後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

荒々しくて圧倒的な森の写真です。

2013年05月25日 | 写真

山梨県の西端の甲斐駒山麓の小屋に行くたびに、その周りの森が荒々しく圧倒的なので人間の小ささや弱さを強く感じます。

そしてその森に押しつぶされそうになっている白い小さな小屋に泊まっていると森の精霊たちが遊びに来るような気分になります。

木々はすべて植物なのでその精霊たちはやさしく、大らかな感じです。

そんな感じを写真に撮ろうとしたのが以下の写真です。森の偉大さをご想像して頂ければ嬉しく思います。

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総合文芸誌、「岩漿」第21号のご紹介です

2013年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム

 小生の友人に木内光夫さんという人がいます。伊豆の伊東市に住んでいて、岩漿文学会のお世話をしています。筆名は馬場 駿といいます。毎号、力作の小説を掲載しています。

今年、発行の21号では、短編「雪積む樒」という小説を発表しています。

貧困だった生い立ちを自分の母を主人公にした感動的な話でした。

昨夜、読み始めましたが、面白くなってつい最後まで読んでしまいました。

母親の深い情愛と破天荒な生き方が描き出されていて、しかもストーリー展開が面白いのです。小説はやっぱりストーリーが面白いことが一番重要だと改めて知りました。

それも含めて、「岩漿」第21号の目次を以下に示します。

この案内の出典は、http://www.geocities.jp/hiwaki1/doujin/kakushi/gansyou.htmです。

ご覧頂ければ幸いです。

 がんしょう

第21号 平成25年04月30日発行
      巻頭詩「明日」小山修一
      評論「茂吉と忠」桜井祥行
      巻頭小説「八重桜」椎葉乙虫
ひろば「地震の話」桜井祥行
          「今時」近藤満丸
          「運が悪いドラマ」岩越孝治
          「ばぁばの」高橋孝子
        埋め草「ジイソブ」(ム)
          「何故か、の姿勢」馬場駿
          「あとのまつり」日吉睦子
      詩・えびね蘭坊の世界
         「いなくなる」・「蚊と人間と創造主の関係」
         「ふつう」・「大工の話」
エッセイ「巣立ち」高橋孝子
詩「未来を食らう」小山修一
        「富士山と大室山」小山修一

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岩漿文学会について、

主な活動地域:静岡県伊東市を中心にほぼ全国に会員が散らばっています。

掲載ジャンル:小説を中心にして、詩、随筆、はては童話まで取り込んでいます。小説部門の総頁に対する割合は80~90%。

創刊年月日:平成9年7月16日

発行:年1回。

団体名 岩漿文学会

会員数:最高会員数50名、会員数32名(2012年7月現在)
     発行部数は各号300部

事務局:深水一翠・桂川ほたる

発行所:岩漿文学会

発行人:小山修一

連絡先:〒414-0031 静岡県伊東市湯田町7-12リバーサイドヒグチ306 木内方
       岩漿文学会編集部
      電話・FAX 0557-38-7526
      メールはこちらへ

参加方法:年会費3000円
       自作掲載時に頁割負担金1ページ当り1000円・投稿1ページ当り2000円。
       ただし編集部が「招待作品」とした場合は無料。

定価:1冊600円 (印刷製本単価平均1200円ほど)

入手方法:編集部へのメールまたは文書での注文
       伊東市のサガミヤ書店各支店で取扱いあります。

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この岩漿の写真の出典は、http://www.google.co.jp/search?q=%E5%B2%A9%E6%BC%BF&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=1ESgUfvGEcfMkwWZ-YGQCA&ved=0CEAQsAQ&biw=831&bih=495 です。

随筆「茶色い迷いわんこ」桂川ほたる
短編「雪積む樒」馬場駿
        埋め草「雑感」(い)
      岩漿ライブラリー 編集部
      小説・小品「ルーツ」・小さな遺品 深水一翠
        埋め草「或る子猫の死」(み)
      小説「姉貴気取り」岩越孝治

      「作家と作品紹介」編集部
      編集後記 深水一翠
      規程

      題字/秋藤俊
      表紙・扉・目次カット/近藤満丸


透明で、そして淋しい須賀敦子の文章世界

2013年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム

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先日の夜、上の写真のような森の中の小屋で文芸春秋、6月号を読んでいました。その340ページに高樹のぶ子という作家が須賀敦子のことを書いていました。

1998年に亡くなってから15年になりますが、私は須賀敦子の「コルシア書店の仲間たち」という本を読んだ時の感動を絶対に忘れません。

そんな思い出があったので、高樹のぶ子の批評を丁寧に読みました。

須賀敦子の文章は「心の旅路」を辿っていて、読む人に穏やかな諦観を感じさせると評しています。そして彼女が自信を失ったとき須賀敦子の「トリエステの坂道」の中の文章を読むそうです。すると感謝の気持ちがわいてきて静かな呼吸に戻ることが出来るそうです。

私は15年前に「コルシア書店の仲間たち」を読んで以来、その文章の透明感と淋しさを時々思い出しています。その他の作品も読みましたが清冽な文章と孤独な雰囲気はみな同じでした。作品には淋しいとは一切書いてありません。しかし何故か読者に寂しさを感じさせるのです。ヒョッとしたら作者自身が孤独で淋しい人生を送ったのでしょうか。

しかし須賀敦子は芦屋の裕福な家で育ち、聖心女子大に学び、パリへ留学し、イタリアの神学に興味を持ち、ミラノに定住し、ペッピーノというイタリア人と結婚したのです。そのミラノにあったコルシア書店で多くの仲間と知り合って、その事を書いたのが「コルシア書店の仲間たち」だったのです。

夫、ペッピーノは若くして亡くなったので日本に戻り、いろいろな大学でイタリア語やイタリア文学を教えていました。晩年になってから書いた「コルシア書店の仲間たち」が評判になり数々の作品が出版されました。そして69歳で亡くなります。

彼女の人生は華やかで知的に輝いていたのです。決して淋しい人生ではないのです。

私は彼女の作品にある特徴を考えています。

カトリックの信者だったのにキリスト教のことは一切書いてありません。

イタリアで結婚したのに新婚生活の楽しさもあまり見当たりません。

不思議な人です。

日本では大学の講師をしながら、何時もイタリア製の高級な洋服を着て、高価な車に乗っていたそうです。そして若い男性達を引き連れて遊んでいたそうです。心が満たされなっかのでしょうか?淋しかったのでしょうか?

しかし須賀敦子の文章にはそんな遊びの話は一切書いていません。

知的に輝けば輝くほど淋しかったのです。遊べば遊ぶほど淋しかったのです。

彼女はその淋しさを描きませんでした。ただ読む人が感じるだけです。

須賀敦子はただ一つ、「こうちゃん」という童話を書きました。それは暗くて悲しいような童話です。彼女の心象風景を書いたものと私は感じています。

彼女が亡くなってから15年。もう忘れられた作家と思っていましたら文芸春秋、6月号に高樹のぶ子さんがその文章の魅力を書いていました。同感です。嬉しくなって私の感じ方も書いてみました。

下に、夫と共にイタリアの古い建物の前に立っている彼女の写真を示します。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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出典は、http://www.google.co.jp/search?q=%E9%A0%88%E8%B3%80%E6%95%A6%E5%AD%90&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=OfifUcakFOeoiAfvr4HoCg&sqi=2&ved=0CEEQsAQ&biw=831&bih=495#facrc=_&imgrc=yu_rB17u83KNdM%3A%3BIIAEW3aXIkVxCM%3Bhttp%253A%252F%252Fpweb.sophia.ac.jp%252Fs-yamaoka%252Fsuga-bep.jpg%3Bhttp%253A%252F%252Fpweb.sophia.ac.jp%252Fs-yamaoka%252Fsub16.htm%3B389%3B393です。


富士五湖の河口湖だけいきなり水位が4mも下がった!

2013年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム

今年の3月4日から5日にかけて河口湖の水位だけがいきなり4mも下がったのです。他の本栖湖、精進湖、西湖、山中湖の水位は変化していません。不思議な自然現象です。

水に囲まれていた六角堂が陸続きになり、そこが新たな観光名所になっています。

先日、北杜市の森の中の小屋に泊まったとき、帰りに河口湖に寄って写真を撮って来ました。

確かに陸地が続いていて多くの観光客が楽しそうに歩いています。

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水位の下がる前の風景を下に示します。

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河口湖は浅い所と深い所があります。

下の写真のように浅いところは水底の溶岩が水面の上に出たり、砂浜が広くなり風景が変わっていました。

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所で何故、河口湖だけの水位が変わったのでしょうか?下は富士五湖の水面の標高と湖底湖の様子を示す図です。

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この図の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/aki_setura2003/30669945.html です。

この図をよく見ると面白いことに気がつきます。

西湖、精進湖、本栖湖の水面は標高902mと全く同じです。ゴロゴロの溶岩で底がつながっていて水面の高さが一定しています。そしてこの3湖の底には「せの湖地下水湖」が共通に存在しています。

河口湖の水面は標高830mで一番低いのです。そして流れ出す川が存在していません。

一方山口湖は標高982mで、そこから桂川が流れ出ています。その川が通過する忍野八海の標高は936mです。そこを通った桂川は北流し、大月市で笹子川と合流し、相模湖に注ぎます。川が流れ出ている山中湖と忍野八海の水位はあまり変わりません。

ところで本栖湖、精進湖、そして西湖の水位は何故一定なのでしょうか?

それは東京電力が西湖から取水し、水力発電をして河口湖へ放水しているからです。下に西湖側の取水口の写真を示します。

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そして下は河口湖側にある発電用の圧力管です。

写真の出典はhttp://www.suiryoku.com/gallery/yamanasi/saiko/saiko.htmlです。

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写真の出典はhttp://blogs.yahoo.co.jp/wassi_3/55071599.htmlです。

西湖から水を供給しても水位が急に下がったのは河口湖地下水湖に異変が起きたとしか想像できません。雪解け水が少なすぎて地下水湖の水位が下がったのかも知れません。

このように、河口湖だけが「溜まり水」なので、水位は毎年、季節によって変わります。それにしても今年の大きな水位低下は近年に無い異常な自然現象です。

しかしその真の原因は追究の仕方がないのです。原因を簡単に考えて勝手に言いだすのは慎むべきです。この現象を心静かに、あるがままに受け入れるのが賢い対応です。(終わり)


村山談話と河野談話の良し悪を簡単に言ってしまいます。

2013年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム

個人的な立場では村山さんも河野さんも良心的な善い人間のように見えます。

同じアジア人の心の奥に訴える感動的な談話です。その結果、多くのアジア人の心に少しばかりの平安を与えました。これが良い点です。

しかし冷酷な国際政政治の舞台ではこの良心的な談話が外交交渉において相手国を有利にするという人々も沢山います。

例えば、インドネシアを植民地として搾取してきたオランダは、そのことをインドネシアの執拗な要求にもかかわらず絶対に謝罪しません。日本もそのようにすべきという人も多いのです。

しかし日本の朝鮮併合の結果で起きた悲劇や中国侵入で起きたもろもろの悲劇は同じアジア人同士としては謝罪した方が良いと信じている日本人もいるのです。

その方が外交交渉の上でも得だと判断している人もいます。

村山さんも河野さんも政治家としてその打算はあった筈です。

私自身は村山談話を支持します。河野談話はあまりにも具体的過ぎて日本の名誉と国益を損なっている部分があると判断しています。

もう一度、両談話を熟読して見ましょう。

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村山内閣総理大臣談話

「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                                平成7年8月15日

 先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。

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慰安婦関係調査結果発表に関する
河野内閣官房長官談話
平成5年8月4日

 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。

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そして星山荘は全焼してしまった。

2013年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム

一昨日の午後、森の奥の小屋の庭で火を焚いて、ビールの会の準備をしていました。

突然、消防自動車のサイレンが鳴り響き、拡声器の有線放送が「火災が発生したので消防自動車が出動中です」と言っています。

この巨大な音を発する拡声器は1kmくらい離れた所にあります。緊急連絡用のものです。

昨年の冬には「熊が徘徊しています。充分気を付けて下さい」という注意が流れました。それ以来の緊急連絡です。

消防車のサイレンが長い間続きましたが、最後に「鎮火しましたからご安心下さい」と3回繰り返して終わりました。森にはいつもの静寂に戻りました。それにしても鎮火まで随分長い時間だったと思い、一体何処が火事になったかのか心配でした。

次の日、小屋を出発して里に下りてみると、何度も泊まったことのある「星山荘」が焼け落ちています。楽しい思い出の沢山詰まった宿が全焼して無くなってしまったのです。

1973年に小屋を作ってから40年間、美味しい食事のついた風呂のある民宿の星山荘に冬の間、何度も泊まったものです。別荘地の管理組合の懇親会も開きました。山小屋へ招待した客人たちにも泊まってもらいました。

その民宿は、肉牛飼育の名人で何度も肉牛協会から表彰されたご主人と、花の栽培が大好きな奥さんの2人だけでしていました。男の子が居ましたが都会にでも出てしまったのか会ったことはありません。

ただその子の読んだマンガの本やおもちゃが沢山残っていました。私の息子が泊まったときそれらで遊ばせて貰いました。

その息子の子供たち(孫たち)も、一家で泊まったこともあります。

家内と私にとっては楽しかった思い出の沢山詰まった宿だったのです。

ご主人と奥さんの安否が心配になり車を回して玄関先に停めました。消防車が2台停まっていて、ものものしい現場検証をしています。

「怪我人はありませんでしたか?」と近所の人に聞くと、

「ありませんでした。心配しなくて良いです」と確言します。

私も動顚していて、それ以上聞くことが出来ず、すぐに帰ってきました。親類の家にでも身を寄せていると信じています。

それにしても星山荘とはロマンチックで良い名前です。その近辺は小高い岡になっていて夜には満天の星空になるのです。

早く気を取り直してご主人と奥さんがまた「星山荘」を再建するように祈っています。

下に昨年の夏に撮った奥さんの花畑の写真をお送り致します。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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夜の森はこんなに真っ暗なのです!

2013年05月23日 | 写真

昨日は独りで山の小屋に泊まってきました。

夕方の明るいうちは、近所の山荘に独りで住み込んでいる木内正夫さんとバーベキューを食べながらビールを飲みました。

2人とも黙ってカエルの声を聞いていました。2種類の蛙の声が聞こえます。

モリアオガエルを飼育した経験のある木内さんが一種類はモリアオガエルの声のようだと言います。

カエルの声を楽しみながら飲みました。爽快な夕方の風が吹いていました。

暗くなりかけた時、木内さんが帰りました。

その後、焚火をしながら、次第に暗くなっていく森の様子を見ながら想い出にふけっていました。

すっかり暗くなってから梢の間から満月に近い丸い月が青白く見えました。

森がだんだんと暗くなって行く様子を示す写真を下にお送り致します。Img_7058

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これは焚火の写真です。この火の前に座って、森が次第に暗くなる光景を黙然と見ておりました。

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嫌いだった「温故知新」という言葉の意味が老境に至ってすきになった。

2013年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム

          「温故知新」

私が好きで無い言葉に温故知新というものがあります。古いことを知ると、新しいことが分かるという意味らしいです。

校長先生がこの額の前に立って、偉そうに長々と演説をする光景を思い出すからです。

大体、自分が生まれる前のことなど知るもんか!という感じで現役の時代を過ごして来ました。もっとも歴史小説や教養としての歴史書は沢山読みました。しかし興味本位の読み方でしたので現在の事と深く関連づけて考えることはありませんでした。

しかし仕事を辞めて、老境の心理状態になると、自分の生まれる前のことでも現在のことに深く関係していることが実感出来るようになったのです。驚きです。そして初めて「温故知新」が身近に感じられるようになったのです。

例えば日露戦争で勝ったので日本は道を誤り、真珠湾攻撃をして完膚無きまでに叩きのめされたのです。こういう文脈は老人になってから初めて真理だと感じることが出来ました。

もう一つ例を書きます。1549年にイエズス会のザビエルが日本へ初めてキリスト教を伝えました。1520年頃からマルチン・ルターによる宗教改革が始まりますが、まだまだ旧教であるカトリック宗派の勢力が大きかったのです。その上、当時の航海術はスペインが一番すぐれていたのです。従ってスペインのバスク地方のザビエル城出身のザビエルの持ってきたものはカトリックでした。

そのイエズス会の日本での活動はどうなっているのでしょうか?

江戸時代の禁教の後、明治時代になってイエズス会日本管区が出来たようです。そして明治末期の1906年にローマ法王、ピウス10世の指示で上智学院を開設し、後に上智大学になりました。イエズス会は現在日本に4つの学校を開設しています。そしてイエズス会の属する修道院が数ヶ所あります。

イエズス会日本管区の本部は東京の四谷駅前の上智大学の構内にあります。

このように1549年、ザビエルが日本に来たと言う古い話が、現在の上智大学へ深く関係しているのです。

しかしイエズス会が明治維新後、しばらくしてから日本で活動を始めたのは何故でしょうか?

それも歴史的に考えると簡単に解答がでるのです。カトリック教会組織の中でイエズス会男子修道会は一番大きな修道会で、ローマ法王の精鋭部隊とも言われています。その本部はイタリアのローマにあるのです。

江戸末期に日本の開国を迫った国はアメリカ、イギリス、ロシア、フランスなどでした。イタリアは後発国だったのです。

幕末から入ってきたキリスト教諸派はアメリカのプロテスタント宗派、イギリスの聖公会、ロシア正教、などが有力でした。フランスのカトリックも長崎に教会を建て、隠れキリシタンと再会したのです。日本のカトリック組織はその後もフランスのカトリック教会の指導を受けていたのです。

アメリカ、イギリス、ロシア、フランスの国力の発展の歴史を知ると日本の現在のキリスト教の勢力分布が理解できるのです。勢力分布は俗っぽい考えで、信仰生活の上では重要ではありません。しかし古いことを、少し歴史的に考えると簡単に現在のことが分かるのです。まさしく温故知新ですね。

これこそ老境の知恵です。幸せです。以上は愚かな自分個人の体験です。知的に優れた方々は若い時から温故知新を実践していることと思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

=下の写真は国立天文台の旧図書館です。古い本や記録が沢山蒐集保存してありました。=

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日本維新の会の橋下共同代表の限界が見えてしまった・・・朴槿恵大統領と比較すれば明らか

2013年05月22日 | 日記・エッセイ・コラム

日本維新の会の橋下共同代表の最近の発言の結果、その党の支持者数が減少し、「みんなの党」も連携を解消しました。

さんざん発言を訂正しましたが、次の2点は歴史的発言として人々の心の中に焼き付いてしまったのです。

(1)軍隊にとっては従軍慰安婦が必要だ。

(2)同じようなことはアメリカをはじめ世界の国々がしていることなので日本だけが非難されるのは不公平だ。

上の(1)は全ての女性を侮辱したような結果になります。橋下さんの政治的支持者を半減させます。橋下さんは品性が無さ過ぎます。

そして慰安婦に会うこともなく特攻隊として散っていった人々や、慰安婦もいない南海の孤島で玉砕していった人々の名誉を傷つける非道い発言なのです。その事に気がついていないのです。浅慮です。

(2)は橋下さんの国際感覚の欠如を示しています。日米同盟の重要さを無視して、不用意にアメリカを傷つけてしまったのです。

その上、日本だけが非難されるのは何故か、深く考えていないことです。

そんなこんなを考えながら隣の国の朴槿恵大統領と比較すると橋下さんの思慮の足りなさが明快なります。

Geun_hye_park1 彼女は「従軍慰安婦」という言葉を一度も使っていません。

それを使うことが全ての女性に不快感を与えることを知っています。それ以上に自分が不愉快になるのです。彼女は品性の高い人です。

そして歴史認識では、韓国が被害者で、日本が加害者であったことだけを強調します。

いわゆる朝鮮人の強制連行や慰安婦狩りという具体的な言葉を絶対に使いません。

韓国が被害者で、日本が加害者であったことだけを言われれば日本人はグウの音も出ません。いくら朝鮮の惨状を救ったのが日本だったと抗弁しても、それは心ある日本人には、むなしく響きます。

彼女は日本が韓国へ永久に謝るべきと主張します。

そんな発言をせざるを得ない立場に彼女は悲しい想いをしているに違いありません。韓国の聖心女学校を卒業していますから、イエス様の「許せ。許せ。七の七たび許せ!」という言葉を知っている筈です。

彼女は父親の朴正煕元大統領の軍事クーデターや大統領時代の弾圧によって命を落とした人々の遺族に対して心からの謝罪をしているのです。

最後に朴大統領の「北東アジア列車フェリー構想」を簡略に説明すと彼女の国際感覚のバランス感覚の良さが分かります。

東京を起点にして列車が博多まで行き、そこからフェリーで釜山に渡り、韓国を縦断して、またフェリーで中国へ渡るのです。その後は中国を横断して、ロシア、中央アジアまで行き、最後はヨーロッパまで連結するという構想です。

実際には鉄道の軌道の幅が違うので、これは実現出来ません。しかし日本、韓国、ロシア、中央アジア、インド、中近東、ヨーロッパなどのあいだでもっともっと、人間の交流を進めるべきと言っているのです。物流も増大すべきと言っているのです。残念ながら北朝鮮だけは除外されていますが。

如何でしょうか?橋下さんにはそのような構想があるのでしょうか?

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


年寄りの冷や水・・・無理して城山の尾根まで登ってきました

2013年05月21日 | 写真

先日、裏高尾の城山へ登ったら脚力減退で頂上まで行けませんでした。

次回は頂上まで登るために、今日の午後は脚の訓練のために城山の尾根まで登り、向こう側の相模湖を見て降りてきました。

その尾根まで登り55分、下り50分でした。そこから頂上までは15分の行程なので、午前中に家を出れば楽に頂上まで行けることが分かりました。

無理に登ったのでいささか年寄りの冷や水のような感じがしました。今日撮った写真です。

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ボンヤリですが相模湖が写っています。

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上も下も登山道に咲いていた花です。

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何となく神秘的な木なので撮った写真です。しかし写真で見るとつまらない光景ですね。

(終り)


少しだけ幸せになれる5つの方法・・・気分だけですが。

2013年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム

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本当の幸福なんて私は知りません。でも少しだけ幸せな気分になる方法なら5つほど知っています。この文章を読んでいるあいだだけ幸せになれます。後のことは保証の限りではありません。

(1)喧嘩の相手を許し謝る。

一例は夫婦喧嘩です。相手が無理無体なことを言うから喧嘩になります。しかし相手の考え方ではその無理無体が当然の正義なのです。

「悪うございました。すべて私が悪いのです」と謝ってしまえば、その瞬間、謝っている自分が幸せになれます。

無理に謝るのが難しいときは「今は謝るが、いつか必ず復讐してやる」と決心すれば謝れます。言葉の上だけでも謝れば、幸せな気分になれます。言葉が大切なのです。

(2)七の七たび(49回)復讐してやると声を出して独り言を言う。

復讐心の強い私は何時もこれを実行しています。声を出して言うと不思議に復讐が馬鹿らしくなるのです。どんな場合も馬鹿らしくなるわけではありませんが、夫婦喧嘩の場合は例外なく馬鹿らしくなります。すると心が平安になり小さな幸せを感じます。

(3)落ち込んだら幸せな気分になれた場面のことを思い出す。

不幸な感じが心に湧いてきたときは、自分の過去で幸せな気分になれた場面のことを思い出すのです。

例えば若い頃、上の写真のような真紅のバラの花束を妻へ贈ったときの場面を思い出します。

あるいは下の写真のようにハウステンボスで内装の綺麗な船で運河めぐりをしたときの楽しい場面を思い出すのです。

幸せな場面の思い出はどんな不幸な人にも必ずあります。生きて来た限り必ずあるのです。

その幸せな気分になった場面を思い出したら不幸な現在も幸せになります。少なくとも気分だけは強くなれます。

(4)不幸を感じたら、その原因を分析し、追求しないことです。

よく過去は忘れなさい。将来のことだけを考えなさい。そんな言葉があります。この言葉の実行する具体的な方法が、「不幸を感じたら、その原因を分析し、追求しない」ことです。

自分が不幸になったのは悪妻のせいだ。子供が問題児だから自分は不幸だ。あるいは職場の上司が悪い奴なので自分は不幸だ。生まれつき自分のルックスが悪いから一生不幸だ。このように不幸な原因は数限りあります。

自分が不幸になった原因を分析し、考察して行くとかならず自分以外の人を悪人にせざるを得ません。その他人をあなたは恨みます。恨んでいるかぎり心の平安はありません。ですから心の中から恨みを完全に取り除くためには自分の不幸の原因を考えないことが鉄則です。

(5)自分が家族と友人から愛されていると声を出して独り言を言う。

子供が遠方に住んでいてめったに会いに来ない。可愛かった孫達が部活が忙しくなって姿が見えなくなった。妻が年のせいか夫婦愛が冷たくなったようだ。遠方に住んでいる友人たちから手紙も来ない。

どうも自分は誰からも愛されていないと感じるのが老境の特徴かも知れません。

そんな時には、「自分は家族や友人の全てから愛されている」と声を出して独り言を言うのです。すると幸せな気分になれます。この文章を書いている私はこの瞬間本当に幸です。

最後に2つの重要なことをかきます。

上のように気楽なことばかり書くと「それでは生まれつき貧しかったり、ハンディキャップを持って生まれたきた人々はどうすれば良いのか?」という質問が必ず出ます。

そいう境遇に生まれたことは重大な不幸に違いありません。それは私も認めます。しかしそんな境遇でも上に書いた5つの方法は必ずや役に立つと私自身は信じています。

もう一つは喧嘩の相手や不幸の原因を作っている相手を中国や韓国と置き換えて考えて見ましょう。人々は平和を願っています。世界の平和を願っています。その願いを実現する方法が上に書いた方法です。中国や韓国に対して許す、復讐しない、恨まない、日本の不幸の原因になっていない、愛されている、と声を出して独り言を言うことが世界平和の実現の第一歩なのです。少なくとも私はそのように信じています。

最後に蛇足を一つ。これを読む家内は吹き出してししまうでしょう。私が書いてある通り実行していないからです。しかし十分の一くらいは実行しています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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キラキラ輝いて魅力的な方が遺したジャーマン・アイリスが今年も咲きました

2013年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム

40年余、お付き合いのあった近所の老婦人が2011年の11月に、92歳で旅立って行きました。最後までキラキラ輝いていて魅力的な方でした。

そのご婦人から10年位前に頂いたジャーマン・アイリスが、今年も上品な色合いの花を咲かせました。

その花を見ると彼女のことが思い出されます。

女性が年をとっても美しく輝くのは何故かと考えさせる方でした。

自宅から出棺のとき、その美しいお顔の周りに家内と一緒に沢山の花々を入れた事を思い出します。

どんな女性でも老いれば容色が衰えます。しかし美しい、女らしい精神の灯を燃やし続ければ何時までも魅力的な女性でいられるのです。

彼女とは、庭に咲く花を通しての軽い挨拶からお付き合いが始まりました。

家内の文学の会に30年余も通っていました。家内は知的で上品なその方が大好きのようでした。私は家内の話を通して彼女をとても親しく感じていました。

よく旅行に行ってはおみやげを私の家へ届けてくれました。私が玄関に出ると綺麗な、丁寧な言葉で話します。

帰ったあといつもああ、美しい女(ひと)と話が出来て良かったと思ったものです。電話にたまたま私が出ると、優しく挨拶します。80歳以上になっても声の美しい方でした。少女のような恥じらいの気持ちを持つていました。

いつまでも好奇心が強く美術関係の展覧会や音楽会へ出かけるのです。和服も洋服もお洒落に着こなし、挙措の美しい方です。本をよく読み、国内外の旅行もよくします。

自宅の庭には花々を絶やしません。その花々の中からジャーマン・アイリスの株を分けて下さったのです。

知り合ってすぐに、家内と何度か自宅へ招んでくれたのでご主人とも話し合ったことがあります。物静かで思慮深い感じの方でした。しかし数年後に亡くなってしまいました。

彼女は西日本のある町の大きな酒蔵のお嬢さんとして育ちました。ご主人との間には一人娘がいて、孫娘が2人、ひ孫が6人います。良い家族に囲まれていつもやさしく微笑していました。

その彼女が、2011年の秋に亡くなり、近所が急に淋しくなりました。

今日は頂いたジャーマン・アイリスの今年の花の写真をお供えしてご冥福をお祈り致します。どうぞ安らかにおやすみください。近所の私も、家内とともに時々お祈りいたしております。

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テレサテン(鄧麗君)の中国大陸での復活と抗日ドラマの氾濫

2013年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム

200812819721 アジア全域で愛されたテレサ・テンは1953年生まれで、1995年に42歳の若さで亡くなりました。

福建語、広東語、北京語に加ええて日本語、英語、フランス語、マレー語が堪能で、その甘い声と抜群の歌唱力でアジア全域で人気を博したのです。

日本でも何度もレコード大賞をとりました。「時の流れに身をまかせ」という歌を覚えている人も多いと思います。

私は以前から彼女に興味を持っていました。中国共産党と激しく対立する台湾の国民党側に立って台湾側の宣伝活動をしていたからです。

台湾の軍隊の慰問活動を盛んにしていていました。

中国政府は1980年代になると彼女の歌を発売禁止にして大陸からは締め出したのです。そして1989年の天安門弾圧事件を非難した彼女へ対して、中国政府は激しく反発したのです。彼女の歌の取り締まりを一段と厳しくしたのです。

ところが昨日、北京で彼女の生誕60周年記念コンサート大会が大々的に開催され、中国大陸での復活を北京政府が認めたのです。めでたいことです。

この記念コンサート大会では香港の人気歌手も参加して、悲劇的なラブロマンスを歌った「何日君再来」なども公演されたのです。「何日君再来」の歌詞を丁寧に読んでみると、その内容は戦争とは直接関係のない男女の別れの悲なしさを歌ったものです。

テレサテンはカトリックでテレサはよくある洗礼名です。マザー・テレサと同じ洗礼名なのです。当然、共産主義はいけないと思っていたに違いありません。

それはそれとして、中国大陸では昔から抗日映画や抗日ドラマが常に人気がありました。

中国共産党は日本軍を撃破して、大陸を統一したおかげで現在の繁栄があるという歴史を宣伝します。それだけが共産党独裁を正当化する唯一の根拠なのです。ですから共産党独裁が続くかぎり中国のテレビには抗日ドラマが氾濫するのです。

私が中国へ何度も行った1980年代は熱烈日中友好の時代でした。しかし通り過ぎる映画館では必ずのように抗日映画の大きな看板が出ていました。

私を大歓迎してくれた北京鋼鉄学院の周栄章教授に苦言を呈すると、あれは単なる娯楽映画だから気にするなと笑っていました。

考えてみると中国共産党が戦争をして完全に勝利したものは抗日戦争しかありません。そして私も含めて人間の男は戦争映画が好きなのです。ですから中国で戦争映画は抗日映画やドラマが氾濫するのです。

戦後、我々はアメリカの西部劇映画を見て楽しんだものです。その多くは白人が獰猛なアメリカ原住民(当時はインディアンと呼んでいましたが)をバンバン打ち殺す内容でした。しかし私はインディアンを憎みませんでした。娯楽映画は所詮そんなものです。

ですから中国のテレビに抗日ドラマが氾濫しても一切気にしないことが重要です。一切無視です。気にすると喜ぶのは中国共産党です。自分たちの独裁の正当化が日本や外国へも宣伝できるのですから喜ぶ筈です。

それにしても年から年中、程度の悪い抗日ドラマばかり見せられている中国人が可哀想に思われます。

いくら娯楽だといってもそれは低俗すぎる文化ではないでしょうか。

それに比較するとアメリカの戦争映画の中には、深く考えさせる立派な内容の戦争映画があります。

中国は経済が発展しても困った国です。ですからこそ昨日のテレサ・テンの北京での生誕60周年記念コンサートは明るいニュースと思います。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


裏高尾の城山の山道に咲いていた可憐な花々

2013年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム

5月6日に裏高尾の城山頂上へ登りました。その帰りの道端に咲いていた可憐な花々の写真をお送りいたします。

栽培種でない花も素朴で美しいものです。お楽しみ下さい。

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関連記事です:無駄な時間を過ごす老境の安逸と淋しさ(5)高尾山裏の城山頂上へ登って来ました


画家ジョルジュ・ルオーの心の中のキリスト

2013年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム

最初から個人的な思い出を書い恐縮ですが、私がルオーの絵に出会ったのは本郷にあったルオーという名前の喫茶店でした。薄暗い壁にステンドグラスを歪めた様な暗い印象の絵が数枚かけてあったのです。1962年の晩秋の頃でした。

当時、私は本郷の大学に勤めていました。そこでガラス細工を担当していた技官の井上安太郎さんがこのルオーという店へ何度もつれて行ってくれたのです。ランチのカレーライスが美味しい店でした。

彼は私の実験装置を作ってくれ、何かにつけて親切にしてくれました。

井上さんはもう何年も前に亡くなりましたが、絵が好きで、カレーライスも好きでした。

そんなとりとめもない事を思い出しながら先日、清春白樺美術館で多数のルオーの絵画を見ました。美術館の隣にはルオー記念礼拝堂があるのです。

白樺派の人々がルオーを尊敬し、日本へ紹介したのです。

ルオーは数多くのキリストの絵、そして聖書にまつわる話を絵に描きました。

画家ジョルジュ・ルオーの心の中のキリストはどんなイエス様だったのでしょうか?

そのことを考えながら清春白樺美術館のルオーの絵とルオー礼拝堂の写真をお送りいたします。

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上が谷口吉郎設計の清春白樺美術館で、下のようなルオーの絵画も多数展示されています。

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下の写真はルオー記念礼拝堂で、ここにもルオーの絵画が展示されています。

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下の写真の上の方に示したように、彼の次女が作ったステンド・グラスの窓もついています。

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それはそれとして、今日は日曜日なのでこれからミサに出て、

皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

=====関連資料===================

大正ロマンとは何ですか?白樺派とは何ですか?・・・山梨県の清春白樺美術館へ行けば分かる

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%AA%E3%83%BC

http://journal.seijo.ac.jp/gslit/student/art/pdf/art-017-03.pdf