後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今年は日中平和条約40周年(2)天皇の中国訪問、1992年

2018年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム
平成4年の10月に天皇陛下と皇后陛下は中国を訪問なさいました。
まず写真をご覧下さい。

1番目の写真は10月24日、北京の近くの万里長城での天皇陛下と皇后陛下の写真です。

2番目の写真は万里長城で中国側の歓迎陣に囲まれている天皇陛下と皇后陛下の写真です。

3番目の写真は楊尚昆国家主席と握手する明仁天皇です。

4番目の写真は江沢民総書記と並んだ明仁天皇です。

5番目の写真も当時の江沢民総書記(左端)と並んだ写真です。

さて写真で示した1992年の天皇陛下と皇后陛下の中国訪問は日中間の関係史において重大な訪問でした。
それは1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)まで続いた日中戦争の終焉を意味する一つとも考えられるからです。
この天皇の中国訪問は反日政策を進めた江沢民による強い要請によるものでした。
江沢民は天安門事件の武力弾圧で欧米諸国から孤立した中国の苦境を打開するために日本を取り込もうとしたのです。
ですから1992年の天皇陛下と皇后陛下の中国訪問は1989年の天安門事件の延長だったとも解釈出来ます。
なお江沢民の反日政策については次回の連載記事で少し詳しく示します。

さて1992年の天皇の中国訪問の日程を見てみましょう。
10月23日(金)
東京 御発、北京 御着
歓迎式典(人民大会堂東門外広場)
国家主席とのご会見(人民大会堂河北庁)
国家主席主催歓迎晩餐会(人民大会堂河西大庁)[天皇陛下のおことば]

10月24日(土)
八達嶺長城ご視察
<天皇陛下>
自然科学者とのご歓談(中国科学院)
総書記主催晩餐会(釣魚台国賓館17号芳菲苑)

10月25日(日)
故宮博物院ご視察
大使主催レセプション(日中関係者及び在留邦人)(中国大飯店)
国家主席にお別れのご挨拶(釣魚台国賓館18号楼)

10月26日(月)
西安、大雁塔ご視察
西安在留邦人拝謁
西大門城壁ご視察
陝西省長主催歓迎晩餐会

10月27日(火)
実験室ご視察及び学者・学生とご歓談(上海交通大学)
上海市長主催歓迎晩餐会(新錦江飯店)
上海市内(外灘・南京路)ご視察

10月28日(水)
南浦大橋ご視察
農村ご視察(周浦郷)
在留邦人拝謁(ガーデン・ホテル)
夜に帰国。

以上の日程の中で平成4年10月23日(金)の国家主席主催歓迎晩餐会で天皇陛下は日中戦争の歴史を振り返り、『我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。』と述べられたのです。
以下は天皇陛下のおことばです。日中間の交流の歴史を描いた格調の高い演説なので全文を示します。

楊尚昆国家主席閣下,並びに御列席の皆様
今夕は,私どものために,このような宴を催していただき,また,ただ今は楊尚昆国家主席閣下から,心温まるお言葉をいただき,厚く御礼申し上げます。
貴国と我が国の交流の歴史は古く,特に,7世紀から9世紀にかけて行われた遣隋使,遣唐使の派遣を通じ,我が国の留学生は長年中国に滞在し,熱心に中国の文化を学びました。両国の交流は,そのような古い時代から長い間平和裡に続き,我が国民は,長年にわたり貴国の文化に対し深い敬意と親近感を抱いてきました。私自身も年少の頃より中国についての話を聞き,また,本で読むなどして,自然のうちに貴国の文化に対する関心をもってきました。子供向きに書かれた三国志に興味を持ち,その中に出てくる白帝城についての「朝辞白帝彩雲間(あしたにじすはくていさいうんのかん)」に始まる李白の詩を知ったのも,少年時代のことでありました。
また,今世紀に入ってからは,貴国の有為の青年が数多く我が国を訪れるようになり,人的交流を含む相互の交流は一層活発なものとなりました。私は,このような両国民間の交流の伝統をかけがえのない,貴いものと考えます。
このような深い関係にある貴国を,この度,主席閣下のお招きにより訪れることができましたことは,私どもの深く喜びとするところであります。
しかし,この両国の関係の永きにわたる歴史において,我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。戦争が終わった時,我が国民は,このような戦争を再び繰り返してはならないとの深い反省にたち,平和国家としての道を歩むことを固く決意して,国の再建に取り組みました。爾来,我が国民は,世界の諸国との新たな友好関係を築くことに努力してまいりましたが,貴国との間においては,両国の先人たちを始めとする多くの人々の情熱と努力によって,将来にわたる末長い平和友好を誓い合う関係が生まれ,広範な分野での交流が深まりつつあります。私はこのような両国民間の関係の進展を心から喜ばしく思うとともに,この良き関係がさらに不動のものとなることを望んでやみません。
今日,国際社会は,人類の平和と繁栄の達成という崇高な理想に向けて共同の努力を行っておりますが,この中にあって,日中両国民の友好親善関係の進展は,大きな意義を持つものと信じます。
本年は,日中国交正常化20周年という両国間の関係における大きな節目の年にあたっており,両国民の間で,相互理解と友好親善を目指して様々な行事が行われております。貴国からは,江沢民総書記閣下並びに万里委員長閣下が我が国を御訪問になり,両国間の絆をより太くより強いものとすることに貢献されました。この度の私どもの貴国訪問が,このような絆に結ばれた両国民にとり,お互いに良き隣人として将来に向かって歩む契機となれば誠に喜ばしく思います。
私どもは北京のほか西安と上海を訪れることになっております。西安では,かつて我が国から航海の危険を冒しつつ唐に渡り,長安で中国の文化を学んだ遣唐使や留学生の労苦をしのびつつ,貴国の歴史に触れたいと思います。また,上海では,貴国の新たな発展の息吹に触れることができるでありましょう。私どもは,この度の訪問において,できるだけ多くの若い人々にも接する機会を得たいと考えております。両国の若い世代は必ずやこれまでの伝統的な交流の歴史を継承し,これをさらに豊かな心の交流として発展させていくにちがいありません。
北京の秋の美しさは多くの人によって語られてまいりました。この美しい季節にこの地を訪れる機会を得ましたことを私どもは心よりうれしく思っております。
楊尚昆国家主席閣下,並びに御列席の皆様
ここに日中両国民間の友好親善の発展を念じますとともに,楊尚昆主席閣下の御健勝と貴国の繁栄,そして貴国民の幸せを祈って杯を挙げたいと思います。(乾杯)

日中間の関係は時代によって変化しますが、この天皇陛下のお話のように悠久の歴史の視点から考えるべきと思います。とても良いお話と思いました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


米国 350以上の新聞社、社説で一斉にトランプ氏非難

2018年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ大統領になってからアメリカの社会は揺れ動いています。社会の分断が起きているといいます。トランプ大統領一派のアメリカの利益だけを考える人々と国際社会の協調と平和的話合いを重視する人々に分断してしまったのです。
トランプ大統領は躊躇することなく地球環境の悪化を防ぐパリ協定から脱退しました。貿易のTPP協定から脱退しました。NATO加盟国のドイツ、フランス、ドイツなどへ軍事費の増加を要求しました。アメリカさえ良ければ国際社会が混乱してもよいという考えなのです。メキシコからの不法移民を防止するため高い壁を作ると主張します。移民の人権を無視して、不法移民の家族を引き離し送還しようとしました。
これらの政策は従来の良識的なアメリカの伝統を無残にも打ち砕いてしまったのです。
このトランプ大統領の独裁的な権力行使にアメリカの350以上の新聞社が社説でトランプ大統領を民主主義を踏みにじっていると非難したのです。
トランプ大統領は全米の350社の新聞社を敵に回したのです。
その上、Face Bookなどの大手の社会ネットワークサービス(SNS)などもニセ情報を流していると攻撃したのです。
このようにアメリカの大統領が全米の350以上の新聞社を攻撃し敵対することは歴史上初めてのことです。それは民主主義の根幹である言論の自由への攻撃なのです。
アメリカ社会は揺れ動いています。
これに関する記事を以下に転載します。

「米国350紙以上の新聞社、社説で一斉にトランプ氏非難」
毎日新聞2018年8月16日 23時49分(最終更新 8月17日 09時11分)
https://mainichi.jp/articles/20180817/k00/00m/030/169000c

この運動を企画したのはボストン・グローブ紙です。
全米の350紙以上の新聞社が16日付社説で一斉に、自身に批判的なメディアをフェイクニュースと中傷するトランプ大統領を非難した。
 企画を主導したのは、就任前からトランプ氏を厳しく批判してきた東部マサチューセッツ州の有力紙ボストン・グローブ紙。同紙は、トランプ氏が政権の政策を支持しないメディアを「国民の敵」と呼ぶことは「反米国的」とし、トランプ氏による「多くのウソの一つ」と酷評。全米各地の新聞に、報道の自由を守る戦いに加わるよう呼びかけていた。
 ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)は「自由な報道はあなた方(国民)が必要」と題した論説を掲載。「新聞のない政府か、政府のない新聞か、どちらかを選べといわれたら、迷わず後者をとる」と訴えたジェファーソン第3代大統領の発言を紹介し、「ジャーナリストを国民の敵と呼ぶのは危険だ」と論じた。
 トランプ氏は16日、「フェイクニュースを流すメディアは野党だ。偉大な国にとってとても悪いことだ。だが、我々は勝利する」とツイートした。
 調査会社IPSOSが今月3~6日に実施した世論調査によれば、「大統領は主要メディアを閉鎖すべきだ」と考える米国民は全体で13%、共和党支持者では23%に達している。(終り)

さらにトランプ大統領は大手SNSを攻撃したというニュースです。

トランプ大統領、大手SNSを「差別的だ」と非難 「あまりに多くの声が破壊されている」として、CNNやNBCを名指しで批判。持論を展開した。2018年08月19日
(https://www.huffingtonpost.jp/2018/08/19/trump-sm-sns_a_23504877/ )

「トランプ氏、ソーシャルメディアを非難「検閲は危険」」
 トランプ米大統領は18日、自身のツイッターで、フェイスブックなどの大手ソーシャルメディアが、問題があるとみなした。
大手ソーシャルメディアが投稿を規制していることについて、「差別的だ」「検閲だ」などと非難した。
トランプ氏の熱狂的な支持者が「陰謀論」を拡散してサイトを閉鎖されたことに反発したようだ。
 トランプ氏は18日朝、「ソーシャルメディアは、共和党や保守的な声に対して、完全に差別的だ。そんなことはさせない。彼らは『右』の多くの人々の声を閉鎖しているが、他の人には何もしていない」とツイートした。
続けて「検閲は非常に危険だ。フェイク(偽)ニュースを取り除いているのなら、CNNやNBCのようなフェイクメディアは存在しないはずだ。しかし、私はそうしたメディアの病的な振る舞いを削除しろとは頼んだことがない」と報道機関への批判を交えて持論を展開した。
その上で「あまりに多くの声が破壊されている。誰が決めているんだ。私はすでに多くの間違いが起きていると言うことが出来るぞ。誰もが参加して、何が良くて悪いのか、みんなではっきりとさせる必要がある」と訴えた。(朝日新聞デジタル 2018年08月19日 16時00分)

以上で紹介した2つの報道はトランプ大統領と新聞社やソーシャルメディア陣の泥仕合の様相を呈しています。日本人は対岸の火事として遠方を眺めるような姿勢です。
しかしこのアメリカ社会の混乱は日本にも波及する可能性があるのです。
日本の新聞社やテレビ局が、森学園や加計学園の不祥事を非難しても安倍総理は意に介せず政権の座についているのはトランプ大統領の姿勢の影響もあると見えます。
とにかく今後、日本社会でも新聞社やテレビ局の政治分野の信用度は下落する運命にあるのです。それが日本の民主主義を危なくするのです。
対岸の火事と眺めていると、いつの間にか火の粉が降りかかって来るのです。
困った問題です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


今日の挿し絵代わりの写真は山に咲くオニユリの花です。「鬼百合の写真」を検索して写真をお借りしました。





今年は日中平和条約40周年(1)田中角栄、周恩来、鄧小平の時代

2018年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム
長い間冷え切っていた日中関係が最近確実に回復しつつあります。
今年の2018年には日中平和友好条約締結40周年を迎えます。
中国側からも日中関係の改善の勢いがみられます。

中国の王毅外相も全人代開催中の3月8日に北京で行った記者会見で、日中関係の改善基調を評価し次のように語ったのです。
「日本側が前向きな対中政策を取り、得難い改善の勢いが出ている」
4月15日からは王毅氏が来日し、日中両政府の往来は目に見えて活発になっています。
 安倍晋三首相と習近平国家主席による首脳会談についても今秋に決まりました。
日本の外務省も今年は日中間の幅広い交流の年しようと,地方自治体,企業,民間団体等にも積極的に参加して貰うためいろいろな日中友好事業へ援助金を出すと公表しました。
この外務省の友好事業支援の詳細は、https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/c_m1/cn/page23_001871.html に出ています。
 
そこで今日から日中平和友好条約締結の後の40年間の歴史を連載記事にして振り返って見ようと思います。
連載の第一回目は、「田中角栄、周恩来、鄧小平の時代」です。
1990年以後、日本と中国の関係は非常に悪い状態が続きました。しかし1972年から1989年までの17年間は文字通り熱烈な友好関係があったのです。
1972年は田中総理と大平外務大臣が訪中し、周恩来首相と交渉を重ね、「日中共同声明」を発表し、ついに国交回復をした年です。

1番目の写真は田中角栄首相が交渉した周恩来総理の写真です。

2番目の写真は田中総理の写真です。

3番目の写真は田中総理と周恩来総理の合意を承認した毛沢東主席の写真です。
毛沢東主席も周恩来総理もこの後の1976年にあいついで亡くなります。
その後の実権を握ったのは鄧小平でした。

4番目の写真は鄧小平とカーター大統領の写真です。1979年に鄧小平が訪米し、ジミー・カーター大統領と会ったときの写真です。

鄧小平は終始一貫、日本と友好政策をつらぬき、40年前の1978年には「日中平和条約」の批准書を交換するために日本を訪問しました。そして昭和天皇を訪問し、新日鉄、君津製鉄所を見学し、新幹線に乗ってトヨタ自動車を見学、その後京都や奈良の観光もしたのです。

5番目の写真は1978年に鄧小平が昭和天皇を表敬訪問した時の写真です。
中国の権力トップの人物が日本を訪問するのは日中の歴史で初めてのことでした。
これに答えて、新日鉄は上海に宝山製鉄所を建設し、トヨタは中国に自動車の生産工場を作りました。
日本政府は多額のODAを提供し、外務省のJICAは多数の技術者や専門家を中国へ派遣したのです。
そして日本の企業は中国の工業特別地区に工場をつくり生産技術を伝えたのです。
この1972年から1989年の間は中国は日本の歴史認識や靖国神社問題で日本側を一切非難しなかったのです。
しかし1989年の天安門事件の後に権力の座に登った江沢民はまったく鄧小平の親日政策を逆転し、激しい日本非難を繰り返すようになったのです。 
南京虐殺を30万人と固定化したのも江沢民です。さらに彼は日中戦争の中国側の死者が3000万人だったと主張したのです。さすがにこれは誰も認めず、国際的には中国側の死者は2000万人だったと言われています。
このように江沢民は劇的に対日政策を転換したのです。
したがって1989年から現在にいたるまで日中関係は冷え切った時代が続いたのです。
尚、1972年から1989年に至る中国の政治の動向に関する参考資料を末尾に付けましたので、ご参照ください。

今日は1972年から1989年までの17年間の熱烈な日中友好関係の時代を簡単にご紹介しました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料============================
(1)田中角栄総理の訪中と日中共同声明:
出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%A7%92%E6%A0%84 です。

1972年7月7日に内閣総理大臣に就任した田中角栄は、同年9月に自ら中華人民共和国を訪問した。
そして9月29日、日本国外務大臣:大平正芳と中華人民共和国外交部部長:姫鵬飛が「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に署名。国交正常化が成立した。このとき日本はニクソン訪中宣言の後に対中アクションを起こしたにもかかわらず、アメリカよりも先に中国を承認するという、信じがたいフットワークのよさでことを進めた。政策判断の当否はともかく、アメリカの鼻先でアメリカの外交戦略の先手を取ったというのは日本の戦後政治史において例外的なことである。

(2)鄧小平の権力掌握:
出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3 です。
1977年7月の第10期3中全会において、国務院常務副総理、党副主席、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰。翌8月に開催された第11回党大会において、文化大革命の終了が宣言される。鄧小平は文革で混乱した人民解放軍の整理に着手するとともに、科学技術と教育の再建に取り組み、同年、大学統一入学試験を復活させる。
1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、中国首脳として初めて訪日し、昭和天皇や日本政府首脳と会談したほか、千葉県君津市の新日鉄君津製鉄所、東海道新幹線やトヨタ自動車などの先進技術、施設の視察に精力的に行い、京都や奈良にも訪れた。この訪日で鄧小平が目の当たりにした日本の躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。また、新日鉄との提携で、上海に宝山製鉄所を建設することが決定された。
同年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された第11期3中全会において文化大革命が否定されるとともに、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線が決定され、歴史的な政策転換が図られた。また、1976年の第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされた。鄧小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し[3]、事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

(3)鄧小平の訪米:
1979年1月1日に米中国交が正式に樹立されると、鄧小平は同28日から2月5日にかけて訪米。首都ワシントンDCで大統領ジミー・カーターとの会談に臨んだ後、ヒューストン、シアトル、アトランタなどの工業地帯を訪れ、ロケットや航空機、自動車、通信技術産業を視察。前年の日本訪問とこの訪米で立ち遅れた中国という現実を直視した鄧は改革解放の強力な推進を決意、同年7月、党中央は深圳市など4つの経済特別区の設置を決定する。
鄧小平が推進する経済改革は、民主化を求める風潮をも醸成した。この風潮を利用して、鄧小平は華国鋒の追い落としを目論む。華国鋒は「二つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線を掲げていたが、これを批判する論文が、鄧小平の最も信頼する部下である胡耀邦らにより人民日報、解放軍報、新華社通信に掲載されたのを機に、国家的な論争に発展。北京には「民主の壁」とよばれる掲示板が現れ、人民による自由な発言が書き込まれた。その多くは華国鋒体制を批判し、鄧小平を支持するものであった。華国鋒は追いつめられ、前述の1978年12月の党中央工作会議において毛沢東路線を自己批判せざるを得なくなり、党内における指導力を失っていった。最終的に華国鋒は1981年6月の第11期6中全会において党中央委員会主席兼中央軍事委員会主席を解任され、胡耀邦が党主席(1982年9月以降、党中央委員会総書記)に就任し、鄧小平が党中央軍事委員会主席に就任した。前年の1980年には鄧小平の信頼厚い趙紫陽が国務院総理(首相)に就任しており、ここに鄧小平体制が確立した。

(4)鄧小平の弾圧政策への変化:

鄧小平は当初民主化を擁護していたが、1980年にポーランドで独立自主管理労働組合「連帯」が結成されると、自己の政策に反する活動家を投獄するなど一転して反動化した。1986年には、反右派闘争などで冤罪となった人々の名誉回復に取り組む総書記の胡耀邦、国務院総理の趙紫陽(いずれも当時)らに対する談話で「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺している。翌1987年、政治体制改革をめぐって改革推進派の胡耀邦と対立し、胡を失脚させる。しかし、鄧は政治改革に全く反対だというわけではなかった。第一次国共内戦期から党に在籍し、「革命第一世代」と呼ばれた老幹部たちを、自身も含めて党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置をとった。ただし、鄧自身は党内序列1位には決してならなかったものの、党中央軍事委員会主席として軍部を掌握、1987年に党中央委員を退いて表向きは一般党員となっても、2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。
後に趙紫陽がゴルバチョフとの会談で明らかにしたところでは、1987年の第13期1中全会で「以後も重要な問題には鄧小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。1989年の第二次天安門事件後には一切の役職を退くが、以後もカリスマ的な影響力を持った。

(5)天安門事件の武力弾圧:

生涯に三度の失脚(奇しくもうち二回は学生が起こした暴動が一因)を味わったためか、鄧小平は中国共産党の指導性をゆるがす動きには厳しい態度で臨み、1989年6月には第二次天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。この事件については初め趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対して、軍部を掌握していた鄧小平が陳雲、李先念ら長老や李鵬らの強硬路線を支持し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断したといわれる。
鄧小平は、武力弾圧に反対した趙紫陽の解任を決定。武力弾圧に理解を示し、上海における学生デモの処理を評価された江沢民(当時上海市党委書記)を党総書記へ抜擢し、同年11月には党中央軍事委員会主席の職も江に譲った。

(6)江沢民への権力委譲:
出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%B2%A2%E6%B0%91 です。
1989年4月、胡耀邦(1987年、保守派により党総書記を解任)が死去したことを契機に民主化運動が高まっていった。しかし、最高指導者の鄧小平は民主化運動を「動乱」と規定、共産党の機関紙である『人民日報』は4月26日付社説「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」を発表した。当時の江沢民は、趙紫陽総書記ら民主派と、李鵬国務院総理(首相)ら保守派との中間的存在であったが、江はこの社説にいち早く対応し、胡耀邦追悼の座談会を報じた『世界経済導報』を停刊処分とした。この江の行動が陳雲や李先念といった保守派長老の目に留まり、民主化運動に理解を示していた趙紫陽の後任候補として江を推す声が高まっていった。6月4日、第二次天安門事件が発生。その直後の6月23日から24日にかけて開催された第13期4中全会において、全職務を解任されて失脚した趙紫陽に代わり、江沢民は鄧小平によって党総書記・中央政治局常務委員に抜擢された。

今日は大西洋のロブスターの写真を撮って来ました

2018年08月18日 | 写真
最近は残暑がありますが秋らしい乾いた風が吹き抜けています。毎日、午後は花の写真や農村の写真を撮りに行きます。今日は趣向を変えて大西洋の海ザリガニのロブスターの写真を撮りに行きました。
大西洋のロブスターを店先の水槽に沢山飼っている所に行って昼食を摂りました。

1番目の写真から4番目の写真までは先程撮ってきた生きた大西洋のアメリカ・ロブスターです。

このレッドロブスターというアメリカのチェイン店は全国にありますから、皆さまのお住まいの所にもあると思います。



5番目の写真から7番目の写真は三鷹市にあるレッドロブスター店の内外の写真です。





さてロブスターは漁獲時期が決まっており、何時でも取れるものではありません。
レッドロブスター店で扱っている“ロブスター”は6月(春漁)と12月(冬漁)の1年のうち2回が漁期となっているそうです。ロブスターの生息するカナダ沖の大西洋は厳格なライセンス基準によって資源が守られています。
陸あげ、貯蔵、輸送の間を通うして生きたままにしています。
一方、日本のイセエビはロブスターとは全く別種のもので、房総半島以南から台湾までの西太平洋沿岸と九州、朝鮮半島南部の沿岸域に棲んでいます。
かつてはインド洋や西太平洋に広く分布するとされましたが、研究が進んだ結果、他地域のものは別種であることが判明したそうです。

それにしてもロブスターはザリガニの一種だとは驚きました。そう言えば秋になるとスウェーデンでは体長10cm位の小型のロブスターが沢山取れます。茹でると真っ赤になりますが姿はザリガニと同じでした。美味しいの沢山食べたことを思いだしました。茫々46年前の1972年の秋のストックホルムの思い出でした。(終り)

インターネットは高齢者向けの巨大な図書館

2018年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム
昔は何か調べものをする時は遠方の図書館まで行ったものです。
しかし高齢者になって足が弱くなると図書館に行けなくなります。しかしインターネットにはあらゆる種類の世界中の情報が掲載されています。専門的な学術書も掲載されています。
私が11年間毎日書いて来たブログの記事も全て掲載されています。
この巨大な図書館を利用するためには賢い検索の方法を身につける必要があります。
そこで今日は私がよく使っている検索方法をご紹介したいと思います。

まず自分のブログの中に掲載してある「懐かしい車の写真」を探す方法です。
一番はじめにGoogleやYahooのページを開きます。
その検索覧に「後藤和弘のブログ、懐かしき車の写真」と書き込みます。そして検索すると、「懐かしきイギリスのスポーツカーの写真をお送りします」2014年09月14日 が出て来ます。検索には「後藤和弘のブログ、@@@@」と必ず「後藤和弘のブログ、@@@@と打ち込めば@@@@の部分は必ずしも正確に書く必要はありません。うろ覚えのそれらしい言葉を並べれば良いのです。

1番目の写真は1960年にオハイオで買った1953年型のダッジ・コルネットの写真です。

2番目の写真は1962年に帰国後、東京で買ったマツダ・クーペ360の写真です。

このように自分が書いた個人的な記事でも全てインターネットに掲載されていて検索すると出て来るのです。これは驚異的なことです。インターネットは世界一巨大な図書館なのです。
インターネットは現在の生活のあらゆる分野で大いに利用されていて現代社会の必需品になっています。
しかし1990年頃より以前はインターネットは殆ど利用されていなかったのです。ですから1990年以前の手紙は手書きが主で、公式の文書は活字印刷が普通でした。
そしてインターネットの普及によって本の出版部数も減少しました。


3番目の写真は国内における本の年間の推定販売数と年間売上高の推移を示す図面です。
左の縦軸の本の販売数を見ると1990年までは増加していますが、それ以後は減少に転じています。これこそインターネットの普及によってもたらされた現象です。
世界の各地にインターネットがどの程度普及しているか調べてみました。
そうしたら世界地図の上に各国の普及率を示した図面がありました。

4番目の写真は各国の普及率を示した図面です。
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/internet/inet_dif.html が図面の出典です。
この図面によると日本、韓国をはじめ欧米先進国は70%以上の普及率です。
これらの先進国では高齢者が痛む足腰で遠方の図書館まで歩いて行く必要がありません。自宅のパソコンで新しい情報など総てのことの調べが出来るのです。
しかしこの大きな図書館を使うには一つのコツがあります。それはどのような検索の言葉を使用するか自分で考え出さないといけない事です。
検索に用いる言葉が適切でないと欲しい情報が出て来ないのです。ですから私は検索に用いる言葉を試行錯誤で苦心して工夫します。
その上、検索の言葉を英語にすると世界中の情報を調べることが出来るのです。
高齢者にとっては英語は忘れてしまったり、今更、和英辞典の細かな字を見るのも億劫です。
そこで検索の言葉は、まず日本語で検索してみます。すると、その検索の言葉が英語で示してあることが多いのです。その英語をコピーして新たに検索すると世界中の情報が手元に出てきます。その上、Googleや Yahooには日本語を英語、ドイツ語、フランス語などの外国語に翻訳する機能があるのです。

下に幾つかの実例で示します。
まず世界各地の花々の写真を入手したい場合にはどうすれば良いのでしょうか?
これは簡単です。Flowers in world という言葉で検索します。この検索用語をもう少し詳しくして、Pictures of flowewrs in the world として検索すればいきなり花々の写真集が出て来ます。下の2枚の写真は、そのようにして入手した写真です。

5番目の写真は、http://flowersplanets.blogspot.com/2011/09/beautiful-flowers-photos_04.htmlよりお借りしました。

6番目の写真は、 http://afkra.blogspot.jp/2013/05/the-10-most-beautiful-flowers-in-world.html よりです。

ところで話は変わりますが、高齢者は多くの思い出を持っているものです。
例えば私事で恐縮ですが、私共家族は昔、ドイツのシュツットガルトに住んでいたことがあります。その楽しかった思い出のある都市の風景写真を時々見たくなります。
そこで, Landscape of Stuttgart という言葉で検索します。すると懐かしい風景写真が沢山出て来ます。

7番目の写真は一例として、Stuttgart市の郊外に広がるブドウ畑の写真です。
上の写真の出典は、http://www.marriott.com/hotels/photo-tours.mi?marshaCode=zpzde&pageID=HWARI&imageID=4 です。

さてここまでは何とか怪しげな英語の検索用語でうまく行きましたが、当時よく散歩した「七つの水車小屋の谷」の道の風景を見たくなりました。
そこで今度はドイツ語で、Siebenmuhlental と、うろ覚えのドイツ語で検索しました。そうしたら風景写真が数枚出て来ました。

8番目の写真はStuttgart市の郊外にある「七つの水車小屋の谷」の道の風景です。
写真の出典は、http://www.siebenmuehlental.de/# です。
ついでに帰国途中のイギリスのポーツマスで見たネルソン提督が乗って、スペンイン艦隊を破ったヴィクトリー号の写真を下に示します。
これには少し苦労しました。ネルソン提督を英語でどのように書くか分かりません。そこで日本語でネルソン提督を検索して、その英語表示を見つけました。それをコピーしてあらためて検索すると膨大な情報が出て来ました。

9番目の写真はヴィクトリー号の写真です。
この写真の出典は、http://www.bestwestern.co.uk/destinations/portsmouth-hotels/portsmouth-attractions/default.aspx です。

上はほんの少しの実例ですが、インターネットには研究論文をはじめあらゆる種類の学術文献の紹介もあります。
それらを活用するには検索の言葉を自分で考え出して、検索することが肝要なのです。
一つの検索の言葉で希望の情報が出て来なかったら、同じような意味の別の言葉を幾つか用意して検索すると必ず希望する情報が出てくるのです。

この巨大な図書館を高齢者の方々が活用し、老境を幸せに過ごしますようにとお祈りします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

宮ケ瀬湖、津久井湖、相模湖の3湖を巡る小さな旅

2018年08月17日 | 写真
神奈川県の西には丹沢山系があります。その山ふところに美しい宮ケ瀬湖があります。
その北東を流れる相模川には津久井湖と相模湖があります。
いずれもダム湖ですが周囲が綺麗に整備してあって湖を囲む県立公園になっています。
昨日は晴天でしたので午後にこの3湖を巡るドライブに行って来ました。
写真は全て家内が撮りました。
1番目の写真から4番目までは宮ケ瀬湖の風景です。
5番目と6番目の写真は津久井湖です。
最後の7番目の写真は相模湖です。
宮ケ瀬湖と相模湖には遊覧船がありますので、秋になって涼しくなりましたら是非、家族連れでお出掛けになってみて下さい。














仏教とキリスト教の皮相的な違い、お気軽にご覧下さい

2018年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム
宗教というものはやっかいなものです。ある宗教の一つの宗派に属して、ある程度の修行をしないとその宗派の教えが理解出来ないのです。
従って仏教を信じている人はキリスト教が理解出来ません。その逆も真なのです。
私はカトリックを少し信じています。その立場で仏教とキリスト教の違いを書けば、必然的に皮相的になります。
ですからこれから書くことは、お気軽に読み流してください。
さて仏教とキリスト教を比較すると、次のような違いが気になります。

『仏教は分かり難いがキリスト教は理解しやすいこと」
その原因を日本の大乗仏教について少し説明します。

1番目の写真はお釈迦さまの教えが上座部仏教と大乗仏教に別れ、北方の中国、朝鮮、日本と南方のミャンマー、タイ、ベトナムと伝承された様子を示した図面です。
日本の仏教はお釈迦さまの死後400年位の間にインド人の宗教指導者がいろいろ改革して出来たものです。
ですから当然、日本の仏教はお釈迦さまの教えと変わっています。その相違を示すと次のようになります。

1)釈迦は自分が死んだら墓を作らず、遺骨は野に捨てよと言って入滅しました。
しかし日本の仏教では先祖の墓を大切にし、お寺はお墓の管理で収入を得ています。

(2)釈迦は全ての像を拝んではいけない。仏像など作ってはいけないと教えました。
しかし日本には観音さまや薬師さまや大日如来さまの像が沢山あり、崇拝されています。

(3)釈迦は全ての殺生を禁じました。
しかし現在の日本の仏教徒はこの戒律を破っています。しかし江戸時代までの日本人も四つ足の動物は殺して食べることはあまりありませんでした。

(4)釈迦は妻や家族から離れて出家しました。
しかし日本の僧侶は妻帯し子供を大切にしています。お寺は世襲制で子供がまた住職になるのです。お寺の住職の世襲制は釈迦の教えとは違います。

(5)釈迦は教えの中心の「色即是空、空即是色」と「受想行識亦復如是」を本当に深く理解し信じるためには家族から離れて出家しなければいけないと教えました。
しかし日本では出家しなくても釈迦の教えが理解でき悟りの境地に入れると信じられています。

以上のような違いは私にとっては非常に気になります。

一方、キリスト教の方はイエスの死後80年位たってから教えを忠実に記録しました。それが新約聖書です。
新約聖書は分かり易い日本語に翻訳されていて、誰でも簡単に読めます。意味が簡単、明快に理解出来るのです。それはイエスさまのオリジナルな言葉そのままなのです。
私は教祖の教えそのままの書物を信じたいのです。
私がキリスト教を信じようとしている理由の一つは教祖のイエス様の言葉が明快に聞けるからです。

さて仏教とキリスト教の違いは他にもいろいろありますが、今日は上に書いた一つだけにしています。
そしてよく質問される幾つかの疑問について説明します。
(A)マリア信仰について、
「マリア信仰」というものが独立して行われているわけではありません。
マリア信仰はおもに女性の信者や女性の修道院のシスターたちが大切にしています。
カトリックは神とイエスと聖霊の三位一体だけを信じています。
聖母マリアまで信仰の対象のするのは大乗仏教の多神教的な風習で、それもカトリックの伝統なのです。
私は現世ご利益的な祈りはマリア様にします。現世ご利益的な祈りはイエスさまにしません。

(B)キリスト教徒は自分がいつ天国に行けるか考えていますでしょうか?
多くの信者は自分が天国に行く資格を疑っています。自分のこの世での悪を考えると地獄行きではないかと恐れています。ローマ法王でも例外ではありません。しかしカトリックには、天国と地獄の中間に煉獄というものがあります。
多くの人はそこに落とされ、悔い改めると天国へ行ける可能性が出てくるのです。私はせめて煉獄に行きたいと思って祈っています。

(C)天地創造説と現代の科学の関係について
旧約聖書の始めの方にある天地創造の物語は壮大で美しい詩のようです。私はその物語を信じています。
ついでに言えば新約聖書に書かれている全ての奇跡を私は信じています。
それらは現在の科学とは完全に矛盾しています。しかしその矛盾は全く気にならないのです。
アメリカのある狂信的な信者が、学校でダーウインの進化論を教えることを禁止しているそうですが、それは全く間違ったことです。

(D)カトリック教徒にとっての聖書の重要性について
勿論、聖書は重要です。
しかし聖書の一言半句まで教条主義的に狂信することは致しません。それはイエスを殺したパリサイ派と同じ考え方です。
カトリックではローマ法王が毎週、朗読する聖書の個所を全世界共通にして指定します。現在の民主主義や人権の尊重という考え方にふさわしい聖書の個所を選んで指定して来るのです。それを信じ異議を唱えない人をカトリック信者と言うのです。

以上はあくまでも信仰の弱い私の個人的な感想ですから、間違っているかも知れません。
ですからこそ表題に、仏教とキリスト教の皮相的な違いです、お気軽にご覧下さいと書いたのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿し絵代わりの写真は、「KITAHOのデジカメ散歩」、http://kitaho321.blog25.fc2.com/ からお借りした花の写真です。このブログには他にも美しい花々の写真掲載されています。是非ご覧下さい。









何故、ノモンハン事件と太平洋戦争で日本は惨敗したか?

2018年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム
よくノモンハン事件は太平洋戦争の惨敗のキッカケになったと言われています。
ソ連圏モンゴルと満州の国境を関東軍はハルハ河と主張し、ソ連側はハルハ河の東側20Kmまでと主張し、国境をめぐる戦争になったのです。1939年の夏でした。ソ連軍は数百台の戦車で日本軍を一挙に粉砕し、ハルハ河を渡って、その東側の約20Kmで停止しました。日本軍の死傷者が20000人、ソ連側は25000人と言われています。日本軍の敗戦の責任を取って現地の守備隊の隊長が自殺を強要され死にます。
この惨敗と同じようなことが太平洋戦争でも起きました。太平洋戦争のことは皆様ご存知の通りです。
この惨敗の原因は日本軍が常に敵側の軍事力を全く考えなかったことです。そしてもう一つの原因は補給のための戦略が全く皆無だったからです。戦死した日本兵の60%以上は餓死だったのです。
明治維新以来、日本は日清戦争、日露戦争、満州事変、上海事変、日中戦争と軍備が貧弱な国と戦って勝って来ました。戦争の場所も食糧の現地調達が可能な中国大陸でした。
この経験から特に日本の陸軍の参謀達は敵側の軍備を一切考えず、また補給の戦略も考えなかったのです。
一切考えないで戦争をしたのです。戦争を指導した参謀達はみな優秀な陸軍士官学校の卒業生でした。
そこで私は陸軍士官学校の教育内容に欠陥があったのではないかと考えたのです。

最近、私は陸軍士官学校の第57期生の元中尉、田中和彦さんと第59期生の元少尉、立石 恒さんと親しくなり、その人柄に感動しました。そこで昔の陸軍士官学校の教育内容を詳しくお聞きしました。カリキュラムの一覧表などの資料も頂きました。
そこで判明したことは陸軍士官学校の教育では敵の軍備を研究する教科が全く無かったことです。そして陸軍士官学校の正規の教科には補給戦略が全く欠けていたのです。もっとも日本軍には輜重隊といって弾薬を前線に送る部署もありましが、陸軍士官学校では一切それに関しては教えていなかったのです。
その上、陸軍士官学校と、海軍の士官学校の海軍兵学校とは教育内容が全く違うのですが、陸軍士官学校では海軍との協力に関しては全然教わらなかったそうです。つまり陸軍と海軍の共同作戦や協力は始めから想定外だったのです。

それでは陸軍士官学校の教育をご紹介しましょう。
(1)陸軍士官学校の教育方針
教育方針は1932年(昭和7年)に改正され、『陸軍士官学校教育綱領』の冒頭に次のように書いてあります。
陸軍士官学校教育ノ目的ハ、帝国陸軍ノ将校ト為ルベキ者ヲ養成スルニアリ
抑々将校ハ、軍隊ノ楨榦、軍人精神及軍紀ノ本源ニシテ、マタ一国元気ノ枢軸タリ
故ニ、本校ニ於テハ、特ニ左ノ件ニ留意シテ教育スルヲ要ス
一 尊皇愛国ノ心情ヲ養成スルコト
ニ 軍人タルノ思想ト元気トヲ養成スルコト
三 健全ナル身体ヲ養成スルコト
四 文化ニ資スルノ知識ヲ養成スルコト
以上示ス所ハ、実ニ本校教育ノ要綱ナリ。以下省略。

驚くべきことは一番目に「尊皇愛国ノ心情ヲ養成スルコト」があることです。天皇を現人神として戴く皇国を愛し、守る精神を教育するのが一番重要だと言うのです。
日本軍の保有する戦車や戦闘機や各種の大砲などの性能と使い方の技術教育もしますがそれは「尊皇愛国ノ心情ヲ養成スルコト」のあとまわしに過ぎなかったのです。
そして外国の軍隊の保有する戦車や戦闘機や各種の大砲などの性能については全く教えもせず、考えもしない教育だったのです。外国の高性能の戦車のことを教えると弱気になって戦争をしなくなると考えたのです。
(2)陸士の位置づけ
陸士の学生の位置付けは旧制高校、大学予科、旧制専門学校などに相当しています。
しかしその入試倍率はほぼ20倍もあり、東京帝国大学や京都帝国大学への入学よりも格段に難しかったのです。その事情は海軍の士官学校の海軍兵学校も同様でした。
他の教育機関と異なり、卒業後わずか20歳そこそこで高等官(卒業後は極短期間の見習士官を経て陸軍少尉に任官)になれる陸士は魅力的で、全国の旧制中学校の秀才を集めた超エリート学校でした。卒業式には大元帥たる天皇が親臨し、観兵式場にて整列、行進したのです。それは華やかな光景でした。
(3)陸軍士官学校の教科内容
予科の教育内容:
予科(予士)では旧制高等学校に準ずる「普通学」をメインに受ける。
修身、国語および漢文(国語・漢文・作文)、外国語(英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語・中国語から一つを選択)、歴史(日本史・西洋史)、数学(三角法・幾何・幾何および微積分・代数および微積分)、物理、化学、地理および地質、心理および論理、法制および経済、図画。

本科の教育内容:
軍事学をメインとする本科の教育課程は以下となっている。
戦術学、戦史、軍制学、兵器学、射撃学、航空学、築城学、交通学、測図学、馬学、衛生学、教育学(軍隊教育・一般教育)、外国語、校内教練、校外教練、陣中勤務、射撃、剣術・体操・馬術、典令範・服務提要となっている。
これらのほか、現地戦術、測図演習、野営演習、各見学も実施されました。

以上から明らかになったことは、本科の教科内容に戦場への食糧の補給問題の教科が欠落してることです。
その上、敵の捕虜の取り扱いに関する国際規定の教育も皆無です。
外国の戦車や機関銃の性能の教育も全くありません。
これでは日本の陸軍の参謀達が敵側の軍備を一切考えず、また補給の戦略も考えなかったのは当然です。

私は印刷された資料だけでは不十分と思いました。
私は次のような質問を印刷して、陸軍士官学校の第57期生の中尉だった田中和彦さんと第59期生の少尉だった立石 恒さんへお渡ししたのです。そして暫くたってから両方のご自宅を訪問していろいろ教えて頂きました。
(1)教室での講義では仮想敵国の兵器、戦車、戦闘機、爆撃機の性能を教える講義が充分ありましたか?
(2)野外における指揮や兵器の取り扱いの教育は毎週、何日ありましたか?
教室での戦術や兵器に関する講義は毎週、何日ありましたか?
(3)仮想敵国との戦争にあたっての戦場における指揮方法や戦術の講義が充分ありましたか?
中国軍の兵器の数量や性能に関する講義はありましたか?
特にアメリカの航空母艦や艦載機の性能に関する講義はありましたか?
(4)敵の軍隊の配置と日本軍の戦略に関する講義はありましたか?
(5)海外に展開した日本軍の弾薬と食料の補給方法についての講義はありましたか?
(6)敵兵の捕虜の取り扱いに関する講義はありましたか?

確認した結果を書きます。
(1)皆無でした。
(2)日本軍の保有する兵器の取り扱い方や性能は充分教わりました。
(3)中国軍の兵器の数量や性能に関する講義は皆無でした。
(4)図上作戦の練習は充分ありました。
(5)皆無でした。
(6)皆無でした。

以上で皆様は何故、ノモンハン事件と太平洋戦争で日本は惨敗したかお分かりになったと思います。
そもそも陸軍士官学校が敵側の軍事力を考える重要性を教え、補給のための戦略を教えていたら真珠湾攻撃をしなかった筈です。
全ての惨敗の原因には日本の軍人教育が深くかかわっていたのです。恐ろしいのは教育なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)



1番目の写真は戦争中の写真です。白馬に乗った昭和天皇の姿です。昭和天皇は大元帥として全軍の最高指揮官でした。それと同時に現人神(あらひとがみ)という神様だったのです。

2番目の写真は937年6月に建設された市ヶ谷台の陸軍士官学校本部です。
現在は防衛省市ヶ谷地区の市ヶ谷記念館として、部分的に保存されています。

3番目の写真は朝霞の振武台の予科の校舎です。現在は記念館として保存されています。

4番目の写真は3番目の写真は1874年の開校当時の陸軍士官学校です。

5番目の写真は敗戦後、荒廃した全国を巡り、打ちひしがれた国民を激励している場面です。敗戦で急に現人神から人間になった昭和天皇を、まだ神として見ている人々の表情をご覧下さい。

黒毛和牛と輸入牛、どちらが美味しいか?

2018年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は黒毛和牛と輸入牛、どちらが美味しいか?という話です。お気軽にお読み下さい。
平成28年度の牛肉の推定出回り量は、86万1098トンでした。このうち、国産品は32万2533トンです。一方、輸入品は53万8565トンでした。
この結果、全体に占める国産品のシェアは37.5%で、輸入品のシェアは62.5%となります。(https://lin.alic.go.jp/alic/month/domefore/2017/jun/beef-jp.htm )

 アメリカからの輸入牛肉は、すべてアメリカ国内での流通カットとなっていて、特にわが国向けの特殊なカットはあまり行われていません。しかし、日本向けに特別な濃厚肥育をしたものは、現地の処理工場で日本式にカットされ、直接日本のユーザーに輸出されています。
私たちが食べている牛肉のうち、約60%はオーストラリアやアメリカから輸入されています。残り約40%が国内生産で、そのうち、黒毛和種などの肉専用種が約45%、乳用種に由来するものが約55%を占めていいるそうです。
さて美味しい牛肉と言えば黒毛和牛です。白い脂肪がサシに入っている柔らかで、牛独特の風味があります。欠点は脂肪分が多すぎて、非常に高価なことです。しかし一般的に体に悪いものほど美味しいのです。困ったものです。
面倒な話は止めて、さっそく写真に従って御説明しましょう。

1番目の写真は西洋種の牛の血が混じっていない日本古来の和牛の見島牛です。萩市の沖合の離れ島の見島に生存している天然記念物の古来の和牛です。見島では7戸の「見島牛保存会」の農家が純粋種を守り続けています。食肉用として市場へ出荷されるのは年間12頭から13頭と言います。これこそが現在賞味されている全ての「霜降り肉」の元祖なのです。
この和牛は中国から朝鮮へ伝わり、そして見島へ伝わったそうです。やがて見島から日本全国へ伝わったと説明されています。

2番目の写真は黒毛和牛の肉の写真です。

3番目の写真も黒毛和牛の肉の写真です。尚、純粋な古来の和牛はもう一あり、それは鹿児島県の離れ島に居る口之島牛です。

4番目の写真は昭和4年の見島牛のセリ売りの様子です。
(写真の出典は、http://www.mishimaushi.com/mishimaushi.html です)戦前の見島牛は飼料も貧しくてあまり美味しくなかったようです。
黒毛和牛が現在のように一般的に有名になったのは経済の高度成長の頃の1980年代からです。

5番目の写真はアメリカの肉牛のヘレフォード種の牛です。黒毛和牛にくらべて体が大きいですね。

6番目の写真はアメリカの肉牛のアバディーンアンガス種の牛です。日本のスーパーでアメリカ産の牛肉として沢山並んでいる肉はこのような巨大な牛の肉なのです。

7番目の写真はアメリカの肉牛のブラーマン種の牛です。

さて黒毛和種、褐毛和種及び日本短角種の和牛やアンガス種やヘレフォード種などの外国種の国産牛は、どんな一生を送るのか見ていきましょう。
生まれた子牛は5~7ヶ月間、母牛に育てられますが、後半の2~3ヶ月間は草や配合飼料、すなわちアメリカなどから比較的安価に輸入できるトウモロコシ、こうりゃん、大豆粕などを原料に配合した飼料を与えます。
大きくなった子牛は、5~7ヶ月齢時に離乳し、肥育に仕向けます。
子牛は沖縄などで育てられた後に、松坂や神戸や近江など日本各地に送られ飼育されます。そうして松坂牛や神戸牛や近江牛などとして出荷されるのです。もともとは同じ牛なのです。
 肥育仕向けとなった牛は生後10ヶ月齢・体重290kgですが、約20ヶ月かけて肥育され、約690kgに仕上げられます。この間、配合飼料や大麦、草、稲ワラなどが与えます。

和牛の品種は4種類あります。(http://黒毛和牛.com/basic/type/ )
その4種類とは、黒毛和種、褐毛和種(あかげわしゅ)、無角和種、そして日本短角種のことを指します。
一般的には、和牛と言えば黒毛和種を意味することが殆どです。市場で出回っている和牛のうちの、なんと90%以上が黒毛和種です。
ブランド牛といえば黒毛和種と言っても大きな間違いはありません。
黒毛和種(JAPANESE BLACK)は、日本の至るところで飼育されていて、飼育数では約160万頭です。
肉牛としては最高の遺伝的資質を持ち、筋肉の間に脂肪のサシが入っています。
黒毛和種は美味しさ、柔らかさ、サシの入り具合など、牛肉のおいしさの全てを持っています。さらにキメが細かくまろやかで、その生肉の見た目は霜降りと呼ばれるピンクと白の絶妙に美しい見かけになっています。

このように素晴らしい牛肉なので、黒毛和牛はオーストラリア、カナダ、アメリカやヨーロッパでも飼育されるようになりました。
始めは日本の大商社が日本へ輸入するために和牛の飼育をオーストラリアの牧場へ奨励したのがキッカケで、その後、現地の人々が好んで食べるようになったのです。そして現在はフランスでも好んで食べられています。

最後に三大和牛の松坂牛や神戸牛や近江牛について書き足しておきます。
この三種は明治維新以来何度も体の大きい西洋牛と交配しています。要するに血統が正しくないのです。古来の和牛と西洋牛の雑種なのです。
本当に純粋な現在の和牛は上で紹介した天然記念物の見島牛と口之島牛だけなのです。

それにしても今日は終戦記念日です。贅沢な牛肉の話はまったくそぐわない話題でした。
今日の昼食は当時の食糧難を忘れないように家内がスイトンを作ります。
戦線にある日本兵はこのスイトンさえ食べられないで餓死したのです。


今日もは戦争中に亡くなった人々のご冥福をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

写真で見る韓国の知られざる秘密

2018年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム
知られざる韓国の秘密とは日本で報道されない韓国の珍しい光景や習俗のことです。
日本のマスコミは何かというと慰安婦像の立っている風景写真だけを掲載して他の韓国の写真をほとんど掲載しません。
それからテレビでは韓国の昔の宮廷の愛憎劇だけを放映しています。
したがって多くの日本人は韓国に関して大変バランスの悪い歪んだイメージを抱いています。
特に悪いのは高齢者です。仲良くすべき隣国に対して偏見を持っているのですから実に困ったものです。しかし若い日本人は韓国が好きなのです。
前置きは止めて早速写真で説明します。

1番目の写真は2014年8月14日から18日まで韓国を訪問したフランシスコ教皇の写真です。
韓国は人口が5000万人でその2割がプロテスタン信者で、カトリック信者は約1割の544万人です。日本は約3%がキリスト教信者で、0.3%がカトリックの信者です。
こんな大きな相違があるのに日本のマスコミはこの事実を報道しません。

2番目の写真はフランシスコ法王を歓迎するため集まった韓国の大群衆です。
こんな写真は日本の新聞に出なかったので多くの日本人は知りませんでした。

3番目の写真はフランシスコ法王をが中心に立って韓国人の神父さんとミサの司式をしている光景です。
フランシスコ法王はその年に起きた大型客船沈没の遺族に会い慰めました。そのときある遺族が遺品を法王に手渡したそうです。すると彼はそれを随員に渡さないでポケットにしまい大切に持ち帰ったそうです。その人間味溢れる態度に人々が感動したそうです。
そしてソウルでは 124人の殉教者の列福式をしたのです。その時は100万人が集まったそうです。

さて韓国はキリスト教が隆盛ですが仏教や伝統的な民族宗教も大切にされています。
人々は日本と同じように祭が好きです。韓国の祭りの様子は政府の文化体育観光部が公表している「韓国のお祭り2014」に数多く紹介してあります。
その資料から韓国の祭の写真をお送りしましょう。

4番目の写真は菊の花が主役の祭りのカゴパ菊花祭りの写真です。
馬山は韓国で初めて菊の栽培を始め、日本に輸出もしました。2000年から開催されたカゴパ菊花祭りのイベント会場では、フラワーゲートや5千輪の菊で作った菊の丘、菊のキャラクターのある花の塔など美しい菊が満喫できます。 会場は慶尚南道 昌原市 馬山第1埠頭の一帯です。

5番目の写真は漢城百済時代の文化が感じられる祭りの漢城百済文化祭の光景です。
ソウル特別市松坡区一帯は2000年前、約500年間漢城百済として都があった場所です。ソウルの歴史が始まったといえるこの地には、風納土城や夢村土城など遺跡があります。燦爛たる花の漢城百済時代の歴史や文化を感じられるお祭りです。

6番目の写真は旌善アリラン祭の光景です。旌善アリランの哀歓をこめたアラリいかだの再現、旌善アリランや拍子を覚えるアリラン体験などが出来ます。会場は江原道 旌善郡です。

7番目の写真は薬草と韓方薬の祭りである智異山(山清)薬草祭りの光景です。
この祭りでは自宅でハーブのように育てて食べられる薬草の鉢植えや薬草を材料にした韓方料理などを展示しています。観光客にわかりやすく薬草を伝えています。
会場は慶尚南道 山清郡 山清インター入口の祭り広場および東医宝鑑村の一帯だそうです。
この他に ソバの花が主役の祭りもあるから驚きです。それは平昌孝石文化祭りです。
この祭りは白い蕎麦の花が蓬坪一帯を覆う最も美しい時期に開催されます。場所は江原道 平昌郡 蓬坪面の一帯(文化村一帯)だそうです。

このように韓国では日本と同じように何十、何百という数多くの祭があるのです。
韓国人は祭りやイベントを開催して楽しく暮らしているのです。日本人の祭り好きとよく似ています。
日本のマスコミはもっと、もっと広い視野で韓国人の喜びや悲しみを文化ニュースとして報じるべきではないでしょうか。
今日は韓国の日常の一端を示す写真をお送りしました。蛇足ながら私は右翼がかった純粋の日本人です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

日本人のあまり知らない第二次大戦の国別の犠牲者数

2018年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム
日本のカトリック教会は毎年8月6日から15日までの10日間を「日本カトリック平和旬間」として世界の真の平和を祈る特別なミサを全国で開催します。
そして以下のような第二次世界大戦などの全ての戦争で亡くなった方々の御魂の平安を祈るのです。
私も数日前から下の国別の犠牲者数の表を見ながら頭を垂れ、平和を祈っています。尚この一覧表は一番正確な犠牲者数として外国のインターネットでよく引用されています。

この一覧表を注意深く見ると日本ではあまり知られていない事実が沢山あるのです。
気が付いた順に記します。
(1)日本の占領地のフィリピンとインドネシアで民間人の死者がそれぞれ最大、100万人と150万人だったのです。
(2)日本領だった朝鮮の人が兵士や軍属として最大47万人以上死にました。
(3)インド人は英国兵として87000人死にましたが、民間人も250万人死にました。
(4)中国人は400万人の兵士が死に民間人を含めた合計が2000万人となっておます。この数はもう500万人追加すべきかも分からないと脚注に書いてあります。これが世界の常識になっています。
(5)ドイツに占領されたソ連では合計2400万人の人が死にました。
(6)日本人はあまり知りませんが犠牲者の多かった国々は次の通りです。
ブルガリア、チェコソロバキア、フィンランド、ギリシャ、ハンガリー、ラトビア、リトワニア、オランダ(インドネシアに居た人も含む)、ポーランド、ルーマニアなどです。
これらの国々の幾つかはドイツ側に立って戦争をしたのです。
(7)全世界の総合計です。兵士の死者は15,000,000人で民間人の死者は45,000,000人でした。総合すると全世界で6000万人の人が死んだのです。


下に第二次世界大戦の国別の犠牲者数の表を示します。
この一覧表では1、国の名前、2、軍人と兵士の死者数、3、民間人を含めた死者数の合計の3項目が順に示したあります。
(https://www.nationalww2museum.org/students-teachers/student-resources/research-starters/research-starters-worldwide-deaths-world-war )

Australia
39,800
40,500

Austria、オーストリー
261,000
384,700

Belgium
12,100
86,100

Bulgaria
22,000
25,000

Canada
45,400
45,400

China、中国
3-4,000,000
20,000,000

Czechoslovakia チェコソロバキア
25,000
345,000

Dutch East Indies(インドネシア)
--
3-4,000,000

Finland、フィンランド
95,000
97,000

France、フランス
217,600
567,600

French Indochina(仏領インドシナ)
--
1-1,500,000

Germany、ドイツ
5,533,000
6,600,000-8,800,000

Greece、ギリシャ
20,000-35,000
300,000-800,000

Hungary、ハンガリー
300,000
580,000

India、インド
87,000
1,500,000-2,500,000

Italy、イタリー
301,400
457,000

Japan、日本
2,120,000
2,600,000-3,100,000

Korea(朝鮮出身の日本兵や軍属)
--
378,000-473,000

Latvia、ラトビア
--
227,000
Lithuania、リトワニア
--
353,000

Malaya、マレーシア
--
100,000

Netherlands(オランダ)
17,000
301,000

Philippines、フィリピン
57,000
500,000-1,000,000

Poland、ポーランド
240,000
5,600,000

Rumania、ルーマニア
300,000
833,000

Soviet Union、ソ連
8,800,000-10,700,000
24,000,000

United Kingdom(イギリス)
383,600
450,700

United States(アメリカ)
416,800
418,500

Yugoslavia、ユーゴスラビア
446,000
1,000,000

全世界の総合計
Battle Deaths
15,000,000
Battle Wounded
25,000,000
Civilian Deaths(民間人の死者)
45,000,000
脚注;Worldwide casualty estimates vary widely in several sources.
The number of civilian deaths in China alone might well be more than 50,000,000.

20世紀の世界では第一次世界大戦もありました。朝鮮戦争やベトナム戦争もあり大きな戦争が絶えなかったのです。
そして上の表では強制収容所で命を奪われた6百万人のユダヤ人は含まれていません。
はかり知れないほどの無数の死者のかたわらに家族の悲嘆の山並みがつづいているのです。

ですからこそ日本のカトリック教会は毎年8月6日から15日までの10日間を「日本カトリック平和旬間」として世界の真の平和を祈る特別なミサを全国で開催しているのです。戦争で亡くなった全ての方々の霊の安らかなことを祈るのです。
「日本カトリック平和旬間」は次のようないきさつで36年前に制定されました。
1981年2月23日~26日、教皇ヨハネ・パウロ二世は「平和の使者」として日本を訪問し、多くの人々に喜びと希望を与えました。特に広島では、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と言われ、日本国内外に平和メッセージを発信しました。戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく、具体的な行動でなければなりません。
そこで日本のカトリック教会は、その翌年(1982年)、もっとも身近で忘れることのできない、広島や長崎の事実を思い起こすのに適した8月6日から15日までの10日間を「日本カトリック平和旬間」と定めました。
毎年の平和旬間にあたり、ともに平和を祈り、平和を考え、平和について語り、平和のために行動する機会になるように祈っています。
この「平和旬間」に広島教区と長崎教区では、全国から司教をはじめとして多くの信徒が集まり、「平和祈願ミサ」がささげられます。また全国の各教区でも、平和祈願ミサや平和行進、平和を主題とした映画会、講演会、研修会、平和を求める署名などが行われています。
わたしたちが望む平和とはまだまだ程遠い状況ではありますが、聖ヨハネ・パウロ二世教皇の思いを新たにし、その心を心とするためにも各教区・地区で行われます平和祈願ミサや様々な行事を行っているのです。

そんな訳ですので、今日は、
再び絶対に戦争が起こらないようにお祈りします。そして全ての戦争で犠牲者になった方々のご冥福をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

犠牲者の御霊に夏の花の写真をお供えします。












洗礼を受けて良かったこと(3)欧米人の考え方や感じ方が分った

2018年08月12日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人は無意識のうちに仏教や神道の影響を受けています。日本人の考えかたや感じ方は仏教の無常の教えの影響を下敷きにしています。
日本人特有の『侘び寂び』の感じ方は仏教の無常感とつながっています。お釈迦様のすべては空(くう)ですという教えにつながっています。このような感性は欧米人にはありません。彼等は無意識のうちにイエスさまの教えの影響を受けているのです。キリスト教を信じていない欧米人もその影響から逃れることが出来ません。幼少の頃からキリスト教の水を飲んで育っているのですから考え方や感じ方が聖書の影響を受けているのです。
私は仏教国の日本で生まれ育ち、47前の35歳の時、カトリックの洗礼を受けました。
私のカトリックは当然ながら仏教の影響を受けております。私のキリスト教は欧米のキリスト教とは違いがあります。
しかし共通の部分もあるのです。その共通の部分から、欧米人の考え方や感じ方がほぼ理解出来るのです。
理解できれば親しみが湧きます。
話は飛びますが、この親しみの感情は中国や韓国のキリスト教の信者にも同様に湧きます。

洗礼を受けて良かったことの一つはこのように外国人に親しみを感じるようになったことです。
以前のように国境が全てという感じ方が消えてしまったのです。国境は確かに厳然と存在していますが、それ以上に人類共通の考え方や感じ方が非常に大切だと思うようになったのです。
何故か自分の住んでいる世界が広々として明るくなったのです。これが洗礼を受けて良かったことです。

それでは欧米人と日本人の考え方の相違を一つの例で説明したいと思います。
日本人は「欧米人は悪いことをしても謝らない」と非難がましく言います。そうです日本のように気軽に、「すみません。申し訳ありません。悪いことをしてしまいました。心から謝罪します。」とは言いません。
欧米人は悪いことをした場合は神に謝るのです。人間には謝らないのです。教会のミサの冒頭で自分の罪を告白して神に祈るのです。
教会に行かない不信心の西洋人は独りになった時心の中で神に謝っているのです。

第二次大戦の時、ドイツ人はユダヤ人や占領地のポーランド人やロシア人など、総計3000万人前後の人間を殺したと言います。
戦後しばらく経ってから、ドイツのある大統領が謝罪した有名な演説があります。
それは西ドイツのヴァイツゼッカー大統領の演説で、『荒野の40年』と題した演説です。多くの言葉に翻訳され本になった有名な演説です。その一部を抜粋して示します。

・・・大抵のドイツ人は自らの国の大義のために戦い、耐え忍んでいるものと信じておりました。ところが、一切が無駄であり無意味であったのみならず、犯罪的な指導者たちの非人道的な目的のためであった ・・・
心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、我々が真実を求めることが大いに必要とされます・・・
強制収容所で命を奪われた6百万人のユダヤ人……ソ連やポーランドの無数の死者……虐殺されたシインティ・ロマ(ジプシーの自称)……殺された同性愛の人々……殺害された精神病患者……宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人々……銃殺された人質……ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者……ドイツ人としては、兵士として倒れた同胞、故郷の空襲で、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞……市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者……はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいています・・・

この文章を穴の開くまで眺めても絶対に「謝罪します」という言葉がありません。
謝罪するべきは犯罪的な指導者たちの個人です。神に対して謝罪の祈りをするべきなのです。
欧米人の「謝罪」とは「数々の悲劇を心に刻むということです。ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります」とヴァイツゼッカー大統領が熱く訴えているのです。
日本人がこれを読むと謝罪文になっていないと言います。

私が尊敬する田中角栄さんが北京で「日中戦争では大変ご迷惑をかけました」と謝りました。この言葉に周恩来首相は驚いたそうです。角栄さんは彼としては誠実に謝ったつもりでした。しかし中国語で・・・ご迷惑をかけました・・・とはあまりにも軽々しく聞こえたのです。文化の違いで誤解が起きるのです。
「欧米人は悪いことをしても謝らない」という非難は間違いです。文化の違いで起きた誤解なのです。

欧米の人々は悪いことをしたらその罪を神に対して個人として懺悔します。そしてその悪行の被害者には深く同情し、被害者の心に寄り添います。
・・・悪行によって起きた悲劇を心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。・・・この部分が欧米人の謝罪の行為なのです。

蛇足ながら、私は欧米が日本より良いと主張しているのではありません。日本も欧米諸国も同じくらい素晴らしい国々なのです。しかし欧米人も日本人も同様に悪いこともするのです。そして悪行の謝り方が違うのです。
残念ながらそれが人間なのです。

今日の挿し絵代わりの写真はヨーロッパの田園地帯の小さな教会の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

https://blogs.yahoo.co.jp/naokiart1969/53424110.html

https://pixabay.com/p-861624/?no_redirect

https://theculturetrip.com/europe/france/articles/13-films-to-give-you-wanderlust/

毎日、毎日、咲く底が紅色のムクゲの花

2018年08月11日 | 写真
ムクゲの花は毎日、咲いて、その日のうちに散って行く日花です。夏の3ケ月、庭に咲き続けています。
花の底が紅色になるムクゲと花全体が紅紫色になる2種類が庭に沢山咲いています。
この季節に庭に咲く花はこれと橙色のノウゼンカズラと紫色のメドウセイジだけです。
種類が少ないことは淋しいですがムクゲが2種類たくさん咲いて庭を華やかにしてくれます。
今日は底紅のムクゲの写真をお送りします。





洗礼を受けて良かったこと(2)韓国の仏教と民族信仰との混淆が理解出来た

2018年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教の洗礼を受けて何十年も教会のミサに出ていると、何となく宗教を信じることはこういう事かと合点がいきます。宗教を深く理解するためには、それを体験したり修行をしないと駄目だという事も分かりました。
私の祖父は曹洞宗のお寺の住職でした。ですから幼少の頃からお経を読んだり、檀家回りについて行ったりしました。その経験が私のカトリックの信仰を助けています。
日本は仏教国なのでキリスト教も自然にその影響を受けます。
ですから日本のキリスト教は欧米のそれとは少し違います。
この連載の前の記事では洗礼を受けたおかげで日本の仏教が少し理解出来たということを書きました。
それでは日本の宗教的習俗とよく似ている韓国と中国ではどうなのでしょうか?
結論を言ってしまいます。
中国でも韓国でも仏教にそれぞれの民族宗教が混淆して多神教的な信仰生活をしているのです。
中国は共産党独裁ですが、宗教は自由です。いろいろな宗教が盛んになっています。
仏教、道教、孟子廟、孔子廟への信仰、イスラム教(回教)、そして天主教などのキリスト教が隆盛しているのです。多くの人々が宗教を信じるようになっています。
共産党の独裁政治に逆らわない限り、どんな宗教でも自由に信仰して良いのです。
この中国も含めて韓国と日本の三国の共通点は仏教と、それぞれの民間宗教が混淆していることです。
中国での仏教と道教の混淆ぶりは良く知られているので、今日は韓国の仏教と古来の宗教との混淆の様子をご紹介します。
それは日本にある神仏混淆に似ていますが、韓国にには神道が無いので違いもあります。
なお韓国は非常にキリスト教が普及していて、信者の割合は日本より圧倒的に多いのです。そんな事情でローマ法王のフランスコ教皇も韓国に行き、大歓迎されました。
しかし今日は韓国の仏教に限って書きます。それでは写真に従って説明いたします。
まず韓国に観光旅行に行くと大きなお寺に案内されることが多いものです。すると「大雄殿」という扁額のある本堂のような建物があります。

1番目の写真は慶州の佛国寺の大雄殿です。
大雄殿の中にはお釈迦さまの教えを象徴する 仏像が祀ってあります。

2番目の写真は韓国の大雄殿の中にある仏像です。大雄殿とは日本のお寺の本堂のことです。
中國や韓国の禅宗系のお寺に観光に行くと必ず案内される一番重要な建物です。
さてあまり日本人は気が付いていませんが、韓国の多くのお寺の本堂の裏の高い場所に三聖閣という建物があります。

3番目の写真は本堂の裏にある三聖閣です。
そこで韓国の仏教を少し詳しく調べてみました。するとこの建物の中には3人の聖人がまつられています。
「山神」、「七星」、そして「独聖」です。(http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/bukkyo_004.htm)
三聖閣には、七星如来、独聖、山神が祭られているのが一般的なそうです。これらを別々の法堂に祭る場合には、七星閣、独聖閣、山神閣と呼びます。
「七星」とは、北斗七星を意味します。星に関する民俗信仰を仏教に取り入れたと考えられます。北極星を「熾盛光如来」、北斗七星を「七聖如来」とする信仰が七聖信仰です。これは中国の道教からきた信仰で、日本では妙見信仰と呼ばれています。韓国では子供たちが短命でないように七星様にお参りをするそうです。
独聖は、天台山で濁世の衆生を救うために一人で修行する聖者を意味します。法堂の絵の中で、白い髭と長い眉毛をした仙人のような老人が独聖です。一般的には、那般尊者といいます。
山神は韓国のほとんどが山であり、その山々を信仰するものです。特に、山神は農業、健康など、私たちの暮らしを見守ってくれていると考えていました。多くの場合、山神は虎と一緒に描かれています。山神信仰もまた、仏教固有の信仰ではなく韓国の民俗信仰です。山の神を信仰することは日本と似ています。しかし日本では虎の絵は描かれません。
このような韓国の宗教の混淆は日本のお寺の本堂の裏山に神社をまつるのとよく似ています。
例えば東京の高尾山には薬王院というお寺がありますが、その本堂の裏には飯綱権現を祀った神道の殿堂があります。
明治維新後、日本では欧米の影響で宗教の混淆は悪いことだと考えられるようになります。そして神仏混淆が禁止されましたが、それ以前のお寺の本堂の裏や横には必ず神道の拝殿と本殿があったのです。
これは韓国のお寺の本堂の裏に三聖閣があるのとよく似ています。
韓国の「三聖閣」の詳細は末尾の参考資料にあります。
このような韓国の仏教との混淆の様子を知ると韓国人に非常に親しみを感じます。
中国でも人々は仏教と道教や妙見信仰や孟子廟や孔子廟への信仰が重複してなされています。中国も日本と同じ多神教的な宗教生活をしています。親しみを覚えます。

最後に韓国の界文化遺産の海印寺の写真を3枚お送りいたします。出典はkamiyaさんのブログです。
URLは、https://blogs.yahoo.co.jp/noa_kamiya/29920617.html です。





海印寺は1200年の歴史を有し、韓国三宝寺刹の一つです。美しい渓流が流れる伽揶山南側の深山の中にあります。
新羅第40代、哀荘王3年(802年)に、順応と利貞の二人の僧によって創建された寺院です。海印寺が「法宝寺刹」とも呼ばれる由縁は、お釈迦様の教えのすべてをまとめた経典を保管していることにあるそうです。

以上のように韓国では仏教が原始的な「山の神」や「北杜七星」や「独聖と呼ばれる仙人」へ対する信仰と深く混淆しいるのです。その宗教的風景は日本と同じようです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料===============
「三聖閣」とは:http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/bukkyo_004.htm
韓国の寺院は寺院後方、大雄殿より高いところに「三聖閣」という殿閣を置くことが多い。韓国の山岳信仰と融合したものである。何を主体に祀るかで山神閣、七星閣、独聖閣などと言う場合もある。いずれも仏教以外のところから韓国仏教に融合したものである。 三聖閣という場合は、「山神」、「七星神」、「独聖」を祀り、建物は正面4本の柱、側が2本の柱で囲まれた建物となる。

山神は韓国土俗の「山神霊」が変化したもので18世紀末から19世紀初めにかけて発生した信仰である。山神は護法転身の結果、人格神の山神、化身の虎とし て現れるという。山神に対しては無病長寿、子孫繁栄を祈願する。山神図は虎と子供を率いて手に長寿などの象徴を載せることが多い。

七星は北斗七星のことで、人間の幸福と寿命を象徴する。北斗七星に対する民間信仰が融合したもの。元々は国の兵乱、天災地変が起きたときや、それを予防するために祭祀をしていたことに始まる。七星図の本尊は熾盛光如来で、北極星を意味する。手に金輪を持つことが多い。脇侍菩薩は日光菩薩と月光菩薩である。このような七星図は16世紀 末にすでに現れている。

独聖は那般尊者ともいわれ、釈迦が出征する前に天泰山で一人12縁起の真理を悟り、聖人の地位に上ったとされる。または16羅漢の一人、賓頭路頗羅堕を指すともされる。因縁の理致を悟った衆生に福を与えるということで信仰される。 絵は天泰山の中に座り、白く長いまつげで、錫杖、念仏を持っている姿で描かれることが多い。(韓国仏教文化事典、仏教文化研究院編より)

真夏のサルスベリの花の写真を撮りに行く

2018年08月10日 | 写真
小金井市の南端に都立武蔵野公園があります。猛暑にかかわらずサルスベリの花が長い間咲いています。
この季節はムクゲやノウゼンカズラの花しか無いのでサルスベリは貴重な花です。
先程、車で行って写真を撮って来ました。そばにカンナが咲いていましたのでそれも撮って来ました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。