後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

平野茂樹著、「カンボジアの夕日と子供達の瞳に魅せられて」

2018年03月05日 | 日記・エッセイ・コラム
はじめに;
平野茂樹さんは昔、私が仙台に住んでいたころの近所の友人でした。先週の金曜日に大磯のプリンスホテルで60余年ぶりにお会いし、彼の実に興味深い趣味のお話を伺いました。そこでいろいろな面白い話をこの欄に寄稿して下さいとお願いしました。
朝日新聞で停年まで働いていたことは知っていましたが彼の趣味の世界は知りませんでした。
白馬の麓に大きな山小屋を3回も建てかえて、仲間と楽しく登山やスキーの基地として使っています。そしてヨットも楽しんでいることを話してくれました。
平野茂樹さんは親切で魅力的な人間です。おのずと仲間が彼の回りに集まってきます。
人との付き合い方が下手な私にとっては感動的な存在です。
今日は彼の寄稿の第一回のお話しです。何故、停年後カンボジアに行くようになったかが書いてあります。
始めの夕日の写真以外は全て平野さんが提供して下さったものです。

写真の出典は、https://ameblo.jp/sakurose1225/entry-11981370127.html です。

写真の出典は、http://shivayan2010.web.fc2.com/combodia/combodia.htm です。










『平野茂樹著、「カンボジアの夕日と子供達の瞳に魅せられて」』
初めてカンボジアの地を踏んでから11年が過ぎてしまった。10年以上も通っているが、私が知るカンボジアは、多くの遺跡群で有名なシェムリアップ周辺地域のみである。

 世界遺産に登録されているアンコールワットを有するシェムリアップ地方は、カンボジアの北部に位置し、国内最大の観光都市でもある。
 カンボジアの中心地は南部にある首都プノンペンである。日本で言えば、東京がプノンペン、奈良、京都に当たるのがシェムリアップであると言えようか?

 四季を持つ日本と違って、カンボジアは雨季と乾季の2シーズンの国である。雨季は行動が制限されるので、私は乾季のみ、年数回、半月から1か月の期間で通っている。
 行ったときは、数校の同じ公立小学校と新設の私立大学(USEA)へ行き、小学校では学課として取り上げていない、お歌、お絵かき、お遊戯(日本のラジオ体操が主)をやり、大学では希望する有志とコーラスを練習している。

 初めのころは学校と滞在ホテルの往復が日課であったが、最近では現地で知り合った方々の郊外にある実家へ行き、農村生活の体験や、都市部では先生や知り合いの家にステイし、家庭料理を味合わせていただいたりし、滞在期間中、生活を共にしている。
 毎度同じことの繰り返しで、取り立てて変わったことがあるわけではない。ただそれだけのことではあるが、私にとっては、年間を通した私の一つの生活のリズムになっている。

 日本に居て、なぜか息の詰まった気分になると、カンボジアへ出かけてゆき、息を抜いて帰ってくるといったパターンが続いているのである。
 大袈裟に日本にいると息が詰まると言ったが、何がどのように詰まってしまうのかは、言葉で説明するのは難しいが、強いて言えば、満州と言う大陸で生まれ、戦後6歳の時、親の実家がある岐阜に引き揚げてき、その後、親の転勤や私の学校や仕事の関係で、日本国内は、西から大阪、岐阜、静岡、東京、仙台と転居し、定着しなかった日本でのこれまでの生活を通し、私の直感でそのように感ずるのである。

 カンボジアは農業中心の国である。お米だけは大量に生産し輸出している。そのカンボジアの農村の雰囲気は、私が日本に引き揚げてきて、父の実家のある岐阜の寺に住み、日本での生活を始めたときと、大陸である満州での短い幼児体験の記憶を蘇らせてくれるのである。
 シェムリアップに来るたびに、タイムトンネルを70年ばかり戻った気分にしてくれる。

 戦後70年強で、世界に冠たる経済大国、技術大国という先進国にまで発展し続けてきた日本ではあるが、その代償として、木下順二の戯曲「夕鶴」の恩返しの羽による機織りのように、一本ずつ失い続けてきた、日本人が先祖から引き継いできた魂の嘆きが聞こえるからであろうか。

 その日本人の魂とは、四季折々の豊かな自然環境の中に存在する、生きとし生けるすべの動植物を、己と同格の存在として捉え、認め、受け入れ、共存してゆく姿勢からくる精神的安定感と自然の移りかわりと共存する満足感であろうか。
 この満足感は、知的なものを含む欲望の満足感とは異なり、いわば魂の満足感と言いえるものではなかろうか。

 この満足感は眼つきに現れてくると思う。
 豊かさと便利さで、辛さと苦しさから解放され続けていると、それらを失うことへの不安感と恐怖感が、眼つきに怯えとして現われてくるように思えるのである。
 この怯えから逃れるため、ますます豊かさが欲しくなり、便利さを追求したくなり、終いには欠乏感に苛まれることになってしまっているのが現在の先進国と言われる国々の姿ではなかあろうか?
 カンボジアの子どもたちの眼つきには、貧しい生活ではあるが、この怯えはない。

 有名な登山家植村直己は、登山とは生きて帰ってくることという名言を登山の美学として吐いた。

 科学技術の進歩で人類の我が道だけを上り詰めている先進国の人々と日本人は、今後どのような下山の美学を持てばよいのであろうか?

 私がカンボジアに魅せられる理由は、この問いに対する答えを感じ始めているからでもある。(2018年3月 平野茂樹)
 

沢田美喜さんの写真を1枚追加

2018年03月05日 | 写真
2018年03月03日 掲載の記事、「進駐軍兵士との混血児の命を救った沢田美喜の偉業」へ沢田美喜の写真を1枚追加いたします。

写真の出典はhttp://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken15031/index.html です。
美喜のカトリックへの篤い信仰心が彼女の心を強くしたのでしょう。
子どもたちへ向ける愛情の源もその信仰心にあったのかもしれません。
昭和62年(1987)、「澤田美喜記念館」が設立されました。そこには、美喜が夫廉三の大使時代に蒐集した、各国の十字架や、国内で集めた日本の歴史にも貴重な「隠れキリシタン」の遺物などが数多くを展示されています。
隠れキリシタンの強く熱い祈りを伝えているようです。「澤田美喜記念館」は神への信仰の下に「エリザベス・サン ダース・ホーム」を生み育てた澤田美喜のメモリアル記念館なのです。
「“ママちゃま”がいなかったら、いまの私はいない」。
「エリザベス・サンダース・ホーム」出身者たちの多くが口にする言葉です。
2000人を超える孤児を育て、500人を超える子どもたちをアメリカへ養子に出す仲立ちを行ったのです。ブラジルに自ら作った聖ステパノ農場へも数多く送り出したのです。
戦後の人心の荒廃した時代にこういう立派な日本人もいたのです。

戦前の軍人教育の問題点(1)何故、今頃考えるか?

2018年03月04日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の日本人は穏やかで優しい性格の人が大部分です。毎年、外国からたくさんの観光客が来て、日本人の親切に心を打たれたと言って帰って行きます。
しかし第二次大戦の前後の時代の日本人はそうではなかったのです。時代が変われば民族の性格が変わるのでしょうか?
今日から数回の連載記事でこの問題を考えてみたいと思います。
まず第二次大戦の前後の時代を思い出して頂くために2枚の写真を示します。

1番目の写真は戦争中の写真です。白馬に乗った昭和天皇の姿です。昭和天皇は大元帥として全軍の最高指揮官でした。それと同時に現人神(あらひとがみ)という神様だったのです。

2番目の写真は敗戦後、荒廃した全国を巡り、打ちひしがれた国民を激励している場面です。敗戦で急に現人神から人間になった昭和天皇を、まだ神として見ている人々の表情をご覧下さい。
戦中、戦後の時代がどのようなものだったかをこの2枚の写真が雄弁に物語っています。
日本が敗戦したのは73年前の1945年です。そんな昔のことを今更考えても仕方が無いと言う方もいるでしょう。
しかし安倍政権になってから急に憲法改正と軍備強化が進められているのです。
こんな時代に何故、日本が戦争へ突き進んで行ったかを再度考えるのは決して無駄ではないと考えます。

その上、この戦前の軍人教育の問題点を取り上げたのは次のような個人的な理由があったのです。
私は次第に歩くのが困難になる難病になり介護保険の支援で、3年前から毎週一回、リハリビ施設に通っています。
そこで2年前に知り合い、大変親しくなった2人の紳士がいたのです。陸軍士官学校の第57期生、95歳の田中和彦さんと第59期生、92歳の立石 恒さんです。お互いに家を訪問するような仲になりました。
するとお二人とも実に穏やかな性格でとても帝国陸軍の中尉や少尉だったとは想像もつかない紳士なのです。その上、約束は守り、礼儀正しく、行動は迅速で、感心するような人なのです。
そこで長い間、何故このような温厚な人が陸軍士官学校へ入学したのだろうか不思議に思っていたのです。
そしてこのように平和的な2人が補給も出来ないほど戦線を拡大した戦に参加しようとしたのか疑問に思っていました。
何故、日本軍人は国際法を無視し、捕虜の虐待をしたのでしょうか?
何故、満州に侵入したロシア軍に抵抗しなかったかのでしょうか?いろいろ疑問に思っていました。

やがて私はこれらの疑問を解く一つの鍵は戦前の軍人教育に欠陥があったのではないかと考えるようになったのです。
戦前の軍人教育のための学校は実に数多く、その全てを紹介するわけにはいきません。
しかし陸軍関係の数校だけを次に示します。
 ・陸軍士官学校(本科)
 ・陸軍予科士官学校
 ・陸軍幼年学校


  ・陸軍歩兵学校
   ・陸軍騎兵学校
   ・陸軍野戦砲兵学校

参謀本部所管学校
  ・陸軍大学校
  ・陸軍中野学校
陸軍航空総監部所管学校、陸軍航空士官学校

以下省略しますが詳しくは下記をご覧下さい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%88%AA%E7%A9%BA%E5%A3%AB%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1

陸軍の軍人を教育する学校は沢山ありました。しかしその中核をなすのは陸軍士官学校と陸軍大学校と考えても大きな間違いは無いと思います。
特に陸軍士官学校は戦争を実施する部隊の指揮をとる将校の養成機関なので一番重要な学校だったのです。
この学校の修了には約2年の予科と同じく約2年の本科を卒業しなければなりませんでした。この修了年限は戦況の逼迫により次第に短縮されたのです。入学には最短で旧制中学校5年で入学しますから、19歳や20歳で卒業し、天皇陛下からの命令で少尉に任官したのです。
この約4年間の教育カリキュラムは調べれば分かります。連載の次回でご紹介したいと思います。
それを知った上で私は次のような疑問を感じざるを得なかったのです。
(1)教室での講義では仮想敵国の兵器、戦車、戦闘機、爆撃機の性能を教える講義が充分ありましたか?
(2)野外における指揮や兵器の取り扱いの教育は毎週、何日ありましたか?
教室での戦術や兵器に関する講義は毎週、何日ありましたか?
(3)仮想敵国との戦争にあたっての戦場における指揮方法や戦術の講義が充分ありましたか?
中国軍の兵器の数量や性能に関する講義はありましたか?
特にアメリカの航空母艦や艦載機の性能に関する講義はありましたか?
(4)敵の軍隊の配置と日本軍の戦略に関する講義はありましたか?
(5)海外に展開した日本軍の弾薬と食料の補給方法についての講義はありましたか?
(6)敵兵の捕虜の取り扱いに関する講義はありましたか?

以上の疑問を紙に印刷して陸軍士官学校の第57期生の田中和彦さんと第59期生の立石 恒さんへお渡ししたのです。暫くたってから訪問していろいろ教えて頂きました。
お答えの内容も含めて次回から戦前の軍人教育の問題点をいろいろ考えて行きたいと思います。
今日は問題提起にとどめておきたいと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の多摩湖周辺の紅梅、白梅の写真

2018年03月04日 | 写真
今日は庭の最高気温が22度になりました。
春です。暖かい風に誘われて多摩湖一周のドライブに行って来ました。
農家の庭先に紅梅、白梅が咲いていました。
その写真と今日の多摩湖の写真をお送りいたします。梅は1月の末から3月いっぱいと長い間楽しめますね。
皆様のお住まいの地方の今年の紅梅や白梅はいかがでしょうか?









春の陽に輝く今日の大磯の浜辺の風景

2018年03月02日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は70年ほど前の昔の友人に会う為に大磯まで行きました。
彼とは、少年の頃に仙台に住んでいた時の近所の友人でした。大磯ロングビーチのプリンスホテルで午後のコーヒーを飲みながら面白い話を聞き、幸せな気分で帰って来ました。
今日の大磯の浜辺の風景写真をお送りいたします。春の陽に輝く海の風景をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。







日本人の優しさと外人や渡来人の墓の供養

2018年03月02日 | 日記・エッセイ・コラム
外国人が遠い異国の日本で亡くなる。日本の土となる。遺族は遠方過ぎて供養に来れない。
優しい心を持った日本人が代わって墓石を建て、墓地を掃除し綺麗に保っている。何時までも供養を続ける。
このような墓地の写真を撮ろうと私は下田、函館、横浜の外人墓地と埼玉県の渡来人の墓地を訪問しました。数年前のことです。
遠く異郷の果てで亡くなった外国人たちの冥福を私も祈りながら写真を撮りました。
今日はそのような外人墓地と渡来人墓地の風景写真をご紹介いたします。

1番目の写真は下田の玉泉寺にあるペリー艦隊の水兵の墓地の石碑です。

2番目の写真は同じく玉泉寺にあるアメリカ水兵5人、ロシア水兵3人の墓です。

3番目の写真は幕末に函館で亡くなったロシア人のロシア正教の墓地です。

4番目の写真は明治維新前後にロシア正教の信者になった日本人の墓地です。

5番目の写真は横浜の山の手にある外人墓地の風景でしう。

6番目の写真は同じく横浜の外人墓地ですが、春になると桜が咲いて故人の供養になります。
日本語で外人墓地と言うと普通は欧米人の兵士や商人の墓地のことを意味するようです。宣教師や神父のお墓はそれぞれの宗派の墓地に眠っています。このように聖職者の墓地はいわゆる外人墓地とは別の所にあります。

ちなみに日本で亡くなった中国人や百済、新羅、高句麗の人々の墓地は外人墓地とは言いません。渡来人の墓地と言います。
例えば埼玉県の高麗郡にある高麗王の墓地がその一例です。とても古い渡来人のお墓です。
高麗王は戦いに敗れ、日本へ亡命し、大和朝廷から埼玉県に領地を貰ったのです。

7番目の写真は埼玉県の高麗郡にある高麗神社で、高麗王、若光が祀られています。

8番目の写真は高麗王の廟の写真です。

9番目の写真は高麗王一族の菩提寺の聖天院の写真です。
高麗王一族が何故立派な神社や菩提寺を現在も持っているのでしょうか?
それには次のような歴史があったのです。
朝鮮半島にあった高句麗が新羅と唐の連合軍によって668年に滅ぼされました。その時、使者として日本に居た王族の若光は帰国できなくなり、日本へ亡命しました。
703年に文武天皇から従五位下に叙せられ、高麗王の姓を賜はりました。この事は続日本書記に明記してあります。
そして13年後の716年に大和朝廷は武蔵国に新たに高麗郡を作り、高麗王をそこの郡司に任命しました。高麗王は高句麗から従って来た1799名の家来を連れて高麗郡に移住しました。
高麗郡は現在の埼玉県西部から東京都の多摩地方にまたがっていまました。
高麗王の部下に農産物の増産を指導する人もいたため高麗郡は豊かになったそうです。そして無理な増税は強制しませんでした。要するに大変評判の良い統治をしたのです。
高麗王は武蔵国の高麗郡へ移住する前は神奈川県の大磯を治めていました。そこでも評判が良く、高麗郡へ去ったあと大磯の人々は高麗寺(現在は廃寺)と高麗神社を作りました。
兎に角、大磯でも高麗郡でも高麗王は農民を大切にする善い政治をしたのです。
その高麗王の若光は一度も朝鮮へ帰ることが出来ませんでした。故郷から遠く離れた異境の土になったのです。
高麗王の没後、三男の聖雲が、現在の聖天院を建立し、一族の菩提寺にしたのです。
聖天院の後には高麗神社があり高麗王、若光が祀られています。そしてその神主は代々、現在に至るまで高麗王の子孫が務めて来ました。
朝鮮から亡命した王様が日本の武蔵国の高麗郡を見事に治め、現在も人々に慕われているのです。少し話をした住職さんの大黒さん(奥さん)が若光さんのお墓も忘れないで拝んでいって下さいと言いながら場所を教えてくれました。

このように渡来人や外国人の墓地にはいろいろな物語があるのです。
時空を超えた、何か大きな歴史ロマンを感じながらいろいろな墓地で写真を撮って来ました。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

北朝鮮は絶対に米本土攻撃の核兵器とミサイル開発を断念しない

2018年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム
今回の平昌オリンピックでの政治ショーでは北朝鮮が金メダルを取ったと言われています。北朝鮮は平和を愛する国家だという宣伝に大成功をおさめたのです。
金正恩党委員長の妹の金与正 副部長ら高位級代表団が平昌の開会式に出て、韓国の文大統領を北朝鮮に招待したのです。その上、北の美女軍団は華やかな応援の演技を連日見せてくれたのです。
しかしこの平和的な宣伝と並行して北朝鮮は沖で船から船へ貨物を積みかえる「瀬取り」という方法で石油などの輸入を続けています。
そして中東のシリアへ化学兵器工場の資材を輸出し、技術指導をして外貨を得ています。
これらの方法で北朝鮮は原油を確保した上で、核兵器開発の資金を入手しているのです。米本土攻撃用の長距離ミサイル開発の資金が続くのです。
根本的に考えるとアメリカに対抗している国々は世界に沢山あるのです。その国々は潜在的な北朝鮮の支援国なのです。ロシア、中国は勿論、近東でアメリカ軍が攻撃している国々、アフリカや南米でアメリカに反感を持っている国々など沢山あります。これらの国は表向きは北朝鮮を非難しながら、秘密の方法で北朝鮮を支援しようとするのは自然ではないでしょうか?

今日は、沖で中国の船からの北朝鮮の船へ貨物を積みかえる「瀬取り」に関する報道をご紹介します。そして続いて、シリアへの化学兵器工場の資材の輸出に関する報道をご紹介します。

(1)日本政府、北朝鮮舶籍タンカーが瀬取り 制裁違反で国連に通報
2018年02月21日 20時48分、http://www.epochtimes.jp/2018/02/31411.html

まず以下の記事を明快に理解するために、写真に写っている青い色の船が中国の船で、上部が黄色で船体が黒い貨物船が北朝鮮の船だとご記憶下さい!

1番目の写真は、 横付けして蛇管を接続している北朝鮮船籍タンカー「Yu Jong 2号」と 「闽宁德油078」の写真です。(2月16日11時20分頃撮影、防衛省)
日本政府は20日、東シナ海の公海上で、北朝鮮船籍タンカーと船籍不明の小型船舶とが、国連安保理決議で禁止されている洋上での物資の積替え(瀬取り)を行った疑いが強いとして国連に通報した。防衛省が公開した写真には、青い色の船籍不明船に中国本土で使われる中国語簡体字が表記されている。
防衛省によると2月16日昼、海上自衛隊が、両船舶が東シナ海の公海上(上海の東約250キロの沖合)で横付けしていることを確認した。簡体字には「闽宁德油」と書かれており「福建、寧徳市、油槽船」を意味するものとされる。
政府の発表によると、2017年12月に採択された国連安保理決議第2375号にある「国連加盟国は北朝鮮籍船舶との洋上での船舶間の物資の積替え(瀬取り)の関与を禁止」に違反している疑いが強いとして、国連安保理北朝鮮制裁委員会に通報し、関係国と情報共有を行っているという。

2番目の写真は青い短い中国の船が黒くて長い北朝鮮の貨物船に横ずけしている写真です。

3番目の写真は北朝鮮の「Yu Jong 2号」です。(2月16日13時00分頃撮影、防衛省)

4番目の写真は中国の「闽宁德油078」の写真です。(2月16日13時30分頃撮影、防衛省)
(編集・甲斐天海)
以上の報道は以前から沖で原油などを積みかえて輸入しているという噂の動かぬ証拠として価値のある写真です、これでは原油や天然ガスの供給を遮断して北朝鮮を追いつめるというアメリカの政策が成功する筈はありません。
そして原油や天然ガスの輸入の資金や核兵器開発の資金はどのように得ているのでしょうか?
以下の報道はその方法の一つです。

(2)北朝鮮、シリアに化学兵器の製造部品を提供=国連報告書
http://www.bbc.com/japanese/43221764
北朝鮮が化学兵器の製造に使用できる部品をシリアに提供していると、国連安全保障理事会・北朝鮮制裁委員会の専門家パネルが報告書をまとめたことが27日、明らかになった。米メディア各社が報じた。
提供された部品には、耐酸性のタイルやバルブ、パイプが含まれるという。
米紙ニューヨーク・タイムズによると、国連報告書は北朝鮮のミサイル専門家らがシリアの武器製造施設にいたと指摘している。報告書は現時点で未公表。
シリアでは2月末、首都ダマスカス近郊にある反体制派拠点の東グータで、政権軍が塩素ガスを攻撃に使用したとの指摘が出ているが、政権は否定している。
北朝鮮は、国連安全保障理事会の決議に違反し核・ミサイル開発を続けていることから、各国から制裁措置を受けている。
北朝鮮からシリアに非合法的に運ばれた物資は、耐熱・耐酸性タイルや耐食バルブ、温度計などで、タイルは化学兵器が製造された施設の建設に使われたとされる。

米紙ウォール・ストリート・ジャーナルによると、2016年末から17年初頭にかけ、北朝鮮は中国の貿易会社を通じて5回にわたりシリアに物資を送っている。物資の搬送は数年間で何十回にも及んだとみられている。
同紙は、シリア政府の科学調査研究センター(SSRC)が多数のフロント(隠れみの)企業を使い、北朝鮮に対価を支払っていたと指摘した。
今回の国連報告書は、米紙ワシントン・ポストも同様に確認している。

すでに公表済みの2017年9月の報告書で専門家パネルは、シリアと北朝鮮が「禁止された化学兵器、弾道ミサイルおよび通常兵器で協力しているとの情報について調査している」と述べていた。
当時の報告書は、国連加盟2カ国が押収したシリア向けの積み荷が、北朝鮮の主な武器輸出組織とSSRCのフロント企業による取引の一部ではないかとと、疑念を指摘していた。
国連のステファン・デュジャリック報道官は、報道された報告書が公表されるのかコメントしなかったが、ニューヨーク・タイムズに対し、「すべての加盟国に、実施中の制裁に従う義務と責任がある。これが全体としてのメッセージだろう」と語った。
シリア政府は専門家パネルに対し、シリア国内にいる北朝鮮市民はスポーツのコーチや選手のみだと、説明したとされる。
シリアは化学兵器禁止条約の署名国で、2013年のサリンガスを使ったグータへの攻撃で多数の死者が出た際には、保有していると認めた化学兵器の破棄に同意した。
それ以降も、シリアは2011年から続く内戦で、禁止された化学兵器を繰り返し使用したと非難されている。
・・・中略・・・
専門家たちは、北朝鮮が現金収入を得るために、世界中で長年、軍事物資や武器を提供してきたと指摘した。
国連の報告書は、北朝鮮が中東や北アフリカ、ラテンアメリカなどの数十の国や集団と違法な取引をしようとしていることを強調する内容となっているもよう。
シリアと北朝鮮の間には数十年にわたる軍事的結びつきがある。

トランプ米大統領は今月23日、北朝鮮への追加制裁を発表。数カ国で登記された50以上の船舶と海運会社を制裁対象とした。
米国は、新たな制裁によって収入源を断ち、核開発に必要な燃料を得られなくして、すでに実施されている制裁の抜け穴をふさぐことで、北朝鮮への圧力をさらに強められると説明している。
(英語記事 N Korea 'providing materials to Syria chemical weapons factories')

以上の報道で重要なことは「北朝鮮が中東や北アフリカ、ラテンアメリカなどの数十の国や集団と違法な取引をしようとしていることではないでしょうか?

以上の結論は北朝鮮は絶対に核兵器開発とミサイル開発を断念しないと言えることです。
今回の平昌オリンピックで北朝鮮は平和を愛する国家だという宣伝に大成功をおさめたのです。しかしそれと並行して着々と核兵器開発とミサイル開発を続行しているのです。アメリカが北朝鮮へ対して軍事攻撃を絶対にしないように祈るばかりです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)