後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今年はノウゼンカズラとムクゲの花の当たり年

2018年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム
我が家の庭は家人がいろいろな花を植えているので冬以外は花々が絶えることはありません。
しかし夏も立秋が過ぎるとノウゼンカズラとムクゲの花だけになってしまいました。
この2種の花は狭い庭のいたる所に沢山咲いています。今年のムクゲは底紅があまり咲かなくて残念です。
写真をお送りいたします。アゲハ蝶も良く來ますが動きが早すぎて写真に撮れません。3番目の写真は蝶が葉に止まったので撮れました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









今日は長崎原爆慰霊祭・・・民家、教会、無差別攻撃の無残さ

2018年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は73年前に長崎へ原爆が落とされた日です。長崎で安倍総理も出席する慰霊祭がおごそかに開催されます。
広島への原爆投下は8月6日でした。その日、満州へソ連軍が突如攻め込んで、満州は阿鼻叫喚の地になったのです。そんな中、8月9日、長崎の市民を対象にした原爆攻撃がなされたのです。
長崎市への原子爆弾投下では、当時の長崎市の人口24万人のうち約7万4千人が死亡し、建物の約36%が全焼または全半壊したのです。
原爆投下後の長崎市の写真を示します。

1番目の写真は長崎市に投下された原爆のキノコ雲です。
1番目から5番目までの全ての写真の出典は https://ja.wikipedia.org/wiki/長崎市への原子爆弾投下です。

2番目の写真は香焼島から撮影された長崎原爆のキノコ雲です。(松田弘道撮影)

3番目の写真は破壊された浦上天主堂です。(1946年1月7日撮影)

4番目の写真は破壊された寺院と仏像です。本尊だった仏像が頭を垂れています。(1945年9月24日撮影)

5番目の写真は原爆投下直後に逃げる被爆者たちです。(山端庸介撮影)

6番目の写真は浦上天主堂跡に於ける慰霊祭です。(1945年11月23日)

長崎原爆はプルトニウム239を使用する原子爆弾でした。この原爆はTNT火薬換算で22,000t相当の規模です。この規模は、広島に投下されたウラン235の原爆「リトルボーイ」の1.5倍の威力であったのです。
長崎市は周りが山で囲まれた地形であったため、熱線や爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減されたが、周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、広島よりも大きかったのです。
ここで示した凄惨な風景写真を見ると、あらためて原子爆弾の残酷性が心に沁みます。
そして攻撃は民間人を狙った無差別攻撃だったのです。
全ての民家は、そこに住んでいた人々と共に瞬時に振き飛ばされ、燃え上がり、一面の焼け野原になったのです。
残った市電の黒いレールだけがそこに大通りがあったことを示しているだけでした。
秀吉の時代に多くのキリシタン達の住んでいた浦上地区も破壊され、明治時代に作られた浦上天主堂も無残な姿になりました。
佛教のお寺も一瞬にして壊され燃えつくされ、焼け跡にはご本尊だった仏像がじっと地を見つめているだけです。
アメリカ人の90%はキリスト教徒と言います。
しかし宗教は戦争が一旦始まると全く無力な存在になります。
戦争では人間が悪魔になるのです。キリスト教など完全に無視します。佛教のお寺も一瞬にして破壊します。
これが人間なのです。
この恐ろしい人間が現在でも数多くの原爆を大切に持っているのです。
2015年時点で、世界には約16000発の核兵器が保管されているのです。そしてその90%以上はアメリカとロシアが持っているのです。
私は祈っています。この世界に現存する核兵器がこの美しい青い地球を死の荒野にしないようにと強く祈っているのです。

7番目の写真は宇宙船から見た美しい地球の写真です。出典は、https://www.youtube.com/watch?v=SRjqL3L9fnE です。
この美しい地球の上で長崎への原爆投下の後でも、アメリカは南太平洋で何度も原爆の爆発実験が行ったのです。そしてソ連でも原爆実験が続行されたのです。実に恐ろしいことです。

今日の長崎での慰霊祭にあたり全ての原爆犠牲者のご冥福を静かにお祈りいたしす。
そして世界に真の平和が訪れることを強くお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料============================
アメリカの太平洋のマーシャル諸島での核実験;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93
1946年7月1日からアメリカ軍占領下にある日本の委任統治領であったマーシャル諸島のビキニ環礁で核実験を行い、1947年にアメリカ領となった後も核実験を継続し、エニウェトク環礁と合わせて67回の核実験を行ったのです。
1946年7月、原爆実験クロスロード作戦では、日本の戦艦長門など約70隻の艦艇が標的として集められ、そこを原爆で攻撃して効果を測定しました。1回目は7月1日に実験を実行し、2回目は7月25日に行なわれました。
その後、太平洋核実験場として指定され、1954年3月1日ビキニ環礁での水爆実験では、実験計画では数Mtクラスの爆発力と見積もっていたものが、実際には15Mtの爆発力があったため予想よりも広範囲に死の灰が拡散して、多数の被曝者を出したのです。
ビキニ環礁の島民は、強制的にロンゲリック環礁へ移住させられ、現在に至るまで帰島できないのです。
日本のマグロ漁船第五福竜丸など数百〜千隻の漁船が死の灰で被曝したのもこの時です。
240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り、実験の3日後に住民全員が強制避難させられます。
以下省略。

国宝の香木と香道は世界に誇れる日本の文化

2018年08月08日 | 日記・エッセイ・コラム
東大寺正倉院にある蘭奢待と呼ばれている香木は国宝に指定されています。
重さが11.6kgもある大きな錐形の香の原木で、伽羅に分類される香木です。900年ごろ以降の時代のものと推測されています。

1番目の写真はこの香木の写真です。
香木は聖武天皇の代(724年–749年)に中国から渡来したと伝っています。しかし多量に運び込まれたのは10世紀以降と言われています。
正倉院の国宝の香木は、これまで足利義満、足利義教、足利義政、織田信長、明治天皇らによって削り取られています。(https://ja.wikipedia.org/wiki/蘭奢待 より抜粋)
中国から多量に渡来するようになってから天皇家や貴族の間で香木の粉末を焚いて香りを楽しんだり、着物へしみこませることが流行りました。

特に香木の粉を組み合わせて、それを小さな炭火で焚いて香を楽し趣味は「聞香」と呼ばれ、現在、香道と呼ばれている日本の伝統的な芸道になりました。
1000年以上の長きに渡り、香道が変わらず伝承されたことは奇跡のようなものです。
これも日本が世界に誇れる伝統文化の一つではないでしょうか。
「聞香」は5種類の香木を削りいろいろな香木の粉をくゆらせ、その香から特定の香木の粉を言いあてるのです。
その儀式化した席での立ちいふる舞いの美も楽しみます。分かり易く言えば茶道の形式美と同じなのです。
違う点は抹茶を点てる代わりに香木の香りを嗅ぐのです。香道では嗅ぐは禁句です。聞くと言うのです。
もう一つ違う点は茶道が禅宗と深く結びついていますが、香道には宗教性が一般的にはあまり無い点です。
源氏物語の出来た時代から後の人々が5種類の香の組み合わせを源氏香と呼ぶようになりました。
この源氏香の52種類は文献として残っているので現在の香道でも用いられています。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/香の図 をご覧下さい。
香道の人は源氏物語54帖を連想し、初巻の〈桐壺〉と終巻の〈夢浮橋〉を除いて源氏各巻に宛てたものを源氏香之図と呼んでいるそうです。
この源氏香之図と源氏香の遊び方は、http://kazz921.sakura.ne.jp/kumiko/genjiko/genjikou.html に実に明快に説明してあります。

さて話を現在の香道の簡略な説明に進めます。
香道は、https://ja.wikipedia.org/wiki/香道 に詳しく記述されておます。
沈水香木と言われる東南アジアでのみ産出される天然香木の香りを鑑賞する日本の伝統的な芸道です。
香道は礼儀作法や立居振舞など約束事の多い世界です。
香木の香りを聞き、鑑賞する聞香と、香りを聞き分ける遊びである組香の二つが主な要素になっています。

2番目の写真は現在の香道で用いられる道具の写真です。

3番目の写真はお香を焚く小さな火鉢です。大きさは縦長の茶碗くらいで、その中に灰で埋めた炭火を入れます。その炭火の上に雲母の薄い板を乗せ、お香をその雲母の板の上に乗せ焚きます。

4目の写真はお香を焚いている茶碗を持ち上げ、鼻に近づけて香りを聞いている場面です。

5番目の写真は座敷に坐って香道を楽しんでいる様子です。
さて香道は茶道ほど一般的ではありませんが、その流派は実に多数あります。
御家流と志野流の二つの流派とそれらから派生した流派があるのです。
ご興味のある方は、「香道の流派」を検索なさって下さい。
話は変わります。
数年前に家内が今日は「梅枝の巻」に出て来るお香をデパートに買いに行くと言い出しました。
鳩居堂が近くの伊勢丹に出店をしていて、そこで買えると言います。
そして12世紀に書かれた「薫集類抄」 に調合方法と均一に混合し熟成する方法が科学的に書いてあると教えてくれました。
ですから現在でもその主な6種類を製造し販売しているのです。
なんと平安時代と全く同じお香が売っているのです。これには驚きました。日本の伝統文化が1000年の時を経て生きているのです。
我が家には家内が時折焚く「梅花」「荷葉」「落葉」などの香りが静かに漂っています。
家内は茶道はしましたが香道はしません。難し過ぎるのです。
こんな個人的な話は止めます。

上に縷々書いたように国宝の香木と香道は世界に誇れる日本の文化に間違いがありません。
多くの外国人がこの香道を体験し日本の文化の奥深さを理解してくれると良いと思います。京都には観光客のための香道を体験できる席があちこちにあるそうです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)


此の世から楽しく旅立つための心の準備、1、2、3

2018年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム
人間の寿命は世界的にも伸びています。日本人は長寿のようですが、それでも70歳を過ぎると、そろそろ此の世から旅立つことを意識するのではないでしょうか。
どうせ旅立つなら楽しい気持ちで行きたいと思います。
そこで私が実行している心の準備、3つを次にご紹介したいと思います。
(1)全てのことに感謝する。全ての人に感謝する。
(2)自分の人生を邯鄲の夢と何度も思う。全てのことに執着しない。
(3)墓地を散歩して全ての死者に心を寄せる。死者の幸福を祈る。

まず(1)の説明を致します。
自分が生まれて来たことに感謝します。自分の運命に感謝します。この世で会った全ての人に感謝します。そうすると幸せな気分になります。その幸福感に包まれたままに此の世から旅立つのです。
これは無責任な楽観論のように見えるかも知れません。
世の中には貧乏な家に生まれ、散々苦しい生活をした人もいます。会社を起業し順調だったのに倒産を経験した人あります。お金を借りた人に追い回された経験もあります。
また信頼していた忠実な部下に裏切られた経験のある人もいます。
それなのに全ての人に感謝することなど出来るでしょうか?無理ですね。
そんな場合は嫌な思い出を忘れるように努力します。自分に好意を持ってくれた人だけに感謝します。
そして自分がこの世に生を受けたことに感謝します。
すると幸福感が湧いて来ます。その状態で旅立つようにしたいものです。
次に(2)について説明します。
邯鄲の夢とは栄枯盛衰のはかないことのたとえです。
昔の中国の故事です。出世を望んで邯鄲という都に来た青年盧生は、栄華が思いのままになるという枕を道士から借りて仮寝をします、栄枯盛衰の50年の人生を夢に見ますが、覚めれば注文した黄粱の粥がまだ炊き上がらぬ束の間の事であったという物語です。人生は執着するほどの価値が無いという意味でもあります。
私は時々自分の人生は成功だったとうのぼれることがあります。その時、すかさず「邯鄲の夢!」、そして「邯鄲の!!」と繰り返し唱えます。
すると不思議に此の世に対する執着が消えるのです。そんな状態で旅立とうと思っています。
「邯鄲の夢!」は実に有難い呪文です。特に自分の人生は不幸だったと思い込んでいる人にとっては救いの呪文ではないでしょうか?
さて最後に(3)について説明します。
この全ての死者に心を寄せるという事は生きている自分と死者が交流することを意味します。
そうして死者の幸福を祈るという事は実は自分の死後の世界での幸福を祈っているのです。それは無意識な祈りではありますが、死後の世界の存在を信じているのです。すなわち、この世を旅立っても、行く場所があるのです。
死者との交流のためには私は積極的に墓参りをします。都立の多摩墓地や小平墓地に何度も散歩に行きます。
話は飛びますが。カトリックのミサでは「全ての信者を神のもとに招び集めて下さい」と祈ります。神は全ての人を愛しています。神は全ての人の死後は、安らかな眠りにつかせてくれるのです。天の国に住む家を用意してくれているのです。
死んだら皆平等に一緒にしてくれるのです。
そんなことを考えながら多摩墓地や小平墓地を散歩していたら此の世で孤児だった子供や家族のいない人々の慰霊碑を発見したのです。東京都の役人さんたちがつくった共同慰霊碑なのです。
それは感動的な風景です。写真でご説明します。

1番目の写真は都立小平墓地にある児童養護施設で幼くして此の世を去った子供たちの慰霊碑です。

2番目の写真は、この子供たちの慰霊碑は昭和26年3月に東京都が建てたと書いてある石碑です。
そして慰霊碑の右隣には祀られている子供達の名前を彫った石板があります。
私は静かに慰霊碑に子供たちの冥福を祈ります。小平墓地に散歩に行く度に祈ります。

そして府中市にある多磨墓地には、東京都内で亡くなった無縁仏のお墓が年代順に並んでいます。

3番目の写真は東京都内で亡くなった無縁仏のお墓です。亡くなった年代順に写真の右の方へ並んでいます。

4番目の写真はも東京都内で亡くなった無縁仏のお墓です。

5番目の写真も無縁仏のお墓です。この墓には「倶会一処」と書いてあります。
倶会一処 とは、 阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏や菩薩たちと一緒に出会うことが出来るという意味です。お釈迦様の慈悲は全ての人々へ分け隔てなくふり注ぎます。
宗教の原点は死者へ対するわけ隔て無い慈悲です。神の愛です。
家族に囲まれて死ぬのも孤独に死ぬのも同じなのです。ですから死が訪れるまでは健康で明るく生きることが大切なのです。
私は多摩墓地の無縁墓の倒れた卒塔婆を皆起こし、供養してくれたお寺の名前を確かめました。多摩寺と慈光寺でした。有難いお寺さんです。
こうして私は全ての死者に心を寄せて等しく冥福を祈ります。すると此の世はあの世に連続しているように思えるのです。亡くなった親や親類や恩人や友人達に又会えるのです。旅立つのが楽しみです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)

今日から我が故郷、仙台の七夕です・・・「青葉城恋歌」、「ブラザー軒」の詩など

2018年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム
故郷の仙台の七夕は今年も8月6日(月)、7日(火)、8日(水)と開催されます。
毎年、夏が来ると、幼少の頃から七夕飾りを見に行った東一番丁や大町通りの光景を思い出します。結婚して東京に住むようになってからも毎年、家内や子供連れで仙台の七夕を見に帰りました。
七夕飾りは私の故郷の光景として心の中に焼き付いています。
その七夕飾りの写真をお送りいたします。

1番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/35196915.html です。

2番目の写真の出典は、、http://colocal.jp/news/35321.html です。

3番目の写真の出典は、http://www.hoso0907.com/blog/archives/2007/08/09-021827.php です。

4番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/kokomo21jp/33777367.html です。

5番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/kuwayamatadashi です。

七夕飾りが風に揺れ、その下を家族連れが楽しそうに歩いています。夏ですから東一番丁や大町通りは暑いのです。しかし通りの両側にはかき氷やアイスクリームを売る店があります。
家族連れが座って、団扇であおぎながらかき氷を食べています。

そして何処からともなく、さとう宗幸の「青葉城恋唄」が流れて来ます。

・・・・広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず
早瀬(はやせ)躍(おど)る光に 揺れていた君の瞳
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ 流れの岸
瀬音(せおと)ゆかしき 杜(もり)の都
あの人は もういない

七夕の飾りは揺れて 想い出は帰らず
夜空輝く星に 願いをこめた君の囁(ささや)き
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ 七夕祭り
葉ずれさやけき 杜の都
あの人は もういない

青葉通り薫る葉緑 想い出は帰らず
樹(こ)かげこぼれる灯(ともしび)に ぬれていた君の頬
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ 通りの角(かど)
吹く風やさしき 杜の都
あの人は もういない

時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ 流れの岸
瀬音(せおと)ゆかしき 杜(もり)の都
あの人は もういない・・・・

ご存知のようにこの唄は星間船一が作詞し、さとう宗幸が作曲したのです。仙台在住のさとう宗幸が仙台の広瀬川と七夕飾りを唄ったのです。
さとう宗幸の唄う声は、https://www.youtube.com/watch?v=3VlOygdxoI4 をクリックすると聞くことが出来ます。

もう一度、聞いてみましょう。
・・・七夕の飾りは揺れて 想い出は帰らず
夜空輝く星に 願いをこめた君の囁(ささや)き
時はめぐり また夏が来て
あの日と同じ 七夕祭り
葉ずれさやけき 杜の都
あの人は もういない・・・

さて、七夕飾りにちなんだもう一つの詩と唄をご紹介します。
七夕の夜、亡くなってしまった父と妹に再開したという詩です。

「ブラザー軒」  菅原克己作詞、作曲と歌、高田渡

東一番丁、ブラザー軒
硝子簾がキラキラ波うち、
あたりいちめん
氷を噛む音。

死んだおやじが入って来る。
死んだ妹をつれて
氷水喰べに、
ぼくのわきへ。

色あせたメリンスの着物。
おできいっぱいつけた妹。
ミルクセーキの音に、
びっくりしながら。

細い脛だして
細い脛だして
椅子にずり上がる
椅子にずり上がる

外は濃藍色のたなばたの夜。
肥ったおやじは小さい妹をながめ、
満足気に氷を噛み、
ひげを拭く。

妹は匙ですくう
白い氷のかけら。
ぼくも噛む
白い氷のかけら。

ふたりには声がない。
ふたりにはぼくが見えない。
おやじはひげを拭く。
妹は氷をこぼす。

簾はキラキラ、
風鈴の音、
あたりいちめん
氷を噛む音。

死者ふたり、つれだって帰る、
ぼくの前を。
小さい妹がさきに立ち、
おやじはゆったりと。

ふたりには声がない。
ふたりには声がない。
ふたりにはぼくが見えない。
ふたりにはぼくが見えない。

東一番丁、ブラザー軒。
たなばたの夜。
キラキラ波うつ
硝子簾の、向うの闇に。

これは昭和二十年七月十日の、仙台空襲の犠牲者を悼む詩とも言われています。
高田渡 の唄声は、https://www.youtube.com/watch?v=dArOtb5V4Nc を聞くことが出来ます。
仙台出身の詩人、菅原克己も、唄った高田渡も既に旅立ってしまいました。

ブラザー軒は仙台市の一番丁に明治35年(1902年)からあった洋食店でした。当時、2階建ての洋風建築と西洋料理というハイカラさが評判で、大変繁盛したのです。長い間営業していたのですが、2011年3月11日の東日本大震災で、レストラン部分が壊れ、2015年5月に廃業しました。
ハイカラな「ブラザー軒」は仙台の人々の憧れでした。
この店は、太宰治の小説「惜別」の中でも名前が出てくるそうです。
「惜別」は、明治37年9月から一年半、東北大学医学部で学んでいた若き日の魯迅(当時23才)の青春を描いた作品です。
もう一度、 菅原克己の詩の最後の部分を読んでみましょう。

・・・・ふたりには声がない。
ふたりには声がない。
ふたりにはぼくが見えない。
ふたりにはぼくが見えない。

東一番丁、ブラザー軒。
たなばたの夜。
キラキラ波うつ
硝子簾の、向うの闇に。

今日は仙台の七夕飾りの写真をお送りいたしました。
そして「青葉城恋唄」と「ブラザー軒」をあわせてご紹介しました。
七夕飾りに、人はそれぞれいろいろな想いを浮かべるのですね。

日本人として原爆記念日にいろいろ想う

2018年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム
今年も広島に原爆を投下された記念日がやってまいりました。
当時、農村に疎開していた私は「アメリカが新型の電子爆弾を広島に落とし、20万人死んだ」という噂を聞きました。原子爆弾が電子爆弾となっていたのは、噂が流れるあいだに間違ったのでしょう。
あれから茫々73年間の年月が流れました。
この記念日に私は一日本人として犠牲になった人々の冥福を静かに祈ります。
亡くなられた方々の霊よ安らかなれと祈りながら、灯篭流しの写真を慎んで捧げます。

この3枚の写真の出典は延岡市仏教会が主催した五ヶ瀬川の『流れ灌頂』(http://www.pawanavi.com/staffblog/nagarekanjyou2014/ )です。



毎年、広島と長崎の原爆記念日がめぐってくると私はいろいろなことを思います。いろいろ考えます。
日本人の私の感情は原爆のような残忍な爆弾を落としたアメリカを許しません。たった一発で20万人近くの人がむごく死んで行き、そしてその後も放射能のため苦しみ多くの人が死んで行ったのです。
しかし2016年の8月6日の原爆記念日に私の恨みが少し癒されたのです。
その記念日の慰霊祭にアメリカのオバマ大統領が来て花輪を捧げ慰霊の祈りを捧げたのです。
そして2016年12月には安倍総理大臣が真珠湾攻撃の犠牲者の慰霊碑に花輪を捧げ祈りました。
このどちらの場合も安倍総理とオバマ大統領が一緒に広島と真珠湾でそれぞれの犠牲者に慰霊の祈りを捧げたのです。これで太平洋戦争の全ての悲劇が無になる訳ではありません。しかし少なくとも太平洋戦争を戦った日米両国が許しあうという気持ちが表明されたのです。
戦争の恨みを克服して両国の犠牲者の霊に祈り、真の平和を祈ることは崇高な行いです。
私は安倍総理とオバマ大統領に感謝します。尊敬します。今日の広島の原爆慰霊祭を迎えて私はオバマ大統領を懐かしく思い出しております。
オバマ大統領は10年前の大統領就任早々、ポーランドのワルシャワで核兵器廃絶の理想を強く訴える感動的な演説をしました。
ワルシャワは先の第二次大戦の時、ヒットラーが電撃作戦で占領し、その後ワルシャワの市民が蜂起しドイツ軍と戦ったのです。ヒットラーは精鋭部隊を送り蜂起した市民を虐殺します。ワルシャワは悲劇の都市として有名になったのです。その後、ソ連が占領すると、ポーランド軍の将校達を残酷にも処刑したのです。その処刑は「カチンの森の悲劇」として有名です。
戦争の残酷さを身をもって体験したポーランド人の群衆を前にして、オバマさんは感銘深い街頭演説をしたのです。
その演説の故に彼はノーベル平和賞を受賞しなした。
2016年の8月6日、オバマさんは現職大統領として初めて広島に来たのです。私はこの時、何故彼がノーベル平和賞を貰ったか理解しました。
彼は人間の善意を信じ、この世界に必ず真の平和が来ることを信じているのです。その上、彼は8年間もアメリカ大統領の職務を果たしたのです。
彼は黒人でした。大統領に当選し、8年の任期を務め、無事その任務を終了したことを私は個人的に非常に嬉しく思っています。
この際、告白しますが、私の心の中に黒人差別の感情が無かったと言えば嘘になります。

話は飛びすが、私は次のようなことまで思い出したのです。余計なことですが書いて置きます。
若い頃、アメリカに留学しました。当時の黒人差別はすさまじいものでした。しかし私はそれを当然と思っていました。
その後、アメリカの大学に何度も行き、彼等と共同研究をしたりして親しく付き合いました。その親しいアメリカ人は全て白人でした。黒人の人々と付き合うチャンスが無かったのです。
そうこうしている間にキング牧師らによる黒人の平等を訴える公民権運動が始まったのです。
キング牧師はインドのガンジーを尊敬し、その無抵抗主義を取り入れて公民権運動を継続したのです。この頃から私は黒人差別を当然と思っていた私の考えが間違っていると気がついたのです。
しかしキング牧師は差別主義者の白人に暗殺されてしまうのです。
オバマさんがアメリカ大統領になったとき、私はしみじみと思いました。「キング牧師の死は無駄ではなかった」と。
オバマ大統領の任期が無事終わって一番喜んでいるのはキング牧師なのではないでしょうか?
話を戻します。

今日の広島原爆の慰霊祭にあたり、私は一日本人として犠牲になった人々の冥福を静かに祈ります。
亡くなられた方々の霊よ安らかなれと祈りながら、灯篭流しの写真を慎んで捧げます。
そして2016年の原爆慰霊祭にはアメリカのオバマ大統領が来て花輪を捧げ慰霊の祈りを捧げたことを懐かしく思うのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

洗礼を受けて良かったこと(1)仏教が理解出来たこと

2018年08月05日 | 日記・エッセイ・コラム
今から47年前の1971年にカトリック立川教会で塚本金明神父様から洗礼を受けました。
洗礼を受けても自分の悪い性格は一向に良くなりません。洗礼の効果はゼロです。
しかし洗礼を受けたお陰で良かったことが幾つかあります。
今日からその幾つかの良かったことを「洗礼を受けて良かったこと」という連載記事にして気軽にご紹介いたします。
第一回は「仏教が理解出来たこと」です。洗礼を受けると宗教とはどういうものかが理解出来ます。
そして仏教をキリスト教と比較しながら考えると日本人の心の基本にある仏教が自ずと判然と分かったのです。
勿論、仏教は奥深く、そしていろいろな宗派がありますから、その概略を少し理解出来たと言うべきです。少しでも理解出来たので大変親しみを感じるようにまりました。

キリスト教ではイエス様の教えを書いた新約聖書の中の福音書を非常に大切にしています。それから後の世のいろいろな優れた人の教えや儀礼や習慣も大切にしています。
宗教というものは教祖様の教えと、後の世のいろいろな優れた人の教えから成り立っているのが普通です。
佛教も例外ではありません。特に日本の大乗仏教では、お釈迦様の教えと後の世のインドの人々の教えから成り立っています。
まずこの2者を区別して、整理すると理解しやすいのです。
お釈迦様の教えは般若心経に過不足なく、そして明快に書いてあります。お釈迦様が弟子のシャーリプトラへ教えた内容が書いてあります。
この世にある全てのものは空(くう)なのですよ。空なるものが物質の本質なのですよと何度も教えています。それを信じるとこの世の苦しみや悲しみは消えて無くなりますよと教えています。人間が苦しみや悲しみから解放されて幸福に生きるための考え方を教えているのです。
この宇宙にある全てのものは空(くう)だという宇宙観は西洋には無い卓越した哲学です。
お釈迦様の教えはこれだけです。一切のものが空なのですからお釈迦さんは死んだら遺骨は野に捨てなさい、お墓も作ってはいけませんと遺言しました。仏像も作ってはいけませんと明言しました。
ですからお釈迦様の死後400年以上は仏像の一切無い宗教だったのです。
しかし大乗仏教では法華経のように後の優れた考え方が沢山加わっているのです。
現在、日本にある華麗なお寺も仏像もお釈迦様の言ったことに従わないで後の世の人々が作ったものなのです。
だからと言って、それらは悪いと言っているのではありません。宗教というものは永い間存続し継承されるためには、付随的なものや追加された教えも非常に重要なのです。
例えばイエス様は、現在のローマ法王と世界中のカトリック教会の組織を作りなさいと言いませんでした。あるいはマリア像を作り祈りなさいと言いませんでした。しかしキリスト教を長く継承するためには重要なのです。少なくともそのように信じている人々をカトリック教徒と呼ぶのです。
佛教でもお釈迦さまの教えを理解し、長く継承するためには大乗仏教では座禅が重要だという考えがあります。その考えにもとづいた宗派が曹洞宗や臨済宗や黄檗宗などの禅宗の宗派なのです。
このように仏教を理解すると、一番大切なことはお釈迦様の教えだということが納得できます。
それぞれの宗派の教えが、お釈迦様の教え以上に重要だということは絶対に無いのです。主客転倒はいけません。
例えば、曹洞宗は、福井の永平寺を開山した道元禅師さまが中国から持って来た考えです。そして横浜の鶴見の総持寺を開山した瑩山禅師さまが広められた宗派です。
現在、永平寺・総持寺の両大本山をはじめとして、約一万五千の寺、僧侶二万人、一千万檀信徒を有しているそうです。
この宗派では道元禅師さまや瑩山禅師さまの像がよく祀られています。そして もし多くの人々がお釈迦様のことを忘れて道元禅師さまや瑩山禅師さまの像だけに祈っていたら、これは間違っていますね。
そんなことが洗礼を受けると理解出来るのです。
どんな宗教でもお釈迦様やイエス様のような教祖さまの教えと、後の世の人々の教えから成り立っています。
ですから教祖さまの教えを忘れてはいけないと私は信じています。そのように理解すると仏教も分かり易くなると思います。

今日の挿し絵代わりの写真は京都の三十三間堂の写真です。昔の日本人の仏教へ対する熱い情熱を感じますね。いかがでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





人々に感謝し別れを告げる老境の哀歓

2018年08月04日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は80歳を過ぎると達観の境地というものが少し分かるようになると言われています。
そうすると今は亡き恩人たちへの感謝の気持ちが強く湧いてきます。
死者に対する感謝の気持ちだけではありません。まだ健在な幼なじみや、小中学校時代の友人たちを思い浮かべて感謝しています。
80歳以上になると同窓会やクラス会に集まる人も少なくなり、これで最後にしましょうという事になります。
最後の会合では友人たち一人一人にお世話になったね、有難う御座いましたと言って別れます。その時、お互いに此の世で会うのはこれが最後だと思います。しかしその別れの言葉は言いません。お互いに心の中で告げるだけです。
仙台の中学校の友人達との最後の宴は仙台近郊の秋保温泉でありました。仙台一高の私が出た最後の会は東京でありました。そして東北大学の金属工学科の最後のクラス会は東京の芝浦のホテルでありました。
ご縁があって親しくお付き合いをした人々に感謝の言葉を述べ、お互いに心の中で別れを告げるのです。
別れは悲しみです。しかし感謝しながら別れることは喜びです。ですからこれを老境の哀歓と言ったのです。
もう一つ感謝しながら別れなければいけない人々がいました。東京の大岡山の大学で私の下で研究をしてくれた人々です。私自身から別れの宴を開いて下さいとは言い出すべきではありません。
ところが研究室にいたY君が幹事になって7月16日夕刻に国分寺市の「いろりの里」で宴を開いてくれたのです。
10人だけの出席者でしたが、皆同じ研究室に5、6年いて工学博士になった人々です。
そしてそれぞれ大学で一生働いていた人々です。
一人一人が青春を過ごした大岡山の研究室での思い出を語ってくれたのです。感動的な宴でした。
一人一人の若い頃の姿が鮮明に浮かびます。感謝の気持ちが湧きます。
そして私の心の中で、彼と会うのもこれが最後だと思います。
このような別れ方ほど楽しいことはありません。

そして、この会合の後、私はお世話になった他の人々のことにも思いを巡らせています。この世では会えず別れなければいけない人々が多くいるのです。
人間は他の多くの人々の助けや支えで生きていると言います。
この言葉の意味を実感をもって理解出来るのは老境まで生きることが必要なのでしょうか?
愚かな私は82歳の現在にいたって理解しました。多くの人のお陰で私は生きてきたと確信出来たのです。

今日もこうしてブログに拙い記事を書いています。読んで下さる方々がいるから書けるのです。
そのお陰で私は毎日、活き活きと過ごすことが出来るのです。有難いことです。

写真は7月16日の宴のあった「いろりの里」の写真です。昨日撮らして貰いました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










「智恵子は東京に空が無いといふ」

2018年08月03日 | 日記・エッセイ・コラム
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。

いや本当に私もそのように思います。
私は仙台に生まれ育ったので東北地方の空を知ってます。深い青色の高い空です。東京の空は汚れた青で低い空です。仙台の七ツ森の山並みの上にある青空が本当の空です。
そこで暇さえあれば奥多摩や高尾の空を見に行きます。緑の山々を見に行きます。
そうしないと身体が保たないような気分になります。
そこで今日も裏高尾に行って浅川の流れや緑なす山並みと空を眺めて来ました。
ついでに何時も行く国有林の桂の林も眺めてきました。
ミンミン蝉とツクツク法師と油蝉が一緒に鳴いていました。
そして高村光太郎の智恵子抄の詩を考えて来ました。
写真をお楽しみ下さい。









・・・・高村光太郎、「智恵子抄」より・・・・・・・・・・・
あどけない話

智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山あたたらやまの山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
樹下の二人
――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――

あれが阿多多羅山あたたらやま、
あの光るのが阿武隈川。

かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、
うつとりねむるやうな頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬のはじめの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

あなたは不思議な仙丹せんたんを魂の壺にくゆらせて、
ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
無限の境に烟るものこそ、
こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
むしろ魔もののやうに捉とらへがたい
妙に変幻するものですね。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫さかぐら。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡つた北国きたぐにの木の香に満ちた空気を吸はう。
あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いてゐます、
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。
・・・・・・・・・・・・・・・・
レモン哀歌
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉のどに嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓さんてんでしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

天安門事件記念日に中国を非難したポンペオ米国務長官

2018年08月03日 | 日記・エッセイ・コラム
今年の6月4日は天安門事件の29周年目の悲しい記念日でした。
日本のマスコミは何も言わなかったのですが、トランプ政権のポンペオ米国務長官は中国の天安門事件での人権蹂躙を激しく非難する声明を発表しました。即刻、中国政府は厳しく反発します。
そこで今日は次の3つのことを簡略に書きます。
(1)ポンペオ米国務長官の非難声明の内容
(2)天安門事件の犠牲者は10000人というイギリスの機密文書
(3)天安門事件は現在もアメリカの国内問題
それでは早速、順々に説明します。
(1)ポンペオ米国務長官の非難声明の内容
天安門事件から29年目にあたり、 米国は中国政府に死者数の公表を要求する声明を発表しました。(http://www.afpbb.com/articles/-/3177205 )
これを報じた、2018年6月4日のAFPニュースを次に示します。
中国の首都北京にある天安門広場で軍が民主化運動を武力弾圧した「天安門事件」から、4日で29年目を迎えた。これにあわせて米国は、事件の犠牲者数を公表するよう求め、中国が強く反発した。
 マイク・ポンペオ米国務長官は、「罪のない人々の命が奪われた悲劇を忘れない」とする声明を発表。
中国共産党は1989年6月4日、天安門広場周辺で行われていた平和的な民主化運動を戦車で鎮圧した。
 中国では、数百人、恐らくはさらに多数が亡くなったとされる同事件について、公の場で議論することは禁じられている。一方、昨年公開された英国の外交機密電報には、1万人以上が死亡したと記されていた。
 ポンペオ氏は、ノーベル平和賞受賞者で、昨年獄中でガンで死去した反体制派の劉暁波氏が残した「6月4日の魂はいまだ安息せず」という言葉を引用し、「わが国は国際社会と一致団結し、事件の死者、拘束者、行方不明者などの数の完全な公式統計を公表するよう、中国政府に求める」と記した。
 これに対し中国外務省の華春瑩報道官は定例会見で、「中国政府は1980年代末に発生した政治混乱について、既に明確な結論に至っている」と反論。
 ポンペオ国務長官の声明は「根拠もなく中国政府を非難し、内政に干渉している。中国側は強い不満を抱き、断固反対する」と述べ、米国に対し公式な外交ルートを通じて抗議したことを明らかにした。
 華報道官はさらに、「わが国は米国に対し、偏見を捨て、過ちを正し、無責任な発言を控え、中国への内政干渉をやめるよう求めるとともに、中米関係の悪化を招く行為に及ぶのではなく、関係発展のため努力するよう要請した」と述べた。(終り)

(2)天安門事件の犠牲者は10000人というイギリスの機密文書
英国で新たに公開された外交文書によると、中国当局が民主化運動を弾圧した1989年の天安門事件で、中国軍が殺害した人数は少なくとも1万人に上ると報告されていることが明らかになったのです。
これを報じた、これを報じた、BBCの2017年12月26日の報道を転写します。(https://www.bbc.com/japanese/42482642 )
・・・「1万人」という人数は、当時のアラン・ドナルド駐中国英国大使が1989年6月5日付の極秘公電で英国政府に報告した。大使は、中国国務院委員を務める親しい友人から聞いた情報から入手した数字だと説明している。
天安門事件の死者数はこれまで、数百人~1000人以上と、様々に推計されていた。
中国は1989年6月末に声明で、1989年6月4日の「反革命暴動」を弾圧した、北京では市民200人と治安部隊数十人が死亡したと発表していた。
一連の関係文書はこれまでロンドンの英国立公文書館で保管されていた。2017年10月に機密指定が解除され、香港のニュースサイト「香港01 」が閲覧した。
ドナルド大使によると、情報源は事件以前から信頼できていた人物で、「事実と憶測と噂を慎重に区別」していたという。
大使は当時、「学生たちは広場退去まで1時間の猶予を与えられたつもりでいた。しかし、5分後に装甲兵員輸送車が攻撃を開始した」と書いている。
「学生たちは腕を組んで対抗しようとしたが、ひき殺されてしまった。
(以下、あまりにも残酷な描写なので省略します)

上の記事では10000人以上としていますが、皆様はこの数を信用されますか?
客観的な第三者による調査結果ではありません。だからこそトランプ政権は今年の6月4日に正確な犠牲者数を
発表するように中国政府に要求したのです。

(3)天安門事件は現在もアメリカの国内問題
1989年の6月4日は、私はオハイオの大学で働いていまそた。私の学科には中国本土からの留学生が数十名いました。学科主任のセント・ピエール先生が中国人の留学生を集め中国への長距離電話の代金は自分が持つから何度でも家族や知人に電話して良いですと言ったのです。
そして同僚の先生たちが中国での人権蹂躙を激しく非難していました。口角泡を飛ばして中国政府を許せないと言っていました。アメリカ人は人権に敏感なのです。天安門事件で自分の人権が侵されたように感じるのです。
その上、アメリカには中国系の人が非常に多いのです。
トランプ政権が天安門事件の日に何も言わなければ次回の投票が不利になるのは明らかです。
ですからこそ天安門事件は現在でもアメリカの重要な国内問題なのです。
一方、天安門事件は現在の悪い日中関係のキッカケになっているのです。
その事情を簡略に以下に示します。
天安門事件の原因は鄧小平と胡耀邦の抗争の結果起きた悲劇だったのです。
胡耀邦は、はじめは鄧小平の忠実な配下でした。1980年から1987年までは中国共産党中央委員総書記でした。胡耀邦の改革路線や民主化政策の旗手だったのです。
1983年に中曽根総理と会い、その親日的態度にすっかり感銘を受けた中曽根さんが以後、靖国神社参拝を止めたことは有名な話です。
この日本を大切に思っていた権力者が1987年に鄧小平によって解任され、1989年に病死したのです。
そして鄧小平が豹変し、親日政策を撤回したのです。
それから中国の対日抗争が始まるです。

1番目の写真は胡耀邦の写真です。彼は中国の歴史から抹殺されました。彼のことを語るのも一切許されていません。
鄧小平は共産党独裁こそが中国の経済発展の絶対条件だと固く信じたのです。
そして1989年の4月15日に胡耀邦が病死します。
すると6月4日に、「民主化の希望だった胡耀邦」の死を悼む民衆が、天安門に集まり、慰霊式典をしようとしたのです。当然のことながら慰霊式典とデモは政治の民主化要求の運動でもあったのです。
そこで鄧小平は躊躇なく天安門広場へ戦車部隊を送り込んだのです。
北京から遠く離れた場所に駐在していた戦車部隊をあらかじめ呼び寄せて武力鎮圧の準備をしていたのです。
鄧小平の断固とした決断を示しています。
それが天安門事件のいきさつでした。日中関係が悪くなる出発点になったのです。
一言付け加えます。
胡耀邦は1980年5月29日にチベット視察に訪れ、その惨憺たる有様に落涙したと言われます。
ラサで共産党幹部らに対する演説にて、チベット政策の失敗を明確に表明して謝罪し、共産党にその責任があることを認め、ただちに政治犯たちを釈放させ、チベット語教育を解禁したのです。しかし、この政策は党幹部から激しく指弾され、1887年の胡耀邦の更迭後撤回されたのです。胡耀邦は善い人間だったのです。

2番目から7番目の写真に天安門事件の写真を示します。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


写真の出典は、『写真が伝える天安門事件 「血の日曜日」に何が起きたのか。』です。
https://www.buzzfeed.com/jp/bfjapannews/tenammonjiken-shashin-ga-tsutae-ru-chi-no-nichiyoubi?utm_term=.js7qjNMVLB#.bbq7pX2bAR













武蔵国分寺の壮大さを想像しながらの散策

2018年08月02日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は猛暑の中、武蔵国分寺跡の礎石など七重塔の跡地、さらに国分尼寺の礎石や本堂の跡地を見て来ました。
礎石以外に何も無い広い草原に熱い風が吹いて、しきりに蝉が鳴いています。
想像力が無ければ何も無い単なる草原です。
しかしそこには壮大なお寺の山門、楼門、金堂、講堂、七重塔、庫裏、僧堂、鐘楼、などなどが東西1,500m、南北1,000mの範囲に華麗に並んでいたのです。
当時はこの場所には東山道の武蔵路が南北に走り、近くには古墳時代からこの地を治めていた国府、現在の府中市がありました。
現在の国分寺跡公園は武蔵国に置かれた国分寺および国分尼寺の跡地です。現在は、両寺院の跡地の間を府中街道とJR武蔵野線が横切っています。
跡地には何もありませんが、江戸時代中期に建てられた小さな武蔵国分寺が少し離れた北側にあります。
鎌倉時代末期焼失した後は、新田義貞によって再建された小さな薬師堂が淋しく立っているだけでした。
そこは室町時代、戦国時代、江戸中期と400年間ほど畑だったのです。何も無い農地だったのです。
しかし、この跡地に来ると往時の数多くの僧侶や尼僧たちが静かに歩いている姿が見えるようです。
読経の声も聞こえます。
さて武蔵国分寺は聖武天皇の全国国分寺建立の詔の直後に工事が着工され西暦750年~760年には既に完成したと言われています。
その寺の広さは奈良の東大寺に次ぐ規模で大国であった武蔵国に相応しい壮大な寺院でした。
しかしその壮大なお寺の建物の全てが、1333年鎌倉幕府軍と新田義貞連合軍との「分倍河原の戦い」で文字通リ灰燼に帰したのです。
華やかな彩色が施された金堂、講堂、経堂、僧堂、七重の塔、鐘楼、中門、南門の全てが夢か幻のように姿を消してしまったのです。
その後、小さな薬師堂だけは再建されましたが、他は再建されず、田畑になってしまったのです。畑の邪魔になる礎石は農民に持ち去られ、あちこちに散逸してしまったのです。
それが1956年(昭和31年)から断続的に行われた発掘調査で数多くの瓦や道具類が出土し、お寺の規模や場所が次第に明らかになって来ました。
散逸した礎石も近隣の農地から集められ元の場所へ据えられたのです。礎石のあった場所は土中に深く玉石が埋められ基礎工事が出来ていたので分かります。しかし多くの礎石は本物ではありません。
武蔵国分寺は1333年以来。田畑の中に眠り続けていたのです。それが学術調査により何処に存在し、どの程度の規模かが明確に判明したのです。建物群の配置も分かりました。
近くの資料館に、発掘された瓦やレンガや土器、土師器、生活道具など展示してあります。
現在ある小さな国分寺は離れた場所にあり、宝暦6年(1756年)頃に建てられたようです。
それでは昨日撮って来た写真に従って説明します。

1番目の写真は武蔵国分寺の本堂の金堂が立っていた場所です。ここが金堂跡だと発掘調査で分かったのです。

2番目の写真は金堂の礎石です。礎石は畑の邪魔だったので、散逸していました。後から考古学者が礎石を拾い集め、並べたのです。礎石の位置は埋まっていた土台の玉砂利から分かりますが、多くの礎石は本物ではありません。赤と黒の煉瓦を敷き詰めているのには違和感があります。

3番目の写真は七重塔の礎石と跡地です。本堂からは随分と離れているので当時のお寺全体の壮大さが分かります。

4番目の写真は七重塔の説明板です。845年に焼けたものを再建したと書いてあります。そしてもう一基の七重の塔の礎石も見つかっていて,その後も焼失し、再建されたようです。しかし1333年の分倍河原の合戦で全て灰燼に帰しました。

5番目の写真は国分尼寺の本堂の金堂のあった場所です。国分尼寺は国分寺より西へ1Km以上離れてありました。

6番目の写真は国分寺跡から出てきた瓦や食器や遺物を展示してある資料館の入り口の門です。

7番目の写真は現在の武蔵国分寺です。江戸中期に作られてお寺ですが、1335年に作られた薬師堂を所有し、管理しています。

国分寺は全国に作られました。皆様のお住まいの場所の近辺にも国分寺跡公園や新しく再建された国分寺があると思います。しかし聖武天皇の詔勅で作られた当時の伽藍がそのまま現存している国分寺は皆無です。
全て戦争の時、焼かれてしまったのです。
跡地や隣接地に「国分寺」と称してお寺がある場合もありますが、それらは後の世に再興されたお寺です。
ただ周防国分寺などは建物は比較的新しいですが、当初の伽藍配置を維持しているそうです。

戦争があると何故お寺が焼かれてしまうのでしょうか?
理由ははっきりしています。
昔、戦争があると多数の武士を泊め、食事を出せる大きな建物はお寺しか無かったのです。
勿論、民家に分散して泊まったとも思いますが、次の日、呼び集め隊列を作るのに不便でした。
そこで集団行動の出来るお寺に泊まったのです。ですからお寺は便利な軍事基地だったのです。
そこを出発して敗走する場合は火を点けて燃やしてしまったのです。追撃してくる敵が軍事基地として使わないように焼いてしまったのです。
こうして戦乱がある度に全国のお寺が焼失したのです。焼失しないお寺は東大寺や法隆寺のような有力なお寺で、焼くと祟りがありそうな寺院です。そして天皇につながった寺院などは武士は焼きませんでした。
焼け残ったお寺は住職が巧みに政治力を発揮した場合もあったでしょう。
そのような歴史があるので殆どのお寺の建物は江戸時代以降に作られているのです。
現在、日本政府が国宝を指定する基準を江戸時代以前のものとする原則があります。
勿論、例外もありますが国宝の寺院の伽藍は江戸時代の前のものが多いのもこのような背景があります。
少し余計なことを書いて長くなったので終りとします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。
                       後藤和弘(藤山杜人)


私は歴史の落ち穂を拾いたい

2018年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム

最近、中国の東北地方、昔の満州という土地に住んでいた人々の物語を次のように6つの記事として書きました。
(1)「夏が来ると思い出す太平洋戦争(4)満州での中国人の悲劇」2018-07-22
(2)「夏が来ると思い出す太平洋戦争(5)満州での日本人の大きな悲劇」2018-07-26
(3)「遥かなハイラルにあった日本人学校の同窓会」2018-07-28
(4)「中国、ホロンバイル草原に樟子松を植える日本人達」2018-07-30
(5)「日本人を愛したあるモンゴル人の美しい生涯(1)」2018-07-31
(6)「日本人を愛したあるモンゴル人の美しい生涯(2)」2018-08-01

上の6つの記事では満州おける人々の悲しみを具体的に書いたのです。
私は満州の歴史の落穂拾いをしようと思ったのです。
学校で教える日中間の近代の関係史に絶対に出てこない小さい話です。
落穂のような人々の悲しみや喜びを知ることが重要だと思ったのです。
歴史の勉強で年表を暗記することも大切ですが、その時代に生きた人々の気持ちを知ることも重要だと信じています。そうすると歴史の理解に人間的な奥行きが出来ると思います。生きた歴史の理解になります。

(1)では満州に住んでいた朝鮮族の金応培さんの苦難を具体的に書きました。
(2)ではソ連軍の戦車に突っ込んで戦死した藤田藤一少尉の話でした。日本人の避難の時間をかせぐためにソ連の戦車隊を食い止めたのです。
(3)ではハイラル小学校に通っていて引き上げて来た旧友の竹内義信の話です。消滅した小学校の同窓会を終戦の40年後に作り、ハイラルの小学校と交流した話です。
(4)ではハイラル小学校の同窓会の有志がハイラル郊外のホロンバイル草原に松の木を10年間に40万本植えた話です。歴史に残る日中友好植林事業です。
(5)と(6)ではソヨルジャブというモンゴル人の日本人への愛と忠誠を書きました。
彼は満州のハイラルを統治する省公署に勤めていました。
日本人を信頼してしまったソヨルジャブは一生変節しないで日本人へ忠誠をつくします。せつない一人のモンゴル人の日本人との絆の話です。

このような具体的な話は朝鮮族の金応培さんから直接聞いたり、ハイラル小学校に通っていて引き上げて来た旧友の竹内義信さんから直接聞いた話です。
あんまり満州の記事が続きましたので、その理由を説明致しました。
今後も歴史の落穂拾いのような記事を書きたいと思っていますので、宜しくお願い申し上げます。
なお挿し絵代わりの写真は庭に咲ているノウゼンカツラとムクゲの花です。


日本人を愛したあるモンゴル人の美しい生涯(2)

2018年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム
モンゴル人、ソヨルジャップは1925年に生まれ、満州のハルピン学院を卒業しました。
そして2011年、中国のモンゴル自治区のフフホトで亡くなりました。享年86歳でした。
ハルピン学院を卒業して満州のハイラルで日本の役所に勤めていました、
戦後は共産国家、ソ連圏のモンゴル共和国で逮捕され収容所に入れられました。ソ連に対するスパイ養成学校と見なされたハルピン学院を卒業したからです。
その後、同じ共産国家の中国へ引き渡され、再び収容所に入れられたのです。中国の敵国の偽満州国で日本側の官吏になったのが罪状でした。収容所生活は合計36年間でした。
その後、名誉回復され、中国のモンゴル自治区のフフホトに帰り、20年間、展望大学という日本語学校を続け、その間、何度も日本に来て、作家の細川呉港氏と親しくなっていたのです。その一生は細川氏の作品、「草原のラーゲリ」という本に詳しく書いてあります。
この本の書評は、http://facta.co.jp/blog/archives/20070703000459.html に出ています。
1945年8月9日、突然のソ連軍侵攻の日にソヨルジャップは以前、役所で上司だった藤田藤一少尉と別れたのです。藤田がソヨルジャブに言ったそうです。
 「僕は、このまま前線に行く。西山陣地に入るつもりだ。家族には会わないでいくけれど、よろしく頼む」・・・これがソヨルジャップが聞いた藤田の最後の言葉になったのです。

その直後、ソヨルジャップは藤田の家に駆けつけその妻と3人の娘を探します。ハイラルの駅や街々を駆けずリ回ってさんざん探したのですが遂に見つかりませんでした。家族は偶然通りかかった日本軍のトラックに助けられハイラルの大きな要塞の片隅に隠れていたのです。
悲しいすれ違いでした。
それから以後、波乱万丈の生活でしたが、藤田の家族を見失ったことはソヨルジャップの痛恨事でした。63年間、彼の心の重荷になっていたのです。何度も日本に来て藤田藤一の遺族を探していながら遂に会えなかったのです。
しかし2008年にソヨルジャップは藤田の家族が無事だったと知ったのです。
藤田藤一の妻、そして長女の明巳さん、その妹2人、合計4人が1946年に無事帰国したことを知ったのです。
私の旧友の竹内義信さんが藤田一家の無事をソヨルジャップの友人の細川呉港さんへ伝えたのです。
竹内義信さんと藤田の長女の明巳さんはハイラルの昔の小学校の同窓生でした。2008年に昔の学校を一緒に訪問していたのです。
細川呉港さんは即刻、そのことを手紙でソヨルジャップさんへ伝えます。
そして細川呉港さんはソヨルジャップに頼みました。藤田さんの遺族へ、戦死した藤田少尉の思い出を送るように何度も頼みました。
しかしソヨルジャップからは一切手紙が来ません。手紙が来ないままソヨルジャップは2011年3月6日に肺ガンで息を引き取ります。
3月12日、ソヨルジャップのお葬式は中国のモンゴル自治区のフフホトでとりおこなわれます。細川さんと数人の日本人、そしてソヨルジャップを尊敬しているモンゴル人、数十人が参列したそうです。昔のハイラルからも遠路はるばる10人ほどが参列したそうです。
そして細川さんが日本へ帰る前の日にソヨルジャップの妻、オヨンフさんが一通の封筒を細川さんへ渡したのです。夫のソヨルジャップが金沢に暮らしている藤田さんの長女の明巳さんへ届けくれと言って息を引き取ったと言うのです。中にはモンゴルの草原での生活を切り詰めて貯めた5万円のお金が入っていました。

手紙を書いて藤田さんの思い出を長女へ送ることは簡単です。そして藤田さんの家族をついに見つけられなかったことを謝るのは簡単なことです。しかしソヨルジャップにはそれが出来なかったのです。あまりにも深い心の傷だったのでしょう。混乱した心で出来ることは現金の入った封筒を残された妻に託すことだけでした。
ソヨルジャップの苦しみを考えると彼も憐れです。そして藤田一家との美しい絆の強さに感動します。国境を越えた強い人間の絆です。
葬儀の4ケ月後、チベット密教で有名な中国青海省のタール寺の僧侶の司式でソヨルジャップの散骨が行われました。散骨の場所はホロンバイル草原のモンゴル人の聖地、聖なる山、ボグド・オーラ(仏の山)のなだらかな南斜面の草原です。
親類や縁者が集まって天と地に祈ったあと、ソヨルジャップさんの白い骨をまき散らせたのです。日本から行った細川さんも砕かれた白い粉を両手ですくいあげます。白い粉は細川さんの指にまとわりつき離れようとしません。
小さな骨は緑の草の中に落ち、白粉は風に舞ったそうです。広い天空は何処までも蒼く、白い雲が遠くまで帯のように流れています。こうしてソヨルジャップさんの魂は希望通り故郷の草原に帰ったのです。

お葬式の3年後の話です。
旧友の竹内義信さんから一冊の本が送られてきました。「ソヨルジャブ・バクシを囲んで」という題の本で、内容は3年前に亡くなったソヨルジャブさんに関する中国領モンゴル自治区のフフホト、モンゴル共和国、そして日本からの関係者によって書かれた追悼文をまとめて本にしたものです。編者は細川呉港氏と内田 孝氏です。
この本は国会図書館にあります。(http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I026371362-00 )
この本を手にとって何故か私は深い感動を覚えたのです。
彼は中国領のモンゴル自治区とモンゴル共和国の両方で、日本語を教え、モンゴル人を日本の研修生として送り出したのです。一人の日本語教師に過ぎませんでした。それなのに何故こんなに多くの人々が追悼文を書いたのでしょうか。
私はこの本を手にして数日間考えていました。そしてある結論に到達しました。
ソヨルジャブさんは終生、日本人との絆を一番大切にして、その人間同士の関係の美しさを我々に教えてくれたのです。その絆は純粋に人間同士の深い信頼によって築かれたものです。日本人をこれほど大切にし愛してくれたモンゴル人はそんなに多くはありません。
当然、日本人も彼を慕い、愛して、その結果として追悼文集が自然に出来たのです。
それは日本人を愛したひたむきな美しい生涯でした。(完了)

今日の挿絵の写真はモンゴルの風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。
                       後藤和弘(藤山杜人)