後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ウクライナの過酷な歴史とロシアとの宗教的対立」

2022年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム
ウクライナという国はヒットラーのドイツとスターリンのソ連に挟まれて悲惨な目に会いました。そして1991年のソ連崩壊後に独立した新しい国です。独立後31年しかたっていません。そしてソ連崩壊後にウクライナ正教会がロシア正教会から分離しそれ以来ウクライナ正教会とロシア正教会は対立し抗争して来ました。
今日はロシア軍のウクライナ侵攻を少し深く理解するため歴史と宗教的対立を簡単に書きました。
(1)第二次世界大戦の頃のウクライナ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
第二次世界大戦が始まった1939年、ソ連はポーランドに侵攻し、占領した西ウクライナをウクライナに組み入れます。その中で一時カルパト・ウクライナの独立が宣言されたがドイツは同盟国であるハンガリーへその領土を組み込んだのです。1941年以降の独ソ戦で赤軍が敗走を続ける中、キエフ包囲戦において、66万人以上のソ連軍兵士が捕虜となりました。
1941年のナチス・ドイツとソ連の開戦は、スターリンの恐怖政治におびえていたウクライナ人にとって、一時的に解放への期待が高まることになりました。ドイツ軍は当初「解放者」として歓迎されウクライナ人の警察部隊が結成されました。独ソ戦では、ウクライナも激戦地となり、500万以上の死者を出したのです。ソ連の内務人民委員部はウクライナから退却する際に再び大量殺戮を行ったのです。
1番目の写真は1941年の「解放者」ドイツ軍を歓迎するウクライナ人たちです。

2番目の写真は武装親衛隊へのウクライナ人の志願者です。

しかしウクライナの政治的・文化的独立はソ連とドイツ側の両方から弾圧されたのです。ウクライナ民族主義者組織 (OUN) が1941年6月にウクライナ独立国の独立を宣言した際にドイツは武力でこれを押さえ込みました。ナチス親衛隊がウクライナを直接統治したのです。
ウクライナ人は「劣等人種」とみなされ数百万の人々が、「東方労働者」としてドイツへ送られて強制労働に従事させられたのです。

3番目の写真はソ連側で戦ったウクライナ人の兵士です。

その一方、ウクライナ人はスターリンのソ連軍と共に戦ったのです。
多数のウクライナ人が「ソ連兵」としてナチス・ドイツと戦い、死んでいったのです。当時のソ連軍兵士1100万人のうち、4分の1にあたる270万人がウクライナ人でした。

ウクライナは第二次世界大戦において最も激しい戦場だったのです。
第二次世界大戦後、ウクライナ社会主義共和国がソ連の衛星国として成立します。その国境は旧ポーランド領であっ地方などを併合して西に拡大し、ほとんどのウクライナ人が単一国家の下に含まれたのです。ソビエト連邦内では、ロシアに次いで2番目に重要な共和国となり、「ソ連の穀倉」といわれていたのです。

(2)ソ連崩壊とウクライナの独立
ウクライナは1991年のソ連崩壊により完全の独立します。しかしソ連時代のウクライナの歴史が現在でも強い影響を及ぼしています。
ウクライナは独立から31年しかたっていません.。その間、ウクライナ東部では親ロシア軍が支配しています。
その経緯を見てみましょう。
(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44023350S9A420C1EAF000/ )
ウクライナは1991年のソ連崩壊に伴い独立します。人口は約4400万人で、日本の約1.6倍に当たる約60万キロ平方メートルの国土です。公用語はウクライナ語でロシア語を母語とする人が東部を中心に3割ほどもいるのです。
欧州の穀倉地帯で石炭や鉄鉱石などの資源や鉱工業でも発展しています。
首都キエフはロシアがルーツと主張する「キエフ・ルーシ(公国)」の発祥地です。モンゴルやリトアニア、ポーランドなどの支配を経て、18世紀後半には大部分がロシア領となったのです。
91年の独立以降、大統領選では親ロ派と親欧米派がせめぎ合い、2004年には選挙の不正に抗議が広がり、やり直し選挙で親欧米政権が誕生した「オレンジ革命」で注目を集めました。
2014年に親ロシア派政権が市民デモで崩壊し、親欧米派のポロシェンコ政権が発足します。これに反発したロシアは南部クリミア半島に侵攻し、併合を宣言したのです。そして東部のドネツク、ルガンスク2州の一部地域を親ロ派勢力が実効支配します。
2019年1月にはウクライナ正教会が独立し、同国教会の管轄権を主張してきたロシア正教会の影響下から離れ、両国の対立は宗教にも広がったのです。

(3)ウクライナ正教会とロシア正教会の分離と対立
 (https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/b/101600240/ )
 ロシア正教会から、ウクライナ正教会が独立しました。ロシア正教会は、2億6000万人強の信者を擁するキリスト教東方正教会のなかの最大です。
ウクライナ正教会の独立は300年以上前に確立された教会の基盤を揺るがすほど大きな意味を持っています。

4番目の写真はウクライナ正教会の古来の儀式を守っている様子です。 

5番目の写真はウクライナでの洗礼式です。母親の腕に抱かれた3カ月の赤ん坊をあやす名付け親の女性です。 

コンスタンチノープル総主教のバルトロメオ1世が招集したシノド(主教会議)は、1686年以来モスクワの宗教当局者の管轄下にあったウクライナ正教会に対し、独立する権利を承認した。
 ウクライナ正教会はソ連崩壊後に設立されてシノドにおいて、ウクライナ正教会キエフ総主教庁の正統性が正式に認められたのです。
ロシアとウクライナの信徒を合計すると、世界のその他の正教会の信徒全員を合わせた数を超えます。
 ロシア正教会とウクライナ正教会の対立はさらに激しいものです。どちらも教会の危機を政争に利用しているのです。
ロシアがクリミア半島を強制的に併合とウクライナ東部への軍事介入により、 ロシア正教会とウクライナ正教会の対立はさらに激しくなったのです。
 当時ウクライナのポロシェンコ大統領は、シノドの決定を「悪に対する善の勝利」と呼び、またモスクワ総主教庁は「ウクライナの国家安全保障への直接的な脅威だった」と発言した。
このようにロシアとウクライナの対立と抗争はロシア正教会とウクライナ正教会を巻き込んで人々の心の深部まで及んでいるのです。
ウクライナとロシアは実に不幸な関係です。その関係は複雑なのです。一朝一夕には解決できる筈がありません。

今日はロシア軍のウクライナ侵攻を少し深く理解するため、その背景となる歴史と宗教的対立を簡単に書きました。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)