後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「タイ王国にあった日本人村」

2024年08月27日 | 写真
16世紀初め、御朱印船貿易に携わった日本人たちが日本人村を築き、最盛期には2,000~3,000人以上もの日本人がアユタヤに住んでいました。
日本人の多くは、アユタヤの傭兵としてビルマ軍との戦いにも参戦。当時の日本人町の町長であった山田長政は22代ソンタム王から官位を与えられるほど大活躍しましたが、1630年に憤死。
日本の鎖国で18世紀初めにはこの町も消滅しました。2007年、敷地内に日タイ修交120周年記念館が設立され、記念の石碑には「アユチヤ日本人町の跡」と記されています。タイと日本の友好の歴史を知ることができる貴重なスポットです。
https://www.thailandtravel.or.jp/japanese-settlement/

「南の国、タイ王国の花と風景」

2024年08月27日 | 写真
南の国、タイ王国は仏教国です。多くの日本人が好きな国です。古都チェンマイに引退後住みつく日本人が多いのです。
私もチェンマイに憧れています。行ったことがありません。
そこに引退後住んでいるある日本人のご夫婦がます。
花の写真や風景写真が綺麗なので何年も前から時々お写真をお借りしています。
今日は花の写真3枚とメコン河の写真と市場のレストランの写真をお借りしました。
写真の出典は、https://gaku404.exblog.jp/18634792/ です。
遥かにタイ王国のチェンマイを偲びながら写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

1番目の写真は南の国の巨大なダリアの花です。日本ではダリアはこれから咲きます。

2番目の写真は可憐な花ウォータージャスミンの花です。

3番目の写真は引退後住んでいるある日本人のご夫婦の家の庭に咲いているハイビスカスです。

4番目の写真はメコン河です。観光客が大河に魂を奪われたようにジッと眺めています。

5番目の写真は市場のフードコートの写真です。
美味しいお店が5〜6軒揃っているので食事時にはいつも客でいっぱいだそうです。
タイの市場の雰囲気が分かる写真です。

「タイ王国の風景と急速な経済成長」

2024年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
国土は、インドシナ半島中央部とマレー半島北半を占める。南はマレーシア、東はカンボジア、北はラオス、西はミャンマー(旧国名ビルマ)と国境を接っします。東南側はタイランド湾に面します。マレー半島中部では西にアンダマン海及びマラッカ海峡があり、それらを挟んでインドネシアやインド領アンダマン・ニコバル諸島に向かい合っています。
そのタイ王国の風景の写真を送ります。首都バンコックの写真と地方の風景写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。

さてタイと日本は国家指導者レベルで長い関係を築いており両国民間の関係も深いのです。
なお立憲革命の際、明治憲法をが参考にしました。
アユタヤ王国時代、山田長政はソンタム王の治世中にアユタヤを訪れ、ナコンシータマラートの知事に任命され、後にそこで死去したのです。
1900年、ラーマ5世はインド北部で発見され、シャムに譲渡された仏舎利の一部を分与する際、仏教国としてビルマ(ミャンマー)、セイロン(スリランカ)に加え、日本にも分与しました。
日本へ譲られた遺骨を納めるために創建されたのが覚王山日暹寺(現在の覚王山日泰寺)です。
大東亜戦争(第二次世界大戦)の時、タイ政府は大日本帝国と同盟関係でした。日本陸軍が首都 バンコックに入り役所を使用しました。タイ政府は日本軍にミャンマーとインドへの鉄道敷設を許可しました。
詳細は「太平洋戦争#枢軸国側」および「バンコク空襲#概要」をご参照下さい。
「枢軸国#枢軸国の一覧」もご参照下さい。
1942年には日泰文化協定が締結され、柳沢健を館長に日泰文化会館がバンコクに建設されることになったが日本の敗戦により完成しませんでした。
その後、この構想はタイ・ジャパニーズ・スタジアムなどを含むバンコクユースセンターとして実現したのです。

タイにおける在留邦人は81,187人(2020年10月)、タイへの日本人渡航者は約35万人(2020年)、泰日協会学校生徒数は2,350人、シラチャ日本人学校生徒数448人(2021年4月)に上り、世界有数の在留邦人社会を有しています。
一方、日本における在留タイ人は54,409人(2021年12月)、日本へのタイ人渡航者は年間約22万人(2020年)に上っています。
タイは親日国という評価が多数あり、アサンプション大学ABACポール研究所が実施した世論調査によると、タイ人が一番好きな国は日本です。
高度経済成長
経済の安定や外国企業の積極的な進出を背景にした1980年代以降の高度経済成長はすさまじく、1985年から1995年にかけての10年間、タイは年間平均9%の経済成長率を記録しました。
しかし、アジア通貨危機(1997年)によって経済は停滞し、経済規模は10.2%も悪化しました。
この危機は、タイの財閥の同族支配廃止や、外国資本の参入につながりました。
タイは外国への輸出を積極的に行ったことから1999年、経済成長率は再び4%台を記録、2003年には6%台を記録し、好景気に逆転します。80年代後半から90年代前半に見られたようなすさまじい経済成長からはやや落ち着いています。

タイ統計局によると2015年のタイのGDPは約3,952億ドルであり、東南アジアではインドネシアに次ぐ経済規模です。同年の1人あたりのGDPは5,742ドルであり、隣国のカンボジア、ラオス、ミャンマーよりはるかに高い上、先述のインドネシアよりも高い数値となっています。しかしながら南隣にあるマレーシアと比較すると半分ほどの数値です。

タイ王国の風景と急速な経済成長をご紹介いたしました。
出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E7%8E%8B%E5%9B%BD でした。

「日本、ミャンマー、タイ、ベトナムは同じ仏教国」

2024年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
お早う御座います。今日は宗教に関する簡単な文章を書くことにします。
日本の大乗仏教とミャンマー、タイ、ベトナムの上座部仏教の違いを分かり易く書いてみます。ご覧頂いたら嬉しく存じます。
面倒な議論は止して、大乗仏教と上座部仏教の2つの決定的な違いを書いてしまえば次の2つになります。

(1)上座部仏教では200以上の戒律を守らなければ釈迦の教えを理解し悟りの境地に至らないと教えています。戒律を守るために出家するのです。
一方、大乗仏教では殺生戒以外の戒律はありません。出家しなくても釈迦の教えを理解し悟りの境地に至ることが出来ると言う教義です。

(2)上座部仏教では釈迦を最高位に据えて崇拝します。
一方大乗仏教では全知全能の宇宙神の盧舎那仏や大日如来が人々を教え導くために釈迦になったという教義です。従って釈迦は宇宙神の化身です。誤解を恐れずに書けば釈迦は盧舎那仏や大日如来の部下なのです。家来なのです。このように大乗仏教では抽象的な概念が仏像になっているのです。

これは中々理解し難い教義です。
鎌倉の大仏を見たある有名な女流歌人が大きな盧舎那仏をお釈迦さまと誤解して、「お釈迦さまは美男子だ」と詠んで失笑を買ったこともありました。
盧舎那仏はお釈迦さまではなく、宇宙神だということを知らなかったのです。理解していなかったのです。
大乗仏教の仏像には観音様や薬師如来や弘法大師像やお不動さんなど沢山あります。
しかし上座部仏教では像は釈迦像だけです。ここが決定的違いです。

さて上記のことをもう少し厳密に示します。
上座部仏教では上記のように具足戒(出家者の戒律)を守る比丘・僧伽(サンガ(教団))と、彼らを支える在家信徒の努力によって初期の釈迦の教えを純粋な形で保存してきたとされています。
大乗仏教では後代の時代ごとに仏典やお経が作られましたが、上座部仏教では同一の内容のパーリ三蔵が継承されて来ています。

上座部仏教の教義は、次のようにされています。限りない輪廻を繰り返す生は「苦しみ 」である。この苦しみの原因は、無明によって生じる執着です。そして、無明を断ち輪廻から解脱するための最も効果的な方法は、戒律の厳守、瞑想の修行による八正道の実践であると教えています。
上座部仏教では、釈迦によって定められた戒律と悟りへ至る智慧の実践を純粋に守り伝える姿勢を根幹に据えてきたと主張しています。

一方、大乗仏教では、ブッダとは歴史上にあらわれた釈迦だけに限らず、過去にもあらわれたことがあるし未来にもあらわれるだろうとの考えが重要なのです。
大乗仏教ではこれまでに無数の菩薩たちが成道し、娑婆世界とは別にある他方世界でそれぞれのブッダとして存在していると考えたのです。
この多くのブッダの中に西方極楽浄土の阿弥陀如来や東方浄瑠璃世界の阿閦如来・薬師如来などがあるのです。
また、歴史的存在であり、肉体を持った存在であった釈迦の教えがただそのまま伝わるのではなく、大乗仏教として種々に発展を遂げ、さまざまな宗派を生み出すに至って来たのです。
このように大乗仏教は多神教的であり教義も時代と国々によって変化して来たのです。

このように日本の大乗仏教とミャンマー、タイ、ベトナムの上座部仏教と比較してみると日本仏教の特徴が簡単に分ります。
如何でしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真はタイの托鉢の風景とお寺の写真です。写真はインターンットからお借りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)