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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

村野家を訪ねて人々の優しさに感動する・・・村野家は国木田独歩の武蔵野の世界

2013年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム

東京都東久留米市に旧柳窪村の一部を江戸時代そのままに保存し、広大な屋敷に囲まれた豪農の家が数軒あります。

随分と以前から私はその村落を国木田独歩の武蔵野の世界と信じて、何度も散策していました。

その豪農の一軒の村野家のご好意と、村野家の旧宅、顧想園の保全をするボランティア達の助けで見学することが出来ました。茅葺の大きな邸宅とイチョウ、モミジに彩られた見事な庭園をゆっくり拝見できました。

その顧想園のことは末尾の参考資料にありますので省略いたします。

そこでここでは私が昨日撮った写真をご紹介し、印象的だったことを2つだけ書きたいと思います。

まず見学会には多くのボランティアが支援していました。感動的だったことは皆がこの村野家の旧宅、顧想園を愛し誇りに思っているのです。

そして現在の村野家の家族と親しく、そして尊敬しているのです。

その上、足の弱い私を支えてくれ、椅子を持って回って説明の間、私を座らせてくれた男性のボランティアの方が無限に優しかったのです。

村野家の家族とボランティアの人々の心の優しさに感動したのです。

もう一つは村野家の五代目の奥様とそのお嬢様の様子がなんともいえず上品で良い感じなのです。

そして5代目の奥様の御父上が東北大学の教授をしていた伊澤孝平氏ということで家内が親しくお話を聞くことが出来たそうです。私と家内の父も同じ大学で教授をしていたのです。そして伊澤孝平教授の遺稿集、「そういう時代の旅と人」という本を頂いてきました。

この本の書評はいずれ書くつもりです。

そんなこんなで人々の温かい心に感動する体験をしました。

なお村野家の見学については、東久留米市の郷土資料室 電話042・472・0051へお問い合わせください。年間、決まったイベントの折にしか見学できませんのでご留意ください。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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===東久留米市の市報から、「村野家が国の有形文化財に登録されました」===(http://www.city.higashikurume.lg.jp/kensaku/shincyaku/s2011/110301_new_06.html

「主屋」は、市内で唯一現存する茅葺(かやぶき)の屋根をもつ家屋で、江戸時代の天保9年(1838)に建築されたものです。六間取りの大きな家で、落ち着いた入母屋(いりもや)造りの外観が周囲の屋敷林とよく調和しています。幕末期の武州一揆(ぶしゅういっき)の痕跡が残る歴史的な価値も有しています。
「離れ」は、明治後期に建てられた木造平屋建て入母屋造りに洋風な要素を取り入れた建造物で、付書院欄間(つけしょいんらんま)の彫刻は著名な島村俊表(しゅんぴょう)の作品です。
 3つの蔵は、江戸時代末期建築の「土蔵」と「穀蔵」、明治38年建築の「新蔵」で、漆喰(しっくい)仕上げの外観をもつ清澄な趣を木立のなかに残しています。
「薬医門」は、明治14年建築の間口2・6メートルの比較的規模の大きい総欅(けやき)造りの門で、屋敷地の南東部に重厚な姿をみせています。
「中雀門」は、大正後期の建築で、主屋の横にある前庭と奥庭を画する切妻(きりづま)造りの門です。
 このように、「村野家住宅」は主屋を中心に江戸時代から明治・大正期の建造物が配置され、当時の農家建築の典型的な姿を示すものとして、「造詣(ぞうけい)の規範」と「国土の歴史的景観」という基準により文化財保護法の規定により登録されたものです。
 柳窪地域は、江戸時代から明治期にかけての建造物や屋敷林などが今でも多く残っていて、都の「雑木林の道」における「屋敷林の道」にも選定された貴重な景観が保全されている場所です。さらに周囲には柳窪梅林の碑や地蔵尊などの市指定文化財や天神社の湧(ゆう)水(東京の名湧水57選)をはじめ、柳窪緑地保全地域など、自然と文化財が一体となった歴史的景観が残されています。その意味からも今回の国登録有形文化財の誕生は大変意義のあるものといえます。(以下省略)


あまりにも紅葉が綺麗なのでまた光が丘公園へ行ってきました。

2013年11月23日 | 写真

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Img_2282 左の写真をクリックして拡大するとこの公園の出来たいきさつが分かります。

第二次大戦では陸軍の軍用飛行場だったのです。敗戦後はアメリカ軍に占領され将兵の住宅地として1973まで実に28年間も接収されていたのです。その住宅地はグランドハイツと言いました。

いろいろな時代の有為転変の歴史があったのです。有為転変はお釈迦様の言葉です。


軍事機密法成立と太平洋軍事同盟で中国封じ込めを狙う安倍首相の危険

2013年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム

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左は三輪修画伯の描いた絵画です。写真ではありません。

日本の平和とはこういうものだと私は独りで感動して、何度も眺めています。

この日本の平和を守りたいのはみんなの願いです。会社で働いている人々。パートで働いている人々。学生や生徒たち。そして政治家たち。みんなが願っています。祈っています。

安倍総理もその一人です。

彼には権力があるので、自分で考える「平和を守る方法」を実行出来ます。

すでにいくつかの事柄を実行しています。

一つは首相のもとに「国家安全保障会議」という最高参謀会議を設置しました。

もう一つは「軍事機密保護法」を成立させ、軍事同盟を結んでいるアメリカを安心させようとしています。

今まではアメリカの軍事機密が日本で敵方のスパイに流れていたのです。外国の大使館の人が堂々とスパイ行為をしても逮捕出来なかったのです。

それはそれとして安倍総理は何度も「集団自衛権」という言葉を使います。

その意味をあからさまに言えば「太平洋軍事同盟」を作り、それによって中国を包囲し、中国が太平洋に出て来ないように封じ込めようとする意味です。

こうすれば尖閣諸島を日本の領土にすることは確定します。

安倍総理の発想はソ連と欧米が冷戦で厳しく対立していた時代のNATO(北大西洋条約機構)のような軍事同盟を作ろうとしているのです。証拠はありませんが私はそのように理解しています。

ですからこそ東南アジアのアセアン諸国の首脳を歴訪し、中国の西の中央アジア諸国も訪問しています。その上、フィリピンへは海上自衛隊の艦艇さえ無償提供しています。ベトナムとは共同海上演習の準備を進めています。

日本人の多くはこの安倍さんの意図は分っていますが、敢えて騒がず黙認しています。尖閣諸島の問題で中国があまりにも露骨なことをして日本人を怒らせているのです。懲罰を加えたいと日本人は本音で思っているのです。

本当にこのような軍事外交戦略で日本の平和を確実にまもれるのでしょうか?

私は次の2つの観点から上に書いた軍事外交戦略には大きなリスクがあるす信じています。

(1)中国は経済的には世界的に開かれている国です。昔の冷戦時代のように封じ込めることは不可能です。不可能なだけでなく、逆に中国から経済的に懲罰を受ける可能性をはらんでいるのです。「封じ込め作戦」は時代錯誤なのです。

(2)中国以外の周辺諸国が太平洋軍事同盟を作ることは中国を刺激しすぎます。中国は当然、ロシアとの軍事同盟に走ります。それも時代錯誤ですからロシアは上手に逃げるでしょう。

どちらにしても集団で中国をいじめるという発想は危険なのです。

日米安保の強化。日韓の軍事協力強化。フィリッピンとの共同演習。ベトナムとの共同演習などを進めるべきですが、それ以上のことはしない方が良いのです。

安倍総理は集団自衛権に関しては国連の承認する軍事行動に限って参加すると言明しています。

しかし政治家は現実的な判断を求められる職業です。どんな政策も完全な正解ではないのです。妥協なのです。

ですから状況が変われば「言明」や「約束」は破っても良いのです。政治家とはそのような職業についている人々なのです。

この事実を理解した上で、安倍総理の外交戦略へ賛成するのも、反対するのも人それぞれです。日本は民主国家なのです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

==========参考資料===================

この絵を描いた時の三輪修さんの気持ちを書いた小文を送りします。

「甦る記憶との間で・・・」

先日、行きつけの画材屋さんへ絵具を買いに行った帰り、急に私の生まれ育った場所に行きたくなり、車を走らせました。私が生まれ育った所は、尾西市という街で、昔は織物業が盛んで、織機の音が一日中聞こえていました。車が目的地の近くになった時、幼い頃見た風景とはまるで違った建物や看板が目立ちはじめ、がっかりして車を路肩に止めました。
しかし、ふと傍らに目をやると、見覚えのある小川があり嬉しくなりました。ここでいつも四手網を川下に置き、竹竿で川底をつついて、鮒、泥鰌、ザリガニなどを追い込むと、網も破れんばかりに捕れたものでした。その時の嬉しかった事、友達の笑い声、光の暖かさ、魚の匂いなどが、ピンホールカメラの写真のようにぼんやりと目の前に現れ、幼い日の楽しかった日々がおぼろげに甦ってきました。 大人になってからは、こういった感動は、普段あまりないのですが、それでも旅をした時などは、新鮮な驚きや感動を覚えます。家に帰って日常に戻っても、その余韻はぼんやりと心に拡がり、子供の時に覚えたような、ある種のノスタルジーとして記憶されます。
ところで、私の絵は、そういった過ぎ去った時と未来との間で、私の中で熟成された、時間、空間、温度、他に目に見えない何かを現わすことが出来たらと願っています。(みわおさむ)


日動画廊と三輪修画伯の思い出

2013年11月22日 | 日記・エッセイ・コラム

銀座に行くと日動画廊に寄ります。

日動画廊は絵を売る店ですが、買わなくとも絵画を好きな人を歓迎してくれます。気持ちの良い美術館のようでもあります。

それでつい寄ってしまいます。

この銀座の日動画廊の1階は売る絵を展示してあります。そして地下室では企画展をしてるのです。ブラリと入って美術館のように油絵を楽しむのです。

この日動画廊の創始者は茨城県の笠間市の出身です。その関係で出身地に「笠間日動画廊」があります。建物も銀座のものより各段に大きく、一個の美術館です。何度か行きましたが、展示品も多様で遠方でも見に行く価値が充分過ぎるくらいあります。

日動画廊は全国に幾つか支店のようなものがあり、売っている絵画の展示だけでなく、各地で注目すべき企画展も開催しています。

数年前に名古屋日動画廊で三輪修画伯の個展が企画されていたので家内と見に行ったこともありました。

この三輪修画伯はインターネットを通じて知り合ったのです。彼の許可を得て、このブログの上でも油絵の写真を何回かご紹介しました。非常に印象深い絵を描きます。深い精神性を感じさせる油絵です。

三輪修さんの絵画は日動画廊が販売しています。

時々、日動画廊に寄ると、三輪修さんとの名古屋でお会いした楽しい会話をいろいろ思い出すのです。

そこで久しぶりに、以下に三輪修画伯の絵画をご紹介しますので、ご観賞下さい。

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夜の写真を撮る「ちひろ」さんの写真術に感動する

2013年11月22日 | 写真

ちひろさんは、このブログを2007年に始めて以来、永くお世話になっている方です。

写真の撮影の名手です。ご自分で車を運転して琵琶湖周辺の古刹や湖の風景を撮ってご自分のブログに数多く掲載しています。

その傑作写真を何度もお借りして、こちらのブログでご紹介してきました。

そのブログのURLは、http://blog.goo.ne.jp/yumenohanamiti8739 です。

今日は「限りなく美しい夜の永源寺」というテーマの写真と、夕暮れのシラサギの写真をご紹介いたします。

夜の灯りの美しさと、深い闇が写真に写っているから吃驚します。それに月の姿を梢の向こうに写し取っています。感動的な写真術です。

夕暮れのシラサギの写真も見事です。

どうすればこのように夜の風景が撮影出来るのでしょうか。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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絵画展を見て今は亡き友人を懐かしく思い出す

2013年11月22日 | 日記・エッセイ・コラム

氷川丸とマリンタワー(水彩) 立石 崇 作

青鬼集落(水彩)  立石 崇 作

雪の朝(水彩)   立石 崇 作

この恒例の絵画展の詳細は、ひまわりArtboxの2011絵画展のご報告ひまわりArtboxの「2012絵画展」へ行ってきました などの記事をご覧下さい。

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昨日、八王子で昔の級友の立石 崇さんが活躍している絵画教室の作品展がありました。

今回から彼は油彩画から水彩画の展示に変わり3点の傑作を出していました。一緒に行った家内も静かな感じの良い絵だと感動していました。私もその水彩画の素晴らしさにすっかり魅了されました。

来客多数で忙しそうにしいる立石 崇さんから離れて、私は独りで絵画を見て回っていました。そうしたら数年前にこの絵画展を一緒に見た級友の星野清一郎さんのことを急に思い出しました。彼は立石さんの絵画を買うと言い出したのです。

結局、立石さんは油絵の大作を星野さんと私に贈呈してくれたのです。

その星野さんは2011年9月に病死してしまいました。

そんないきさつもあり、昨日は絵画展を見ながら今は亡き星野君を懐かしく思い出していました。

星野さんとは、仙台の大学の専門課程の1957 年と1958年に机を並べました。

卒業と同時に彼は父が経営する精密鋳物会社の仕事をするために福島へ行ってしまいます。

それから15年間くらいはお互いに多忙で会うこともありませんでした。ところがある時の同級会の折、彼がヨットの話をしていました。猪苗代湖で大きなキャビンのクルーザーでセイリングしているのです。

そして花春カップというクルーザーレースへ3回ほど私を招待してくれたのです。花春カップとは猪苗代湖のそばの大きな酒造会社、花春が主宰するレースなのです。

彼のヨットはヤマハ29という楽しい構造のクルーザーです。船体の真ん中の甲板に操縦席があります。その後ろのキャビンへ降りてゆくと大きなパーティ向きの部屋があり、簡単な炊事用具がついています。

船尾が大きく湾曲して張り出していて、そこに大きなガラス窓が横並びについているのです。シャンペンやビールを飲みながら、美しい猪苗代湖が風波を立てている様子が眺められのです。

レースでは、彼のヨットは遅い船なので、いつも終りの方を走ります。前の方を列を作って競い合いながらセイリングしている他のヨットの夢幻的な光景を見ながら悠々と走ります。

遅れてゴールしても、船体ごとにハンディキャップがついているのでレース結果は何時も2位か3位でした。

残雪の磐梯山を眺めながらの花春カップは終生忘れられない思い出になりました。

花春カップの後は福島の彼の家に寄り、奥様や息子さん達と一緒に夕食をご馳走になったこともあります。

それから又何年かが過ぎ去りました。今度は私が霞ヶ浦にクルーザーを係留していました。以前、猪苗代湖でお世話になったことを思い出して彼を招待しました。一緒に仙台の大学時代の同級生も招待しました。7人が集まりました。

彼は福島から大きな荷物を背負ってやって来ました。

かなり激しいセイリングの後のパーティの時、彼がその大荷物を解き始めました。ぶ厚い断熱布の中から出てきたのはギンギンに冷えたシャンペン3本でした。その上よく冷えたシャンペングラスも、人数分の7個も出て来たのです。高級なシャンペンです。男ばかり7人のキャビンの中が途端に華やかになったものです。

こんなセイリングの会を4回ほどしました。何時も熱心な彼は福島からシャンペンを担いでやって来るのです。

毎回、パーティの次の日は蓮田のなかの「山中のうなぎ」へ昼食を食べに行きます。うなぎが美味しいと言ってましたが、霞ヶ浦でとれた白魚の刺身にはかなり感動していました。

毎年秋になると私のヨットに来るので、彼は自分専用のデッキ・シューズを私の船に預けていました。

2011年もそろそろヨットに来てくれると思い、9月になると、その白いデッキ・シューズを取り出して、すぐに履けるように並べて置きました。

そのデッキ・シューズを揃えて置いた次の週に、彼の急な病死の連絡があったのです。彼は友情に篤く、素直な性格で実に気持ちの良い男でした。

そして昨日は星野さんとの最後のセーリングを思い出しました。

それは2010年の10月27日の晴天の日のことでした。

星野さんと、ネットのお陰で知り合った塚原さんと3人で霞ヶ浦でセイリングしたのです。

その日は、始めは風が穏やかでしたが、沖では物凄くなり、船が身を躍らせて走りまわりました。帰港のころは又静かになり夕日を楽しみながら帰ってきました。

帰港後は3人で塚原さんの持って来たキャンピングカーでシャンパンを飲み、それから土浦駅の北口の居酒屋へ行きました。

星野君はホテルに一泊し、塚原さんは自分のキャンピングカーに泊りました。私は当然、ヨットのメインキャビンの中に寝ました。

翌朝も3人でセイリングへ出ようとしたとき突然雨が降ってきました。
仕方がないので船は出さないでセールにカバーをかけて帰って来ました。

しかし27日のセイリングは3人で力を合わせた激しい、それだけに痛快なセイリングになりました。このヨット遊びが彼との最後のセーリングになりました。

下にその最後のセーリングの時撮った写真をしめします。

昨日の立石さんの絵画の展覧会を見ながら思い出したことを記しました。

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2010年の10月27日に撮影しました。

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それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


すべて輝く表の裏には陰がある・・・世の中を陰で支えている人々への感謝

2013年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム

唐突ですが、下の5枚の写真をご覧下さい。昨日、光が丘公園で撮った写真です。一番上の写真は順光で、池の向こうの木々が明るく輝いています。そして池の水面は木々の黄葉を映しています。

この写真を撮ったとき、このような順光の写真だけでなく、森の中に入って逆光の写真を撮ってみようと思いました。そうして撮った写真が2番目から5番目までの4枚の写真です。

世の中を陰で支えている人々のことを想いながら撮った写真です。

表舞台で活躍している人々のかげでは、その活躍を支えている人々が数多くいるのです。

例えば政治家とその活動を支える秘書達。

映画の世界のスター達と映画作りを支える大道具方、小道具方、照明に効果音担当のスタッフ、いろいろな助手に下働きの人々。

お正月にも休まず電車やバスの運転をしている人々と駅員達。

高速道路の建設作業を黙々としている労務者。

福島原発事故現場で放射能を浴びながら廃炉作業をしている現場労務者。

例を上げればキリがありません。

そのように世の人々を陰で支えている人々を想い、感謝する社会は本当に平和で幸せな社会だと思います。

宮沢賢治は皆が本当の幸せにならなければ自分の幸は無いと言って、「雨にも負けず」という詩を書いたのです。そして本当の幸せを探すためにも夜の銀河鉄道に乗ったのです。死んだカンパネルラを探して銀河鉄道に乗ったのです。

昨日、光が丘公園を老いた夫婦が楽しそうに歩いていました。

若い母が可愛い子供を連れて沢山歩いていました。

そして夕方近くなれば、小学校が終わり、小学生が自転車で歓声をあげながら走り回ります。

それは幸せな光景です。

39歳で亡くなった宮沢賢治の生きた時代は大正から昭和にかけての暗く貧しい時代だったのです。賢治の住んでいた東北の農村では飢饉が続き、娘を売っていたのです。

宮沢賢治が、もし仮にこの明るく陽の射している東京の光が丘公園を歩いたらどのような感慨を持つでしょう。

本当に幸せな時代になったと感じると思います。

しかしこれで良いのでしょうか?

これは私独りが想うことです。同行した家内は苦労知らずです。異常に元気で広場の芝生の上を走り回っています。そんな人へ、この場所で、宮沢賢治の話はしません。家内は宮沢賢治が大好きですが、私とは違うのです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

   

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「都立光が丘公園」のイチョウの黄葉をお楽しみ下さい

2013年11月20日 | 写真

今日は家内と一緒に練馬にある「都立光が丘公園」の銀杏の黄葉の写真を撮ってきました。丁度見事な黄金色になり、秋の陽射しが降りそそいでいたので華麗な景観が楽しめました。

広い駐車場もありますので、是非一度お出掛けになってみて下さい。

 


人間60歳になったら自分の墓を作るべき・・・作らない人は怠慢

2013年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム

老境に入ると人々はなんとなくお墓のことをボンヤリ考えるようになります。

お釈迦様は墓など作らずに自分の遺骨は野に打ち捨てよと言ったのです。

キリストはお墓を作れとは言わないで、代わりに信仰を守り死後に神に召されるようにしなさいと言いました。

しかし何処の国の人も墓を作ります。

日本では、「私は無宗教だからお墓など要らない」と冷やかに、しかし自慢げに言い放つ人がいます。

しかし墓を作らずに死ぬと困るのは子供達や友人たちです。生前の付き合いを思い出すと、どうしてもお墓詣りをしたくなります。

それが自然の人情というものです。先祖代々の墓がある人はそこに入ります。しかし故郷が遠い人は容易に行けません。

ですから自分の墓を作らないで死ぬ人は怠慢のそしりをまぬかれ得ません。少なくとも豊かになった日本では容易に墓を作れます。

高齢になったらお墓を自分で早めに作るのが社会的義務と思います。私個人はそのように思っています。

最近、天皇陛下と美智子さまが多摩御陵の中に小さめの陵を作るという計画を発表しました。良いことです。安堵しました。

しかし墓を作りたくても作れない人々がいるのも現実です。

 

今日はその極端な一例として不運にも日本で客死した外国人のお墓について書きます。

遠く異郷のはてで亡くなった外人たちの墓地は誰が作るのでしょうか?それは縁もゆかりも無い善意の日本人が作るのです。

私はそのような外人墓地の風景を感慨深く眺めます。

遺族は来ませんが日本人が供養しているのです。そして、不運にも異郷の地で果てた人々の冥福を私も祈っています。

下に、田(アメリカ水兵5人、ロシア水兵3人)、函館(ロシア人)、横浜(イギリス人多数、他)の外人墓地の風景写真を示します。

下田の外人墓地は日本で初めての欧米人の外人墓地になります。

外人墓地といえば普通欧米人の聖職者でない人々の墓地のことです。聖職者の墓地は別にあります。

ちなみに中国人や百済、新羅、高句麗の人々の墓地は外人墓地とは言いません。埼玉県の高麗郡にある高麗王の墓地は古いほうです。高麗王は戦いに敗れ、日本へ亡命し、大和朝廷から埼玉県に領地を貰ったのです。

そして唐の僧、鑑真のお墓は何処にあるのでしょう。唐招提寺にあるのでしょうが、私は参りませんでした。

外人墓地を見るたびにいろいろと考えさせられます。何故かとても悲しい、切ない気持になるのです。

下に示した写真は全て私自身が撮った写真です。

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下田の玉泉寺にはアメリカ水兵5名(上)とロシア水兵3名(下)の墓があります。(上の写真)

そして、下は函館のロシア人墓地です。正教徒の日本人のお墓も隣にあります。

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下は横浜の山の手にある外人墓地です。主にイギリス人ですが、他の国の人々も一緒に眠っています。

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そして下は日本へ亡命した高麗王の墓です。

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上の数枚の写真に示したような外国人のお墓をみると、日本人の優しさが誇らしく思います。

それこそが日本人が世界に対して自慢すべきことと思います。

私は老人になり最近は体が固くなり山登りやヨットが出来なくなりました。

そうすると自然に気が弱くなり、人々の優しさが理解できるようになったのです。

昨日も、男の本当の優しさを体験しました。と題する記事を書いたのです。

「自分のお墓は自分で造るべし」という題目で書き出したのですが、話がそれてしまいました。もう書くのはこれで止めます。お許し下さい。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=====参考資料:高麗王の墓===============

朝鮮半島にあった高句麗が新羅と唐の連合軍によって668年に滅ぼされました。その時、使者として日本に居た王族の若光は帰国できなくなり、日本へ亡命しました。

703年に文武天皇から従五位下に叙せられ、高麗王の姓を賜はりました。この事は続日本書記に明記してあります。

そして13年後の716年に大和朝廷は武蔵国に新たに高麗郡を作り、高麗王をそこの郡司に任命しました。高麗王は高句麗から従って来た1799名の家来を連れて高麗郡に移住しました。

高麗郡は現在の埼玉県西部から東京都の多摩地方にまたがっています。

高麗王の部下に農産物の増産を指導する人もいたらしく高麗郡は豊かになったそうです。そして無理な増税は強制しなかったようです。要するに大変評判の良い統治をしたのです。

高麗王は武蔵国の高麗郡に移住する前は神奈川県の大磯を治めていました。そこでも評判が良く、高麗郡へ去ったあと大磯の人々は高麗寺(現在は廃寺)と高来神社を作りました。

兎に角、大磯でも高麗郡でも高麗王は農民を大切にする善い政治をしたのです。

その高麗王、若光は一度も朝鮮へ帰ることが出来ませんでした。故郷から遠く離れた異境の土になったのです。

高麗王の没後、三男の聖雲が、現在の聖天院を建立し、一族の菩提寺にしたのです。

聖天院の後には高麗神社があり高麗王、若光が祀られています。そしてその神主は代々、現在に至るまで高麗王の子孫が務めて来ました。

朝鮮から亡命した王様が日本の武蔵国の高麗郡を見事に治め、現在も人々に慕われているのです。少し話をした住職さんの大黒さん(奥さん)が若光さんのお墓も忘れないで拝んでいって下さいと言いながら場所を教えてくれました。

時空を超えた、何か大きな歴史ロマンを感じながら境内の写真を撮って来ました。(終わり)


3年前から霞ヶ浦に棲みついている白鳥の一家に久しぶりに会いました

2013年11月19日 | インポート

3年ほど前からシベリアに飛んで行かないで霞ヶ浦に棲みついて2羽の子供を育てていた白鳥の夫婦がいました。

昨日一家と久しぶりに会いました。港町の高齢者用のホームのビルの前の堤防の上の草を食べていました。

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ネットで知り合った方々が私をヨットに招待してくれます・・・有難く、感謝しています

2013年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログには私の趣味のヨットに関する記事を沢山書いています。

するとご親切にもヨットに一緒に乗りませんかとご招待をして下さる方々がいるのです。

今日もこれから霞ヶ浦にヨットに乗りに行きます。土浦港に停泊しているヨットのオーナーの繁田慎吾さんと中村さんからご招待を受けたのです。

世の中の人は何と心が広くて親切なのかと感動します。

それにつけても思い出すのはHootaさんのことです。

彼はこのブログのヨットに関する記事へ何度も好意的なコメントを下さった方でした。

北欧のクリスチャン43という43フィートの大型艇、Bambino号 で東京湾や伊豆七島周辺を帆走していた方です。

私は2009年の4月に係留地の千葉県の保田港へ、初めてHoota さんを訪ねました。

そして、彼とはその後、2年間だけ情熱的にお付き合いし、東京湾や駿河湾で一緒にヨットに乗せてもらいました。

しかしその後何故か彼はヨットを止めてしまいました。お付き合いも途絶えてしまいました。

しかしその2年間のことは忘れ得ない歓喜の思い出として、現在でもよく思い出しています。

彼の艇を2009年4月に初めて訪問した時のことです。

その日は、まず他のヨット乗りをまじえて4人で一緒に、Bambino号の甲板の古いニスをサンドペーパーで落とす作業を午後中しました。

そして夕方から夜にはHootaさんと2人でヨットの上でビールを飲みながら歓談しました。

海でこのように豪華なヨットにのっている人々は別世界の人のような気がしますが?と、聞きました。「皆さん、普通の人々で生活の仕方を工夫してヨットに使うお金を作っていると思いますよ。」「職業や年齢も色々です。皆さん、気持ちの良い方々です。話がすぐ通じますよ」。

そんな気さくな話し方で、いろいろな話をしてくれました。

Hootaさんは以前、法務省で国家公務員として働いていた人です。人間が純粋なようで、中央省庁のお役所仕事があまりお好きでなかったようです。

安定した職業をサラリと止めて、ニコルさんのレンジャー養成学校の先生になりました。

ヨットは16歳の時から素晴らしい師匠について練習したそうです。当時は「東京ベイヨットクラブ」の指導教官として働いていました。

千葉県の内房総の保田漁港に係留してある大型北欧風ヨット、Bambinoの保守管理も任されているそうです。

話題は16歳のとき、ヨットを指導してくれた師匠の素晴らしさ、ニコルさんの魅力的な人柄と黒姫に造成した美しい林のこと、東京ベイヨットクラブを主宰しているK氏の卓見などなどでした。

全ての出会いに感謝している様子なのです。ああ、こういう人をジェントルマンと言うのだ、と感じました。奥様の話も出ました。法務省に務めていて、2年間の神戸への単身赴任を終えて帰って来られたそうです。ご結婚のいきさつなどを楽しそうに話してくれました。

始めは夕陽を見ながら後ろ甲板で飲んでいました。夜になったので、美しいチーク材で内装したキャビンの中で飲み合いました。

そのHootaさんとは何故か突然、疎遠になってしまいました。人生には良くあることです。しかし彼は本当に良い友人でした。気持ちの良い友人でした。私のすがすがしい思い出になりました。

下に夕陽の写真、Bambinoの写真、Hootaさんの写真などを示します。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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===快晴ながら烈風の駿河湾で豪快なセイリングをして来ました ===

東京ベイヨットクラブのハンスクリスチャン43、Bambino号でHoota船長指揮のもと、女性2名を含めた総勢6人で4時間程、烈風の中を豪快なセイリングを楽しんで来ました。

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私はお会いしたことの無い貴方のために何故祈るのでしょうか?・・・何の意味があるのでしょうか?

2013年11月17日 | 日記・エッセイ・コラム

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今日は日曜日なので、お祈りについて書きます。

私は毎朝、このブログに記事を書いています。そして記事の終わりに下記のように貴方のために祈ります。

それはそれとして、 

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

お会いしたことも無い方のためにお祈りしています。無宗教の方々の為にもお祈りしています。

 こんな他愛も無い、そしてある意味では無責任な言葉を一字一字キーボードを叩いて印字するのはむなしいと思う時もあります。

 しかし一字一字キーボードを叩いている間は私の心は幸せを感じています。自分の利益でなく他の人のために祈るのは良いものです。

 そしてこの祈りの言葉を見た方のうち一人でも気分が良いと感じてくれれば、それで良いのです。健康と平和な生活が人間にとって一番大切です。お金や権力を持つよりももっと、もっと大切です。

 さて祈る時には祈る相手が要ります。私が祈っている相手は貴方の神様や仏様に祈るようにしています。私の神に祈るよりは効き目があると思っています。

 もし貴方が無宗教でしたら上の写真に示すような陽の光に祈るのです。下の写真のような木々に祈るのです。

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 祈る神様は種々多様です。下は旧田無村の道端にある江戸時代末期の庚申塔(右)と馬頭観音(左)です。現在でも花を供えて祈っている方がいるのです。その方のために健康と平和を祈るためにはこの庚申塔と馬頭観音へ祈るのが良いのです。

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そんなことを考えながら写真を撮ってきました。

それはそれとして、

 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料:私の信仰に関する記事です==========

クリックすると記事が一瞬に開きます。

私の宗教にかかわる遍歴(1)祖父が田舎の寺の住職でした

私の宗教にかかわる遍歴(2)それは「菊と刀」から始まった

私の宗教にかかわる遍歴(3)神社や神道とのかかわり

私の宗教にかかわる遍歴(3)神社や神道とのかかわり (続き)

私の宗教にかかわる遍歴(4)神学校や修道院へ気楽に遊びに行く

私の宗教にかかわる遍歴(5)隠れキリシタンの本を読んでカトリックになった

 

 

 


木漏れ陽の写真を撮りに行きました

2013年11月16日 | 写真

最近、紅葉の写真の掲載が多いので、今日は趣向を変えました。

「木漏れ陽の写真」というテーマを作りました。そしてそれにふさわしい樹木の大きな公園をあれこれ考えてみました。午後の陽が斜めに射しこんだ傾斜地の森のあるのも条件になります。小高い岡がつらなる聖蹟桜ヶ丘都立公園を選び、久しぶりに家内と一緒に出掛けました。車で30分くらいの多摩市にあります。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。

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激動の昭和時代を客観的に見直す(1)軍事技術が戦後の工業発展を成し遂げた

2013年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

昭和という時代は日本民族にとって空前絶後の激動の時代でした。

この時代を否定的に考える日本人が多いのはアメリカの軍国主義否定の戦後政策によるものです。そして日教組をはじめ共産主義に染まった知識人たちの自虐趣味的な論評の影響です。

しかしそろそろ昭和という時代を客観的に評価し直しても良い時代になったと思います。

しかし一方で、私は300万人の戦争犠牲者と筆舌に尽くし難い悲劇を何度も、何度も思い出しています。そして戦前、戦後の苦しかった生活を忘れることは出来ません。

これらの日本人の未曾有の悲劇と悲しみを常に考えながら、「激動の昭和時代を客観的に見直す」と題する連載記事を書き進めて行きたいと思います。

連載第一回は戦前の軍事技術が戦後の工業発展を成し遂げたという考えを記します。

簡略に書けば戦前の軍用機の製造技術が戦後日本の自動車製造や新幹線車両製造技術を支え、日本を世界の一流の工業先進国にしたのです。

軍用機製造で一番重要な技術はどんな悪条件でも絶対に回り続けるエンジンを製造する精密機械工作技術です。

絶対に故障しないエンジンを作り、故障しない操縦装置を作れる技術者にとって故障しない自動車や新幹線の車両を作ることは容易なことです。

新幹線ではエンジンの代わりに絶対に故障しない強力な電動モーターを作製すれば良いのです。そして急速に車両を止めるブレーキを開発すれば良いのです。

この製作技術の中心は精密機械加工の技術と強靭な鉄鋼材料を作る技術です。

強靭な鉄鋼材料を作る技術は戦車や軍艦の装甲板を作る技術として発達していたのです。それは広島県の呉にあった帝国海軍呉製鋼所にあったのです。北海道の室蘭にあった日本製鋼所にも強靭な鉄鋼材料を製造する技術があったのです。

下に軍用機を25,800機も作った中島飛行機株式会社の軍用機の写真を示します。

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・イラストの出典は、http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/です。

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中島飛行機株式会社は1917年に彗星のように現れ、燃え上がるように成長し、通算25、804機の軍用機を大量生産し、1945年の終戦とともに煙の如く消えてしまった会社です。

その発展と各工場での生産活動の様子は多くの日本人の記憶から消えてしまいました。しかしその技術は富士重工のスバル360へと直結し、戦後日本の自動車産業のいしずえとなったのです。

そして下にはスバル360と新幹線の写真を示します。

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(写真の出典は、http://plus.himote.in/rank/span:day/date:1379084400です。)

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(写真の出典は、http://plaza.rakuten.co.jp/izuheoideyo/diary/201011280000/です。)

第二次世界大戦の日本人の300万人の犠牲者のことを想うと昭和時代を手離しで高く評価できませんが、その時代の軍用技術が戦後の日本の工業の発展を支えた事実はもっと肯定的に認めるべきではないでしょうか。

 それこそが激動の昭和時代を客観的に見直す態度であると信じています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


すっかり落葉してしまった裏高尾の散歩道

2013年11月15日 | 写真

甲州街道のJR高尾駅前を過ぎて、京王線の高尾登山口へ行く鉄道の下を通過するとすぐに交通信号のある交差点があります。そこを直進すれば現在の甲州街道で右折すると旧甲州街道になります。この旧甲州街道は小仏宿の関所跡があり、街道沿いの家々も昔の雰囲気を感じさせます。途中にあるマスの釣り堀池を見下ろしながら大きく左へ曲がると間もなく左の裏高尾の方へ入る砂利道が伸びています。入るとすぐに駐車場があり、その近辺は以下の写真のような遊歩道があります。

ここはとても静かな所なので、気に入ってます。一昨日は独りでしたが、よく家内と一緒に散歩に来るところです。

一昨日は木々がすっかり落葉してしまっていました。下の雑木が少しだけ黄葉しています。それもなかなか風情のある晩秋の光景でした。

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この駐車場から更に奥に進み左折すると高尾山に裏側からのぼる急坂の登山道があります。昔は何度も登りましたが、最近は遠慮しています。

更に奥の方へ直進すると城山への登る車道へつながります。一般車は通行禁止なので途中から車をおりて歩いて登っていきます。こちらは楽な道で、去年も2度登りました。

この裏高尾は観光客が少なく、登山愛好家が来るところです。JR高尾駅から小仏峠の登山口まで京王バスが来るので登山愛好家が来ます。土産物店もソバ屋も一切無い静かな所です。(終わり)