についている。二種類の色の違う花の混ざり具合が、華やかでそれでいて可憐である。それは谷の下の方まで続いていた。誰もいない、無音の、淡い夕焼けの山――。
すばらしい山の夕暮れであった。この時の月見草の群落を、六十年近くたった今でも私は覚えている。その後、一度もそういった月見草の風景と、時を、体験したことはなかったから、少年時代の貴重な一瞬だったといえよう。人生、たった一度の巡り合わせだった。以下省略・・・・
なお細川呉港さんは、「草原のラーゲリ」、「紫の花伝書」、「ノモンハンの地平」、「満ちてくる湖」、「日本人は鰯の群れ」などの美しい作品を出版している堅実な作家です。詳しくは、http://www.junkudo.co.jp/mj/products/list.php?zssearch_author=%E7%B4%B0%E5%B7%9D%20%E5%91%89%E6%B8%AF をご覧下さい。そして東文会(東洋文化研究会)を長年、主宰しています。私はこの東文会のメーリングリストに入れて頂いていますので時折、作品を送って頂いています。
幼い頃に自宅の周りの草原に咲いていた月見草の風景が時々甦って来ます。それは戦前の昭和15年の頃だったのでしょうか。
蚊帳を吊って寝る準備をしている縁側から下の草原が見え月見草が一面に咲いていたのです。はっきり見えたのですから月夜だったのでしょう。夏の虫のハンミョウが飛んできて蚊帳にとまったのです。それを捕まえて蚊帳の中に飛ばせて遊んだものです。そのハンミョウも最近はいなくなったのです。
1番目の写真は月夜に咲いている月見草です。この月見草の写真は長野県の伊那地方にお住いの方のブログ、http://tsutomu3.blog43.fc2.com/blog-entry-12.html からお借りした写真です。
このような月見草は子供の頃のあちこちの草原に沢山咲いていました。月見草は初夏の月夜の風物詩だったのです。
私はそんな思い出があるので花の咲いている草原を探していました。車で東京の郊外を走り回って探しました。
そうしたら花々の咲く野原を一つ岳見つけました。
2番目の写真は三鷹市の「花と緑の広場」です。この写真は花園の部分だけを写したもので、花園の左は広い草原になっています。その広い草原では何時も子供達が遊び回っています。
素晴らしい花園ですが残念ながら月見草がありません。もうな何十年も通っていますが月見草を見たことが無いのです。いろいろな栽培種の花々が美しく咲いていますが自然に野に咲く花は無いのです。私は美しい花々に魅了されながらも、深い溜め息をつき呟きます。「嗚呼、月見草は時代の流れで消えたのだ。私も年をとったものだ!」
3番目の写真は青空をバックにした花の写真です。
4番目の写真はいろいろな園芸種の花を絵になるように植え込んだ様子です。花々の間に小径がついて歩き回れるようになっいます。
5番目の写真はストックです。この広場の良い所は写真のように花の間が広く植えてあるので花々が伸び伸びと育っていることです。
今日は懐かしい月見草の咲く風景の思い出と最近の花園の写真をお送り致しました。最後に細川呉港著、「月見草の歌」の抜粋をお送り致します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===細川呉港著、「月見草の歌」の抜粋========
何度も言うようだが、長い人生において、誰しも、驚くほど素敵な花の風景に出くわしたことがあるはずである。特に野草の好きな私は、山歩きや、野山のハイキングの最中に、思いがけず、思いがけない野草の群落を発見し、思わず立ち尽くしてしまうことがあった。その光景は、長い間脳裏に強く刻み込まれていて、時折、頭をもたげては、私を幸せにしてくれる。ちょっとオーバーにいえば、その思い出は人生の宝でもある。その花の群落の美しかったことだけを強烈に覚えているから、はたしてその花の群落がどこであったか、ということも分からなくなっていることもある。いくつかの思い出は、まるで走馬灯のように何度も浮かんでくる。
まだ子どもだったころ、小学校の中ぐらいの学年のころだったかも知れない。私はよく一人で、自宅から山に登った。私の町の背後に、700メートルと少しの起立した山があり、そのすそ野に住んでいた私は、峠に向かう未舗装のバス道路に沿って、しばらく登り、そこからよく山に入った。少し登ったところに、地元の人たちが小松原と呼んでいる松林があって、よくそこで松葉かきをした。持って帰って、焚きつけにするのだ。空いた炭俵にギュウギュウに松葉を押し込んで、ふた俵、追い子に背負って、さらにその上に、松の枯れ枝を束にして積んだ。子どものすることながら、しっかりと家の役に立っていたと思う。
峠に続くバス道は、グルグルと山の斜面を縫うように登っていき、その両側は段々畑だった。このあたりの段々畑は、水の確保が難しく、湧き水のある広い谷のようになったところだけ、田圃があった。春には少ない田圃にレンゲの花が一面、きれいだった。そのころは緑肥としてレンゲを植えていたのである。
山の谷が、狭く、傾斜が急なところは、段々畑も作れないので、そんなところは、昔から墓にしたらしい。段々墓である。縦縞のように襞のたくさんある山の斜面に、尾根の部分や、広い谷の部分は、段々畑や田圃として利用し、狭い谷や、日当たりの悪い谷は、段々墓というわけである。段々墓はあちこちにあった。・・・・・
小学校四年生か、あるいは五年生だったかもしれない。もう夏が終わろうとしていたころ。私は一人で、山に入った。ちょっと長めの散歩である。あちこち歩いては草や花、ヤマガラやジョウビタキを捜し、あるいは谷に降りて清水の流れるのを見たりした後で、山を降りてきた。小松原を通り、いつもと違う道を下ってくると、ちょうどある段々墓の上に出た。段々墓の一番上の方は、少しばかりの尾根になっていて、平らな広場に墓がたくさん立っている。左右はやはり段々墓になっていて谷のそこまで続いていた。夕暮れが迫っていた。まだ少しばかり夕焼け空が残っていて、あたりはほんのりと明るかった。早く降りなければ、暗くなってしまう。
ところが、次の瞬間、私は異様な光景に気がついた。辺り一面、墓という墓の周りに一杯に月見草が咲いていたのだ。黄色い小さな花が、夕暮れのほんのりとしたあかるさの中で、まるで蛍光色のように光って咲いていた。そしてその黄色の群落をさらに盛り上げるように、昨日咲いたであろう濃い橙色のすぼんだ花も無数についている。二種類の色の違う花の混ざり具合が、華やかでそれでいて可憐である。それは谷の下の方まで続いていた。誰もいない、無音の、淡い夕焼けの山――。
すばらしい山の夕暮れであった。この時の月見草の群落を、六十年近くたった今でも私は覚えている。その後、一度もそういった月見草の風景と、時を、体験したことはなかったから、少年時代の貴重な一瞬だったといえよう。人生、たった一度の巡り合わせだった。以下省略・・・・
なお細川呉港さんは、「草原のラーゲリ」、「紫の花伝書」、「ノモンハンの地平」、「満ちてくる湖」、「日本人は鰯の群れ」などの美しい作品を出版している堅実な作家です。詳しくは、http://www.junkudo.co.jp/mj/products/list.php?zssearch_author=%E7%B4%B0%E5%B7%9D%20%E5%91%89%E6%B8%AF をご覧下さい。そして東文会(東洋文化研究会)を長年、主宰しています。私はこの東文会のメーリングリストに入れて頂いていますので時折、作品を送って頂いています。