後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「真夏でも涼しい絶景スポット」

2024年08月12日 | 写真
日本いは真夏でも涼しい高原や海辺があります。その幾つかの風景写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.nta.co.jp/media/tripa/articles/1DQUv です。

1番目の写真は北海道の青い池です。
最も美しい村に認定される美瑛町を代表する人気の絶景スポット。太陽光の向きや角度により、池の水が驚くほど美しいコバルトブルーに輝きます。水辺に生えるカラマツの木とのコントラストも素晴らしく、幻想的な光景です。

2番目の写真は奥入瀬渓流です。
十和田湖東岸から約14km続く国指定の天然記念物。清流と手付かずの自然が作り出す美しい景観が魅力で、日本の夏を代表する清涼スポットの一つです。水の透明度が非常に高く、稀少な苔が生息しているのが特徴。

3番目の写真は上高地です。
北アルプスの秀峰に囲まれた大自然を満喫できる山岳リゾート地。国の特別名勝と特別天然記念物に登録されており、日本とは思えないほど大スケールな絶景の数々を楽しむことができます。
7月〜8月の夏シーズンは、ハイキングに最適な時期。

4番目の写真は静岡県のヒリゾ浜です。
近年SNSを中心に話題を集める絶景スポットが、南伊豆に位置するヒリゾ浜。夏限定の船でしか行くことのできない秘境感たっぷりのビーチで、底が透けて見えるほどの高い透明度が魅力です。

5番目の写真は高知県の仁淀ブルーです。
全長124kmの一級河川・仁淀川は、全国トップクラスの透明度を誇る高知県随一の景勝地。あまりにも水の色が美しいことから、「仁淀ブルー」との愛称で全国に知られるようになりました。
源流に近い安居渓谷は、特に美しいと言われる絶景ポイント。目を見張るほど澄み切った水が流れ、角度や天気によって様々な青色に変化します。

6番目の写真は熊本県の鍋ヶ滝です。
熊本県の自然豊かな山あいに位置する落差10m、幅20mの滝。カーテン状に流れる様子が清涼感たっぷりで美しいと話題となり、特に夏の季節を中心に多くの観光客が訪れるようになりました。滝の裏側を歩いて回ることもでき、表と裏ふたつの表情を楽しめるのが最大の魅力。

7番目の写真は沖縄県の川平湾です。
石垣島北部に位置する世界クラスの絶景スポット。日本百景・国の名勝にも指定されており、あまりにも美しい透明度と「川平ブルー」と呼ばれる海の青さが魅力です。
おすすめは、海の青さが際立つ午後の満潮時。特に夏の晴天日は青空とのコントラストが素晴らしく、光の加減や潮の満ち引きによって海の色合いが7色に変化して神秘的な絶景となります。

「夏の風物詩」

2024年08月12日 | 写真
夏の風物詩といえば、下記のものです。
花火(はなび)
浴衣(ゆかた)
かき氷(かきごおり)
スイカ割り(すいかわり)
蝉(せみ)
風鈴(ふうりん)
扇風機(せんぷうき)
蚊取り線香(かとりせんこう)
麦茶(むぎちゃ)
ラムネ
素麺(そうめん)

夏は楽しいですね。
写真の出典は、https://www.studyjapan.jp/topics/culture/symbols-of-summer.html です。

「終戦の夏にも咲いていたヒマワリの花」

2024年08月12日 | 写真
毎日、毎日が暑いです。真夏です。思い出しましたが終戦の夏にもヒマワリの花が咲いていました。何事もなかったように咲いていました。写真をお送りいたします。

1番目の写真は三鷹市の花と緑の広場のヒマワリの写真です。自分で撮った写真です。

2番目の写真も三鷹市の花と緑の広場のヒマワリの写真です。

3番目の写真は山梨県北杜市の明野の60万本のヒマワリ畑です。背後の山は八ヶ岳です。

4番目の写真も明野のヒマワリ畑です。7月下旬から8月いっぱい楽しめます。

5番目の写真は北海道の北海道の美馬牛小学校の塔とヒマワリ畑です。美馬牛小学校は美瑛町にあります。


「終戦直後と現在の我が故郷、仙台の風景」

2024年08月12日 | 写真
8月になると日本の敗戦を想います。終戦後のいろいろを思い出します。当時私は小学生でした。
今日は我が故郷、仙台の終戦直後と現在の様子をご紹介いたします。
まず終戦直後の我が故郷、仙台の風景を示します。
写真は「終戦直後の仙台の風景」を検索してインターネットにある写真をお借りしました。最後の写真は終戦後数年たってからの仙台駅です。

1番目の写真は中心街の東一番町の焼野原です。鉄筋コンクリート造りのデパートだけが崩れずに建っておます。

2番目の写真は終戦直後に建てられたバラックの街並みです。子供たちは元気に走り回っています。
3番目の写真は終戦後数年たってからの仙台駅前の様子です。貧弱なようすの市電がノロノロ走っていました。
写真で終戦直後の我が故郷、仙台の焼野原や町の様子を示しました。仙台は一例に過ぎず、全国200以上の市町村がB29の空爆のよって建物が焼き尽くされ多数の死者を出しました。焼野原の風景の惨状は忘れることが出来ません。黒く燻り臭い市街を歩いて見た光景は酷いものでした。79年たっても忘れません。
その焼野原が数年のうちに復興してしまったのです。まさに奇跡です
復興した仙台の現在の写真を示します。
4番目の写真は仙台の中心街を向山地区から撮った写真です。4枚の写真は「仙台の写真」を検索してインターネットにある写真をお借りしました。
5番目の写真は仙台駅前のロータリーです。
6番目の写真は仙台駅の夜景です。
7番目の写真は向山の鹿落坂の上から撮った広瀬川、霊屋(おたまや)橋と中心街です。
以上の4枚の写真は全国の市町村の復興の一例に過ぎません。日本全国が美しく蘇ったのです。奇跡です。日本民族の活力に驚きます。感動します。
この復興で一番力になったのは民間の力です。その勢いは日本のGDPを世界3位まで押し上げたのです。
民間の復興の力はさらに政府のいろいろな政策で後押しされました。その一部だけを記します。
終戦直後から、戦災復興のための様々な法令が制定され、戦災復興院や建設院といった特別な機関が設置されるなどして、日本の各都市の復興が後押しされました。
詳しくは、https://www.jacar.go.jp/glossary/tochikiko-henten/qa/qa32.html をご覧下さい。
空襲で37府県の215以上の市町村が焼野原になったのです。
空襲により罹災した地域の面積は総計で約1億9500万坪、罹災人口は約970万人、罹災戸数は約230万戸に上りました。これは日本国内総戸数の2割以上、総人口の1割強が罹災したことを意味し、その被害の甚大さが分かります。
戦災復興の最初の措置としては、「罹災都市応急簡易住宅建設ニ関スル件」があります。
その後、政府は復興を促進するためにいろいろな法律を作りました。しかし戦後の住宅難は一朝一夕には解消されず苦しい生活が続いたのです。食糧難と住宅難が重なり戦後の生活は苦しいものでした。
明るい希望が見え始めたのは1964年の東京オリンピックの頃からでした。
最近のパリのオリンピックのテレビを見るたびに東京オリンピックの頃のいろいろを思い出します。当時は妻も若く新婚でしたが生活は苦しかったものです。

それにしても日本はよく復興したものです。感慨無量です。

全国200以上の市町村の焼野原も仙台と同じように復興したのです。
毎年夏になると焼け野原の風景と復興したビル街の風景を想うのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)