後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

面白い、そして考えさせる今日の国際ニュースのいろいろ

2013年05月18日 | 日記・エッセイ・コラム

国際ニュースだけを集めている新聞のページを国際面と言うらしいです。

世界中で起きているいろいろな出来事が出ているので大変面白いのです。雑多な断片的な報道が多いのでいろいろ考えさせられます。

例えば今朝の読売新聞の国際面から興味あるニュースを数件ご紹介し、私の感想を書いて見ます。

(1)飯島氏の北朝鮮訪問にアメリカが不快感を表明している。

はっきり言えばアメリカと韓国政府がカンカンに怒っているのです。

中国政府は日本の動きを支持しているのです。

怒る気持ちが痛いほど分かります。

北朝鮮のミサイル発射準備や核兵器開発で怒ったアメリカと韓国が北朝鮮を厳しく封じ込め、経済制裁をしている最中に日本だけが拉致問題解決のために訪問し、北朝鮮と取引をしているのです。それも事前にその外交交渉をアメリカや韓国へ説明もしなかったのです。

この安倍総理のやりかたは安保体制にヒビを入れる外交上の失点です。

国内の経済成長で成功し、アベノミクスなどともてはやされて安倍さんは少しいい気になり過ぎています。外交というものは世界の国々に影響を与える複雑なものなのです。どうも安倍さんは必要も無く歴史問題で中国や韓国を感情的にさせたりしてきたので、外交が強気過ぎると言うのが私の感想です。

(2)日本維新の会の橋下共同代表の慰安婦に関する発言。

それは国際的な観点から考えると絶対に言ってはいけない事です。橋下さんは以前から国際感覚が欠如していると危惧していました。今回もその欠点が出てしまったと言うのが私の感想です。

日本の地方自治体へもっと権力を与えよという狭い視点を、脱却すべきなのです。困ったものです。

(3)シリアの反政府勢力へアメリカが巨大なトラックを援助。

アメリカが武器にしたいのです。しかし政府軍へロシアが武器援助をしているのでアメリカが同じことをすれば冷戦時代の代理戦争になってしまいます。

そこで恐る恐るトラックや防弾チョッキを贈ったが、反政府軍はガソリンを使い過ぎるトラックは使えないし、防弾チョッキも重すぎて動けないと怒っているという報道です。

シリアはもう長い間、政府軍と反政府軍が激しい戦争を続行しているのです。双方へ武器を援助している国々があって実に厄介な状態になっています。

解決の糸口も無い大規模な戦争なのです。日本はシリアの反政府軍を支援すべき立場ですが、アラブ諸国を怒らせないために何もしないのが得策のようです。

(4)ヨーロッパの会社がバングラデシュの縫製工場のビルを強化をする。

バングラデッシュの縫製賃金は中国の六分の一と言います。ですからヨーロッパのアパレル会社はみなバングラデシュで縫製をしています。

しかし最近その縫製工場のビルが倒壊して多数の「お針子さんたち」が犠牲になったのです。

そこで欧米のアパレル会社がお金を出し合ってバングラデシュの縫製工場のビルを検査し、倒壊の危険があるビルを強化するということを申合せたというニュースです。

大変良いニュースです。それにしてもお針子さんの賃金が中国の六分の一とは暗澹たる気分になります。これは感想ですが。

(5)オバマ大統領が3件の不祥事で頭痛。

昨年、ロビアの米公使館がテロで襲われ4人が殺されました。襲撃の危険性を知っていながら防止できなかったのです。その事実を隠ぺいすしたという不祥事です。

内閣の歳入庁が特定の団体だけを免税にしたという不祥事です。

そして3つ目はAP通信社の記者から、国家機密法にふれる文書を強制的に押収したという不祥事です。

いずれもアメリカの国内問題です。問題は沈静化すると思います。

それはそれとして、黒人のオバマさんが大統領になって二期目、5年になります。失敗の少ない実に有能な大統領で、黒人の地位を非常に高めました。世界中の黒人が以前より尊敬されるようになったのです。

これは人類の歴史に残る絶大な功績です。

リンカーン大統領の黒人奴隷解放から幾星霜、実に感動的な出来事と思います。

オバマさんは2期、8年間の任期をアメリカの名大統領として全うするものと信じています。

そんなことを考えさせる今朝の新聞の国際版でした。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


中国や韓国を許し、友好関係を作るのが日本のためになるのでは?

2013年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム

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一昨日、上下の写真のような山梨県の山郷を散策しながら考えたことです。

尖閣諸島を中国は自分の領土と言っていましたが、沖縄県まで日本の領土ではないと言いだしました。

琉球は清へ朝貢していた独立王国だったのだから明治維新で日本が併合したのは不当なことだと言いだしたのです。

一方、韓国は、日本の閣僚達と国会議員が集団で靖国神社を参拝して以来、日本政府が正しい歴史認識を持っていないと厳しい非難を繰り返しています。

今や日本人の大部分は中国や韓国を絶対に許せないと怒っています。こんな無理無体なことを次から次に言い出す国とは絶交すべしと言いだす人も多いのです。

しかし私はやっぱり書いてしまいます。

許せ、赦せ、中国と韓国を。何を言っても許せ!と言いたいのです。

感情的に怒るより、許して自分の心の平安を得たほうがとくなのです。

謝れと要求する人間より、許す人間性のほうが立派なのです。許す人間の方が上位に立っているのです。

相手が永久に謝れと言うなら、永久に謝れば良いのです。

このように書くとお前は国賊だと言う人が必ずいます。

しかし日本人が中国人や韓国人より人格的に上位になれば、他の国々の人が日本人を尊敬します。国際的に展開している日本のビジネスがやりやすくなります。

こうして国益が守られるのです。私は日本人が立派な民族だと信じている愛国者なのです。

中国や韓国へ謝れば賠償金を取られ、領土をかすめ取られると言いつのる人もいます。

私は謝っても賠償金は払うべきでないと思っています。相手の人格へ訴えるような謝り方をすべきなのです。

彼等は自分たちが何をしているか分からないのです。そのうち気がついて彼等が赤面するような謝り方をすべきなのです。

兎に角、日本人が感情的になればなるほど日本の国益を損なうのです。

日本人はもっともっと大らかな大人物なのです。

株価も上昇し、経済的にも豊かになります。

中国と韓国と友好関係を築くのはお金の為もありますが、世界中から尊敬される為にも非常に重要なことと私は信じています。

このように書くと、少なくとも私自身は幸せな気分になります。これも「許す」という「ことだま」の力なのです。

皆様のご意見を頂ければ嬉しく思います。(終わり)

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大正ロマンとは何ですか?白樺派とは何ですか?・・・山梨県の清春白樺美術館へ行けば分かる

2013年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム

大正ロマンといえば竹久夢二のいささか悲しげな美人画を連想する人もいるでしょう。あるいは大正ロマンの香り漂う銀山温泉を思い出す方もいるでしょう?

こういう曖昧な言葉は日本語に沢山あって困ります。困りながらも何故か優美な楽しそうな雰囲気があります。

大正ロマンや白樺派を簡単に言ってしまえば明治維新以後の富国強兵の社会にほんの一時期その緊張がほどけ、文化的な雰囲気が社会に流れた社会現象と言えます。

日清戦に勝ち、日露戦争でロシアを破り、第一次世界大戦では戦勝国側についた日本が一息つけたのが1912年から1926年の大正時代です。

戦勝気分で、気持ちの上に余裕の出来た人々が芸術を愛したり、あるいは銀山温泉のような所で享楽的な楽しみををしたのです。

しかしその一方で東北地方の農村は冷害で苦しみ、都市の労働者は夜遅くまでの重労働にあえいでいたのです。

そんな頃、学習院の卒業生たちが「白樺」という同人雑誌を作ったのです。

武者小路実篤、志賀直哉、里見弴、有島武郎や長与善郎などが、人間賛歌,理想主義、楽天主義の作品を発表したのです。またロダン、セザンヌやゴッホ、ゴーギャンなどの西洋の美術を賛美し、日本へ紹介したのです。

それに賛同した梅原龍三郎、岸田劉生、中川一政などの画家が「白樺」の装丁をしたり、文章を寄稿したりして協力しました。

このように「白樺」を中心にして集まった作家や画家の一派を白樺派と言います。

彼等の良い点は何と言っても人間の自由、個人の尊厳、そして平等などを歌い上げたことにあります。現在の日本の民主主義へつながる考え方を提示したことは大いに評価すべきでしょう。

しかし悪い点は、彼等がみな学習院出の上流階級だったことです。実社会の苦しみを知らずして理想だけを振り回していたことです。その理想主義の声は、苦しい生活を強いられたいた大多数の人々の耳には届かなかったのです。

そんな時代の白樺派の絵画や雑誌、「白樺」を展示している美術館が山梨県の北杜市の清春白樺美術館なのです。

銀座の吉井画廊の社長の吉井長三氏が1983年に作ったのです。谷口吉郎氏の設計した瀟洒な建築です。

吉井氏は梅原龍三郎、岸田劉生、中川一政などと親交が深かったので自然にそういう流れになったででしょう。そして吉井氏はルオーの宗教画が好きだったらしく実に多数のルオーの絵画が展示してあります。

この清春白樺美術館は小生の山の小屋の近辺にあるので何度も訪問しています。美術館に併設してあるパレットというレストランが良い雰囲気で、美味しいカレーを出すので時々昼食に寄ります。

昨日もこの美術館に行って来たので写真をお送りします。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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この絵は高村光太郎の妻の智恵子の「樟」の絵です。智恵子は若くして亡くなり、光太郎がその妻へ捧げる「智恵子抄」という詩集を書いたのです。智恵子の切り絵の作品も展示してありますが、油彩はこの一点だけです。

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・下の写真は「ルオー礼拝堂」と呼ばれています。

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ルオーの次女の協力で吉井氏が作った礼拝堂です。中に入るとルオーの絵画や次女の作ったステンドグラスがあります。

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そして古いパイプオルガンが自動演奏しています。入ると自然に祈りを捧げてしまいます。


森の奥の小屋に一泊してきました

2013年05月16日 | 写真

山梨県の甲斐駒岳山麓の森の奥にある小屋に家内と一泊してきました。

中央高速道路の両側の山々には藤の花や白いアカシヤの花が咲いていました。

しかし小屋の近辺は深い緑一色です。ハル蝉が鳴き、コジュケイが美しい声で唄っていました。

例のように夕方は小川のほとりで、小規模なバーベキューをしながらビールをゆっくり飲みました。

深い森の夜は漆黒の闇で、梢の間から細い月が青白く光っていました。

気温が上がったので薪ストーブは焚きませんでした。

昨日撮った写真です。森のお好きな方へお送りいたします。

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富士山と河口湖の写真をお楽しみください

2013年05月16日 | 日記・エッセイ・コラム

中央高速道路が河口湖出口に近づいたところから見上げた富士山です。

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インターを出て富士急ハイランドホテル前から見た富士山です。

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昼食を摂った富士ビューホテルの庭の林の向こうに河口湖を見た風景です。

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富士ビューホテル下の周遊道路から見た河口湖です。

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最後は富士ビューホテルの玄関前の新緑が綺麗だったので撮った写真です。

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小さな旅は河口湖から西湖へ抜けて、青木ヶ原樹海を横断し、本栖湖へ行く旅でした。2012年の5月のある日の小さな旅でした。

新緑の本栖湖の周遊道路を1時間かけてゆっくりドライブして帰ってきました。

人影の少ない静かな湖の回りを散策して元気になったような気分でした。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。


キリスト教を信じている人と信じていない人の違い

2013年05月16日 | 日記・エッセイ・コラム

私達の周りには仏教的な習慣が沢山あります。ですから日本は仏教国です。しかし人々へ仏教徒ですか?と聞くと、違います。私は無宗教ですと答えます。でもしかし日本は仏教国なのです。外国へ出て、そこから見ると仏教国に見えます。

キリスト教の信者とそうでない人の違いはあまりありません。信者になると人格円満になるというのは真っ赤なウソです(これは私に限ったことですが、、、)。

信仰を持っていなくても高潔で、人格が良く、誰にでも優しい人が多くいます。

それでは信者と信者でない人の違いを判断できるものはあるのでしょうか?

福音書ではイエスが起こした奇蹟のことが書いてあります。

12年も出血が止まらないで困っていた女の病を一瞬のうちに治してしまったのです。もう一つは息絶え、死んだ少女を、「少女を、起て!」と命じて生き返らせた奇蹟です。

この奇蹟を信じますか?と、信者に聞いてみます。「信じています」とか「信じようとしています」という具合に肯定的な返事があれば信者と判定してほぼ間違いがありません。信者でない人は奇蹟に関心も有りませんし、もちろん100%信じでいません。

カトリック信者と自称している私は半信半疑です。本当に起きたことと思うときもあるし、偶然治ったと思う時もあります。しかし一瞬でも信じたのなら信者と判定してよいのです。

ダーウインの種の起源も真理なら、旧約聖書の創世記も真理なのです。節操がないと目くじら立てるから人間の間に争いや戦争が起きるのです。

マルコの福音書にはイエスと弟子たちの人間らしい会話も書いてあります。

出血の病に苦しんでいた女は群衆の混雑にまぎれてイエスの後ろから服の裾に触ります。そうすれば病が治ると信じていたからです。イエスが振り向いて、「私の服に触ったのは誰だ?」と聞きます。

弟子達はイエスが怒っていると誤解して、なだめます。こんなに群衆がひしめいているのですから、触ったくらいで怒らないでください!と。

しかしイエスは触った女の病を治して上げたかっただけでした。前に回ってひれ伏した女に、「貴方の信仰があなたを救った。安心なさい。もうその病気は治ります。元気に暮らしなさい」と言ったのです。

キリスト教の聖書にはこのような弟子たちとキリストの、実際にあったような人間的な会話が沢山出てきます。ですから分かりやすいのです。そして面白い読み物になっています。

宴会の場合、お客が酔う前は良い葡萄酒を出して、酔ってきたら悪い葡萄酒を出すという文章もあります。2000年前の人間が現在の私達と同じことをしていると思うと途端に親近感が湧いてきます。

そうして奇蹟の紹介があります。ですから私は半信半疑ながら全ての奇蹟物語を信じています。私の場合は一つの例でしかありません。もっともっと立派な信者が沢山居ます。

しかし、キリスト教のことを書く以上は、真実の知識を提供すべきと思います。恥ずかしいからといって事実を曲げて書くのはいけないと思っています。多少でもご参考になれば嬉しく思います。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


こういう奥深い森の中へ行ったことがありますでしょうか?

2013年05月15日 | 写真

自分の山の小屋へ時々行きますが、行く度に凄い森林の奥にあるものだと感心しています。林の奥へ悪路をゆっくり車で登りながら、何故か怖くなります。

人間は大自然に囲まれると恐怖感を感じるのでしょうか?

根気よく登って行く悪路の写真を示します。

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車を傷つけないように慎重に運転して行きます。ハルセミの鳴き声が車を包みます。

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山道を登って行くと、時々、天井が抜けたように美しい蒼空が樹間に見えます。

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自分の質素な小屋に着くと庭を流れる小川が10年、30年たっても全然変わらずに美しい木霊を響かせて流れ下っています。

この写真は数年前に作った写真の上の方に黒く写っている魚道が相変わらず役目を果たしている様子を示しています。

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大東亜戦争で日本が失った膨大な人命、広大な領土、そして巨額の財産

2013年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム

この数日にわたって、第二次世界大戦の戦争犠牲者数に関して以下のような連載記事を4回掲載してきました。

その記事は以下の通りです。

「我が家のホームページ」第二次世界大戦等の戦争犠牲者数(1)第二次世界大戦での主な国の犠牲者数

「我が家のホームページ」第二次世界大戦等の戦争犠牲者数(2)日本国による賠償並びに戦後処理

「我が家のホームページ」第二次世界大戦等の戦争犠牲者数の紹介(3)地域別の戦没者数と日本が獲得した資源

「我が家のホームページ」第二次世界大戦等の戦争犠牲者数(4)日本人戦没者の113万柱の未帰還遺骨

上のような記録をご紹介した目的は日本が如何に巨大な損失をしたかという事実を皆様へ再度訴えて、平和の重要性を強調したいと思ったからです。

敗戦後から68年が経過して世代も2代、3代と交代すると、とかく戦争の悲劇を忘れがちになるのが人間です。それは自然なことです。しかし戦争の深い意味での怖さは何度強調してもし切れません。そして平和の重要性を何度も確認して行くべきと思います。そうする事こそ平和を維持する最良の方法と私は信じています。

先の大東亜戦争で日本の犠牲者は300万人という膨大な人数でした。日本が攻め込んだ中国では1000万人が犠牲になったと日本の中学校の教科書に記載されちます。

失ったものは人命だけではありませんでした。広大な満州、南樺太、台湾、朝鮮半島、そして南太平洋の日本の委任統治下にあった島々の全てを失ったのです。

その上、日本の損害は戦後も続いたのです。

何十兆円にも及ぶ賠償金をフィリッピン、インドネシア、マレーシア、ビルマ、オランダ、などなどへ支払ったのです。

一見賠償を放棄したと宣言した国々の中国、ラオス、フランス、韓国、などなどへは経済協力やODAの形で巨額のお金を送ったのです。

特に韓国へは朴大統領の時代に大きな経済援助を行って国交回復をしたのです。そして中国へはつい近年までた多額のODAを送り続けたのです。

この経済援助やODAは明快に新聞で報道されなかったので国民はその実態を知りません。日本政府が報道規制をしていたのでしょうか?

戦後処理は賠償だけではありません。外国で戦死した人々の遺骨を回収し、日本へ持ち帰る仕事を厚生労働省は根気よく続行したのです。多額の費用と人員を投入しました。それでも尚、113万5千人の遺骨が かつての戦地に残ったままです。

草生す山地に埋まり、海底深く眠っているのです。線香一本、花の一輪も供えることが出来ないのです。

そして300万人の命と引き換えに日本は戦争中に何を獲得したのでしょうか?

大豆に麦、トウモロコシ、コウリャン、鉄鉱石、ボーキサイト、石炭、ゴム、タングステン、スズ、キニーネ、マニラ麻、砂糖などを得たのです。しかし海上交通はアメリカの攻撃機と潜水艦によって寸断されていたのです。

日本に持ち帰ることが出来なかったのです。戦争中に私は満州の大豆をドラム缶に詰めて日本海へ流すと日本へ漂着するという噂を聞き、それを信じていました。

アメリカの潜水艦はドラム缶は魚雷攻撃をしないという話でした。

戦争はむなしいです。本当にむなしいです。

日本人は戦争のむなしさを何度も確認したほうが良いと信じています。永久に確認し続けらば、永久に平和が続きます。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


帆船、シナーラ号で結婚式を挙げた方から投稿です

2013年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム

後藤さま

25年前にシナーラで船上結婚式を挙げ、今年、結婚25年を迎えるにあたり、今、どうしているのかと思っていたところ、こちらのブログに辿り着きました。初めまして。

10年ほど前にたまたまシナーラと再会でき、スタッフのご好意に寄り、係留されたままでしたが、乗船させていただいたことがありますが、それからすっかりご無沙汰でした。
mmさまからの投稿を見て、船検取り直し、シーボニアに係留されていることを知って、嬉しく思い、思わずコメントさせていただきました。

式の記念にといただいたシナーラの写真時計が25年の歳月とともに、今もリビングで時を刻み続けているので、シナーラのことはいつも心のどこかにあり、銀婚式を迎えるにあたり、また会いに行ってみたいと思っているところでした。

ちなみに当時は、まだ株式会社シーボニアだった頃で、船長は下里浩久さんという方でした。ちょうど結婚式場でないウエディングが流行り始める前くらいだったのもあり、新聞掲載されたりもして、楽しい式でした。

またシナーラのことなど、何か情報がありましたら、
ぜひ、教えてください。
突然のコメント、大変、失礼いたしました。

この美しい姿の帆船は1927年に英国で製造され、チャーチル首相も愛用した名艇でした。長い間、三浦半島の油壺にあるシーボニアの所有で、一般にも開放されていました。私も2回程、帆船体験のセイリングに同乗したことがあります。最近、シーボニアのHPを見てもシナーラ号の事が書いてありません。

現在この美しい木造帆船はどうしているのでしょうか?

何方かお知りの方にお教えして頂きたいと存じます。

お知りの方からのコメントをお待ちしています。

それはそれとして、シーボニアという名前から連想しました。そこを母港にしていたヨットの本を読みました。「どんがめ物語」という本を思い出しました。

そこで昔シーボニアにいたmissdongameさんというお方へ問い合わせてみました。返事が来ましたので下に掲載いたします。

=====missdongameさんからのコメント=========


家を売って100万本のバラの花を贈る・・・そんなロシア人がいたそうです

2013年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム

ロシア歌謡の歌詞に、貧乏な絵描きが家を売って、100万本のバラの花を恋した踊り子へ贈るという話がありました。

そこで写真だけですが、このブログの読者の方々へバラの花をお贈りいたします。

ご愛読にたいする小生のささやかな感謝の気持ちを込めています。

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上の2枚は義兄の家のバラで、下の4枚は近所のバラ好きの家の花です。

その家にはいろいろなバラが10種以上が咲いています。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。(終わり)


大学卒業後58年のクラス会と日本社会の激変

2013年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム

私たちは1958年に東北大学の工学部金属工学科を卒業しました。クラスは32名で、そのうち物故者は6名です。

5月12日の午後5時から東京のアジュール竹芝というホテルで17名の出席で卒業後58年目のクラス会がありました。

そのことについて、少し整理をして以下のような順序でご報告したいと思います。

(1)クラス会の様子と私自身の感想

(2)1958年以後の日本社会の激変の断片的な記録

(3)もう激変しない日本と、20年後の将来

このブログではなるべく歴史的な観点から文章を書くように心がけています。

しかし自分は歴史学者でもなく、また総合的な検証をした上で書いていませんので、その内容は個人の経験とその感想という限界が必ずつきまといます。その事をあらかじめご了解して頂ければ幸いです。

さて5月12日のクラス会に出席した人の集合写真を示します。

紅顔の若い青年たちも58年年経つとこうなるのです。中に1人だけご婦人がいますが、竹内君の奥さんです。

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この会合は大体2年ごとに幹事2名が交代で開催してきました。仙台のそばの松島や盛岡のそばの温泉でもしましたが、その他は箱根や熱海、湯河原でしました。

今回の幹事は管野君と香坂君でした。遠方から新幹線で来る人の便利を考えて東京浜松町に近いアジュール竹芝に設定してくれました。

会場に行ってみて吃驚しました。こんなに景色の良い会場が都内にあったのです。

その会場の眼下には、美しい船が出入りしていて、その先には夕陽に染まるレインボーブリッジが見えるのです。一枚だけその写真を示します。豪華客船、日本丸の出港風景です。

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こんな船を見ると今宵の宴を豪華客船のレストランでしているような錯覚にとらわれるから不思議です。

そらはそれとして、クラス会の内容です。

大学卒業以来、2、3年毎にクラス会を開催してきました。その会合の内容を振り返って見ると大体、三つの期間に分けられるような気がします。

それぞれが会社で技師として活躍中の現役の間のクラス会。

おおよそ60歳で引退したあと10年くらいの間のクラス会。

そして、引退して15年以上経ってからのクラス会。

どのクラス会も、まず2人の幹事が開会挨拶をして、一番年上の今泉さんか及川さんが乾杯の音頭をとって始まります。

乾杯の後はしばらく傍の人々と雑談をしながら飲みます。そして酔いが回ったころ出席者が一人、一人と立って近況を報告します。

最後に乾杯をして終りです。

その後の二次会は任意参加で、泊まる宿の一室で行います。今回も夜の10時頃までしました。原子力研究者だった近藤君の、原発は人類にとって必要なものだという静かな説明を聴きました。水戸まで帰る彼が席を立ってからからは、気楽なお遊びの話をして散会しました。

この宴会は席順も勝手で、幹事の挨拶も短く、カラオケも下手な余興も無いので気に入っています。要するに皆平等で気楽に話が出来る宴なのです。

さてその現役の間のクラス会の話の内容はどうしても技師としての仕事のことがおもになります。

時あたかも日本の高度成長期でしたので全員仕事が面白くて仕方が無かったのです。それでクラス会でもその仕事の面白さをしゃべることになります。

今回のクラス会の最中にそんな様子を思い返して、皆はそれぞれ仕事に恵まれた幸せな人生だったという感慨に捉われます。

同級生の大部分は金属関係の大会社に就職しましたが少数ながら大きな商事会社などでセールス・エンジニアをしていた人もいました。小さな会社の社長をしていた人もいました。しかし全ての同級生が張り切って仕事に打ち込んでいたのです。

さて、人によっては違いますが大体60歳で停年になります。その後、大体10年位のあいだに開催したクラス会では第二の人生を自分なりに確立する間の苦労や悲しいことに関する話題がでました。

停年前後に日本の経済が暗転しましたので皆が打ちひしがれていました。日本の政治家や、若者へ対する非難も話題になりました。

そして停年によって勤務状態が激変し、体の調子を崩す人もいました。

要するに人生の大きな過渡期の一つだったのです。

ところが今回のクラス会はその過渡期を卒業した人生の安定期の宴だったのです。

出席した人は皆、落ち着いた老境の健康状態にあるのです。顔色も良く、闊達にしゃべります。

話題が変わりました。会社での仕事の話はありません。政治家や若者を非難する人もありません。一人一人立って話す内容は、自分の住んでいる地域の事や奥さんを助けるための仕事のことが主になります。

不平不満を言う人は皆無です。

今までのクラス会で一番楽しい会になりました。

その本当の理由は全員が間もなくやってくる旅立ちの準備が終わっているからだと思います。私はそのすがすがしさに感動し、会合がまた一段と楽しくなってのです。

さてそれにしてもこの58年間の日本の激変ぶりにはあらためて吃驚しました。

我々の同級生が就職した富士鉄も八幡も日本鋼管も川崎製鉄も石川重工もみんな名前が変わって消えてしまったのです。隆盛をきわめた三菱重工も日本製鋼所もラサ工業もプログレスダイキャストもみんなみんな衰退してしまったのです。

これらの工業が再び隆盛することは日本ではないのです。

産業界が変わればその人間関係も当然変わります。

アメリカ社会における人間関係に次第に近づいてきたのです。

さて、それでは今後の10年から20年の日本の将来はどうなるのでしょうか?

手短かに言えば経済は再び活性化して景気が良くなります。高度成長時代のような騒がしいことはありませんが着実に経済状態は改善されます。今後は大量生産や重工業に代わって、コンピューターの利用技術が工業技術の中心になります。

そして社会文化の面では日本はますます国際化し、人間関係もより自由で平等になります。より成熟した民主主義が社会の中に万遍無く沁み込んで行きます。

今回の大学卒業後58年目のクラス会で考えたことを書いてみました。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


「我が家のホームページ」第二次世界大戦等の戦争犠牲者数(4)日本人戦没者の113万柱の未帰還遺骨

2013年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム

出典は、http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM です。

地域別 戦没者概数・遺骨送還概数・残存遺骨概数
                       (平成23年8月12日現在)

           戦没者概数  遺骨送還概数  残存遺骨概数
 沖     縄    186,500    186,520       -
 中 国 本 土    465,700    438,470     27,230 
 中 国 東 北 部    245,400     39,180    206,220
 (ノモンハンを含む)
 樺 太、千 島 等     24,400     1,720     22,680  
 ロシア(旧ソ連)     54,400     20,660     33,740
 (モンゴル含む)
 硫  黄  島     21,900     9,540     12,360 
 中 部 太 平 洋    247,000     72,670    174,330 
 フ ィ リ ピ ン    518,000    148,520    369,480 
 タ イ、マレーシア等     21,000     20,200      800 
 ミ ャ ン マ ー    137,000     91,390     45,610
 イ  ン  ド     30,000     19,940     10,060 
 北 ボ ル ネ オ     12,000     6,910     5,090 
 インドネシア      31,400     11,030     20,370 
 西 イ リ ア ン     53,000     32,950     20,050
 東部ニューギニア    127,600     50,310     77,290 
 ビスマーク・ソロモン諸島    118,700     56,470     62,230  
 その他の地域*     107,800     58,800     49,000

  (*=韓国、北朝鮮、台湾、ベトナム、
  カンボジア、ラオス他)

           2,400,000   1,265,000   1,135,000

  ※沖縄戦没者概数については、沖縄県資料によると188,100となっており、
   遺骨送還概数には沖縄県民による収骨数が含まれる。


 戦没者の遺骨帰還について
 
先の大戦における戦没者数は310万人であり、このうち海外における戦没者は約240万人であり、これらの海
外戦没者の遺骨は、軍人等が持ち帰ったもの以外は、海外の戦域に残されたままとなっていた。
  サンフランシスコ平和条約の発効した昭和27年以来、国は、海外の戦没者の遺骨帰還を実施している。
 海外の戦没者の遺骨帰還の現状については以下のとおり。 (平成23年8月12日現在)
   海外戦没者概数                    約240万人
    遺骨帰還概数                     約127万柱
  未帰還遺骨概数                    約113万柱
   うち 海没遺骨                   約30万柱
      相手国の事情(注)により御帰還が困難な遺骨   約23万柱
      御帰還が可能な遺骨(推計)          約61万柱
       (注)国交がない(北朝鮮)、対日感情に配慮する必要がある(中国)など
  (参考)国の遺骨帰還事業による御帰還遺骨数      約33万柱

  《厚生労働省ホームページ 報道発表資料 2011年8月 戦没者慰霊事業のお知らせ から》

    参考(H24.8.13現在)<http://www.mhlw.go.jp/stf/2r9852000002hgp9-att/2r9852000002hgwk.pdf>


竹芝桟橋の船の見える風景をお楽しみ下さい

2013年05月13日 | 写真

昨日の夕方からアジュール竹芝というホテルで大学時代のクラス会がありました。

竹芝桟橋を見下ろす絶景の会場でした。一泊しましたので港の夜景も楽しめました。

船の見える風景がお好きな方々へ6枚の風景写真をお送りいたします。お楽しみ下さい。

Img_6762

竹芝桟橋から600mくらい東にある晴海客船センターから出航して行く豪華客船の日本丸です。

Img_6770

真下に停泊している船は東海汽船の「あぜりあ丸」です。八丈島通いの貨客船です。前方の船倉を開けて荷物を積んでいました。その後、暗くなってからお客を乗せ、出航します。明日の朝に八丈島に着きます。

Img_6750

東海汽船の水中翼船です。これはもっぱら大島や神津島、三宅島などの近距離の伊豆諸島を往復しています。大島までなら1時間で行ってしまいます。

Img_6738

この船は東京湾をクルーズしながら食事を楽しむレストラン船、ヴァンデアン号です。船内は全て、豪華なレストラン、バー、ラウンジになっています。満席の客を乗せ、夕方の東京湾へ出て行きました。

Img_6745

晴海客船センターの西側の岸壁に係留されている航海練習船のようです。お役所の管理している船のようです。何時もレインボーブリッジから見える2隻の白い美しい船です。

Img_6797

上は泊まった部屋から見た夜景です。左の船はヴァンデアン号のようです。遠方にレインボーブリッジが見えます。お楽しみ頂けたら幸いです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


「我が家のホームページ」第二次世界大戦等の戦争犠牲者数の紹介(3)地域別の戦没者数と日本が獲得した資

2013年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログでは「我が家のホームページ」http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM#21ご紹介してきました。このHPは4人の家族(父母と子供2人)が協力して作り上げた内容豊富な貴重な資料です。

=====)地域別の戦没者数と日本が獲得した資源=========

 地   域    死亡者()  損害額() 日本が獲得した鉱産資源/食料など

日     本   3,100,000以上 

朝     鮮   約200,000      不詳  鉄鉱石/米/大麻
中     国   10,000,000以上  5,000億  (中国本土)鉄鉱石、石炭、ボーキサイト、タングステン
                        /小麦/綿花、大麻 
                        (「満州国」)鉄鉱石、石炭、ボーキサイト
                        /小麦、大豆、とうもろこし、羊毛/大麻
台     湾     30,000余     不詳  米、砂糖
    ン  約1,110,000  585,000万  鉄鉱石、クローム、銅、マンガン/砂糖/マニラ麻、コプラ
ベ ト ナ ム  約2,000,000      不詳  石炭、タングステン/米、とうもろこし/ジュート
タ     イ     不詳      不詳  錫/米
ビ  ル  マ   約150,000      不詳  タングステン、ニッケル、石油、鉛、亜鉛
                        /米、落花生、とうもろこし/ジュート
マレーシア・シンガポール    100,000以上    不詳  錫、鉄鉱石、ボーキサイト、タングステン/ゴム
インドネシア   約4,000,000     数十億  石油、ボーキサイト、ニッケル、石炭、錫
                        /砂糖、とうもろこし/ゴム、キニーネ、コプラ
イ  ン  ド  約1,500,000      不詳
オーストラリア     17,744      不詳

連合軍将兵・
民間人・捕虜    約6万数千 (オーストラリアの死者のうち約8,000と重複)

 合   計   日本を除く死者:1,900万人以上

 人的・物的被害は、原則として政府の公式発表の数字(「アジア太平洋戦争の被害」『世界』19942月号所収)
 日本が獲得した資源は、岡部牧夫「『大東亜共栄圏』その資源・日本軍の加害と被害」(『週刊朝日百科・日本の
 歴史』第119号、1988.7.31)による。


 表に掲げた数字は、原則として戦後における各国政府の公式発表、公式文書に記されたものである。各国の死亡者
は、日本軍による抗日ゲリラ「討伐」による犠牲者、連合軍との戦闘に巻き込まれたもの、日本による資源の開発・
収奪にともなう強制労働に起因するもの、日本軍の「現地自活」「現地調達」のための食糧徴発(住民の食糧不足)
がまねいた病死・餓死が含まれている。
 ベトナムの約二百万人といわれる死者の大部分は、日本軍による食料収奪と飢饉による病死者・餓死者であるとさ
れている。インドの死亡者は、直接、日本軍によるものとはいえないが、戦争にともなう食料不足(ベンガル飢餓)
によるものである。インドネシアでも、膨大な数の「ロームシャ」の徴用と日本軍の「現地自活」にともなう食料不
足のための犠牲者は、四百万人におよぶとされている。「兵補」として戦場にかり出された人々からも犠牲者がでて
いる。
 マレーシア・シンガポールでの犠牲者の多くは、 日本軍による抗日勢力「粛清」によるものである。 英領マレー
(現マレーシア)では、中国系の住民に対して日本軍は、中国本土でおこなったのと同じように、ゲリラ討伐を口実
に村落ごと殲滅する作戦を各所でおこなった。シンガポールでの反日・抗日派に対する「大検証」(逮捕・虐殺)も、
日本軍がアジアの人々を敵にした隠すことのできない事件の一つである。
 フィリピンにおける犠牲者も、日本軍と米軍との戦闘に巻き込まれた(とりわけ一九四五年一月~三月のマニラ攻
防戦で一般市民十万人が死亡したといわれている)だけでなく、 日本軍による「治安粛清」 すなわちゲリラ討伐に
よって殺害された人々が多数ふくまれている。

===========以下省略==================


「我が家のホームページ」の著者、船橋精一さんの自己紹介と、そのHPのご紹介

2013年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム

この私のブログでは船橋精一さんが書いた「我が家のホームページ」を何度も参考にして、戦争という人類共通の悲劇をいろいろな角度から思索し、記事を書いてきました。

その船橋さんは内容豊かな「ひとりごとのつまったかみぶくる」というHPを、 ”ととと と とと”というハンドルネームで書いていらっしゃいます。

その序文には以下のように書いていらっしゃいます。

ようこそいらっしゃいました。

 ととと と とと といいます。
 ボランティア活動や社会福祉に関心を持っています。

 このホームページには、私がこれまでにいろいろな機会に書いた文章を載せました。今となっては古くなってしまったもの、私の追憶のためにという文章もあります。読まれて、もし何か感じるところがありましたらメールをよろしくお願いします。ご批判、ご叱責の類の発言もお寄せください。
 記載文章は今後増やしていくつもりですので、機会がありましたらまたのぞいてみてください。

 どうもありがとうございました。

そして、私のよく参考にする「我が家のホームオページ」はこの船橋さんのブログ、「ひとりごとのつまったかみぶくろ」の中に含まれているのです。

このブログの内容は以下の通りです。

私が書いてきたもの集
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 感想やご意見等、差し支えなければ、ひとこと書いてください。
<textarea cols="44" rows="3" name="コメント"></textarea>
 返信を希望される方は、メールアドレスをご記入ください。
 それ以外の方は、このまま送信してください。
 メールアドレス:<input name="email" size="34" />

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兎に角、内容の話題が広く、それぞれに徹底した調査研究が行き届いた報告書です。

お仕事が社会福祉関連の公務員でなので話題の中心がそこにあります。

しかし多趣味な方で、その上、博識博学な方です。HPのどのページを開いても感心するような内容になっています。

公務員といってもものの考え方が柔軟で客観的なのです。

ああ、こんな素晴らしい公務員もいるのだなと皆様も必ずや感動すると確信しています。

是非、一度、http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/SF0.HTM をご覧になって下さい。

以下に彼の自己紹介文をお送り致します。

===船橋精一さんの自己紹介文です===============

舟橋精一と申します。ハンドルの"ととと と とと"は、モールス符号です。

 1996年にこのホームページを開設しました。当時としては結構先駆的であったらしく、初期のころは、見ていただいた方から何通もメールをいただいたものです。あるテレビ局から番組出演の呼びかけが飛び込んできたこともありました。でも、2000年になるころには、それらはピタッと止んでいました。個人で開設するホームページが増えてきたこともあり、それらに埋没してしまったのでしょう。同時にこのころ、多忙な職場に転勤となり、最終電車頃までの残業や休日出勤を強いられる毎日で、ホームページをいじる時間などなく、長く更新なしのブランクを作ってしまいました。

 ホームページ上に自分のことを記すことについては、当初から迷っていました。開設時には、実名や自分の写真を載せていたのですが、時期同じく、実名表記や個人情報の記載は危険、問題だとするニュースがいくつも流れた時であり、ハンドルのみ表記の体裁に切り替えました。でも近年に至って、ブログなど、積極的に自分のことを公開する機運が育ってきているところがありますので、改めて、自己紹介のページを設けた次第です。

 "ひとりごとのつまったかみぶくろ"の表題のわけを記します。私の本棚の片隅に、ずーっと長い間、古ぼけた紙袋が置いてありました。それは、私が、学生時代から書きためた文章の原稿やノートが入っているもので、無造作に詰め込んであったというものです。ある場で発表したものの名残りであったり、また、書いてみたものの日の目も見ずに埋没していたものなど、いつか読み返すこともあるであろうと思いつつ、紙袋に入れて保管しておいたものでした。まさに私の独り言の詰まった紙袋でした。そんな中で、インターネットが発展、普及し、個人でもホームページを開設する人々が現れてきました。これは使えると思いました。紙袋の中の文章の新しい保管場所として使用させていただくことにしたという次第です。気が向いたら簡単に引き出して読み返すことができる。便利な世の中になったものです。だから、私のホームページの開設は、大それた目的を持つものではありません。載せた文章にしても、未完成品であったり、論旨として筋の通っていないものもあります。でも、もし読まれることがあれば、ご批判や、またお叱りも含めて、届けていただけたらと思っています。

 私の生い立ちを簡単に書きます。

 昭和30年生まれです。社会福祉系の大学を出ました。民間就労の時期もありましたが、社会福祉職員として県に採用されました。教護院教護の七年を皮切りに、精神科病院PSW、保健所と精神保健福祉センターの精神保健福祉相談員、生活保護ケースワーカー、児童福祉司等と、学生時代にあこがれた仕事を一応一巡したのかなという感じです。現在は知的障害者の施設で支援業務に従事しています。

 
私は、目新しいものがあると躊躇なく手を出すところがあるようです。少年時代に始めたアマチュア無線、学生時代はキャンプや山歩きに興じていました。社会人になってからは、飛んだり、潜ったり、作ったり、はたまた演じてみたりと、休日よ早く来いと過ごしている毎日です。手を出しすぎた趣味にシーズンオフがありません。何かに手を出していないと落ち着かないという悪い病気に罹っているのかもしれません。ボランティア活動については30年以上の遍歴があります。家族のブーイングが聞こえてきそうですが、こんな私の姿を見て察したのか、家族の銘々が自分なりに面白いものを見つけて生活を楽しんでいるようです。(2013.4.15)

================================

おわりに船橋精一さんへ深い感謝と敬意を表します。後藤和弘