後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ヨーロッパの中世の暗黒、魔女狩りと魔女裁判」

2023年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は、 「ヨーロッパ中世の暗黒、30年戦争とハプスブルグ家の異常な領土欲」という記事を掲載しました。日本の歴史になぞらえれば「30年戦争」は応仁の乱のようなものです。「ハプスブルグ家の異常な領土欲」は平安時代の藤原氏の専横に似ています。どちらもある程度理解できます。
しかし「ヨーロッパの中世の暗黒」のもう一つの「魔女狩り」と「魔女裁判」は日本の歴史には似たものが無い不思議な悲劇でした。ヨーロッパ中世の暗黒をさらに陰惨で残酷なものにしたのです。
今日はこの「魔女狩り」と「魔女裁判」のついて書きたいと思います。
魔女裁判の画像を検索すると、目を覆いたくなるような酷い拷問の絵が沢山出てきます。その一例の絵画の写真を示します。

1番目の写真は「魔女裁判」のために捕らえられた普通の女性です。何の関係もない普通の女性が処刑されたのです。この絵の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Joan_of_arc_burning_at_stake.jpgです。

2番目の写真も「魔女裁判」で処刑される普通の女性です。

3番目の写真はアメリカのマサチューセッツ州のセイラムで処刑された女性たちです。「魔女狩り」はアメリカでもあったのです。
写真の出典は、https://gigazine.net/news/20200523-salem-witch-trials/ です。

魔女狩りは近年の厳密な研究によると、15世紀から18世紀まで行われ、その1428年から1782年までの処刑者総数は40000人と言われています。
 しかし昔から一般的にはキリスト教会が主導して数百万人が処刑されたという噂が世界中に広がり、その噂を信じている人々が多いのも事実です。
 魔女裁判を非常に簡略化して書けば、農民や町の大衆が独り暮らしの怪しげな女を魔女として捕まえ、拷問にかけ、その後、当時の権威者であった教会へ連れて行って、聖職者による魔女裁判にかけ処刑したケースが多かったようです。 
全てではないにしてもかなりの割合で聖書者が断罪したことは間違いないようです。
 それを真摯に認め、ローマ法王のヨハネ・パウロ2世は魔女裁判も含めて過去の過ちを神へ謝罪し、そのことを公表したのです。
もう少し詳しく書くと、2000年三月に法王は、キリスト教会の分裂、十字軍、異端審問、魔女裁判、反ユダヤ主義、先住民族への侮辱などに関する教会や信者の責任を認め、神に対し赦しを請うたのです。
 これは権威主義者的なヨーロッパ人にとっては驚天動地のことでした。
 それにしても魔女裁判ほど大きなヨーロッパ文化の闇はありません。ヨーロッパの魔女裁判では40000人も300年にわたって殺された空前絶後の悲劇でした。
 さてアメリカのマサチューセッツ州のセイラム村での「魔女狩り」はあまり知られていないので少し詳しく書いておきます。
「セイラムの魔女裁判」はマサチューセッツ州にあるセイラムの村で、1692年~1693年に起きた事件でした。セイラムはイギリスでの弾圧から逃げ延びた清教徒(ピューリタン)が1626年に興した村です。 記録では、「病にかかった」とされた12人の少女が体の異常なねじれや発作などの症状を呈し、肌のチクチクした痛みを訴えたと報告されています。
少女12人が村人たちを苦しめていると訴えられました。一方貧しい妊婦サラ・グッドは、魔女のまじないを行ったとして1692年逮捕されました。
裁判官は告発の内容を調査せずに被告人が罪を認めて許しを請い、2度と魔術に手を出さないと約束することだけを求めました。翌1693年の春ごろまでに100人以上が投獄され、14人の女性と6人の男性が処刑されました。
 現代でも、セイラムの魔女裁判は集団心理や誰かをスケープゴートする心理の危険性と人間の認識をゆがめてしまう恐怖心の力についての教訓となっています。

以上のように 今日は「ヨーロッパの中世の暗黒」のもう一つの「魔女狩り」と「魔女裁判」を書きました。そしてアメリカのマサチューセッツ州のセイラム村での「魔女狩り」について少し詳しく書きました。
それにしても30年戦争とハプスブルグ家の専制や魔女狩りのような残忍な歴史が欧米文化にあったのです。その反作用として近代の個人の尊厳や民主主義が発展したのかも知れません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
======参考資料=======================
(1)魔女裁判へ対するヨハネ・パウロ2世の謝罪:http://blog.goo.ne.jp/heywa/e/bdc7c6da1dda74488e24e6cba8fc77b8

(2)魔女狩りと魔女裁判:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E5%A5%B3%E7%8B%A9%E3%82%8A

「今日は桐の花の写真をお楽しみ下さい」

2023年04月25日 | 写真
桐の 原産地は中国です。
写真の出典は、https://kurashi-no.jp/I0020239 です。
花言葉は「高尚」です。

花言葉は中国の神話から来ています。伝説上の「鳳凰」は桐の木にだけ止まるのです。ですから桐は神聖な木です。このことから花言葉は「高尚」なのです。





「ヨーロッパ中世の暗黒、30年戦争とハプスブルグ家の異常な領土欲」

2023年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム
明治維新以来、日本人はヨーロッパ文化に憧れ導入して来ました。確かにフランス革命とイギリスの産業革命以後のヨーロッパは手本にすべきことが多いのです。しかし中世のヨーロッパは暗黒でした。暗黒の原因の一つは30年戦争でした。そしてもう一つはハプスブルグ家の異常な領土欲 でした。
今日は中世の30年戦争とハプスブルグ家の領土欲について書いてみようと思います。日本ではあまり関心の無いヨーロッパの暗い歴史です。
さて30年戦争です。「30年戦争」はドイツから始まり、宗教改革の後の1618年から30年続いた戦争です。当時のドイツ人の総人口1800万人が700万人に減少し、国土を荒廃させた大戦争だったのです。
簡略化して書けば、ウイーンのハプスブルグ家の支配下にあったカトリック側の神聖ローマ帝国(当時のドイツの国名)とそれに反発するドイツ国内のプロテスタン領主達の反乱と言えます。
しかしこの戦争はヨーロッパの全域を巻き込んで全ヨーロッパを徹底的に荒廃させてしまったのです。
この戦争の実態は宗教戦争を装った領主たちの領土拡大と権益拡大を主目的にしたおどろおどろしい戦争でした。それにスウェーデン、ノルウエイ、フランス、デンマーク、スペインなどの国々も参加し、領土拡大を狙った国際戦争でもあったのです。道義もルールも皆無な戦争でした。兵士たちがヨーロッパ中の農民を殺し略奪をしつくしたのです。
この「30年戦争」の爪痕は現在でも残っています。下にその実例を示します。

1番目の写真はドイツの古都ローテンブルグの風景です。以前私が住んでいた懐かしい町です。
この美しい中世の町が、「三十年戦争」(1618~48)の時、攻め込んで占領した敵に破壊されそうになりました。敵将が市長へ大ジョッキでワインを一気飲みをしたら町の破壊をしないと言います。市長は見事、一気に飲み干してこの美しい町を救ったのです。
それを記念して市庁舎の大きな仕掛け時計には大ジョッキを飲み干す市長の人形が出てきます。
そして毎年キリスト教の聖霊降臨祭の祝日(5月下旬から6月上旬頃)に町を救った市長を称えて祭りが開催されます。

2番目の写真はに町を救った市長を称えて祭りの様子です。民族衣装をまとった市民がダンス をして町の開放を祝っています。写真の出典は、http://allabout.co.jp/gm/gc/45500/ です。
「30年戦争」の爪痕は「アルト・ハイデルベルグ」という恋物語で有名なハイデルベルグ城にもあります。訪れるとガイドがこの城は「30年戦争」であちこちが破壊されました。その傷跡はこれですと城壁の壊れた部分を指さすのです。

3番目の写真は「30年戦争」の爪痕が残っているハイデルベルグ城です。写真の出典は、http://gensun.org/?img=tabidachi%2Eana%2Eco%2Ejp%2Fstorage%2Fphoto%2F978%2F179901_2%2Ejpg)です。
ドイツに居た頃、働いていた研究所のドイツ人達と一緒にビールを飲みます。酔ってくると彼らは、決まって何かを大声で議論を始めるのです。何を議論しているか聞いてみると、「30年戦争」のことだと言います。「30年戦争」の何を議論しているのかと聞くと、「敵味方が複雑に入り組んでいてドイツ人にしか分からない問題を議論している」と答えます。そして、「実はドイツ人にもよく分からないのです」と自笑しています。
戦争には残虐も付きものです。各地で木の枝に吊るした死体があったそうです。

4番目の写真は30年戦争で木の枝に吊るした死体の絵です。
この戦争の死者は800万人。ドイツ(神聖ローマ帝国)の人口が1800万人から700万人に減少したのです。
三十年戦争の第2段階から徐々に国家間の権力闘争の側面が露わになりスウェーデンからイタリーまで全ヨーロッパを荒廃させてのです。 

さて暗黒の原因のもう一つはハプスブルグ家の異常な領土欲です。
ハプスブルグ家結婚と策略を利用して領土を広げ、幾つもの王国を作り、その王達の生殺与奪の権力を手中に収めていたのです。本来なら純粋であるべき男女の愛を領土拡大や権力取得に何百年間も利用したのです。有名なマリア・テレジアの結婚もそうでした。それをはヨーロッパ文化の闇です。陰惨な雰囲気がまとわりついています。
まず始めの頃、ハプスブルグ家が作ったハプスブルグ城の写真を示します。

5番目の写真は現在のスイス北部に残っているハプスブルク城(ハビヒツブルク城)です。
史料的に遡れる最古のハプスブルク家の祖先が1020年から1030年頃に作ったことが解明されています。 

6番目の写真は1547年時点でのハプスブルク家の領土です。
写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E5%AE%B6 です。
この頃、ハプスブルグ家の領土はオーストリアを中心にした領土とスペインを中心にした領土に別れていました。 
そして中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の指名権、継承権を握っていたのですから驚きです。 
そしてこの一家の本拠地はウイーンのシェーンブルン宮殿にありました。下にその写真を示します。 

7番目の写真は現在のウイーンにあるシェーンブルン宮殿です。
写真の出典は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%B3%E5%AE%AE%E6%AE%BF です。
このハプスブルグ家は多くの王国(公国や帝国を含む)の連合として、1526年から1804年まで「ハプスブルグ君主国」を構成していたのです。
その歴史は複雑怪奇で、私には理解出来ません。

今日は中世のヨーロッパは暗黒として30年戦争とハプスブルグ家の異常な領土欲をご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)