中央アジアのタクラマカン砂漠の何処かに楼蘭王国が繁栄していたことは昔から知られていました。スウェーデン人の探検家のヘディンが楼蘭王国の遺跡をロブノール湖のそばで1900年に発見したのです。
今日は探検家のヘディンのことを紹介したいと思います。そして幻の楼蘭王国のことも簡略に書きたいと思います。
ヘディンのことも楼蘭王国のことも非常にロマン溢れる話です。まずヘディンの写真を示します。
1番目の写真はスウェーデンの探検家のヘディンです。
スヴェン・アンダシュ・ヘディン(Sven Anders Hedin)は1865年に生まれ1952年に没したスウェーデン人の中央アジア探検家でした。1902年に貴族に列せられ、1909年にはイギリスより“ナイト”の称号を授かりました。
ベルリン大学でシルクロードの提唱者として知られる
リヒトホーフェンの指導をうけて中央アジア探検を決意します。
1893年-97年にはロシアのオレンブルクからウラル山脈を越え、パミール高原、タクラマカン砂漠南辺、ツァイダム、青海からオルドスを横断、
張家口を経て北京に到着していました。
日本の浄土真宗本願寺派法主も務めた大谷光瑞からの援助も受けていました。
日本との関わりは以下の通りです。
1898年~1900年頃から大谷光瑞と交流があり、探検旅行の帰途、大谷、外務省、東京地学協会の招聘1908年に来日し、明治天皇に謁見します。日本人として初めてチベット入した河口慧海とも書簡を交していました。1923年にも来日しています。
1948年にはノーベル文学賞候補として日本の賀川豊彦を推薦していたことが、ノーベル財団が公表したノミネートリストより明らかになっています。
さて話は変わり
楼蘭王国のことを簡略に書きます。
楼蘭は、中央アジア、タリム盆地のタクラマカン砂漠北東部(現在の中国・新疆ウイグル自治区チャルクリク)にかつて存在していました。「さまよえる湖」ロプノールの西岸にあってシルクロードが西域南道と天山南路に分岐する要衝だったため交易により栄えた場所でした。しかし正確な場所はヘディンの1900年の遺跡の発見までは確定していませんでした。
楼蘭は紀元前77年に漢の影響下で国名を鄯善(日本語名:ぜんぜん)と改称しましたが、
楼蘭の名はその後も長く用いられたのです。4世紀頃からロプノールが干上がるのとほぼ時を同じくして国力も衰え、やがて砂漠に呑み込まれたが、
1900年にスウェーデンの探検家ヘディンによって遺跡が発見されました。
楼蘭と呼ばれる国がいつ、どのようにして成立したのかは定かではありません。古くは新石器時代から居住が始まったことが考古学的に確認されています。いわゆる「楼蘭の美女」として知られるミイラは、纏っていた衣服の炭素年代測定によって紀元前19世紀頃の人物であると推定されているのです。
文献史料に楼蘭の名が現れるのは『史記』匈奴列伝に収録された手紙の中で触れられているのが最初(紀元前2世紀)です。
それでは1900年にヘディンによって発見された遺跡の写真を示します。
2番目の写真は楼蘭故城の仏塔跡です。
3番目の写真は楼蘭故城の住居跡です。胡楊の柱が今も残っているのです。
4番目の写真はロプノール湖心近くです。旧湖底は土混じりの岩塩でカチカチになっています。360度遮る物は一切ありません。
この楼蘭のあった地方への旅行記は、「楼蘭故城を訪ねて」、中嶋信正著、(http://www.ocuac.org/travel/nakajima/rouran.htm )にありますのでご覧下さい。
今日は幻の楼蘭王国の遺跡を発見したスヴェン・ヘディンのことをご紹介いたしました。そして楼蘭王国についても簡略に書きました。ロマン溢れる話です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)