後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「島根県益田市の「風の丘広場」の白木蓮の咲く風景」

2022年03月11日 | 写真
島根県益田市の「風の丘広場」の白木蓮の咲く風景です。
私は清楚な白いモクレンの花が好きです。それをネット上で探していたら美しい写真を見つけました。その美しい写真をお送り致します。

4番目の写真の画像内の赤い3つの矢印は蕾の先端を示しています。蕾は北側に反る形になります。よって「磁石の木」とよばれるのです。
出典は、http://masuda.blog.jp/archives/1022737136.html です。







「今年は寒い ! モクレンなどが咲き出していない!」

2022年03月11日 | 写真
今年は寒いようです。 モクレンなどが咲き出していません。

そこで仕方なく去年の今日撮ったモクレン、モモ、ユキヤナギの写真をお送り致します。
写真をお楽しみ頂ければ幸いです。

1番目の写真は近所の園芸農家の白モクレンの梢です。

2番目の写真は白モクレンの全体の写真です。

3番目の写真は園芸農家の紅モクレンの写真です。

4番目の写真は郷土の森博物館公園の桃の花です。

5番目の写真は郷土の森博物館公園のユキヤナギの写真です。

「東京大空襲、そして仙台空襲の体験が忘れられない」

2022年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム
最近はウクライナへの暴虐なロシア軍の侵入のことが頭から離れません。そしてそれに関連して過去の戦争のことをいろいろ思い出しています。
その上、今日は東日本大震災の日です。11年前の2011年3月11日(金)に起きた大震災です。2万2000人余の死者が出ました。
しかも昨日の3月10日は東京大空襲の日でした。77年前の3月10日に、アメリカ空軍による大空襲で死者数が10万人以上で、罹災者は100万人を超えたのです。
そして4ケ月後の7月10日には仙台を壊滅した空襲があったのです。私は当時9歳でしたが仙台で凄まじい空襲を体験しました。私にとっては仙台空襲の体験が忘れられません。

今日は「東京大空襲」と「仙台空襲」のことを書きます。そして戦争の悲惨さを忘れないようにしたいと思います。空襲は愚かな人間が起こした人災なのです。再び起きないように忘れるべきではないのです。
東京大空襲は1945年(昭和20年)3月10日のアメリカ空軍による夜間空襲でした。その写真をお送り致します。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2 です。

1番目の写真は富士山を見下ろしながら飛行するアメリカ軍のB-29です。東京侵入の第一の目印は富士山でした。多量の焼夷弾を日本に落としたのです。

2番目の写真は1945年1月27日の空襲で数寄屋橋上を逃げ惑う親子です。この日の爆撃の主目標は郊外にあった中島飛行機武蔵製作所でしたが、市街地も爆撃されて大きな損害が生じました。焼夷弾でなかったので火の手は上がっていません。

3番目の写真は3月10日未明の大空襲で焦土と化した東京です。本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたものです。右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館です。
尚、写真の出典の、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2 には焼け野原にある多数の死体の写真など目を覆うような写真が掲載されていますが、ここに転載するのは控えました。

以上の写真で示したようなアメリカ空軍による徹底的な空襲は東京だけでなく全国200市町村に対しておこなわれたのです。
そして当時、私が住んでいた仙台市もアメリカ空軍による空襲で焼け野原になってしまったのです。
東京大空襲の4ケ月後の7月10日に仙台を壊滅したのです。
それをこの目で見て体験したのです。B29爆撃機による無差別絨毯爆撃はすさまじいものでした。
1945年7月10日、仙台市は100機のB29による焼夷弾攻撃で一夜にして焼野原になってしまったのです。
当時はまだ少年だった私は家のあった向山の高台から一面の紅蓮の炎を見下ろしていました。
空には銀色の機体のB29が編隊を組んで縦横無尽に飛びながら束になった焼夷弾をばらまいていました。
夜が明けてから市街地の焼け跡を見におりて行きました。まだ煙が立っていて異臭が鼻を突きます。見回すとあちこちに焼けた死体がころがっています。
その日は一日中、崖下の広瀬川の川原で死体を焼く焚火が絶えませんでした。
幸い私の家の周囲の野山には焼夷弾が数本落ちましたが家を直撃しなかったので焼け残りました。

5番目の写真は焼野原になった仙台市の街の様子です。7月10日の仙台大空襲の後、仙台駅から南町通りの向こうの西公園方面の光景です。
このように焼き尽くされたのは仙台市だけでなく全国の都市が徹底的にやられたのです。
空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国(内地)で200以上の都市が被災し、死者は33万人、負傷者は43万人、被災人口は970万人に及んだのです。
1945年8月15日の終戦で全国の空襲は無くなりアメリカ軍に占領されました。
しかし食料難で復興はままなりません。やっと昭和26年のサンフランシスコ講和で日本は独立国になりました。その後の復興はいばらの道でした。食糧難と住宅難が長く続いて苦しい生活でした。
その苦しみから抜け出したのは所謂、「経済の高度成長」のお陰です。

6番目の写真は経済の高度成長後の美しい町並みになった現在の仙台市です。青葉城から私が撮った写真です。

7番目の写真は経済の高度成長後の東京の銀座4丁目です。私が撮った写真です。

今日は昨日の東京大空襲の日にちなんで東京と仙台の空襲のことを書きました。特に仙台空襲は私が体験した悲惨な空襲でした。
現在の若い方々にもご想像して頂き、日本の過去の苦難の歴史を民族の共通の記憶として子々孫々まで伝承して頂きたいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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「アメリカ空軍のB29の編隊による焼夷弾攻撃で焼きつくされた都市、200の一覧」

戦後すぐに吉田首相はその中から115市町村を選び復興事業の予算を交付します。1946年10月に次の内閣告示第30号を発布しました。日本全国のほとんど全ての都市がB29の焼夷弾で焼きつくされたのです。

内閣告示第30号:特別都市計画方第1条第3項の規定によって次のように市町村を指定する。昭和21年10月9日 内閣総理大臣 吉田茂

根室市,釧路市,函館市,本別町、青森市 、釜石市,宮古市,盛岡市,花巻市、仙台市,塩竈市 、郡山市,平市 、
東京都の23区,八王子市 、横浜市,川崎市,平塚市,小田原市、千葉市,銚子市 、熊谷市 、水戸市,日立市,高萩町,多賀町,豊浦町 、宇都宮市,鹿沼町、前橋市,高崎市,伊勢崎市、長岡市、甲府市。

名古屋市,豊橋市,岡崎市,一宮市 、静岡市,浜松市,清水市,沼津市、岐阜市,大垣市、津市,四日市市,桑名市,宇治山田市 、富山市、
大阪市,堺市,布施市 、神戸市,西宮市,姫路市,明石市,尼崎市,魚崎町,鳴尾村,本山村,住吉村,本庄村、和歌山市,海南市,田辺市,新宮市,勝浦町、福井市,敦賀市 、

広島市,呉市,福山市 、岡山市、下関市,宇根氏,徳山市,岩国市、堺町、
高松市 、 徳島市 、松山市,宇和島市,宇治市 、高知市、
福岡市,門司市,八幡市,大牟田市,久留米市、長崎市,佐世保市 、熊本市,荒尾市,水俣町,宇土町 、大分市 、宮崎市,延岡市,都城市,高鍋町,油津町 、鹿児島市,川内市,串木野町,阿久根町,加治木町、枕崎町、山川町、垂水町、東市来町、西ノ表町
(当時、沖縄は米国領だったので沖縄の市町村は含まれていませんでした。)