弘前城の桜はまさに日本を代表する花見名所です。天守閣がある本丸周辺と植物園以外は、弘前公園として無料開放です。日本三大桜名所と日本三大夜桜のダブル指定は日本唯一なのです。
最近、「趣味としての仏教。神道、キリスト教」、その一、二、三という記事を連載しました。「趣味としての・・・」という題にしたのは、「宗教を狂信するといろいろな弊害が生ずる」ということを暗示したかったからです。それでは「いろいろな弊害」とはどんなことでしょうか?
今日はそのことを書いてみたいと思います。読み易くするために個所書きにしました。
(1)宗教を信じない人は立派な人間でないと思いがちになる。しかし無宗教でも立派な人は多いのが現実です。人間の良さ悪さは宗教に関係ないのです。
(2)ある宗教を狂信すると、それ以外の宗教を攻撃するようになる。勿論、無宗教の人も攻撃します。他人を攻撃すれば人権侵害になります。怖いです。
(3)特定の宗教に多額の寄付をすると生活に困るようになります。借金をして周りの人たちに迷惑をかけます。
(4)自分の狂信する宗派へ知人たちを無理に勧誘します。これも人権侵害になります。
(5)自分の狂信する宗派に関係する政党へ投票します。他人へも投票を強要します。政教分離の良さが踏みにじられます。
以上のように宗教を狂信するといろいろな弊害が生ずるのです。ですから宗教は狂信してはいけないのです。
それでは宗教を重視するアメリカの社会はどうなっているでしょうか?それに関連するエピソードです。
アメリカの大学に留学していた頃に、履歴書に自分の受けた宗教的訓練を書くと就職がしやすくなるという話を聞いたのです。宗教的訓練とは何歳から何歳まで教会に行ったとか、日曜学校に何年間行ったとかいう事を書けば良いそうです。それがあれば就職のとき採用される率が高くなるというのです。では仏教徒はどうすれば良いのでしょうか?アメリカ人の同級生が、お寺詣りを何年間したとか座禅を続けて何歳から何歳までしたとか適当に書けば良いと教えてくれたのです。そして絶対に無宗教と書いてはいけないと真顔で忠告してくれたのです。
それ以来、「宗教的訓練」という言葉が心に残り、忘れられなくなりました。現在のアメリカ社会も随分と変わり、もう就職のときに「宗教的訓練」は問題にされなくなったかも知れません。
しかしアメリカ人は何事においても訓練を重視します。
特に私はキリスト教の洗礼を受けた1971年以後は自分の信仰は宗教的訓練の繰り返しによって強められると信じています。祈り、聖句を唱え、聖歌を歌い、教会の行事に参加したり、日曜毎のミサに出るのもすべて宗教的訓練です。クリスマスや復活際に参加するのもすべて宗教的訓練なのです。そのお蔭で私はかろうじてカトリックの信仰を続けられるのです。
そして宗教的訓練の重要性はどんな宗教でも同じです。
仏教ではそれを修行と言います。修行をしないとお釈迦様の教えを信じられないのです。修行しなければ仏教を信じられないのです。修行をしないで仏教の批判をしてもそれは的外れな非難になってしまうのです。
それでは修行と宗教的訓練の違いは何でしょうか?
修行は苦しいことを意志的に克服して実行します。苦行が必ずある程度含まれています。
一方、宗教的訓練は苦行的要素はなりべく少なくなるよに知恵が絞られています。ミサなどは歌をつないで楽しい合唱が挟まっています。特にロシア正教では上質の音楽的な楽しみの連続になっています。
仏教の「声明」と同じようです。
宗教を楽しみながら信仰を続行するようにすれば、宗教は本当に楽しいものになります。
昔、アメリカの大学で聞いた宗教的訓練という言葉を現在も大切にしています。それが楽しいから長つづきするのです。
しかしアメリカ人は何事においても訓練を重視します。
特に私はキリスト教の洗礼を受けた1971年以後は自分の信仰は宗教的訓練の繰り返しによって強められると信じています。祈り、聖句を唱え、聖歌を歌い、教会の行事に参加したり、日曜毎のミサに出るのもすべて宗教的訓練です。クリスマスや復活際に参加するのもすべて宗教的訓練なのです。そのお蔭で私はかろうじてカトリックの信仰を続けられるのです。
そして宗教的訓練の重要性はどんな宗教でも同じです。
仏教ではそれを修行と言います。修行をしないとお釈迦様の教えを信じられないのです。修行しなければ仏教を信じられないのです。修行をしないで仏教の批判をしてもそれは的外れな非難になってしまうのです。
それでは修行と宗教的訓練の違いは何でしょうか?
修行は苦しいことを意志的に克服して実行します。苦行が必ずある程度含まれています。
一方、宗教的訓練は苦行的要素はなりべく少なくなるよに知恵が絞られています。ミサなどは歌をつないで楽しい合唱が挟まっています。特にロシア正教では上質の音楽的な楽しみの連続になっています。
仏教の「声明」と同じようです。
宗教を楽しみながら信仰を続行するようにすれば、宗教は本当に楽しいものになります。
昔、アメリカの大学で聞いた宗教的訓練という言葉を現在も大切にしています。それが楽しいから長つづきするのです。
今日の挿絵の写真は神社、お寺、教会の風景です。写真はインターネットに掲載している写真の中から選びました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)