後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

森友学園問題、アメリカには無い忖度という文化

2018年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム
森友学園の騒動の根本的な原因は安倍総理と昭恵夫人に有ります。
従って安倍総理は責任をとって辞職すべきです。安倍総理は国際外交の分野でよく働きました。国内政治でも大過なく、経済も発展しました。しかし残念ながら今回の森友学園騒動の倫理的責任は免れることは出来ません。
安倍さんが辞めない理由は、官僚達が忖度によって勝手にしたことで、自分には関係が無い。自分は何も法律に違反していないので辞める必要がないと主張して、絶対に辞めようとしないのです。

そこで今日は忖度が重要な役割を持っている日本の社会と、忖度が皆無なアメリカの社会を比較しようと思います。比較しながら日本における倫理的に善い忖度と悪い忖度の区別を明確にします。
アメリカの社会では権力者の利益になることを部下が勝手に行うことは職務の規則違反という風土があります。
権力者の権益を秘密裡に増大すれば、いずれは自分に利益が回ってくることは明らかです。それは汚職の一種なのです。こういう忖度を悪い忖度と言います。
日本の政治の世界ではこのような忖度が横行しています。

一方アメリカには忖度という文化がないのです。相手の気持ちを思いはかって行動することはありません。イエスかノーを聞いてから行動します。一般に欧米では言葉と言葉で話しあってから行動する文化なのです。

今回の森友学園の騒動では財務省の官僚が2つの巨悪な忖度を、少なくとも2度しました。
一つは広い国有地を勝手に官僚が森友学園に格安で払い下げたことです。安倍総理に相談しないで払い下げたようです。そうすれば財務省が後にそのお礼として安倍総理側から予算を例年より多く配分されるでしょう。麻生財務相から官僚達へお礼が届くでしょう。これこそ組織的な汚職の一種です。巨悪な忖度にもとずく格安の払い下げだったのです。

もう一つの悪い忖度は昭恵夫人が関係したという公文書を財務省の官僚が勝手に書変えた時の忖度です。書き換える前の公文書には昭恵夫人の関係が明記してあったのです。
安倍総理一派の国会答弁の内容に合うように昭恵夫人の関係を記した公文書を書き換えたのです。
これも財務省の官僚が安倍総理の指示を待たずに勝手に書き換えたのです。
そうすれが後日、安倍総理一派からお礼が来る筈です。一種の汚職が起きる可能性があるのです。
アメリカではこういう悪い目的を持った忖度は存在しないのです。始めから忖度というものの無い文化なのです。

従来、日本の文化では忖度は良い意味で使われてきました。相手の気持ちを思いやる優しい心だったのです。東洋独特な文化なのです。
しかし政治の世界でこの言葉が使われる場合は悪い目的で使われる忖度になります。

官僚が勝手に行政を支配するという未熟な民主主義が原因です。そればかりではありません。日本文には汚職を容認する土壌があるのです。
日本人は韓国や中国の政治家の汚職のニュースを見て中国や韓国をさげすみます。
しかし欧米人からみたら日本も中国も韓国も同じなのです。

今回の森友学園の騒動は日本社会の闇の深さを暗示しています。
それにしても森友学園問題での悪い忖度を苦にして自殺した近畿財務局の一人の官僚の冥福を祈らざるを得ません。自殺は悪いことですが彼は倫理的に正しかったのです。

さて森友学園の騒動には金銭の問題に最近の右翼思想の復活が重なっているのです。
背景に明治維新以後の日本は正しかったという思想があったのです。
日本の行なった日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争はすべて自衛のための正しい戦争だったという考えも次第に広がっています。
ですからこのような思想の人は安倍総理は辞めるべきでないと主張します。
しかし悪い忖度は汚職を誘発します。汚職は悪です。
右翼思想と関係なく汚職を誘発するような悪い忖度は排除すべきなのです。
それを引き起こした安倍総理は残念ながら辞職すべきではないでしょうか。

さて皆様のご意見は如何でしょうか?ご意見をお待ちしています。

今日の挿し絵代わりの写真は八丈島のフリージ祭の写真です。
今年は3月25日(日)から4月8日(日)まで開催されます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







===参考資料=========================
第52回 八丈島フリージアまつり
http://www.hachijo.gr.jp/blogs/第52回八丈島フリージアまつり%E3%80%80325日%EF%BD%9E48日/
【期 間】
2018年3月25日(日)~4月8日(日)
※フリージアインフィオラータ/島めしフェスタは4月7日(土)、8日(日)
【会 場】
八形山フリージアまつり特設会場
※フリージアインフィオラータ/島めしフェスタは多目的ホール「おじゃれ」、町役場ロビー
【料 金】
入場料無料
【アクセス】
八丈島空港より徒歩15分
底土港より車で10分
※フリージアインフィオラータ/島めしフェスタ会場へのアクセス詳細は「フリージアまつり2018」ホームページにてご確認ください。
【問合せ】
八丈島観光協会 ☏04996-2-1377

ゴッホのキリスト教と孤独、その絵画の裏にあるもの

2018年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は朝から冷たい雨が降り憂鬱な気分です。こんな時はゴッホの絵画を見ると元気が出ます。私は気分が沈むとゴッホの絵を数枚見ることにしています。すると何故か勇気が湧いてくるのです。それは美しいものを見た時の感動から生まれた勇気です。嗚呼、人間はこんなにも美しいものが作れるのだという明るい気分になります。
そこで早速、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年-1890年)の絵を描かれた年代順にお送りします。

1番目の絵画は1885年の「馬鈴薯を食べる人々」です。初期の作品で、キリスト教信者として貧しい生活の人々に寄り添った絵画でした。牧師になろうとし挫折した頃の絵です。しかしこの画風は続きませんでした。

2番目の絵画は1888年の「ローヌ河の星月夜」です。南フランスに移っての作品です、

3番目の絵画は同じく1888年の「夜のカフェテラス」です。

4番目の絵画も1888年の「黄色い家」です。

5番目の絵画は1888年の「アルルの跳ね橋」です。

6番目の絵画は1890年の「カラスのいる麦畑」です。

7番目の絵画は1890年の7月の鳥が低空を飛んでいる「麦畑」です。

それにしてもゴッホは孤独な男でした。結婚もせず37歳で死んだのです。
生前に売れた絵はたった1枚、『赤い葡萄畑』だけでした。不遇の生涯を送り、弟テオドールの援助でなんとか生活していたのでした。
今日示した7枚の絵画のうち6枚は死の直前の1988年から1990年に描かれました。現在世界中で称賛されているゴッホの絵画は全て死の前の2年間に描かれたのです。

それではこの孤独な男は何を考えて生きていたのでしょう?
その精神の遍歴の様子は、http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/G/Gogh/Gogh.htm にあります。抜粋をお送りいたします。

(1)牧師になろうとしたが挫折
ゴッホはオランダのプロテスタントの牧師の息子として1853年に生まれた。ゴッホ自身もキリスト教への信仰心が厚かった。
伯父のヴィンセントが経営するグーピル商会で仕事をしていた。当時、パリ、ロンドン、ハーグで絵画を扱っていた。しかし、経営者にも仕事にも幻滅し、7年後、23歳でこの仕事は辞めている。
その後イギリスへ渡り、学校で教えた。この間にゴッホは、プロテスタント主義に傾いていく。
オランダへ一旦帰り、アムステルダムの大学で聖職者になるための教育を受けようとした。しかし、実際の試験勉強では宗教と何の関わりも無い数多くの課目も勉強しなくてはならない。
落胆したゴッホはブリュッセルの福音伝道学校へ入る。しかし、ゴッホの過剰な信仰は、学校側に警戒される。
3ヶ月後、鉱夫たちの説教のため、ボリナージュ地方へ派遣される。ゴッホは人々の貧困を見て、自らも同化しようとする。しかしあまりにも行き過ぎた熱意のため解任されてしまう。
ゴッホの激しい性格は、他の人からは常に過度に映り、危険視されたのだった。
ゴッホとしては単に、キリスト者として貧しい生活を送りたい。そんなゴッホは、人間関係がうまく行く筈が無い。ここで牧師になることを断念した。

(2)ハーグに出て画家を目指し社会主義へ
ハーグでもゴッホは、一人の娼婦を救おうとして、家を提供してしまう。プロテスタント教会の伝統的なモラルから、明らかにかけ離れた生活者になってしまったのだ。
キリスト教による救済を断念したゴッホは、今度は、政治的な傾向へと向かう。実際に運動家ではなかったが、精神的には社会主義の理想へと引っ張られていった。実際、当時の社会は、社会主義が大きな勢力として台頭してきた時代であった。
パリに出ると特に、社会主義やアナキズムの賛同者が画家仲間でも多くいた。ゴッホは画家が協同制作するコミューンを夢見た。
大変な読書家だったゴッホは、ゾラ、ディケンズ、ヴィクトル・ユゴーなどの作家についても、写実主義によって貧困層の受難を描写する点で、自分と共通点があると考えていた。
オランダの画家では、聖書の場面を人間性あふれる豊かな感性ととも描いたレンブラントを賞賛し、フランス画家のオノレ・ドーミエの、民衆版画で、権威を嘲笑う手法に共感していた。
そしてミレーは、ゴッホが最も賞賛した画家だった。宗教的な主題を直接描くのではなく、働く農民に尊厳を与えるその手法は、聖書の世界に深く関わっていると考えたからである。

(3)印象派への転身と傑作の絵画を描く
1886年、ゴッホはパリの弟テオのところに同居した。初めてモネ、ルノワール、ドガ、ピサロなどを目の当たりにした。印象派の影響で、ゴッホの絵はくすんだ色彩から、一気に生き生きした色彩へと変貌した。
1888年南フランスへ行ってからは、作品は外見以上に深いものを主題として求め続け、ゴッホの心情を表現するようになり、ますます個性的になっていった。
1890年7月、オヴェールで自殺した。生前に売れた絵は1点だけだったが、その頃には既に、画家仲間から作品は知られ評価され始めた時期であった。享年37歳。
パリの北にあるオーベールにゴッホの墓と弟テオの墓が並んでいる。

ゴッホの精神の遍歴を想うと粛然とします。
しかし晩年に描かれた数々の絵画は人類の輝かしい遺産になりました。ゴッホの精神の遍歴を一切知らなくてもその深い美的感動が人々をとらえるのです。不思議です。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

ユダヤ教徒のイエスが死んで、生き返ったのでキリスト教が出来た

2018年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム
何故キリスト教がヨーロッパやロシアやアメリカで広く信じられているかご存知でしょうか?
何故、ユダヤ教からキリスト教が生れたかご存知でしょうか?
ユダヤ教とキリスト教の違いをご存知でしょうか?
これらの問いの回答はたった一つです。
十字架にかけられて死んで、墓に葬られたナザレの大工の息子、イエスが又生き返って墓から出て来たからです。
この生き返って歩いて来たことを「復活」と言います。
ユダヤ教とキリスト教の違いは、その教えの中に「復活」が有るか無いかです。
世界の諸国でキリスト教が信じられているのは、その教えが国籍に関係無く全ての人々を幸せにしているからです。
キリスト教は「愛の宗教」だからです。人々は皆愛されることで幸せになるからです。しかし愛だけでなく、キリスト教では「復活」が非常に重要なのです。

世界にいろいろな宗教がありますが「復活」という考え方を教えている宗教はほとんど有りません。
そこで今日はこの復活ということを分かり易く説明したいと思います。

イエスは従来のユダヤ教の保守的な律法主義に反対して神と人間の間の愛の重要性を主張しました。ユダヤ人の多くがイエスの新しい教えに魅かれ、イエスは大群衆に囲まれ、従う人が非常に増えたのです。イエスの評判はユダヤ全土に広がります。
律法を重んじるユダヤ教徒の保守派は嫉妬し、イエスを裁判にかけて殺そうとします。
当時のユダヤの地はローマに占領されていて、ポンティオ・ピラトというローマから派遣された総督が治めていました。
保守派はイエスをピラト総督に訴え、死刑判決にしてもらおうとしました。
ピラト総督にとっては迷惑な訴訟です。しかしユダヤの地が騒乱になると自分の地位が危なくなります。いやいやながらイエスに死刑判決を下したのです。
そして十字架にかけて死刑を執行します。それはある金曜日の出来事でした。十字架から降ろされたイエスは麻布に巻かれ洞窟の墓に葬られました。しかし3日目の日曜日の朝、弟子が墓に行ってみるとイエスの遺骸がありません。解かれた麻布だけが残っていたのです。
その後、イエスは弟子達の前に現れ、以前から弟子に言っていた肉体の復活を現実に見せたのです。
そしてその後、天に上がって神の右の座についたのです。
この世界の終末の時、イエスは再び地上に来て、全ての死者を生き返らせ、復活させるのです。永遠の命を頂くのです。
このような復活の考え方がキリスト教の一番重要な部分です。
ですからこのイエスの生き返りを祝う復活祭こそキリスト教では一番重要な祭日なのです。
死んだ人間が生き返り永遠の命を頂くことは国籍に関係無く全ての人間の願いです。希望です。
この教えはユダヤ教にはありません。イエスの死後しばらく経って「新約聖書」が書かれ、キリスト教が出来上がったのです。

今日の記事の表題の「ユダヤ教徒のイエスが死んで、生き返ったのでキリスト教が出来た」という意味は以上の通りです。

さてキリスト教徒は全てイエスの肉体の復活を信じています。死んだ人間が生き返り永遠の命を頂くことを信じています。
貴方はキリスト教徒に質問してみてください。「イエスの肉体の復活を信じていますか?」と。
答は人さなざまです。
「勿論です!」という人もいます。「時々疑いますが、信じています」と答える人もいます。そして「科学的にはありえないので、それは教えが永遠だという象徴的な表現なのです」と言う人もいるでしょう。また「奇跡物語や復活の部分は信じませんが、その他を信じて洗礼を受けました」という人もいます。
答はいろいろありますが、その答えを批判したり議論してはいけません。批判したり議論しては失礼になります。ああ、そうですかとだけ言うべきです。どんな答えでも神が間違いなく全ての人を愛していますから心配しないで下さい。
私だったら、「時々疑いますが、信じています」と答えます。

しかし復活とは不思議な考え方です。仏教や儒教や道教にはありません。日本人にキリスト教があまり受け入れられない理由はこの復活の考え方にあるのでしょうか。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日の四旬節第四の主日のミサの2枚とカトリック墓地の3枚です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は葡萄酒を神父が捧げて祈っている場面です。イエスは最後の晩餐のとき、この葡萄酒を私の血として飲みなさいと弟子たちに言った葡萄酒です。現在の普通の葡萄酒がイエスの血に聖変化するように祈っている場面です。

2番目の写真はイエスの肉体としてのパン片を神父が信者の一人一人へ「キリストの体」と言いながら手渡している場面です。
カトリックのミサでは、毎回このように最後の晩餐を再現しているのです。

3番目の写真はカトリック小金井教会の初代主任司祭だったヨゼフ・ムーニー神父の墓です。1974年から1988年に亡くなるまで初代主任司祭として大変お世話になった恩人です。アメリカ人でした。昨日、花を持って墓参りに行きましたところ既に沢山の花が供えられていました。

4番目の写真は1971年に私共に洗礼を授けてくださった塚本金明神父の墓です。当時、塚本金明神父はカトリック立川教会の主任司祭でした。心の温かい方でした。

5番目の写真は東京大司教区に属した神父さん達の共同墓です。塚本金明神父もここに眠っています。
ヨゼフ・ムーニー神父はあるアメリカの宣教会に属していたので、墓は東京大司教区の神父さん達の共同墓とは別になっています。
この墓地には彼岸のたびに家内と共に来てお世話になった神父さん達へ感謝しています。

「菜の花が咲いて春が来たような気分です」

2018年03月18日 | 写真
午前中はミサに出て、午後から府中カトリック墓地へお世話になった神父様の墓参りに行きました。今日が春の彼岸の入りなので墓地のほとんど全ての墓に花々が供えてありました。
キリスト教も日本の習慣に従って春と秋のお彼岸に墓掃除をして花を供えます。
帰り道には毎年菜の花の咲く畑へ行って、写真を撮りました。
菜の花が一面に咲いているのを見ると本当に春が来た気分になります。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。







お寺の写真と十三仏のことなど

2018年03月17日 | 日記・エッセイ・コラム
今日が春の彼岸の入りの日です。昨日は東京都日野市大昌寺に家内の家の墓参りに行きました。
このお寺は浄土宗で知恩院の末寺です。三鷲山と号し、本尊は弥陀如来坐像です。
阿弥陀如来は大乗仏教の如来の一つです。梵名はアミターバといい、それを阿弥陀と音写します。
私の祖父が曹洞宗のお寺の住職だったので、幼少の頃にお寺でよく遊んだ思い出があります。昨日も何となく懐かしいので大昌寺の風景写真を撮って来ました。
その写真を6枚お送りします。











私が写真を撮っている間、家内はお墓の掃除をし、花と線香を供えていました。
そして私は大昌寺のご本尊が阿弥陀如来だということを不思議に思っていました。
祖父が住職をしていた正林寺は曹洞宗なのでご本尊は釈迦如来でした。
佛教はお釈迦様が教え始めた宗教なので、全てのお寺のご本尊は釈迦如来にすべきではないでしょうか。私は個人的にはそう考えています。
しかし大乗仏教ではいろいろな如来や菩薩がお寺の本尊になっているのです。
そして日本では江戸時代から特に13の佛が大切にされるようになり、お寺の本尊として祀られるようになったのです。
十三仏は江戸時代になってから日本で考えられたもので、冥界の審理に関わる13の仏のことです。また十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)をそれぞれ司る仏様とも考えられて来たのです。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E4%BB%8F )
13の仏とは、閻魔王を初めとする冥途の裁判官である十王と、その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官とされる仏です。
この十三佛は以下の13の佛のことです。

1、不動明王、 秦広王、 初七日(7日目・6日後)
2、釈迦如来、 初江王、 二七日(14日目・13日後)
3、文殊菩薩、 宋帝王、 三七日(21日目・20日後)
4、普賢菩薩、 五官王、 四七日(28日目・27日後)
5、地蔵菩薩、 閻魔王、 五七日(35日目・34日後)
6、弥勒菩薩、 変成王、 六七日(42日目・41日後)
7、薬師如来、 泰山王、 七七日(49日目・48日後)
8、観音菩薩、 平等王、 百か日(100日目・99日後)
9、勢至菩薩、 都市王、  一周忌(2年目・1年後)
10、阿弥陀如来、五道転輪王、 三回忌(3年目・2年後)
11、阿閦如来、 蓮華王 、 七回忌(7年目・6年後)
12、大日如来、 祇園王、 十三回忌(13年目・12年後)
13、虚空蔵菩薩、法界王、 三十三回忌(33年目・32年後)

7番目の写真はこの13佛の石像の写真です。東村山市の正福寺本堂の前にある13佛の石像の写真です。
一番右に不動明王があり、その隣が釈迦如来です。そこから左方向に文殊菩薩、普賢菩薩、普賢菩薩、、、、、阿弥陀如来、、虚空蔵菩薩と並んでいます。
大乗仏教では多神教的にこれら数多くの如来や菩薩を大切にして信仰の対象にしているのです。
ちなみに不動明王の起源は、ヒンズー教の最高神シヴァ神にあるとの説が有力なのです。そして不動明王を祀る仏教は密教なのです。
不動明王は、密教仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊なのです。大日如来の化身とも言われ、また、五大明王の中心となる明王でもあります。そして真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されています。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%98%8E%E7%8E%8B )

一般的な仏教でのご本尊や仏像は優しい姿をしたものが多いですが、不動明王は悪を絶ち仏道に導くことで救済する役目を担っていることから恐ろしい表情をしていると言われています。
怖い様相から「戦いの仏」のように見えますが、実際は迷いの世界から煩悩を断ち切るよう導いてくれる仏で慈悲深いのです。
また日本では「敵国退散の守護神」として扱われたり「疫病退散の守護神」としても扱われていたようです。
日本のあちこちの「ご不動さん」という祠やお寺があり、日本人に馴染みやすい佛さんなのです。

それにしても佛教は理解しにくいものです。お釈迦様の教えにインドのヒンズー教や中国の道教など沢山の考え方が重層的に加わっているから簡単にはその全貌が分かり難いのです。
そんなことを考えながら日野市の大昌寺の風景写真を撮ってきました。暖かい春のような午後でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

老人と孤独(1)インターネットを用いて新しい友人を作ろう

2018年03月17日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は高齢になると祖父母や両親が旅立って行ってしまいます。それまで目をかけて励ましてくれた恩人や友人達も何時の間にかいなくなってしまいます。自分を昔から知っている人々がみな消えてしまうのです。気が付いてみると周りには知っている人がいなくなってしまいます。老人の宿命です。老人の孤独です。
この孤独な状態を解消する方法を幾つか考えてみようと思います。その方法に関して思い付いたことを連載風に書いてみたいと思います。
仕事をやめた老人はよく趣味のサークルやボランティアに参加しています。そうすると自然に友人が出来ます。しかしいろいろな事情でそれが出来ない場合もあります。そんな場合にインターネットが役に立ちます。

今日はインターネットを用いて新しい友人を作る方法を書いてみます。ご気楽に読み流して頂ければ幸いです。
現役で働いていた時は、仕事を通じてどんどん新しい友人を作ることが出来ました。新しい友人が広がって行きました。孤独を感じないものです。もっとも仕事で出来た友人は本当の友人では無いと狭い了見で自分は孤独だと思う人もいます。そのような懐疑的な人は、「インターネットを用いて新しい友人を作ろう」という題目に反発するでしょう。
しかしこの先も読み流して下さい。
まずインターネットを用いて新しい友人を作るために一番重要なことは「老人の頑なさ」を綺麗さっぱり捨て去ることです。
以前の仕事の上での成功も失敗も全て捨て去り徒手空拳の状態になることが一番重要なのです。その上で「本当の友人とは何か?」という狭い考えを捨てます。
知り合った人は皆尊敬すべき友人だと信じることが肝心です。懐疑的な人はそんな軽率な考えについて行けないと思います。
しかし人間は土から生まれて土へ返る存在なのです。生きている間くらいはお互いに感謝しあって「かりそめの友人」になれば良いのではないでしょうか。
このように書くとインターネットを用いて新しい友人を作る方法がおのずと見えてきます。
それはインターネットの上に掲載した自分の書いた文章を読んでくれる人に感謝すると友人になれるのです。読者を尊敬すると友人になれるのです。インターネットの上に掲載した自分の撮った写真を見てくれる人に感謝すると友人になれるのです。その人を尊敬すると友人になれるのです。

さてもっと具体的な方法を書きます。私が使っている方法です。
まずブログ(https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama )に随筆をよく書いています。
その随筆をFace Book(https://www.facebook.com/kazu.s.goto )にも掲載します。
それから高齢者が主に会員になっている趣味人倶楽部というSNSの日記のページ(https://smcb.jp/users/47513/diaries/index_created )にも掲載します。
すると外国や日本に住んでいる人々からコメントが来ます。コメントを下さった方々のブログやFace Bookや趣味人倶楽部のページを見て丁寧な言葉でコメントを投稿します。これを繰りかえしていると、もっと親しくなります。
そしてその新しい友人へ私のブログやFace Bookや趣味人倶楽部のページに記事を書いて下さいと丁重にお願いします。記事の内容はその方の家族のことだったり趣味の話だったり自由にお願いしますと書き送ります。
なるべく数回続く連載記事をお願いします。
数例を書きます。ブラジルに移民して、成功したある宗教家に移民後の体験記の連載を書いて貰いました。フランス人と結婚し孫までいる幸福な日本女性にその体験記を連載して頂きました。日本人女性で、夫のフランス駐在の間、長期間パリに住み子育てをした方にその体験記を連載記事にして頂きました。日本である問題の故に差別されてイギリスに移住し成功した日本人男性の一生の物語を連載して頂きました。みんな私のかけがえの無い友人になりました。
まだあります。猟期だけ北海道に移住しエゾ鹿の銃猟を趣味にしている方に猟犬と銃猟に関する連載記事を書いて頂きました。仏教では殺生はいけませんが、この方は人格高潔で仲間に尊敬されている様子です。親しくなったらエゾ鹿とイノシシの上質な肉を送ってくれました。この方に銃猟の趣味の話を連載記事にして頂きました。
インターネットを用いて新しい友人を作る方法はまだあります。
自分が興味を持った本の書評を自分のブログやFace Bookや趣味人倶楽部のページに掲載するのです。するとその本の著者と友人になります。一つだけ例を書きます。その方は三浦半島の小網代湾にヨットを係留していて、そのヨットクラブの歴史を書いた方です。
親しくなってメールの交換をしています。するとその方が読書家で何でも知っているのです。博覧強記なのです。彼には写真や絵画の才能があり、音楽に優れていて絶対音感の持主です。娘さんがアメリカで有名な作曲家、ピアニストになって活躍しています。
まあこのような例は沢山ありますが、長くなるので止めます。

今日はインターネットを用いて新しい友人を作る方法を自分の体験にもとづいて書いてみました。
いろいろな方法がありますが、たった一つの鉄則は、インターネットで知り合った人は皆尊敬すべき友人だと信じることです。知り合ったことに感謝します。こうして私は老人の孤独を解消したのです。

今日の挿し絵代わりの写真はマンサクの花の写真2枚とパンジーやストックの植え込みの写真2枚と菜の花の写真1枚です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「巨木の白いモクレンノの花、そして沈丁花」

2018年03月16日 | 写真
近所の畑の隅にモクレンの巨木があります。
寒い冬で開花が遅れていましたが昨日満開になりました。
そして自宅の庭にある沈丁花も満開です。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。







アメリカの空母打撃群の脅しで核放棄する北朝鮮か?

2018年03月16日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人の多くは北朝鮮を今にも攻撃しそうなトランプ大統領に驚愕していると思います。
今度は、穏健派のティラーソン国務長官に代えて軍事攻撃を主張しているポンペオCIA長官を国務長官にしたのです。
トランプ大統領は韓国や日本に大きな被害があっても北朝鮮を攻撃し、金正恩体制を崩壊させようと本気で考えているようです。なにせアメリカ一国主義ですから他国が戦乱に巻き込まれても意に介さないのでしょう。
勿論、5月のトランプ大統領と金正恩委員長との会談で、北朝鮮が核兵器の完全廃棄に合意すればアメリカの武力行使はありません。
今回、金正恩委員長が核放棄を言い出し、米韓軍事演習を容認すると言い出したのには晴天の霹靂のような驚きです。
平昌オリンピックに金正恩委員長の妹の金与正さんを派遣し、韓国大統領を北朝鮮へ招待したのです。
そして5月の米朝間の首脳会議が決まったのです。
私はこの急展開に驚きました。驚愕しました。
何故、こんな急展開が起きたのでしょうか?
多くのアメリカのマスコミは経済制裁の成果だと声高く報じています。
しかし私はそれも一部の原因でしょうが、大きな原因はアメリカの空母打撃群の脅しの成果だと考えています。そして空母打撃群の脅しだけでなく、トランプ大統領が本気で軍事攻撃も計画していると金正恩委員長が判断したからです。

アメリカには北朝鮮のスパイが沢山いると思われます。彼等から金正恩委員長へ集まってくる情報を分析した結果、トランプ大統領が本気で軍事攻撃を準備していると判明したのでしょう。北朝鮮の体制を永久に保持するためには、何があってもアメリカの軍事攻撃を避けねばなりません。トランプ大統領は従来のアメリカの大統領とは違い、狂気的な性格の持ち主なのです。
そして側近を次々クビにする独裁者なのです。危険です。
そこで金正恩委員長は態度を急に変えたのでしょう。
トランプ大統領はまだ9人もの高官や閣僚を更迭して、新しい体制で5月の米朝首脳会談に臨むと言われています。
この中には、セッションズ司法長官や非常に賢明なマクマスター大統領補佐官も含まれています。
自分の意に沿う人間で周囲を固め、トップダウンで「トランプ色」を政策に反映し、大胆で迅速な政策遂行を行うとしているのです。
金正恩委員長自身が提示した核・ミサイル実験の停止や米韓合同軍事演習の継続容認、非核化などの明確な合意に達しなければ、トランプ大統領はすぐに北朝鮮の武力攻撃を実行するのです。

このような最近の展開を見ている日本人の心境はどのようなものでしょうか?
日本には、まだ多くの人が平和憲法こそが日本の平和を守っていると信じています。
ですから多くの日本人はアメリカの武力攻撃の脅しがかくも有効であることに驚いています。金正恩委員長の政策を180度転換させたのです。
これは悲しむべき事実です。人類は高度に進化した生物とよく言われますが、まだ武力に依存しているのです。国際間の紛争を話合い解決出来ないのです。
北朝鮮だけではありません。シリア内戦では過去7年の間に35万人の人命が失われ、1200万人が難民になっているのです。
人類は高度に進化した生物であるとは到底信じられません。架空のことなのです。

今日の挿し絵代わりの写真は裏高尾の木下沢(こげさわ)梅林の写真です。昨日、撮って来ました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)













富士山そして山中湖、河口湖、西湖の風景写真を撮りに行く

2018年03月15日 | 日記・エッセイ・コラム
富士山の外輪山の内側に五つの美しい湖があります。東から西へ山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖と富士山の北側ををぐるりと半周するように静かに並んでいます。
この五つの湖からまじかに見上げた富士山は絶景です。
昨日は暖かい春の陽気でした。春風に誘われて10時頃に家を出て、富士山と湖の写真を撮りに行きました。
昨日、撮った写真をお送り致します。

1番目の写真は山中湖の北岸から見上げた富士山です。広い駐車場があり、湖岸に沿って自転車道路があります。写真をゆっくり撮れる場所なので必ずここから富士山の写真を撮ります。

2番目の写真は山中湖の東岸から撮った富士山です。写真の右のほうにジグザグと折れ曲がった登山道が写っています。雪に覆われた富士山は神々しく見えます。自然に祈りたくなります。古来から、この山は信仰の対象だったということがなっとくされます。

3番目の写真はヨットのある富士山の風景です。このヨットはいつも沖に係留されています。富士山と沖に停泊しているヨットの風景が好きで何回も写真に撮りました。
そのヨットも冬にはこうして陸揚げされているのです。

4番目の写真は夏の間 賑わったボート遊びの砂浜の風景です。ボート達は裏返しになって冬を越します。ここは山中湖東岸ですが他の富士五湖の砂浜にはこんな風景がよく見られます。

5番目の写真は河口湖の北の岸から見た富士山です。ここにもヨットが係留されています。もう何十年も同じヨットが時が止まったように係留されているのです。私の好きな風景なので河口湖に行けば必ずここから富士山の写真を撮ります。

6番目の写真は春の陽に輝く河口湖の湖面です。写っている島の向こうに富士ビューホテルがあります。戦前からあるクラシックホテルです。妻が若かったころから家族で何度か泊まった楽しい思い出のあるホテルです。今回もちょっと寄りました。

7番目の写真は河口湖の西浜から小さな峠を越したところにある西湖の風景です。西湖からは富士山が見えないせいか観光客があまり来ません。実に静か山の湖です。
家内が波打ち際の写真を撮りに行って立っています。

8番目の写真は西湖の波打ち際の写真です。小さな風波が清らかな音をたたて打ち寄せていました。
この西湖からさらに西に行くと青木ヶ原樹海の向こうに精進湖と本栖湖があります。昨日はゆっくり遊び過ぎたので時間が無くなり、精進湖と本栖湖には行きませんでした。

さて昨日、写真を撮りに行った地域は2013年から世界遺産になっています。
その世界遺産の名前は「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」という分かり難い名前になっています。これを分かり易くするために「と芸術の源泉」の部分を省略すると、「富士山-信仰の対象」となります。
縄文時代から奈良・平安時代、そして江戸時代へと富士山は日本人の信仰の対象だったのです。この信仰のありかたが世界遺産として後世の人類へ伝えたいという趣旨なのです。

富士山を描いた絵画や富士山を主題にした文学作品が沢山あるから富士山は芸術の源泉なのです。少し強引過ぎるようで私は賛成できません。

それはさておき、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」という世界遺産には実に広い地域の数多くの遺産が含まれているのです。
例えば富士山域に限定しても以下のように数々のものが含まれているのです。

山頂の信仰遺跡群
大宮・村山口登山道(現富士宮口登山道)
須山口登山道(現御殿場口登山道)
須走口登山道
吉田口登山道
北口本宮冨士浅間神社
西湖
精進湖
本栖湖
青木ヶ原樹海

その他は富士五湖は勿論、忍野八海から静岡県の三保の松原まで含んでいます。そして富士山を祀った近辺の全ての神社が世界遺産として登録されているのです。
この膨大な数の世界遺産の詳細は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1-%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%81%AE%E5%AF%BE%E8%B1%A1%E3%81%A8%E8%8A%B8%E8%A1%93%E3%81%AE%E6%BA%90%E6%B3%89 にあります。

世界遺産とは何なのでしょうか?
地域の観光客の増大に主眼を置いた営利活動のようで、私は疑問に思っています。困ったものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


自然を愛する人は幸せになる

2018年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム
幸せとは何でしょうか? 幸福とはどういうものなのでしょうか?
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』では、主人公のジョバンニが銀河鉄道から降りて、「ほんとうのほんとうの幸福をさがすぞ」と言います。「本当の幸福」とは何でしょうか?
ベルギーの象徴詩人、メーテルリンクは幸福の象徴の青い鳥を探す童話を書きました。
2人兄妹のチルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行く物語りです。あちこち遠いところを探しますが結局は自分たちの家に身近にある鳥籠の中にいる鳥だと気がつきます。
人々はみんな幸せになりたいと願っています。
私も若い頃から幸せになろうと努力しました。苦労もしました。若い頃は幸福とは何か分っていなかったのです。それで余計な苦労をしたのです。
しかし老境になると「ほんとうの幸福」とは何か分かるような気分になるものです。
簡単です。自然の風景が好きになれれば幸せになります。自然が生んだ野菜や作物を大切にする心があれば幸せになります。自然のもの全てを愛すと幸福になります。自分では出来ないが自給自足の農業をしている人を尊敬すると幸せな気分になります。
幸せな気分はすぐに消えます。しかし何度もその気分を呼び戻せばよいのです。
一例を示します。5枚の写真に春の陽に輝く海とある漁港の風景写真を示します。
日本全国の何処にでもある海辺の風景です。









このような風景写真を無心に眺めていれば良いのです。風景を愛して眺めているあいだは間違いなく幸福な状態が持続します。そうしてこんな風景の写真を撮っている間も私は幸せです。
私はこの幸せを求めてロウバイや梅の花をおちこちで撮ります。
雑木林の写真も撮りに行きます。庭に咲いている沈丁花の花の香りで幸せな気分になります。
幸福は身近にたくさんころがっています。
これが私の本当の幸福です。メーテルリンクの幸福の象徴の青い鳥は、私にとっては自然の風景です。自然のもの全てです。今日も春のような日和です。自然の風景を求めて田園地帯を車でゆっくり走るつもりです。

しかし宮沢賢治の「ほんとうの幸福」は上に書いた種類の幸福ではないのです。法華経を信じ、他人のために自分を犠牲にすることなのです。その境地が賢治の言う「ほんとうの幸福」なのです。
彼の有名な次の詩を見れば分かります。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニワタシハナリタイ

南無無邊行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如來
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼佛
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

賢治の幸福とは私が書いたような簡便至極な幸せではありません。
いきなりキリスト教のことを書くと突拍子も無いことになりますが一言書かせて下さい。
イエスの「隣人を愛せ」という言葉は広い意味を持っています。その意味には冷害で苦しむ農民を愛することも含まれています。そして、
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ、・・・・

このような宗教的な幸福も理解することも大切ではないでしょうか。
その上で幸福は身近にたくさんころがっていると信じて、明るい気分で毎日を過ごようにします。
すると明るく楽しくなります。これは若い頃に想像も出来なかったことでした。
皆様は幸せでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

ついに白モクレンとコブシが咲き出しました

2018年03月12日 | 写真
最近急に暖かい春らしい日々がやって来ました。例年より寒い冬なので遅れていた白モクレンとコブシが同時に咲き出しました。
近所の家の白モクレンの写真を撮り、その後で、武蔵野公園に行きコブシの花の写真を撮ってきました。
これでやっと春が来たような気分になりました。後は桜が爛漫と咲くのを待つばかりです。
白モクレンの花とコブシの花の写真をお楽しみ下さい。









東京の西端、高尾の梅祭りの写真を撮りに行く

2018年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年梅の咲く時期になると八王子市は高尾梅まつりを開きます。高尾は東京都の西の端にある山里です。
ケーブルカーや薬王院などのある賑やかな高尾山の裏側には静かな旧甲州街道が通っています。その街道沿いの両側に散在する梅林を見ながら散策する趣向です。
この江戸時代の街道は甲州と武蔵野の境の小仏峠を通っており、小仏関所は峠の手前の駒野木を過ぎた所にありました。現在は関所のあった広場と、小仏関所の歴史を書いた看板があるだけです。そこには梅の木があり、「梅まつり」の会場の一つになっています。
ここの梅林は水戸の偕楽園や熱海の梅林のような花を観賞するためより、梅の実を収穫するするための梅畑なのです。
土地が痩せて畑作が困難な傾斜地に梅畑を作り、少しでも暮らしが楽になるように昔の人が努力して作ったものです。ですから観賞用の剪定もしません。自然な感じがします。
昨日はそのような山里の梅畑の写真を撮りに行きました。昨日の目的は1,400本もの紅梅や白梅がある木下沢(こげさわ)梅林の写真を撮ることでした。しかし旧甲州街道は道幅が狭い上、「梅まつり」のお客が道路いっぱいに歩いているのです。歩いている人々を押しのけるように車を走らせるのはいけない事です。途中で断念して帰って来ました。
午前中にミサに出て、私共は午後から行ったので、行楽客が旧甲州街道に溢れていたのでしょう。
しかし山の斜面にある梅畑の写真は沢山撮れました。写真をお楽しみ頂けたら嬉しくおもいます。













この最後の写真には中央高速自動車道路が写っています。旧甲州街道と並んでいます。江戸時代の人は想像も出来なかった道路です。そんな他愛も無いことを考えながら写真を撮ってきました。

それにしても梅の花は寿命が長いです。関東地方では1月に咲き始めて3月一杯は咲いています。高尾の「梅まつり」の日曜日には野点があったりしてお客も多く盛況ですが、平日は静かな昔の街道に戻ります。1,400本もの紅梅や白梅がある木下沢梅林まで車で簡単に行けます。
これからでも遅すぎません。是非お出掛けになってはいかがでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

奇跡の山小屋と呼ばれ続けて! =半世紀以上続いた3つの謎

2018年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム
つい先だって、平野茂樹著、「カンボジアの夕日と子供達の瞳に魅せられて」と題し、後藤和弘のブログに、光栄にも私の拙文と写真を掲載させていただいた。私の個人的な趣味であるカンボジア通いの想いの綴りを、貴重なブログに掲載させていただいた。
そのお礼に、仲間と半世紀以上、孫の代まで3代に渡って運営し続けている山小屋の50周年記念誌「わっぱ小屋」を差し上げた。その小屋は信州の白馬山麓にあり、2014年に創立50周年を迎えたのです。
 その本に目を通した後藤和弘さんから、「これは一生変わらない青春の友情物語です。経済の高度成長の傍らでこんな静かな、そして美しい趣味の世界があったのです。奇跡のような物語です」というメールがあり、ブログ用にまとめてお送りくださいと言う要請を頂きました。
 50周年記念誌を読んだ多くの方々から頂いた感想も、不思議なことに同じような奇跡のようなという言葉の付いた讃辞でした。
(1)1963年に始まった山小屋の概略の歴史
 この半世紀のわっぱ小屋の歴史を、人の拡がりから、簡略に表現すると、次のようになります。
 わっぱ小屋創設の源流となるメンバーは、女性4名、男性7名の計11名でした。この小屋建設話を聞いた男性6名が新たに初代メンバーとして加わり、計17名で船出した。この17名で建てた初代のわっぱ小屋は、屋根裏部屋付きの平屋の小屋でした。
このメンバーがそれぞれ、人生のパートナー持ち、10数年で30名を超えるメンバーとなり、将来平均して2名の子どもを持つと想像し、収容能力60名ぐらいの2代目の小屋に建て替えました。
 森の中にあった2代目わっぱ小屋は、高度成長の波に乗り、周辺が白馬のスキー場群の一角となり、いつの間にか、3世代がスキーと登山などで利用できるゲレンデ内の3階建ての3代目わっぱ小屋に変身し、そして50周年を迎えたのです。
(2)山小屋建設を決心した北海道旅行
山小屋建設の源流は、卒業を来春に控えた静岡大学の男声合唱団員の7人の男性と、同じく来春卒業する東京女子美術大学の4人の女性の夏季休暇の北海道旅行での偶然の出会いから始まったと言える。
 本当に偶然だったのだ。テントを担いで自炊しながら、交通機関以外は無銭旅行を行っている鍋釜担いだ薄汚い7人の山男のグループが、当時の常識では、花の東京の美的センスの良い女子美の学生で、しかもホテルに泊まりながら、優雅な旅をしている4人の女性との出会いが、偶然なくして実現するなどと言う時代ではなかった。隔世の感ありです。
 しかもこの年は、数か月前まで60年安保騒動で、労働者と学生などが真剣に権力者に連日のデモ行進で立ち向かっていた時でもあった。卒業記念と言う大義がない限り、旅行などしている雰囲気ではなかったし、多少後ろめたさを感じながらの旅でもあった。
 偶然の出会いは、彼女らの重大な失敗がきっかけで起った。会計係が共通資金と皆の周遊券の入った財布を観光船から羅臼港の海に落としてしまったのである。
 同じバスに乗り合わせた我々は、その事情を知り、とりあえずテントを一張提供することにし、本日の我々の宿泊予定地の斜里駅で下車し、斜里駅長に東京までの帰路の切符を出してもらう交渉をすることにした。交渉で無事東京までの乗車が認められ、旅行のめどがついたので、翌日一日だけ、我々と行動を共にし、大雪山の登山を共に愉しみ、山頂で別れ、別々の旅を進めることにした。
 詳しい名前も聞かず、今後の旅程も知らず、まして住所や電話番号も知らず、旅を進めていった。
 ここで第2の偶然が起きた。台風の影響で青函連絡船が欠航することになり、道内の旅行者は再開まで足止めを食らうことになり、周遊券も足止めの期間分延長されることになった。
(3)東京女子美術大学生4人との奇跡的な再会
 我々が札幌駅に着いた時、メンバーの一人が、偶然にも、駅の伝言板に白墨で書かれた我々宛ての伝言を見つけたのだ。
 「私たち4人は、札幌市内の児童会館にいます。もしこの伝言を見たらご連絡ください」と言うものだった。
 札幌で再会し、その後東京まで一緒に旅を続け、北海道旅行は東京で同時に終えることになった。もう初めから一緒に旅をしている雰囲気であった。
 その後は、卒業してどんな道を歩もうと、どこに住もうと、誰と結婚していようと、いつでも望むときに集まって気楽に会える共通の山小屋を作る決心をしたのです。皆で協力して土地を買い、小屋を建設したのです。
場所は信州の白馬村神城にしました。
既に半世紀が過ぎ、現在進行形でわっぱ小屋の共同管理運営が続けられ、3世代に渡り家族ぐるみの付き合いを行っているのです。
 一族でも3世代以上持続するのが難しいと言われている別荘共同運営を、大きな問題も発生せず、また大きな負担も感じず、他人同士の集団が半世紀以上も、なぜ続けているのであろうか? 源流発生の偶然は、神の創造の悪戯か?
(4)半世紀以上続いた3つの謎
 この謎については、これまで仲間たちと一度たりとも真剣に話し合ったことがない。
 ここからは私、平野が、今回のブログ用の文章をつくるため、この半世紀を振り返り、節々で謎に思ってきたことを拾い上げ、その答えの中から何故半世紀以上も山小屋運営がうまく行ったかの理由を考えてみたいと思う。
 このブログの読者のみなさまからもご意見を頂きたいと思います。よろしくお願いいたします。
 謎の1;
なぜ源流メンバーの中で結婚したカップルが誕生しなかったのであろうか?
我々が手本とした親の代の山小屋「六哺荘」の源流メンバーの間でもカップルの誕生はなかったと聞いている。加えるに、兄弟、姉妹のように仲良く付き合ってきた、30人ほどいる2世の間でもカップルは誕生ない。
 謎の2;
わっぱ小屋の半世紀の歴史の中で、メンバーから離れた人、死去した人、新たに加わった人など、いろいろあるが、基本的には「去る者は追わず、来るものは拒まず」が、条件なしで守り続けられている。世間の常識では考えられないことだが。
 謎の3;
現在、世間のルールに合わせるため、わっぱ小屋と言う不動産の法的な所有者は、2名の2世代表が登録されているが、わっぱ小屋って、いま誰の物であろうか? わっぱ小屋に規則や会則は必要ではないのか? 何回もそれらしきものを作成したが、使ったためしは記憶にない。
 しかし、創設時から合い言葉のように言われ伝えられてきた精神のようなものが一つだけある。それは『来た時よりも美しく』の一言だけである。どのような場面で使用しようと、どこで適用しようが、構わず使っている合い言葉である。
 わっぱ小屋の憲法精神のような存在だ。
 以上の3つの謎が、この50年間変わらず、全てのメンバーの常識になっていたのです。
このような理由で奇跡の山小屋という言われるようになったのでしょう。
源流のメンバーは何時でも平凡で普通の山小屋と思っていて、現在もこの小屋を青春時代と同じように楽しんでいるのです。     

(5)わっぱ小屋の名の由来についての付記
 名付け親は、わっぱ小屋初代メンバー藤井洋の両親がつけてくれた名前です。「わっぱ」とは雪国・信州の雪上の履物「わっぱ=かんじき」のことです。いつまでも童心であれ、いつまでも仲間の輪を大切にせよ!という思いが込められています。
藤井洋の両親は軽井沢の山にある小屋「六哺荘」のメンバーであった藤井義明氏と藤井喜代さん(旧姓・高桑)でした。


1番目の写真は三代目の現在の「わっぱ小屋」です。右側に白馬五竜スキー場の一つのコースとリフトが写っています。左側は美しい山林になっていますが、初代の小屋の頃は右側も山林でした。その後、スキー場が作られたのです。

2番目の写真は創立メンバー達が小屋のベランダに勢ぞろいしている光景です。よく見ると皆高齢者です。小屋の半世紀の時の流れを感じさせます。

3番目の写真は小屋の内部の一角にある大きな薪ストーブの前でメンバーが寛いでビールを飲んでいる光景です。薪ストーブは重要なものなので充分予算を使い大きめのものを入れました。炎の揺れるのを見ながら飲むビールは格別です。

4番目の写真は白馬五竜スキー場の風景です。写真の出典は、http://hakuba-kurumi.com/blog/2013/12/ です。
麓にエスカルプラザというスキー場の基地があり、初級、中級、上級のスキーのコースがあります。スキー場の反対側には写真のように妙高、戸隠、雨飾山などの山々の風景が楽しめます。

5番目の写真はスキーのオフには高山植物園になる様子を示した写真です。
信州大学の高山実験植物園を兼ねているので、エーデルワイスなど世界各地の高山植物が栽培されています。
5番目の写真の出典は、http://garden-vision.net/garden_visit/visit_hakubagoryu_k_s.html です。

衝撃的なシリア政府軍による爆撃現場の動画映像

2018年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、シリア内戦の衝撃的な動画映像を見てしまって気持ちが動転しています。
そこで今日は何時までも続くシリア内戦について考えてみます。
私は「Face Book」で外国の人々と交流していますが、その中にポーランドのクラコウに住んでいるMaciej Organさんという方がいます。
彼は美しいい油絵を毎日紹介しています。https://www.facebook.com/maciej.organ?fref=ufi をご覧下さい。

1番目の写真は彼が最近紹介した油彩画の一例です。
昨日もMaciej Organさんが紹介している美しく、そして平和的な油絵を見て楽しもうと彼のFBのページを開きました。
そうしたら、いきなり衝撃的な動画映像が画面いっぱいに激しく動いていたのです。
それはシリアのアサド大統領軍が民間人を標的にした激しい爆撃の現場を写した動画だったのです。いつもは油絵を愛しているMaciej Organさんがシリアの被害者に心を寄せて祈っているようです。
しかしあまりにも残酷な映像なので彼は間もなくその動画を削除してしまいました。現在は以前のように美しい油絵だけが沢山出ているFC誌面に戻っています。
私は昨日、「戦前の軍人教育の問題点(2)陸軍士官学校の教育内容と欠陥」という記事を掲載しました。今日はその続編を書くつもりでした。
しかしそんな過去の話よりも現在シリアで起きている残虐な戦争をより多くの人に知ってもらい戦争の終結を祈ってもらうことにしました。祈っても仕方が無いという人もいますが、無関心や無知よりも良いと私は信じています。
シリア政府軍による民間人の爆撃の報道を以下に示します。

『シリア首都近郊で爆撃激化、77人死亡 政府軍、地上戦準備か』
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180220-00010000-afpbbnewsv-int
【2018年2月20日 AFP】
シリアの首都ダマスカス近郊の反体制派支配地区、東グータで19日、政府軍による激しい空爆や砲撃があり、民間人少なくとも77人が死亡した。在英のNGO「シリア人権監視団」が明らかにした。アサド大統領は付近に増援隊を派遣しており、同地区の奪還に向けた地上戦の準備とみられる。
2012年から反体制派が掌握している東グータは、ダマスカス周辺で最後に残った反体制派地域。シリア人権監視団によると、一連の爆撃による犠牲者のうち少なくとも20人が子どもで、さらに約300人が負傷した。監視団のラフマン代表は「政権は地上作戦に向けて東グータを爆撃している」と指摘している。
東グータのハムリエに住む男性(23)はAFPに対し、市民らは政府軍が進攻してくる可能性を恐れていると明かし、「グータがこの先どうなるかは分からない。私たちには神のご慈悲しかなく、地下に身を潜めるほかない」と語った。
ドゥマにある病院は動揺した人々であふれている。ある男性は、自身の子ども2人の遺体を発見し、自らの額を手で打ちつけていた。別の男性は、生まれたばかりのわが子が紫色のシートに身を横たえ、血だまりの傍らで死んでいるのを見つけて泣き崩れた。
国連のムムツィス人道調整官(シリア危機担当)は、東グータに対する今回の爆撃は民間人を標的としたものだとの認識を示し、「無分別な人的被害」を直ちに止める必要があると訴えた。(c)AFPBB News

2番目と3番目の写真は爆撃後の東グータの光景です。

さてここからが問題です。
平穏に暮らしている皆様に私は爆撃現場の動画映像を見て下さいと言うのを躊躇しています。
しかし勇気のある方は、https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180220-00010000-afpbbnewsv-int にある動画を画面いっぱいに拡大してご覧ください。爆撃直後の破壊された建物の間を人々が逃げ回っています。救助隊員は担架を担いで救助に走ります。周囲は砂ぼこりで濛々として騒然としています。

さて反体制派と「アメリカ・中東の有志連合軍」が、アサド政権軍を攻撃しているのに何故いつまでも戦争が続くのでしょうか?

その理由はアサド大統領政権をロシアとイランが、そして北朝鮮が軍事的に直接支援しているからです。
ロシアはシリア国内に空軍の飛行場を持っていて反体制派を攻撃しているのです。
それに対してアメリカと中東の親米国家が有志連合という軍事勢力を作って対抗しています。

この状態はベトナム戦争の悪夢と同じです。どのような決着がつくのでしょう?
アメリカはシリアをロシアに渡し、アメリカは湾岸諸国のアラブ首長国やサウジアラビアやイラクやヨルダンを、そしてイスラエルを確保するのでしょうか?まさしく19世紀の植民地の分捕り合戦のようです。これに中國はどのように関与するのでしょうか?

人類は21世紀になっても相変わらず戦争という愚かな行為を止めようとしません。嗚呼、何時になったら真の平和が来るのでしょうか!

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


戦前の軍人教育の問題点(2)陸軍士官学校の教育内容と欠陥

2018年03月08日 | 日記・エッセイ・コラム
陸軍士官学校の第57期生の田中和彦さんと第59期生の立石 恒さんと親しくなり、その人柄に感動しました。そこで昔の陸軍士官学校の教育内容を詳しくお聞きしました。
まず申し上げたいことは陸軍士官学校と、海軍の士官学校の海軍兵学校とは教育内容が全く違うことです。そして陸軍士官学校では海軍との協力に関しては全然教わらなかったそうです。つまり陸軍と海軍の共同作戦や協力は始めから想定外だったのです。
今日は陸軍士官学校について簡単に個条書きにしてご報告いたします。

(1)陸軍士官学校のあった場所
学校は、長らくは本科・予科共に東京の「市ヶ谷台」に所在していました。
しかし1937年に本科は神奈川県座間へ引っ越しました。そして予科は1941年に都内の朝霞に移ります。その上航空士官学校は埼玉県入間に設置されたのです。座間の陸士には「相武台」、入間の航士には「修武台」 朝霞の予士には「振武台」の名が、それぞれ当時の大元帥たる昭和天皇から与えられたのです。これらの3ケ所は現在の陸上自衛隊の基地になっています。陸軍士官学校卒業生の話を理解するためのは、まず「市ヶ谷台」、「相武台」、「修武台」、「振武台」のあった場所を知らねばなりません。

1番目の写真は1937年6月に建設された市ヶ谷台の陸軍士官学校本部です。
現在は防衛省市ヶ谷地区の市ヶ谷記念館として、部分的に保存されています。

2番目の写真は朝霞の振武台の予科の校舎です。現在は記念館として保存されています。

3番目の写真は1874年の開校当時の陸軍士官学校です。

(2)陸軍士官学校の教育方針
教育方針は1932年(昭和7年)に改正され、『陸軍士官学校教育綱領』の冒頭に次のように書いてあります。
陸軍士官学校教育ノ目的ハ、帝国陸軍ノ将校ト為ルベキ者ヲ養成スルニアリ
抑々将校ハ、軍隊ノ楨榦、軍人精神及軍紀ノ本源ニシテ、マタ一国元気ノ枢軸タリ
故ニ、本校ニ於テハ、特ニ左ノ件ニ留意シテ教育スルヲ要ス
一 尊皇愛国ノ心情ヲ養成スルコト
ニ 軍人タルノ思想ト元気トヲ養成スルコト
三 健全ナル身体ヲ養成スルコト
四 文化ニ資スルノ知識ヲ養成スルコト
以上示ス所ハ、実ニ本校教育ノ要綱ナリ。以下省略。

驚くべきことは一番目に「尊皇愛国ノ心情ヲ養成スルコト」があることです。天皇を現人神として戴く皇国を愛し、守る精神を教育するのが一番重要だと言うのです。
戦車や戦闘機や各種の大砲などの性能と使い方の技術教育もしますがそれは「尊皇愛国ノ心情ヲ養成スルコト」のあとまわしに過ぎなかったのです。

(3)陸士の位置ずけ
陸士の学生の位置付けは旧制高校、大学予科、旧制専門学校などに相当しています。
しかしその入試倍率はほぼ20倍もあり、東京帝国大学や京都帝国大学への入学よりも格段に難しかったのです。その事情は海軍の士官学校の海軍兵学校も同様でした。
他の教育機関と異なり、卒業後わずか20歳そこそこで高等官(卒業後は極短期間の見習士官を経て陸軍少尉に任官)になれる陸士は魅力的で、全国の旧制中学校の秀才を集めた超エリート学校でした。卒業式には大元帥たる天皇が親臨し、観兵式場にて整列、行進したのです。それは華やかな光景でした。

(4)軍士官学校の教科内容
予科の教育内容:
予科(予士)では旧制高等学校に準ずる「普通学」をメインに受ける。
修身、国語および漢文(国語・漢文・作文)、外国語(英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語・中国語から一つを選択)、歴史(日本史・西洋史)、数学(三角法・幾何・幾何および微積分・代数および微積分)、物理、化学、地理および地質、心理および論理、法制および経済、図画。

本科の教育内容:
軍事学をメインとする本科の教育課程は以下となっている。
戦術学、戦史、軍制学、兵器学、射撃学、航空学、築城学、交通学、測図学、馬学、衛生学、教育学(軍隊教育・一般教育)、外国語、校内教練、校外教練、陣中勤務、射撃、剣術・体操・馬術、典令範・服務提要となっている。
これらのほか、現地戦術、測図演習、野営演習、各見学も実施された。

本科の教科内容に戦場への食糧の補給問題の教科が欠落しています。敵の捕虜の取り扱いに関する国際規定の教育も皆無です。敵の戦車や機関銃の性能の教育も全くありません。

今日は陸軍士官学校の概略を説明することで終わりにします。
次回以降で陸軍士官学校の第57期生の田中和彦さんと第59期生の立石 恒さんから聞き取った実際の話をご紹介します。
しかし一言書けば、第57期生の教育はほぼ平時と同じようでしたが、第59期は本土決戦の戦略が主になって、その教育内容は第57期生とは本質的に変化していたのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)