東京都東久留米市に旧柳窪村の一部を江戸時代そのままに保存し、広大な屋敷に囲まれた豪農の家が数軒あります。
随分と以前から私はその村落を国木田独歩の武蔵野の世界と信じて、何度も散策していました。
その豪農の一軒の村野家のご好意と、村野家の旧宅、顧想園の保全をするボランティア達の助けで見学することが出来ました。茅葺の大きな邸宅とイチョウ、モミジに彩られた見事な庭園をゆっくり拝見できました。
その顧想園のことは末尾の参考資料にありますので省略いたします。
そこでここでは私が昨日撮った写真をご紹介し、印象的だったことを2つだけ書きたいと思います。
まず見学会には多くのボランティアが支援していました。感動的だったことは皆がこの村野家の旧宅、顧想園を愛し誇りに思っているのです。
そして現在の村野家の家族と親しく、そして尊敬しているのです。
その上、足の弱い私を支えてくれ、椅子を持って回って説明の間、私を座らせてくれた男性のボランティアの方が無限に優しかったのです。
村野家の家族とボランティアの人々の心の優しさに感動したのです。
もう一つは村野家の五代目の奥様とそのお嬢様の様子がなんともいえず上品で良い感じなのです。
そして5代目の奥様の御父上が東北大学の教授をしていた伊澤孝平氏ということで家内が親しくお話を聞くことが出来たそうです。私と家内の父も同じ大学で教授をしていたのです。そして伊澤孝平教授の遺稿集、「そういう時代の旅と人」という本を頂いてきました。
この本の書評はいずれ書くつもりです。
そんなこんなで人々の温かい心に感動する体験をしました。
なお村野家の見学については、東久留米市の郷土資料室 電話042・472・0051へお問い合わせください。年間、決まったイベントの折にしか見学できませんのでご留意ください。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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===東久留米市の市報から、「村野家が国の有形文化財に登録されました」===(http://www.city.higashikurume.lg.jp/kensaku/shincyaku/s2011/110301_new_06.html)
「主屋」は、市内で唯一現存する茅葺(かやぶき)の屋根をもつ家屋で、江戸時代の天保9年(1838)に建築されたものです。六間取りの大きな家で、落ち着いた入母屋(いりもや)造りの外観が周囲の屋敷林とよく調和しています。幕末期の武州一揆(ぶしゅういっき)の痕跡が残る歴史的な価値も有しています。
「離れ」は、明治後期に建てられた木造平屋建て入母屋造りに洋風な要素を取り入れた建造物で、付書院欄間(つけしょいんらんま)の彫刻は著名な島村俊表(しゅんぴょう)の作品です。
3つの蔵は、江戸時代末期建築の「土蔵」と「穀蔵」、明治38年建築の「新蔵」で、漆喰(しっくい)仕上げの外観をもつ清澄な趣を木立のなかに残しています。
「薬医門」は、明治14年建築の間口2・6メートルの比較的規模の大きい総欅(けやき)造りの門で、屋敷地の南東部に重厚な姿をみせています。
「中雀門」は、大正後期の建築で、主屋の横にある前庭と奥庭を画する切妻(きりづま)造りの門です。
このように、「村野家住宅」は主屋を中心に江戸時代から明治・大正期の建造物が配置され、当時の農家建築の典型的な姿を示すものとして、「造詣(ぞうけい)の規範」と「国土の歴史的景観」という基準により文化財保護法の規定により登録されたものです。
柳窪地域は、江戸時代から明治期にかけての建造物や屋敷林などが今でも多く残っていて、都の「雑木林の道」における「屋敷林の道」にも選定された貴重な景観が保全されている場所です。さらに周囲には柳窪梅林の碑や地蔵尊などの市指定文化財や天神社の湧(ゆう)水(東京の名湧水57選)をはじめ、柳窪緑地保全地域など、自然と文化財が一体となった歴史的景観が残されています。その意味からも今回の国登録有形文化財の誕生は大変意義のあるものといえます。(以下省略)