後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本の夏の山に咲く花々の写真」

2024年08月13日 | 写真

夏の山に咲く花々の写真をお送りいたします。

夏の山に咲く花々は小さい花ですが色鮮やかで美しいものです。背景の山々にも心躍ります。そんな風景写真をお楽しみ下さい。

写真は「夏の山の花の写真」を検索して、インターネットの写真からいろいろな風景写真を選びました。


「夏のフィナーレ、8月下旬の山形新庄まつり」

2024年08月13日 | 写真
毎年8月24日~26日の3日間開催され、圧倒的なスケールで、見る者を魅了する新庄まつり。新庄の夏は、まつりの熱狂でフィナーレを迎える。

その歴史は古く、今から260年以上前の江戸中期までさかのぼります。宝暦6年(1756年)、時の藩主・戸沢正のぶ(言べんに甚)が、前年の大凶作にうちひしがれている領民に活気と希望を持たせ、豊作を祈願するため、戸沢氏の氏神である天満宮の祭典を領内あげて行ったのが起源とされます。
https://yamagatakanko.com/festivals/detail_2991.html

「お盆のいろいろな行事の写真」

2024年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はお盆の風習のあれこれを書きたいと思います。
日本で最初にお盆を行ったのは推古天皇で、今から1400年も前の飛鳥時代です。 長い間、貴族や僧侶だけが行う特別な行事でしたが、江戸時代に入ると、ろうそくや提灯が大量生産されたこともあって、一般の人にも定着していきました。そして現在の一般的なお盆の期間は、8月13日から16日までです。
お盆の行事のあれこれの写真を示します。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%9B%86 です。
1番目の写真は精霊馬です。精霊牛馬とも言います。ナスとキュウリに割り箸などで脚を付けてウシとウマに見立てるのです。胡瓜の馬はあの世にいる故人が乗って急いでこの世に帰って来るのです。お盆が終われば茄子の牛の乗ってゆっくりあの世に帰ります。
2番目の写真は精霊船です。まこもで作った船にお盆中に供えた供物を載せ川に流 します。お盆が終われば精霊牛馬をまこもで作った船に乗せて流します。
3番目の写真は家の入口に飾られた盆提灯です。 故人の帰りを歓迎します。
4番目の写真は乾かしたまこもでの迎え火です。送り火も同じようにします。
苧殻(おがら)を焚く地方もあります。
 5番目の写真は幕末期のお盆の様子です。(『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年出版 )
さてお盆の歴史を簡略に書きます。
仏教用語の「盂蘭盆会」の省略として「お盆」)と呼ばれています。盆とは文字どおり霊に対する供物を置くお盆のことです。供物を供え祀られる精霊も意味します。
中華文化圏では道教を中心として旧暦の七月を「鬼月」とする風習があります。旧暦の七月朔日に地獄の蓋が開き、七月十五日の中元節には地獄の蓋が閉じるという考え方は道教のものです。台湾や香港を中心に現在でも中元節は先祖崇拝の行事として盛大に祝われているそうです。
その盆の風習は日本全国に広まったのです。全国に比較的広まっている風習としてお盆休みの帰省があります。故郷を離れて暮らすことが一般化した昭和の後半から全国的に見られるようになりました。
海外では新年などに行われる花火大会ももともとは故人を供養するため始まったのです。隅田川花火大会も故人を供養するため始まったのです。
隅田川花火大会は、大飢饉とコレラで多くの死者が出た1732年(享保18年)に8代将軍・徳川吉宗が大川端(現在の隅田川河畔)で催した「川施餓鬼」が起源です。1733年7月9日(享保18年5月28日)、幕府は前年にならって川施餓鬼とあわせ両国の川開きの日に花火を打ち上げたのが、現在の花火大会のルーツと言われています。 
七夕はそもそも「棚幡」(たなばた)とも書き、故人を迎える精霊棚とその棚に安置する幡(ばん)を拵える日でした。7日の夕方から勤めたために棚幡がいつしか七夕になったのです。
 なお、お盆期間中、僧侶に読経してもらい報恩することを棚経(たなぎょう)参りと言います。棚経ともいうようになったのです。
東アジアのお盆のことです。韓国ではお盆は百中とも言います。8月24日から8月26日までの伝統行事のお盆です。これは朝鮮民族の習俗で陰暦の7月15日に祖先祭祀や墓参を始めとする行事が行われる祭日です。
韓国各地の寺では、「百中祈祷」という名で盂蘭盆斎をやります。ソウルあたりの寺院では数多くの信徒が集まるそうです。 
中国と台湾では、「盂蘭節」という旧暦7月15日に伝統行事のお盆があります。

今日はお盆の歴史といろいろな行事を説明しました。そして韓国、台湾、中国のお盆も簡単に紹介しました。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「カトリックは原始的!イエス様の肉を食べる」

2024年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム
カトリックは原始的です。イエス様の肉を食べるのです。この脅威の習慣を説明したいと思います。
カトリックのミサの終りのほうで神父さんが一人一人へ小さなパンをくれます。それはイエス様の肉なのです。ですから神父さんは「イエスの体」と小声で言って渡します。信者は「アーメン」と言ってパンを受け取り、すかさず口に入れます。
こうしてカトリックの信者はミサごとにイエス様の肉を頂いて食べるのです。
このミサで一番重要な部分は次の福音書によっているのです。

「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。」
そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか。」
イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。」
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。」
「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。」
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人の内にいる。」
「生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。」
「天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたのに死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう。」

これが今ミサの骨子です。
写真はカトリック小金井教会のミサの風景です。司式はイエズス会の竹内神父様です。主任司祭の加藤神父様は司式の補佐を務めます。





「8月15日は終戦の日、そしてマリア様が天に昇った祝日」

2024年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム
 今年も8月15日がきます。8月15日は終戦の日、そしてマリア様が天に昇った祝日です。日本の地方ではお盆の日です。
さて今日はマリア様が天に昇った祝日のことを説明したいと思います。この祝日をマリア様の被昇天の祝日と言います。マリア様はイエスの母です。
どうして“被”と付くかというと、マリアはキリストの力によって天へ行けたからです。天にあげられた、という意味で“被”が用いられています。
 この8月15日が聖母マリアの祝日であることは、歴史的に5世紀のエルサレムでこの日に祝われていた神の母マリアの記念に由来しています。そして6世紀には、8月15日がマリアの死去の日としてギリシャ正教やロシア正教などの東方教会で祝われるようになりました。それが後にカトリック教会へ移入されたのです。
このマリア信仰はもともとギリシャ正教やロシア正教などの東方教会とカトリック教会で古くからあったものです。
つまり8月15日に聖母マリアの昇天を祝う習慣は5,6世紀頃からあったのですが、それを教皇ピオ十二世が1950年11月1日に世界中のカトリック教会の正式な被昇天の祝日として公布したのです。
キリスト教は一神教ですが、聖母マリアは人々に深く愛された信仰の対象だったのです。

日本のカトリック中央協議会はこの聖母マリアの被昇天の祝日の歴史を次のように説明しています。
(https://www.cbcj.catholic.jp/faq/maria_815/ )
マリアが霊魂も肉体もともに天に上げられたという教義で、1950年11月1日が、教皇ピオ十二世(在位1939~1958)が全世界に向かって、処女聖マリアの被昇天の教義を荘厳に公布しました。
  この教義が制定される以前に、すでに教皇レオ十三世(在位1878~1903)の命令によって、検邪聖省(現在は教理省)の記録庫に多くの請願が特別に集積され、後には神学者たちの希望も追加されました。また、第一バチカン公会議(1869~1870)において、204名の教父が聖母の被昇天を決定するように提案したことや、1921~1937年に「被昇天の定義促進運動」が盛んになったことの背景もあります。

ピオ十二世は次のように宣言します、「われわれの主イエズス・キリストの権威と、使徒聖ペトロと聖パウロの権威、および私の権威により、無原罪の神の母、終生処女であるマリアがその地上の生活を終わった後、肉身と霊魂とともに天の栄光にあげられたことは、神によって啓示された真理であると宣言し、布告し、定義する」(『カトリック教会文書資料集』3903)。これは「おめでとう、恵まれたかた」(ルカ1・28)と神の使いからのあいさつを受け、神がともにおられるという恵みに満ちたものであるが故に、その生涯においてキリストと最も深く結ばれ、死後においてもキリストの復活と栄光にあずかっていることを意味します。つまりマリアは復活の恵みを受け、キリストを通しての神における人間の完成に到達したことを確信をもって宣言しているのです。

 聖書の中で、聖母の被昇天については直接記されていませんが、カトリック教会は何世紀にもわたって伝達されてきた伝承(聖伝)を聖書とともに大切にしてきました。この聖母の被昇天の教義も神から啓示された伝承の一部分であることをかつての司教たちが一致して認め、ピオ十二世が公に教会の教義であることを公布することによって、マリアが神の母であることを特に強調したことが考えられます。
 この8月15日が聖母マリアの祝日であることについて、歴史的に次のように言われています。5世紀のエルサレムでこの日に祝われていた神の母マリアの記念は、6世紀には、マリアの死去の日として東方教会で祝われるようになりました。この死去は、マリアが天に召された(帰天)ことと永遠のいのちのうちに誕生したこととして記念されていたようです。やがて7世紀半ばに西方教会にも受け継がれ、教皇セルジオ一世(在位687~701)は、徹夜祭やハドリアヌス教会からサンタ・マリア・マジョーレ教会までの行列などで盛大に祝っています。マリアの被昇天の名で知られるようになったのは、8世紀末になってからです。こうして1950年のピオ十二世の教義宣言に至るまでマリア信心の深まりと同時に、次第にこの日を特別な日として祝うようになりました。

 聖母の被昇天への信仰は、マリアだけが特別な存在だと言い表すのではありません。キリストによる救いにあずかる人たちの象徴として、信じるすべての人たちの救いへの希望を表現するものです。ミサの集会祈願はこのことを教えます、「全能永遠の神よ、あなたは、御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、からだも魂も、ともに天の栄光に上げられました。信じる民がいつも天の国を求め、聖母とともに永遠の喜びに入ることができますように」。

今日の挿し絵はラファエロの聖母子の絵画と被昇天の古い宗教画2枚です。
マリア様被昇天の絵画の出典は、http://mementmori-art.com/archives/23171141.html です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はラファエロの傑作として有名な聖母子の絵です。漆黒の背景から浮かび上がる聖母マリアと幼子イエス・キリストを描いたものです。1505年頃の作です。

2番目の写真はGuillaume Courtois 作、17世紀です。飛翔しているかのようなマリアを描いた絵です。

3番目の写真はグイド・レーニ作、1617年です。
レーニが後年に描いた聖母の被昇天は十二使徒とマリアの二段構造になっています。