後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本の土になったチマッティ 神父のこと」

2023年04月11日 | 日記・エッセイ・コラム

チマッティ 神父は日本の土になりました。

日本へ
1923年、ローマ教皇がサレジオ修道会に日本の宣教地の一部を担当するように願った。サレジオ会の最初の宣教団の派遣から50周年にあたる1925年、9名の会員(司祭6人、修道士3人)が日本行きを指名され、46歳にして団長を拝命した。
来日初期
1926年2月8日に門司港に到着。2月16日宮崎で日本語の勉強を開始。一年後1927年2月よりサレジオ会がパリ外国宣教会より宮崎、大分、中津の三つの教会を受け継ぐ中で宮崎教会の主任司祭に着任。1928年、宮崎教区の教区長となり田野、高鍋、都城、別府、延岡など、次々と新しい教会を設立した。
1930年、大分に「ドン・ボスコ社」を創立。同年、日本人司祭の育成を目的に中津で小神学校を設立し、1933年、宮崎へ移転させた(後の日向学院)。一方で東京への進出も果たし、三河島教会を引き受けた後、1935年、東京都練馬区で修練院、神学校、サレジオ会独自の教育事業「育英工芸学校」(後の育英工業高等専門学校、現在のサレジオ工業高等専門学校)を開校。「ドン・ボスコ社」の出版事業の本部もここに置いた。
また、1933年、見放された年寄りや孤児たちのために宮崎で「救護院」という事業も設立し、この事業を維持するため、また発展させるために、1937年、邦人の修道女会「宮崎カリタス修道女会」(現在のイエスのカリタス修道女会)の創立を同サレジオ会員のアントニオ・カヴォリ神父と共に実現した。
戦前、戦時中、戦後
戦前や戦時中、キリスト教が外国の宗教として厳しく監視される中で、度々コンサートを開くことで音楽を通して教会に対する好感を培うように努めた。コンサートは奄美大島から札幌、占領下の満州、北朝鮮や韓国など各地で開催され約2,000回におよんだ。演目には宗教的な曲も交えその内容を説明しながら教義を伝えていた。1940年、教会の外国人責任者に対して辞職命令が出され教区長を辞職。宮崎を去って東京に移った。旅行を制限され、一時三河島教会の主任司祭となり、1943年末以降、空爆中でも練馬のサレジオ神学校で過ごした。戦後、破壊された事業を復帰させ、サレジオ会の新しい事業設立と発展に尽力した。
最期
70歳で管区長を退任。2年間役職なしで神学院の図書係となり手書きで図書の目録の完成に努めた。1952年末、調布のサレジオ神学院院長に就任。1962年、83歳で退任した。1965年10月6日、86歳で死去。「日本の土になりたい」との遺言にしたがい遺体は府中カトリック墓地に土葬された後1967年10月4日、調布サレジオ神学院の新聖堂が完成に伴い、棺は府中カトリック墓地から地下聖堂に移された。

写真を示します。

1番目の写真はチマッティ神父の遺骸の入っている石棺です。お墓です。

2番目の写真はチマッティ神父の資料館です。

3番目の写真は戦死したサレジオ会の日本人です。


「イタリアの村の草原に咲く花々の写真」

2023年04月11日 | 写真

草原の花々はいくつかの芽から始まる。そして5月、いろいろな色の野生のランが咲き、黄色のチューリップがそれに続く。6月には黄色の花や明るい赤色のポピーが咲き誇り、7月には紫色のヤグルマギクが花開きます。イタリアの村の草原に咲く花々の写真です。写真の出典は、https://www.businessinsider.jp/post-216401 です。

 

 


「サレジオ学園の風景」

2023年04月11日 | 写真

家の近所にサレジオ学園があります。鐘楼と教会とそれを囲む樹々がヨーロッパの雰囲気をかもしだしてきます。何故か懐かしい遥か遠くの西洋の風景を見せてくれています。
以前にこの教会のミサに出ていたことがあり懐かしい所なので時々散歩に行きます。
昨日は快晴なので散歩に行きました。ついでに写真を撮って来たのでお送り致します。

さてサレジオ修道会は19世紀にイタリアで創設されました。現在はイエズス会に次いで世界で2番目に大きなカトリックの修道会です。
日本には1928年にチマッティ神父等が来て宣教活動を活発に始め、数多くのサレジオ学校を作りました。東京都の調布市にはサレジオ神学校を作り、1965年にそこで帰天しました。享年86歳でした。日本人を愛し、サレジオ会の日本人が第二次大戦で徴兵され、戦死する度に深く嘆き悲しんだのです。墓はサレジオ神学校の裏手の地下室にあり遺骸も石棺の中に安置されています。
一方、昨日行ったサレジオ学園には厚生省認可の児童養護施設と文部省認可のサレジオ小学校・中学校があります。小平市上水南町四丁目にある児童養護施設と私立のミッションスクールです。
戦後すぐに戦災孤児を保護、収容する目的で設立された児童養護施設でした。そして1947年に東京サレジオ学園小学校、そして1948年に東京サレジオ学園中学校が文部科学省によって日本の学校として認可されました。
現在は戦災孤児は卒業してしまっていません。不運にも親と縁の遠い子供達が住んでいます。そしてサレジオ小学校と中学校に通っています。
学園内の聖堂はサレジオ会の創始者のドン・ボスコ神父の記念聖堂です。
ドンボスコ神父(ヨハネ・ボスコ神父)は1815年、イタリアのピエモンテ州のベッキ村で生まれました。1835年から1841年までキエリの大神学校で哲学、神学を学んだ後、トリノで1841年司祭に叙階されます。
1859年にサレジオ会を設立し1869年に教皇から正式に認可されたのです。1874年にはサレジオ会の会憲が教皇から公式承認され、サレジオ会は教皇直轄の修道会となったのです。
そして学校事業や社会事業をいろいろ行いました。1888年1月31日帰天し葬儀には10万人が参列したと言います。1934年に 列聖します。
現在、サレジオ会の本部はローマにありヨハネ・ボスコの理想を引き継いで世界中で活動してります。
日本のサレジオ会宣教の先駆者、チマッティ神父のことは2017年12月24日の記事、「日本のサレジオ会宣教の先駆者、チマッティ神父のお墓詣りに行きました。」としてこの欄に掲載してありますのでご覧下さい。

今日はそんな歴史のサレジオ学園にの風景をお送り致しました。昨日撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)