後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日は国立市の谷保の天神様の梅林の写真を撮りに行きました」

2022年03月09日 | 写真
多摩地方の人々に親しまれている谷保の天神様に遊びに行きました。何故か大変くつろげる場所です。この天満宮はそういう所なのです。
何気なく見ると梅林が満開です。何時ものように家内に写真を撮ってもらいました。お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。






「ウクライナの戦争はベトナム戦争を思い出させる」

2022年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム
ロシア軍のウクライナ侵攻へ対してウクライナ軍は各地で頑強に抵抗しています。ウクライナ戦争は泥沼化し長期に続く様相をしています。
私はベトナム戦争を思い出し暗い気持ちになっています。
ベトナム戦争の始まりはこうでした.
1962年2月、アメリカはサイゴンに援助軍司令部を作り1964年8月にトンキン湾事件を起こし、戦争に直接介入するようになります。
1965年2月、アメリカは北ベトナムの北爆を開始し本格的な戦争に突入しました。これがベトナム戦争の始まりでした
1968年1月、南ベトナム全土で解放戦線のテト攻勢により、アメリカは大打撃を受けます。
その結果、1968年5月には、パリ和平会談を開始します。1973年1月にパリ和平協定が調印されます。
1975年4月30日、北ベトナムと解放戦線が春の大攻勢を行うと、南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領は全面降伏します。そしてサイゴンは陥落し、南ベトナム国は崩壊したのです。南ベトナムを北ベトナムが実権を掌握し、ベトナム戦争は終結しました。ベトナム戦争で南北ベトナムは統一され共産党独裁の国家になったのです。
この戦争で58000人のアメリカ兵が戦死し数百万人のベトナム人が犠牲になったのです。
当時、日本では「ベ平連」などの反戦運動が盛んで、朝日新聞などの大新聞の戦争の取り上げ方はアメリカ帝国主義のせいで戦争が起き、社会主義国家は平和主義であるという恐ろしく単純すぎる記事を盛んに掲載していました。

1番目の写真はアメリカ軍の航空母艦から邪魔になっている軍用ヘリを海上に投棄する場面を写した写真です。アメリカ軍の完全敗北を象徴した有名な写真になりました。

サイゴンからの脱出にあたって、アメリカ海軍の航空母艦はすでに多数のヘリを収容していました。後続の避難民を乗せたヘリをさらに着艦させるため邪魔になっている多数のヘリを南シナ海に投棄せざるをえなかったのです。
ヘリコプターが避難民を米艦に降ろした後、パイロットが海面上空でヘリコプターから脱出し米艦のボートによって収容されることもあったほど混乱した脱出でした。

さてウクライナ戦争では侵入したロシア軍を完全に駆逐出来るでしょうか?
NATO軍やアメリカ軍が直接介入しない情勢なのでウクライナ軍の苦戦は続き長期化するでしょう。ベトナム戦争と同じようになるのでしょうか?
昨日、 「ウクライナへ2万人の国際義勇兵、そして『誰がために鐘は鳴る』」という記事を掲載しました。今日の記事はそれに関連した記事です。
上記のように10年間にわたるベトナム戦争があり改革開放政策がありました。ドイモイ政策に協力して数多くの日本の企業がベトナムに投資し、また多くの工場も作りまました。ベトナムは復興したのです。
1976年、米軍がサイゴンを放棄し、ヘリコプターで最後の脱出をしてから18年たった時に私はサイゴンを訪フ問しました。ベトナム戦争に勝ったベトナム。しかし血の代償は大きかったのです。ハノイ市郊外の山並みを低空で飛ぶ米空軍の戦闘機を打ち落とした、元ベトナム兵の話を思い出します。

ベトナム戦争とベトナム訪問のことを思い出すと、ウクライナの戦争で心が痛みます。國際義勇兵の将来が心配です。
ウクライナの戦争はベトナム戦争と違います。原因も背景も全く違います。しかし戦争の悲惨さ惨酷さは全く同じです。ウクライナの国土に早く平和が訪れるように祈っています。

2番目の写真は平和になったベトナムの海の風景です。世界遺産に登録されたハロン湾の風景です。

3番目の写真はのどかな山と滝の観光地の風景です。ベトナム北部の徳天瀑布です。

今日はウクライナ戦争が泥沼化し長期に続く様相からベトナム戦争の思い出を書きました。実に困ったものです。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤<山杜人)