後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

『今日は暗い曇り日なので明るいヨットの写真をお送り致します」

2022年03月29日 | 写真
昔ヨットを趣味にしてました。そのせいで気持が暗くなると明るいヨットのある風景を思い出します。今日はそんな日なので爽快なヨット帆船の写真をお送り致します。
1番目の写真は私が霞ヶ浦で乗っていた長さ26フィートにヨットです。前のジブ・セイルだけ展開してのんびりと帆走を楽しんでいる光景です。ヨットはジョイラック26号でした。
2番目の写真は駿河湾で長さ41フィートを保田さんと帆走した時の写真です。ヨットはハンスクリスチニアン41号でした。
3番目の写真は横浜に係留し公開している帆船日本丸です。以前には太平洋や大西洋を帆走した大型帆船です。
4番目の写真は日本丸の船腹です。船内には部屋が3階になっていて各部屋には写真のように丸窓がついています。何度も行ったので船長さんと仲良くなり内部も機関室まで詳しく説明してくれました、
5番目の写真はノルウェー船籍のChristian Radich号です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%86%E8%88%B9 です。 
6番目の写真はロイヤル・クリッパー です。5本マスト・シップ型の大型帆船です。帆走クルーズ客船としてカリブ海域で活躍しました。 写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%86%E8%88%B9 です。
7番目の写真は訓練航海中のイーグル(2013年) です。米国沿岸警備隊の将来の将校のための訓練カッターとして使用される295フィート(90 m)の帆船です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%86%E8%88%B9 です。

いかがでしょうか。
気分が爽快になったと存じます。

「ひめゆりの塔の沖縄への悲しい旅」

2022年03月29日 | 旅行記
沖縄へは家内と一緒に3回ほど行きました。糸満、宜野湾、名護、古宇利島、万座ビーチ、沖縄本島はくまなくレンタカーで走りました。それから石垣島や西表島へも渡りました。
沖縄は何処へ行ってもサンゴ礁に囲まれた海岸の景観が美しく、またその海水が他では見られない魅惑的な色合いで、あくまでも透明です。
しかし少し沖縄の歴史を調べてから行ったので、薩摩藩の琉球王朝の圧迫や明治維新後の琉球処分を考えながらの旅になりました。
その上、家内も私も戦前生まれなので昭和20年3月26日から6月20日間まで3ケ月続いた壮絶な沖縄戦の地上戦のことが頭から離れません。猛烈なアメリカ軍の攻撃で軍人はもとより多数の民間人が殺されたのです。
男子中学生や師範学校の男子学生は動員され戦闘に参加し、多数が犠牲になりました。その慰霊碑は「健児の塔」として多くの参拝者が訪れています。
そして女子師範学校や女学校の生徒が戦場看護婦として動員され、多くの犠牲者が出たのです。その慰霊塔は粗末な石で、「ひめゆりの塔」と刻んであります。
この刻文と同じ題名の映画や本が戦後出来ました。ある年代以上のほとんどの日本人がその映画を見ました。
そのようなわけで、沖縄旅行は単純に楽しいものではなく、何処へ行っても胸が痛む旅でした。

1番目の写真はに沖縄本島南端の糸満市にある「ひめゆりの塔」の写真です。
この写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%81%E3%82%86%E3%82%8A%E3%81%AE%E5%A1%94です。この出典の文章の抜粋を示します。

・・・・1945年3月24日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍しました。しかしその後激しい戦闘が続き、日本軍の防衛戦が前田高地附近に撤退した4月24日頃には山容が変わるほどの激しい砲撃にさらされるようになったため、5月25日には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜んだのです。・・・・

慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなみます。「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、もとは「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになりました。
「塔」と名はついていますが、実物は高さ数十センチメートルでそれほど高くないのです。
これは、終戦直後の物資難な時代に建立された事と、アメリカ軍統治下に建立されたという事情によるものです。
しかし、1949年に石野径一郎によって碑に関する逸話が小説化されると、直後に戯曲化され、さらに同名の映画が作られ有名となりました。沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして大変有名になり、現在でも参拝する人が絶えません。
映画作品:
『ひめゆりの塔』 - 東映・1953年作品。今井正監督。
『太平洋戦争とひめゆり部隊』 - 大蔵・1962年作品。小森白監督。
『あゝひめゆりの塔』 - 日活・1968年作品。舛田利雄監督。
『ひめゆりの塔』 - 芸苑社/東宝・1982年作品。今井正監督。
『ひめゆりの塔』 - 東宝・1995年作品。神山征二郎監督。
『ひめゆり』 - プロダクション・エイシア・2007年作品。柴田昌平監督。

2番目の写真は「ひめゆりの塔」のある摩文仁の丘からの風景です。

この地域は沖縄戦跡国定公園に指定され保護、管理されています。
この中には「平和の礎」など100程の慰霊碑があります。
「平和の礎」は、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人・民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなった全ての人々の氏名を刻んだ祈念碑です。1995年(平成7年)6月に太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して建立されました。海岸線を見渡す平和の広場に建てられ、屏風型の花崗岩に銘が刻まれています。現在も追加刻銘を受け付けており、刻銘者数は2009年(平成21年)6月21日時点で24万856人に達しているそうです。

3番目の写真は「平和の礎」と100程の慰霊碑です。写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6%E8%B7%A1%E5%9B%BD%E5%AE%9A%E5%85%AC%E5%9C%92です。

沖縄戦では「ひめゆりの塔」だけが突出して有名になりましたが、実際には数多くの民間人が軍人から自決を強要されたり、想像を絶する悲劇が起きたのです。
それは悪夢のような悲惨な地上戦でした。
犠牲者は約25万人でした。その詳細は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6 にあります。この25万人の中にはアメリカ側の死者12520人も含まれています。
是非、このWikipedea「沖縄戦」をお読みになって全ての死者のご冥福を祈ってあげて下さい。そして平和の貴さをもう一度噛みしみて頂きたいと祈っています。
最後に私が撮った平和な沖縄の風景写真を3点お送りいたします。

4番目の写真は万座ビーチです。
      
5番目の写真はは宜野湾マリーナです。
6番目の写真は名護市のシンボル的なガジュマルの大樹です。

ひめゆりの塔の沖縄への旅は悲しい旅です。鎮魂の旅です。

「小金井桜も遂に満開になりました」

2022年03月29日 | 写真
小金井公園の中央広場の小金井桜も遂に満開になりました。家内と一緒に花見をしながら写真を撮って来ました。
しかし曇天でしたので鮮明には写りませんでした。残念ですがそんな写真をお送り致します。
小金井公園には花見客が沢山いて賑わっていました。
みんな楽しそうでした。








「万葉仮名、ひらがな、カタカナを作った日本人の驚異的な知恵」

2022年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム
日本語の発達の歴史を考えてみると漢字という表意文字を輸入して、それを万葉仮名とう表音文字にしたことが画期的でした。
そして万葉仮名からひらがなとカタカナを作ったのです。
現在の日本語の表記には表意文字の漢字と表音文字のひらがなをまじえて使っています。考えてみると不思議です。
さて万葉仮名ですが、それは4,5世紀頃に日本語を表記するために漢字の音を借用して作られました。
そして特に普及したのは『萬葉集』で徹底的に使用されたためです。
そのために万葉仮名という名前がついています。

万葉仮名の実例です。「波奈」(花)、「也麻」(山)のように漢字を日本語の音節の表記した表音文字です。
国内最古の万葉仮名は、5世紀の稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣であります。辛亥年(471年)の製作として、第21代雄略天皇の名「獲加多支鹵(わかたける)大王」がそれです。
そして日本神話の登場人物で四道将軍の1人の大彦命に推定される「意富比垝(おほひこ)」を始祖として、鉄剣の製作者とある「乎獲居(をわけ)臣」に至る8代の系譜の人名や地名がを表記する文字が万葉仮名で刻まれているのです。
ですから万葉仮名は日本で5世紀頃に作られたのです。万葉集の時代に作られたのではないのです。

万葉集の1番歌です。原文
篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告<紗>根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師<吉>名倍手 吾己曽座 我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母

現代語では、
篭(こ)もよ み篭持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座(ま)せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも

平安時代に入っても「新撰万葉集」(893年、913年)のように万葉仮名が用いられていました。しかしやがて平仮名や片仮名が万葉仮名に代って広く用いられるようになろます。

平仮名は万葉仮名の草書体が進化して独立した字体と化したものです。
一方、片仮名は万葉仮名の一部を用い、音を表す記号として生まれたものです。
ただし平仮名や片仮名が普及した後にも「催馬楽」などの歌謡、神道の祝詞、「和名類聚抄」などでは万葉仮名が使われています。
現代でも地名や人名(特に女性名)などで漢字の意味を離れ、音を使って書き表す例が多くあります。これは万葉仮名と同じなのです。
今日は日本語の歴史上画期的な万葉仮名、ひらがな、カタカナの発達について簡略に書きました。詳しくは、https://ja.wikipedia.org/.../%E4%B8%87%E8%91%89%E4%BB%AE... をご覧下さい。

今日の挿絵代わりの写真は小金井公園の春の花壇の写真です。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)