後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「竹山道雄作、『ビルマの竪琴』」

2024年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
竹山道雄作、『ビルマの竪琴』のあらすじ

1945年7月、ビルマ(現在のミャンマー)における日本軍の戦況は悪化の一途をたどっていた。物資や弾薬、食料は不足し、連合軍の猛攻になす術が無かった。

そんな折、日本軍のある小隊では、音楽学校出身の隊長が隊員に合唱を教え込んでいた。隊員たちは歌うことによって隊の規律を維持し、辛い行軍の中も慰労し合い、さらなる団結力を高めていた。彼ら隊員の中でも水島上等兵は特に楽才に優れ、ビルマ伝統の竪琴「サウン・ガウ」の演奏はお手の物で、部隊内でたびたび演奏を行い、隊員の人気の的だった。さらに水島はビルマ人の扮装もうまく、その姿で斥候に出ては、状況を竪琴による音楽暗号で小隊に知らせていた。

ある夜、小隊は宿営した村落で印英軍に包囲され、敵を油断させるために『埴生の宿』を合唱しながら戦闘準備を整える。小隊が突撃しようとした刹那、敵が英語で『埴生の宿』を歌い始めた。両軍は戦わないまま相まみえ、小隊は敗戦の事実を知らされる。降伏した小隊はムドンの捕虜収容所に送られ、労働の日々を送る。しかし、山奥の「三角山」と呼ばれる地方では降伏を潔しとしない日本軍がいまだに戦闘を続けており、彼らの全滅は時間の問題だった。彼らを助けたい隊長はイギリス軍と交渉し、降伏説得の使者として、竪琴を携えた水島が赴くことになる。しかし、彼はそのまま消息を絶ってしまった。

収容所の鉄条網の中、隊員たちは水島の安否を気遣っていた。そんな彼らの前に、水島によく似た上座仏教の僧が現れる。彼は、肩に青いインコを留らせていた。隊員は思わずその僧を呼び止めたが、僧は一言も返さず、逃げるように歩み去る。

大体の事情を推察した隊長は、親しくしている物売りの老婆から、一羽のインコを譲り受ける。そのインコは、例の僧が肩に乗せていたインコの弟に当たる鳥だった。隊員たちはインコに「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ」と日本語を覚えこませる。数日後、隊が森の中で合唱していると、涅槃仏の胎内から竪琴の音が聞こえてきた。それは、まぎれもなく水島が奏でる旋律だった。隊員たちは我を忘れ、涅槃仏の胎内につながる鉄扉を開けようとするが、固く閉ざされた扉はついに開かない。

やがて小隊は3日後に日本へ復員することが決まった。隊員たちは、例の青年僧が水島ではないかという思いを捨てきれず、彼を引き連れて帰ろうと毎日合唱した。歌う小隊は収容所の名物となり、柵の外から合唱に聞き惚れる現地人も増えたが、青年僧は現れない。隊長は、日本語を覚えこませたインコを青年僧に渡してくれるように物売りの老婆に頼む。

出発前日、青年僧が皆の前に姿を現した。収容所の柵ごしに隊員たちは『埴生の宿』を合唱する。ついに青年僧はこらえ切れなくなったように竪琴を合唱に合わせてかき鳴らす。彼はやはり水島上等兵だったのだ。隊員たちは一緒に日本へ帰ろうと必死に呼びかけた。しかし彼は黙ってうなだれ、『仰げば尊し』を弾く。日本人の多くが慣れ親しんだその歌詞に「今こそ別れめ!(=今こそ (ここで) 別れよう!)いざ、さらば。」と詠う別れのセレモニーのメロディーに心打たれる隊員たちを後に、水島は森の中へ去って行った。

翌日、帰国の途につく小隊のもとに、水島から1羽のインコと封書が届く。そこには、彼が降伏への説得に向かってからの出来事が、克明に書き綴られていた。

水島は三角山に分け入り、立てこもる友軍を説得するものの、結局その部隊は玉砕の道を選ぶ。戦闘に巻き込まれて傷ついた水島は崖から転げ落ち、通りかかった原住民に助けられる。ところが、実は彼らは人食い人種だった。彼らは水島を村に連れ帰り、太らせてから儀式の人身御供として捧げるべく、毎日ご馳走を食べさせる。最初は村人の親切さに喜んでいた水島だったが、事情を悟って愕然とする。

やがて祭りの日がやってきた。盛大な焚火が熾され、縛られた水島は火炙りにされる。ところが、不意に強い風が起こり、村人が崇拝する精霊・ナッの祀られた木が激しくざわめきだす。村人たちは「ナッ」のたたりを恐れ、慄く。水島上等兵はとっさに竪琴を手に取り、精霊を鎮めるような曲を弾き始めた。やがて風も自然と収まり、村人は「精霊の怒りを鎮める水島の神通力」に感心する。そして生贄の儀式を中断し、水島に僧衣と、位の高い僧しか持つことができない腕輪を贈り、盛大に送り出してくれた。

ビルマ僧の姿でムドンを目指す水島が道々で目にするのは、無数の日本兵の死体だった。葬るものとておらず、無残に朽ち果て、蟻がたかり、蛆が涌く遺体の山に衝撃を受けた水島は、英霊を葬らずに自分だけ帰国することが申し訳なく、この地に留まろうと決心する。そして、水島は出家し、本物の僧侶となったのだった。

水島からの手紙は、祖国や懐かしい隊員たちへの惜別の想いと共に、強く静かな決意で結ばれていた。

手紙に感涙を注ぐ隊員たちの上で、インコは「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ」と叫ぶのだった。

写真の出典は、https://www.necoweb.com/neco/program/detail.php?id=6551 です。

「ミャンマーの中央を南北に流れるイラワジ川」

2024年08月29日 | 写真
ミャンマーを南北に流れる、全長2000キロの大河イラワジ川はこの国の人々にとって祈りの場です。
ヒマラヤ山脈に源を発するイラワジ川は、ミャンマーの人々にとって希望の大河です。人々はここで洗濯をし、飲み水をくみ、流れに沿って移動するのです。

「昔のビルマ、ミャンマーとは?銃撃により犠牲者多数」

2024年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
昔のビルマは現在、ミャンマーという国です。軍事政権が支配しています。その軍隊が2021年にデモ隊を銃撃する事件が起きたのです。3年前の残忍な事件です。
2021年の4月4日までデモ隊を軍が銃撃し犠牲になった人は550人を超えました。ミャンマー国軍は残忍にもデモに参加している市民を容赦なく銃撃しました。子供だろうが、女性だろうが、ただの通行人だろうが銃口を向けたのです。(https://www.afpbb.com/articles/-/3340440?pid=23221381 )
テレビで軍人が市民を銃撃している光景を見た私は衝撃を受けました。戦場で銃撃しているのではなく平和な街で人を至近距離で撃っている光景は初めて見ました。

1番目の写真はデモの光景です。写真は2021年2月7日、ミャンマーの最大都市ヤンゴンで行われたクーデターへの抗議デモです。クーデターは2月1日に起きました。(https://www.tokyo-np.co.jp/article/84611 )

今日は軍が政権を握り市民を銃撃したミャンマーとはどんな国なのか簡単に書いてみます。
ミャンマーは第二次大戦中にアウンサン将軍らによってビルマという国名で独立しました。アウンサン将軍は「ビルマ建国の父」と言われています。この国の民主化をしたのがアウンサン将軍の娘のアウンサン・スーチーです。

2番目の写真は「ビルマ建国の父」と言われているアウンサン将軍です。

3番目の写真は民主化を主導したアウンサン・スーチーです。1945年にアウンサン将軍の娘として生まれました。
さて1989年に国の名前がビルマからミャンマーへ変わったこの国はどんな国なのでしょうか?
この国はインドシナ半島の西部にあり、約67万平方キロメートルの広さがあります。日本の約1.8倍です。人口は推定5404万人ほどで、米作りが盛んで、国民の約9割が仏教徒です。公用語はビルマ語ですが、1948年まで英国の植民地だったことから、英語を話せる人も多いのです。
人口のうち70%をビルマ族が占め、カチン族、シャン族、カレン族などの少数民族が25%を占めています。それ以外には中国人やインド人が暮らしています。

4番目の写真はミャンマーの稲作の風景です。

5番目の写真はお寺で僧たちが祈っている光景です。
このように平和な仏教国で何故残酷なことが起こったのでしょう。原因ははっきりしています。
「ビルマ建国の父」と言われているアウンサン将軍以来、国軍が長く独裁的に政権を握っていたからです。
1948年に英連邦に参加せずビルマ連邦共和国として独立したのち、1962年のクーデター後、ビルマ社会主義計画党のネ・ウィンの独裁政権となります。ネ・ウィンは事実上、軍事政権で1988年まで長期にわたって政権を握っていたのです。しかし1988年に民衆の民主化運動でネ・ウィン体制は崩壊しました。民主化を危惧したミャンマー国軍がクーデターを起こして軍事政権を開始し、国名をミャンマー連邦に改名したのです。
さてここで民主化の旗手、アウンサン・スーチーが登場するのです。
彼女は1988年3月に母が危篤との知らせを受け、病気の母を看護するためイギリスから4月2日にビルマに戻ります。
アウンサン・スーチーは8月26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向けて演説を行ったのです。
それに対抗して国軍がクーデターを起こし、ソウ・マウン議長を首班とする軍事政権が誕生しました。
民主化運動は徹底的に弾圧され、数千人の犠牲者が出たと言います。
その後いろいろなことがありましたが省略します。
結局、2011年には総選挙で軍事政権が敗北し正式に解散しました。そして名目上の文民政権が発足したのです。これにより拘束されていたアウンサン・スーチーや政治犯が釈放れます。
2015年に行われた画期的な選挙では、アウンサン・スーチーの党が両院で過半数を獲得したました。
しかしミャンマー軍は依然として政治に大きな影響力を持ち続け、2021年2月1日、ミャンマー軍はアウンサンスーチー国家顧問と大統領を拘束し、非常事態を宣言したのです。国軍トップのミン・アウン・フライン最高司令官がミャンマーのトップになったのです。
これに反対する多く市が各地で大規模なデモを繰り広げたのです。国軍は銃撃して徹底的に鎮圧しました。2021年2月1日、ミャンマー軍はアウンサンスーチー国家顧問と大統領を拘束し、軍事政権になり、それが現在も続いているのです。
以上がミャンマーの現状なのです。実に混乱した事態が続いている国なのです。

今日は軍が政権を握り市民を銃撃したミャンマーとはどんな国なのか簡単に書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)