この名言の意味は文字通りどんな困難なことでも精神を集中して一心に努力すれば何事でも成し遂げることが出来るというものです。
この名言は中国の宋時代の儒学者の朱子が言った言葉です。朱子は1130年に生まれ1200年に亡くなりましたが、没後、弟子たちがその教えを纏め、1270年に「朱子語類」を出版しました。この名言はその本にある言葉です。
朱子の教えは「朱子学」として江戸幕府が大いに推奨した儒学でした。
そのせいもあり、日本人は「精神一到何事か成らざらん」という名言が好きでよく使います。
この名言の欠陥はこの世の事はすべて精神を統一して集中すれば出来るという精神力偏重にあります。
さきの太平洋戦争の間に嫌になるほど無理に言わされた言葉です。そしてどんなに貧弱な軍備でもアメリカに勝つという精神を集中すれば、必ず勝つと教えられたのです。
全く間違った教えでした。
戦争に勝つにはまず軍備が優れている事です。敵に破壊された軍備を即刻生産出来る工業力と経済的余裕が一番重要なのです。そして戦争に勝つためには正しい戦略が絶対に必要なのです。精神力など絵に描いたモチのように何んの役にも立ちません。
この名言は科学的に、そして合理的に考えることを蔑んでいるのです。全くバカバカしい名言です。
しかし、この考え方は中国文化圏すなわち儒教文化圏には現在でも人々の心の底に棲みついているのです。そして何か困ったときに、その恐ろしい鎌首を上げるのです。
1966年から1976年まで中国大陸で猛威をふるった毛沢東の「文化大革命」はこの精神主義の塊でした。
土工錬鋼法と称して、全国の津々浦々に土で作った小さな溶鉱炉を作り、鉄の増産運動をしたのです。
科学的に考えると炉内温度が1600度以上にならなければ溶けた銑鉄は絶対に出来ないのです。そこで農民は鉄のクワやシャベルを壊して、小さな溶鉱炉へ投げ込んだのです。下からはその形のままの赤く熱せられた鉄が出て来ました。その重さを測って、そのの鉄の生産量として共産党本部へ報告したのです。
最近、日本では原発廃絶運動がさかんになされています。
しかし原発推進派はこの運動を精神主義的過ぎて、「精神一到何事か成らざらん」という考えに立っていると笑います。すなわち、原発の代わりになる代替エネルギーが存在しないのに原発反対運動をすることが合理的でないと笑うのです。
現在の原発推進論者は大企業の人々が中心になっています。原発の存在している地方の人々を放射能の危険にさらしてでも自分達の経済的利潤を大切にしているのです。その彼等が原発反対は精神運動であって実現が不可能だと言っているのです。
これに対して合理的な反論をすべきと思います。
まず、太陽電池や地熱発電は発電量が小さすぎて原発の代替エネルギーにならない事実を第一に認めるべきです。
その上でシェールオイルやシェール天然ガスや石炭の利用拡大を主張すべきです。発電規模が大なので、合理的な解決法です。そしてこれらの火力発電所から出る炭酸ガスの回集方法の技術を開発すべきなのです。
原発廃絶運動をしている人々の一部に残念ながら精神主義偏重の人々が居ます。合理的な考察抜きでやたらに反対、反対と叫んでいるのは無意味ではないでしょうか?
どうもその辺に、「精神一到何事か成らざらん」という毒蛇がいまだに棲んでいるようです。東洋人の弱みではないでしょうか?
皆様のご意見をお聞かせ下さい。(続く)