後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「小金井にも遂に桜が咲きました」

2023年02月27日 | 写真
住んでいる小金井市の南半分は崖下の暖かい地域です。北半分には小金井公園があり、高台で寒いのです。南半分には早く春が来ます。

崖下の暖かい地域ではもう桜が咲いる思い、写真を撮りに行きました。案の定桜があでやかに咲いていました。撮ってきた写真をお送り致します。

「ウクライナの歴史(1)ウクライナのコサック騎兵隊のロシア攻撃」

2023年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ロシアによるウクライナのミサイル攻撃は言語道断の暴挙です。こんなことが21世紀に起きるとは誰も想像していませんでした。
しかしロシアの暴挙の背景にはウクライナ民族とロシア民族との度重なる歴史的な抗争があるのです。深いロシアの怨念があるのです。
この怨念はウクライナのコサック騎兵のロシア・コサック(ドン・コサック)への攻撃に始まり、1917年のロシア革命直後のウクライナの独立運藤、そして1991年のソ連崩壊後のウクライナの完全独立によって培われたのです。長い歴史的な背景があるのです。
今日から少しウクライナの歴史、特にロシアとの関係史を書いて行きたいと思います。その第1回目はウクライナのコサック騎兵隊のによるロシア攻撃です。

コサック人は15世紀にはウクライナ中南部の「荒野」と呼ばれる草原地帯に住み着いていました。16世紀半ば以降、ドニエプル川の中流を中心とするザポロージャ地方やドン川の下流に根拠地を築き、それぞれザポロージャ・コサック(ウクライナ・コサック)およびロシアのドン・コサックと呼ばれました。

ウクライナ・コサック
ウクライナ・コサックは現在のウクライナの地域に住んでいました。そのコサック集団はそこにあった町や村の数だけあったのです。それらは基本的には互いに独立して西欧における小国家(ドイツ地域の王国、公国などのような)と同じような小共同体を形成していました。
16世紀初頭、ポーランドはドニエプル川周辺にあったコサック集団をまとめ、ザポロージャ・コサック(ウクライナ・コサック)を組織し南部の防衛を任せたのです。
当初のコサックは周辺国家に依存しない独立した集団でしたが、16世紀以降ウクライナのザポロージャ・コサックはポーランド・リトアニア共和国に属していました。
一方、次に説明するドン・コサックはロシア・ツァーリ国に属し、軍務を提供する見返りに自治権を与えられていました。

ロシアのドン・コサック
ロシアのコサックは、古くは1444年の年代記にリャザンの衛兵としてタタールと戦ったコサックとして登場しています。
1570年、雷帝イヴァン4世からの指示によって最初の正式のコサック軍ドン・コサックがドン川流域で組織されます。ドン・コサックは成人男性の自由選挙で選ばれるリーダーによって率いられたのです。ロシアのドン・コサックは帝政ロシアの領土拡張に積極的に利用されます。
16世紀に成立したコサック集団にはほかにヴォルガ・コサックなどがありました。

1648年、ウクライナ・コサック軍は、ポーランド・リトアニアにおいて反乱を起こし、反乱は次第にポーランドからウクライナの独立戦争に変容し、ウクライナの中部にコサック国家が誕生しました。
そしてウクライナ・コサック軍はたびたびロシアのドン・コサックと戦い抗争を繰り返していたのです。
このウクライナ・コサックとロシアのドン・コサックの対立こそがその後の両国の抗争の歴史的な原因と考えられます。
その後の1917年のロシア革命直後のウクライナの独立運藤、そして1991年のソ連崩壊後のウクライナの完全独立には長い歴史的な背景があるのです。
この両国の抗争で生まれたロシアの恨みと怨念は深いのです。ロシアは感情的になって今回のウクライナ攻撃の暴挙になったのです。どんな歴史的背景があろうともロシアの暴挙は許されるべきではありますん。

今日はウクライナ民族とロシア民族の抗争には深い深い歴史的な背景があることを説明しました。そしてウクライナのコサック騎兵とロシア・コサック(ドン・コサック)の間の抗争に端を発すことを記述しました。

添付の写真は勇敢に戦うウクライナ軍の様子です。写真はインターネットからお借りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)