チマッティ 神父は日本の土になりました。
日本へ
1923年、ローマ教皇がサレジオ修道会に日本の宣教地の一部を担当するように願った。サレジオ会の最初の宣教団の派遣から50周年にあたる1925年、9名の会員(司祭6人、修道士3人)が日本行きを指名され、46歳にして団長を拝命した。
来日初期
1926年2月8日に門司港に到着。2月16日宮崎で日本語の勉強を開始。一年後1927年2月よりサレジオ会がパリ外国宣教会より宮崎、大分、中津の三つの教会を受け継ぐ中で宮崎教会の主任司祭に着任。1928年、宮崎教区の教区長となり田野、高鍋、都城、別府、延岡など、次々と新しい教会を設立した。
1930年、大分に「ドン・ボスコ社」を創立。同年、日本人司祭の育成を目的に中津で小神学校を設立し、1933年、宮崎へ移転させた(後の日向学院)。一方で東京への進出も果たし、三河島教会を引き受けた後、1935年、東京都練馬区で修練院、神学校、サレジオ会独自の教育事業「育英工芸学校」(後の育英工業高等専門学校、現在のサレジオ工業高等専門学校)を開校。「ドン・ボスコ社」の出版事業の本部もここに置いた。
また、1933年、見放された年寄りや孤児たちのために宮崎で「救護院」という事業も設立し、この事業を維持するため、また発展させるために、1937年、邦人の修道女会「宮崎カリタス修道女会」(現在のイエスのカリタス修道女会)の創立を同サレジオ会員のアントニオ・カヴォリ神父と共に実現した。
戦前、戦時中、戦後
戦前や戦時中、キリスト教が外国の宗教として厳しく監視される中で、度々コンサートを開くことで音楽を通して教会に対する好感を培うように努めた。コンサートは奄美大島から札幌、占領下の満州、北朝鮮や韓国など各地で開催され約2,000回におよんだ。演目には宗教的な曲も交えその内容を説明しながら教義を伝えていた。1940年、教会の外国人責任者に対して辞職命令が出され教区長を辞職。宮崎を去って東京に移った。旅行を制限され、一時三河島教会の主任司祭となり、1943年末以降、空爆中でも練馬のサレジオ神学校で過ごした。戦後、破壊された事業を復帰させ、サレジオ会の新しい事業設立と発展に尽力した。
最期
70歳で管区長を退任。2年間役職なしで神学院の図書係となり手書きで図書の目録の完成に努めた。1952年末、調布のサレジオ神学院院長に就任。1962年、83歳で退任した。1965年10月6日、86歳で死去。「日本の土になりたい」との遺言にしたがい遺体は府中カトリック墓地に土葬された後1967年10月4日、調布サレジオ神学院の新聖堂が完成に伴い、棺は府中カトリック墓地から地下聖堂に移された。
写真を示します。
1番目の写真はチマッティ神父の遺骸の入っている石棺です。お墓です。
2番目の写真はチマッティ神父の資料館です。
3番目の写真は戦死したサレジオ会の日本人です。