後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「家内の夏の思い出」

2024年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム
家内の夏の思い出と言えばまず由比ヶ浜での海水浴、親類の若者が大勢泊りに来て砂浜にビーチパラソルを立てて、水浴びしたり海の家で食事やかき氷を食べたり小屋掛けの射的・ボットル落としや楽焼をした楽しい思い出をよく話しています。
戦争末期に群馬県の下仁田町に疎開したのですがそこでも楽しい思い出が沢山あるようです。
本来楽天的というか人懐こく物おじしない性格なので山あいの生活や小学校にすぐ慣れて、友達とカブラ川へ水浴びに行き、帰りに河原の桑の実を食べるのがとても楽しかったそうです。ママのお土産にしようとポケット一杯摘んで帰ったら白いワンピースのポケットが真っ赤に染まってしまったそうです。
川の上流の浅瀬でバチャバチャしていたら流されて大渕という深みまで行って溺れていたら、大岩の上にいた3歳上の姉が飛び込んで救ってくれた。「川って流れるんだ」とびっくりしたそうだ。
「流れる」失敗は小学校の掃除当番で汚れた雑巾を何枚もバケツに入れて学校の傍にある川へ濯ぎに行った。いきなりバケツをさかさまにして川へ雑巾を落とし込んだ。アッという間もなく雑巾は皆流れ去ってしまった。「ビックリした」というのが彼女の感想で「川って流れるんだ」とわかったそうだ。後日「衣類に不自由だった頃、次の日から雑巾をどうやって集めたのか?」と心配したらしい。
先生は若く優しい 「ふさ先生」なのでお叱りにならなかったし、お友達も怒らなかったと言っていたが・・・とにかく海辺から山間へ移ったので毎日新しい発見でワクワクしていたらしい。
 「明日は粘土を持ってくること」と先生に言われたので、典子ちゃんに「文房具店はどこ?」と尋ねたらどうも話が通じなくて、ようやく粘土を手に入れるには山へ堀りに行くことと分かり、大勢で出かけてドロンコになって面白かった!そうだ。
童話にあった「小麦色の肌」というのは「小麦粉色=白」と思い込んでいたが初めて畑の小麦を見て「薄茶色」とわかり「大発見!」と父に報告したそうだ。「パパは野球が上手」と男の子達に自慢したらみんなで見に来て「曲がる曲がる!」と騒いでいた。40年後のクラス会で横山君や林君達が「あの時初めてカーブを見た」と言ったと帰り車の中で話していた。
ある雨の朝一人で登校した時「疎開っ子だろ」と言ってお百姓のおじさんがイチジクを一つ掌に持たせてくれたのがとても嬉しかった。兎を飼うのが流行っていたので真似をして一匹飼ってみた。でも餌の草を刈ることが出来なかったら、番場のヘイチャンが刈ってくれた、など楽しい思い出が沢山あるらしい。そんなたわいのないことが家内の夏の思い出だそうです。
写真は下仁田町の夏の妙義山と入道雲と麦畑です。インターンットからお借りしました。


「東京が焼野原になる前の戦前の街の風景」

2024年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の日本人には想像しにくいことですが、東京はアメリカ軍の60回の空襲により完全に焼野原になったのです。空襲による死者は約10万5400人だったのです。
今日は東京が焼野原になる前の戦前の街の風景の写真をお送り致します。仙台の写真もついでに示しました。
このような歴史を現在の若者も忘れられないように祈ります。写真の出典は、
1番目の写真は戦前の数寄屋橋付近です。丸い建物は日劇でよく覚えています。昭和11年生まれの私は兵庫県の祖父の家に行く時よくこの付近を電車で通りました。
2番目の写真は銀座の三越と三井本館です。昭和14年頃です。
3番目の写真は京橋付近です。歩いている人が当時の服装を示しています。
4番目の写真は日本橋上の風景です。戦前のバスが2台写っていますが小さいバスでした。
5番目の写真は銀座尾張町で客待ちをしているタクシーです。昭和7年頃です。
6番目の写真は戦前の仙台駅です。ここから父の実家のあった兵庫へ何回も里帰りしました。人力車に乗って駅まで行ったものです。 
7番目の写真は戦前の東一番丁通りと大町通りの交差点です。大町通りの東方向に見た時の写真です。右側にある大きなビルは藤崎百貨店です。仙台に住んでいましたが百貨店はこの他に三越がありました。
ここでは仙台の風景だけを示しますが、日本全国の都市はほぼ同じような風景がひろがっていたと思います。是非、皆様も故郷の昔の風景写真をインターネットで探してご覧になりませんか? 

今日は東京が焼野原になる前の戦前の街の風景の写真をお送り致しました。仙台の写真もついでに示しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「終戦後の悲惨な暮らしを示す写真」

2024年08月17日 | 写真
1945年の夏に日本は無条件降伏をしました。やっと平和になったのです。しかし生活は悲惨でした。戦争の恐ろしさを忘れない為にも終戦後の悲惨な暮らしを示す写真をお送り致します。
写真の説明は不要と思います。写真そのものが日本の苦しい暮らしを語ってます。1番目の写真は少し明るい風景です。平和が戻ってきた小倉の町のお正月の風景です。
あとの写真は全国各地の苦しかった暮らしを示す写真です。

これらの写真を見ると戦後の暮らしのひどさが分かります。忘れていましたこんなにひどい生活をしていたのです。子供たちの笑顔に救われます。
終戦の日から79年の月日が経ちました。その間いろいろなことがありました。そして日本の生活も欧米と同じようになったのです。
毎年、夏はいろいろ考えます。いろいろ想います。
それにしてもこの平和は有難いものです。この平和のために多くの戦没者がいるのです。最後の写真は幸運にも生きて日本に帰ってきた将兵です。
平和は有難いとあらためて思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。後藤和弘(藤山杜人)