後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「土間にむしろを敷いて寝ていた秘境、秋山郷を訪問した」

2024年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
秘境とは人の住んでる山奥の秘密の集落のことです。豊かな自然に包まれ秋には紅葉が山々を美しく飾ります。しかし常に飢饉がある山奥です。人々は掘っ立て小屋の土間にむしろを敷いて寝ています。昔の秋山郷ではそんな人々の生活が長年続いていたのです。写真を見ると生活の悲惨さがよく分ります。
1番目の写真は昔の秋山郷の家を復元した家です。
「日本民家集落博物館 信濃秋山郷の民家」、https://blog.goo.ne.jp/pzm4366/e/f225c4feb4ff54ee1f1d676bcdceb5ff から転載しました。家にはガラス窓が無く藁壁で覆われています
2番目の写真は屋内の部屋です。土間に筵を敷いて寝ています。囲炉裏を囲んだ掘っ立て小屋に一家が雑魚寝をしていました。
3番目の写真も屋内の部屋です。土間に筵を敷いて生活しています。床が無く地面と同じ高さです。囲炉裏に鍋が一個だけです。食べ物は稗と粟だけです。
こんなだった秋山郷も現在は観光客が多く行くようになりました。
特に「日本の秘境100選」というものに選ばれてからは観光客が増えました。詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の秘境100選 をご覧下さい。
そして秋山郷へ観光用の小型バスが通れる道路が開通しました。
私どもも2012年の10月28日にこの秘境を小型バスで訪ねました。
秋の秋山郷の山々は美しく華やかな紅葉に彩られていました。その間の曲がりくねった道を小型バスがゆっくり走ります。バスの上から撮った秋山郷の紅葉の写真をお送りします。
4番目の写真は秋山郷を覆う山々の紅葉です。
5番目の写真は蛇淵の滝です。
6番目の写真は秋山郷の曲がりくねった道を行く小型バスです。
写真のような風景を眺めながら私は鈴木牧之の『秋山記行』や『北越雪譜』を考えていました。
「北越雪譜」にはこの秘境で飢饉が何度も起きたことが克明に書いてあったのです。ですから美しい紅葉を見ても悲しい気分になります。
悲劇が繰り返し起きた秋山郷の紅葉は悲しみの色です。飢饉で亡くなった人々の鎮魂のための紅葉に見えたのです。
日本は山国と言いますが、こんな山奥に何故人間が住むのでしょうか?
飢饉で部落全部が死に絶えたという歴史を繰り返しても、山奥に連綿と人が住むのは何故でしょうか?
秘境の秋山郷はあまりにも山深いのでそこに人が住んでいるとは誰も知りませんでした。
それが江戸時代に鈴木牧之が秋山郷に入り、「秋山紀行」を書き人が飢饉にもめげず住み着いていることを報告したのです。
食べ物が無くて村落の全員が死ぬという悲惨な生活に胸がつまります。見回せば田圃や畑など作れないような険しい地形です。豪雪地帯です。
「北越雪譜」は1770年(明和7年)に越後の塩沢に生まれ、1842年(天保13年)に亡くなった豪商、鈴木牧之が書いた名著です。
魚沼郡塩沢とその近辺の人々の豪雪の中での生き方を詳しく書いています。商人や農民の生活を丁寧に観察し記録しています。多数の精密な絵も示しています。
そして山深い秋山郷の13の貧しい山村を巡り人々の生活の実態を記録しています。
そこでは大きな囲炉裏を囲んだカヤ壁の掘っ立て小屋に一家が雑魚寝をしています。フトンは一切なく冬はムシロの袋にもぐって寝ます。粗末な着物を着たままもぐって寝るのです。
家具は一切なく大きな囲炉裏に鍋が一個だけです。食べ物は稗と粟だけです。病人が出ると大切にしていた少しのコメでお粥を作って、薬として食べさせるのです。
その生活ぶりは縄文時代のようです。鈴木牧之は冷静に記録します。その態度は文化人類学の研究者のようです。
わずかに開けた山肌に稗や粟を植えて一年間の食料を作ります。その命の綱の粟と稗が冷害で取れない年には栃の実の毒を根気よく抜いて飢えをしのぎます。しかしそれも尽き果てる豪雪の冬には囲炉裏を囲んで寝る他はありません。寝ている間に囲炉裏の火も消えて一家の人々の命のともしびも静かに消えて行きます。
カヤぶきの掘っ立て小屋の外では音も無く雪が降り続き、やがては白一色の夢幻の世界に化してしまうのです。
現在、秋山郷は舗装道路がついていますが大型バスは通行出来ません。津南町まで大型バスで行って、そこで小型バスや乗合タクシーに乗り換えて、山並み深く分け入ります。
紅葉の山並みが幾重にも折り重なり、深い谷が小型バスを飲み込みそうで怖い道行きでした。
秋山郷は現在13の山間集落の総称です。新潟県の8つの集落と長野県の5つの集落があります。すべて深い深い山奥にあり現在でも交通が不便で都会とは隔絶した文化を有している所です。
この秋山郷のような秘境が日本には100も散在しているのです。
秘境は美しい所ですが悲しい歴史を背負った場所なのです。悲しい歴史があるから自然の美しさが一層深いものになるのでしょうか。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「アフリカの多数の民族とマサイ族」

2024年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
アフリカには3000もの民族がいて2000種類以上の言語が使われています。その多様性は他の大陸とは較べられない多様性です。
例えばアフリカの民族を示せば次のようになります。
 
ヌバ族 アンコレ族 トゥンブカ族 グロ族 ...
 
アングロアフリカン イラク族 アルシャ族 ...

レンディーレ族 イッサ族 ムーア人 ...

ゴンベ族 アムハラ人 ドゥル族 ...

アンガス族 コファ族 バントゥー系民族 ...

イガラ族 トングェ族 クナマ族 ...

ガモ人 ショナ人 ドゴン族 ...

ネグリロ ンゴニ族 キッシ族、などなどです。

以上のようにあまりにも多数なのでそれぞれの民族の詳細は省略いたします。

そこで日本でも有名なマサイ族だけ一例としてご紹介します。

マサイ族はケニア南部からタンザニア北部一帯の先住民で、人口は推定20 - 30万人程度と推測されています。

垂直ジャンプを繰り返す独特の踊り文化で有名です。 村で一番高く跳べる男性が、村で一番綺麗な女性をめとることができるのです。

本来は定住せず牛やヤギなどの家畜の遊牧で生計を立てる遊牧民でした。現在では都市にも住み観光ガイドや密猟の監視員などの定職を持って暮らしているマサイ族も多いのです。

伝統的マサイ族の住居は牛糞と泥をこねて作った小屋です。この掘っ立て小屋をサークル状に配置し、外側をさらに木の柵で囲うのが村の伝統的なスタイルでした。夜になると放牧していた牛やヤギなどの家畜をこのサークルの内側に入れ、野生の猛獣から家畜を守ります。

一夫多妻制で牛(財産)を多く持つ男は何人も妻をめとることができるが、牛を持っていない男は女性に相手にされず、結婚も恋愛も難しいものです。牛が不足すると他部族の牛を略奪します。成人男性は猛獣退治や牛の放牧以外の労働をせず、普通の仕事は全て女性や子供が行っている。

ここでマサイ族の写真を示します。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%82%A4%E6%97%8F です。

さてマサイ族の主食は牛乳と牛の生血です。近年ではチャパティ・米飯などの炭水化物も日常食となっています。牛乳をギブユという瓢箪に入れて作った原始的なヨーグルトや、牛の血を抜いてそれを牛乳と混ぜ合わせた飲み物もあります。客人が来たときのお祝い事などでは動物を殺して肉食をすることもあるが、大切な家畜を潰してしまうことになるためごくまれです。魚は全く食べなく野菜を食べることもごく少ない。

それぞれの村ごとに長老がいて物事を決定する原始的な長老制です。戦士階級であるモランはこの長老の下に属し、未だ修行中の身分とされている。男性は生涯に必ず一度はモランとなります。モランは槍で武装し、独自の槍術を使います。このほか相撲に似た格闘技も存在し、彼らはこれらを駆使してライオン、豹をはじめとする猛獣とも渡り合うのです。

さてアフリカと言えば奴隷貿易に触れなければなりません。15世紀から19世紀までの500年にはアメリカ向けの奴隷貿易で、700-1200万人のアフリカ人が奴隷として輸出されました。しかしその後、「反奴隷貿易の協定」がアフリカ50カ国以上の国々で締結され奴隷貿易は終わったのです。

以上、アフリカの多数の民族を紹介し、一例としてとマサイ族について詳しく説明をしました。そして奴隷貿易についても簡略に記しました。それにしてもアフリカ大陸には3000もの民族がいて2000種類以上の言語が使われている事実は驚異的です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


「マレー半島にあるマレーシアの文化と経済」

2024年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
マレー半島にあるマレーシアは、人口の6割をマレー系、3割を華人系、1割をインド系の国家です。3つの主要民族と地域の歴史が複雑に入り混じって並存するマレーシアは、民族構成がきわめて複雑な国のひとつであり、多民族国家であります。しかし熱烈な親日国です。
首都はクアラルンプールで工業と農業が主な産業です。
まず首都はクアラルンプールと農業地帯の写真を示します。

さてこの国の政治と経済を簡略に書きます。
マレーシアのマハティール元首相が「日本に手本にした国造りをする」という「東方政策」を長期間推進してきました。そのこともあり世界有数の親日国家です。 また日本製品や日本食に対する信仰も高く日本に対する信用は絶対的なものです。
マレーシアの領土はマレー半島南部およびボルネオ島北部です。立憲君主制国家です。
1980年代以降はマハティール首相の主導するルック・イースト政策で工業化を遂げることに成功しました。
歴史的には13世紀 に アラブ商人やインド商人と共にイスラム教が伝来し、仏教とヒンドゥー教の時代が終わりました。そして1400年 に マラッカ王国が成立したのです。
政治と経済については下記からの抜粋です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2
日本との関係
対日関係については、「ルックイースト政策」を掲げたマハティール政権とそれを継承したアブドラ政権の下で緊密な関係が維持されました。トヨタや日本航空、イオンなどの日本企業のマレーシアへの進出し密接な関係を築いてきたのです。
日本が事あるごとに太平洋戦争の謝罪外交をすることについて「いったい、いつまで謝罪外交を続けるのか。自信を取り戻し、アジアのため世界のためにリーダーシップを発揮してほしい」と日本を励ましていたのはマハティール首相でした。
中国との関係
マレーシアは東南アジア諸国としてはシンガポールに次いで華僑の割合が高く、中国文化の影響が強いために中華圏扱いされること多いのです。中華料理店がよく見られ、多くの中国系マレーシア人が芸能人として中国・香港・台湾・シンガポールなどの中華圏で活躍しています。
近年経済台頭する中国に対しマレーシアは国内に住む華僑住民とのつながりを生かして中国に接近しています。
マレーシアと中国は伝統的な友好国です。2014年にはマレーシア軍は中国と初の合同演習を始め2015年、2016年にも行いました。
経済
IMFによると、マレーシアの2013年のGDPは3,124億ドルであり、一人当たりの名目GDPは10,548米ドルでした。2015年の1人あたり国民総所得(GNI)は10,570米ドルであり[、世界銀行による高所得国の基準である12,476ドルにはわずかに及ばず高・中所得国に位置づけられました。日本(2015年1人あたりGNI36,680ドル)、シンガポール(同52,090ドル)、香港(同56,878ドル)、ブルネイ(同37,320ドル)などには遠く及ばないものの、一人当たりのGDPが10,000ドル以上という数値は、アジアの熱帯地域の中では珍しく高い方であり、東ヨーロッパのロシア(同11,400ドル)やルーマニア(同9,500ドル)、クロアチア(同12,690ドル)などと同水準です。
工業化の成功

マハティール首相時代にさまざまな分野において国産化を推進する政策を打ち出しました。なかでも国産車 (National Car) については、日本の三菱自動車の技術を導入した自動車メーカー「プロトン」や、同じく日本のダイハツ工業の技術を導入した小型車メーカーのプロドゥアを設立し、政府の手厚い保護もあって国内シェアの約6割を両社で占めるようになります。またアジアやヨーロッパ諸国への輸出も行われています。
ほかにもルノーやデルコンピュータなどの外国企業の工場の誘致、港湾の整備、空港や鉄道などの各種交通インフラの充実など、主にインフラ整備と重工業の充実を中心とした経済政策を積極的に行い成果を上げています。
食文化
イスラム国家ですが多民族であることから非ムスリムの華人や外国人は飲酒も可能であり、豚肉も食べたりと非常に食の自由度が高いのです。特に中華系移民の間から発祥したマレーシアでしか味わえない食べ物もあり、中でも肉骨茶であるバクテーは人気が高い料理です。
南国なので果物は非常に多彩であり特にドリアンはもっともポピュラーな果物のひとつで、屋台などで売っています。

今日はマレー半島にあるマレーシアの文化と経済をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)