後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本人を愛し、素麺製造工場を作ったフランスの神父

2019年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教は愛の宗教だと言います。神が人間を愛すると教えています。
そんなことを言われたって日本人の私には何のことやら理解出来ません。
星空のかなたに住み給う神が人間の一人一人を愛しているという話は荒唐無稽過ぎます。
しかし神父さまたちの人間愛は眼に見えるし実感することも出来ます。
今日は日曜日なので一例として九州の日本人を愛したランス人のド・ロ神父さまをご紹介したいと存じます。
現在、九州ではドロさまソーメンという素麺が製造、販売されています。ソーメンが好きな私がドロ神父を知ったのは、このソーメンのお陰でした。
ド・ロ神父は1840年、フランスの貴族の家に生まれ、39歳の時、九州の長崎県の外海(そとめ)に来ました。
フランスの貴族の出身で九州の貧民を助けるためフランスの実家から財産を何度も出しては貧民救済の工場や施療院を建てました。その一つがドロさまソーメンの製造工場だったのです。
ド・ロ神父は、高齢で病気がちになってからは大浦の司教館で静養していました。
1914年、新しい司教館の建設に自分も作業をしていました。その時、建築現場から足を踏み外して落下したことがきっかけで病状が悪化し、司教館の完成を待たずに亡くなってしまったのです。享年74歳でした。
遺言により神父の遺体は、外海に自らが造成した「野道のみち共同墓地」に葬られることになりました。
神父の遺体が船で外海に運ばれて来る日、村人は総出で出迎えたのです。葬儀は出津教会堂で行われ、棺は出津を迂回しながら墓地へ運ばれました。
参列する人の列が長すぎて棺が墓地に着いても行列はまだ教会まで続いていたと言います。外海赴任から35年間、1度もフランスに帰らず外海のためにすべてを捧げた人生でした。詳しくは、http://shitsu-kyujoin.com/publics/index/4/ をご覧下さい。
ドロ神父の墓は現在でも日本人がお参りに行き大切に守っています。
現在の野道共同墓地の入口の広場にりっぱなド・ロ神父の墓碑があるが、実は神父の亡骸は、神父自身がフランスから取り寄せて墓地の中央に設置した大十字架の近くの墓に埋葬されています。
共同墓地の入口のド・ロ神父の墓碑は石段を登らずにお墓参りができるように作られています。高齢者への配慮なのです。

1番目の写真はド・ロ神父です。

2番目の写真はド・ロ神父記念館の前にある神父の銅像です。子供がまとわりついています。

3番目の写真は現在も販売されているドロ様そうめんの宣伝用パンフレットです。
https://www.wagamachi-tokusan.jp/product/1513.html
ド・ロさまそうめんの由来は、明治12年に赴任したフランス人宣教師マルク・マリー・ド・ロ神父が明治16年(1883年)、黒崎村出津の里(現在の長崎市西出津町)で麺作りを伝えたのが発祥です。
なお長崎市ド・ロ神父記念館は長崎市西出津町2633番地にあります。
その建物は国指定重要文化財の旧出津救助院(鰯網工場)なのです。

4番目の写真はド・ロ神父記念館です。
以下は記念館のパンフレットの文章です。
・・・深い人類愛の精神とすばらしいフロンティア精神をもって、外海地方の産業・社会福祉・土木・建築・医療・教育文化などに奉仕したフランス人宣教師マルク・マリー・ド・ロ神父の遺品を一堂に集めて、偉業、遺徳を永久に顕彰することを目的として昭和43年11月に設置した。記念館の建物はド・ロ神父の設計施工により鰯網工場として明治18年に建設されたもので、昭和42年2月に県指定文化財となった。建物の老朽化により平成11年度から3年間をかけて文化財保存修理を実施し、創建時に近い形に修復し、同時に展示改修を行い平成14年5月13日に新たに開館した。
記念館の建物は、ド・ロ神父が創設した旧出津救助院の施設の一つとして、平成15年12月25日に国の重要文化財に指定された。・・・

5番目の写真はド・ロ神父が作ったカトリック出津教会です。
1882年(明治15年)、出津地区において主任司祭を務めていたマルク・マリー・ド・ロ神父の設計により建設されました。その後信徒数の増加等により2度の増築(いずれもド・ロ神父の設計による)を経て1909年(明治42年)にほぼ現在の姿が完成したもものです。

私はド・ロ神父さまにはお会いしたこともありません。しかしド・ロ神父さまの日本人に対する愛は本物でした。これを見ると神が人間を愛していることが実感するのです。神は間違いなく人間を愛しています。そしてド・ロ神父さまも神を愛していたのです。神父様は神と人間との仲立ちをしてくださるのです。
キリスト教が愛の宗教だということはそういうことなのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

美しい日本の教会の写真(10)外観は異様だが内部は美しいニコライ堂

2019年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム
東京、神田の駿河台に明治24年、1891年に作られたロシア正教風のニコライ堂があります。丸屋根を組み合わせた壮大な教会です。日本正教会の本部になっています。
この建物の外観は異様な印象を与えます。日本人はあまり好きになれない外観です。それが証拠には日本正教の教会はニコライ堂のような外観のものが殆どありません。
しかし一歩その内部に入ってみると壮麗な美しさに圧倒されるのです
その内部で行われる歌ミサの音楽的な美しさに感動するのです。
以下に私が2009年に撮って来た写真を示します。

1番目の写真はニコライ堂の南西の角にある丸屋根です。よく見ると屋根の形や窓の作りはイスラム文化圏のものに似ています。モスクワからアジアが始まるという言い方がありますが成る程と感じる外観です。異様な印象はイスラム風なためなのでしょう。

2番目の写真は祭壇の脇の聖歌隊の席です。プロの合唱のような聖歌が会堂に響きます。

3番目の写真は祭壇です。歌ミサの間にこの祭壇にはきらびやかな法衣を着た聖職者たちが並べ祈りを捧げます。

4番目の写真は会堂のあちこちにあるイコン(聖画)です。日曜日には入り口の受付で太いローソクを買って火をつけて聖画の前に供えます。このイコンの前にある数十のカップはローソク立てです。ここに数十本のローソクの火が揺らいでいるのです。

5番目の写真はステンドグラスに描かれた聖人の絵です。

日曜礼拝のことを日本正教会では「聖体礼儀」と言います。神への憐れみを願う儀式です。キリストの聖なる体の一部の聖体を頂く儀式です。
日本正教の聖体礼儀は2000年前のキリストの生きていた頃のユダヤ教の礼拝式の形式を墨守してきたのです。新約聖書はギリシャ語で書かれたのです。その原典に書いてある内容を忠実に教えています。宗教改革も受けませんでした。キリスト教の正統的な宗派なので正教と言います。
この宗派はギリシャからビザンチンへそしてロシアへ伝わって、1855年函館へ上陸しました。日露戦争の時、ロシア本部から独立し、日本に根付いて日本正教会という宗教法人になりました。しかし教義と礼拝形式は2000年前の通り、一切の変更無しで、まったく同じなのです。

今日はニコライ堂をご紹介しましたのでこれを建てたロシア人のニコライのことを簡略に書いて置きたいと思います。
ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の6年前の1861年、25歳の時日本へ来ました。
1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。
函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。
ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。
今日はその中から一つをご紹介します。
1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。
残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。
ニコライは教書を発表し信徒を慰めます、
「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」
ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。
1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===ニコライ堂に関するバックナンバー==============
(1)投稿日 2014年04月30日 趣味としての宗教あれこれ(7)お茶の水のニコライ堂へ遊びに行く
(2)投稿日 2009/11/30 豪華絢爛な音楽ページェントが予約申し込み無しで気軽に楽しめます
(3)投稿日 2009/11/29 今日は夫婦解散、別々の教会へ行きました (金田さんの写真が出ています!)
(4)投稿日 2009/11/25 日本正教会、伝教師、金田一豊、著「なぜローマカトリックから正教会へ帰正(改宗)したのか」
(5)2009/11/23日本正教会、伝教師、金田一豊、著「ローマカトリック教会と正教会との教義の3つの違い」
(6)投稿日 2009/11/22 お茶の水のニコライ堂での日曜の礼拝に一般の人々も参加できます
(7)2009/11/10ニコライも偉かったが、明治の日本人も偉かった!
(8)投稿日 2009/11/09 ブログを書くための私の取材方法と写真の組み合わせ方
(9)2009/11/08私の記事は間違っていました!ロシア正教と書いたのは日本正教会です
(10)2009/11/07ロシアから来た偉大な宣教者、ニコライをもっと知ろう!
(11)2009/11/06日本人のロシアへの感情とロシア正教の布教の関係
(12)投稿日 2009/11/04 「ニコライ堂でロシア正教のある聖職者に偶然お会いできました」

近藤勇のお墓と胸像の写真を撮りに行く

2019年02月15日 | 写真
新選組局長の近藤勇のお墓は何カ所かあります。今日は近藤勇の実家が檀家だった三鷹市の大沢の龍源寺にあるお墓と胸像の写真を撮って来ました。そして近藤勇の実家の近所の現在の調布市の西光寺にある坐像の写真も撮って来ました。
近藤勇や土方歳三達は鳥羽・伏見の戦いで敗れ江戸幕府の軍艦に乗って江戸に帰って来ました。
江戸で甲陽鎮撫隊を編成し、薩長土肥軍を甲府で迎え撃つために調布市の西光寺を出発したのです。しかし甲府でも散々に負けて千葉の流山で官軍に出頭し板橋で処刑されます。享年35歳でした。
一方、土方歳三が軍艦で函館に逃れますが函館の街頭で弾に当たって即死します。
土方歳三の墓は出身地の日野市の石田寺にあります。享年34歳でした。

1番目の写真は三鷹市の大沢の龍源寺の本堂です。この本堂の裏に近藤勇の墓があります。

2番目の写真は近藤勇の墓です。勇の墓は右から2番目のです。いつもお供えの品が絶えません。

3番目の写真は龍源寺の門前にある近藤勇の胸像です。

4番目の写真は近藤勇の坐像のある調布市の西光寺です。近藤勇は甲府に向けてここ西光寺から出陣したのです。

5番目の写真は西光寺にある近藤勇の坐像です。
さて近藤勇や土方歳三たちは新しい時代の到来を見抜けなかったと非難出来るかも知れません。
しかし東日本にあった諸藩は箱根の西にあった諸藩のように西洋との接触は無かったのです。そして江戸幕府に忠誠を尽くしたのです。滅びゆくものに忠誠を尽くし死んで行ったのです。同情すべき運命でした。

冬の奥多摩、鳩ノ巣への小さな旅

2019年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム
冬の奥多摩は暗く淋しい所です。しかし多摩川の清流がゆったりと流れ山々が連らなっています。山稜の上の枯れた雑木林が冬空に黒いシルエットを作っています。淋しい風景ですが厳しい美しさがあります。
青梅の町を通り過ぎると奥多摩街道が多摩川上流へと上っています。
その道は JR奥多摩線にも沿っています。二俣尾駅から軍畑、沢井、御嶽、川井、古里、鳩ノ巣、そして終点の奥多摩と続いています。
昨日は冬の鳩ノ巣まで小さな旅をしてきました。川合駅の下の多摩川べりに梅の花が咲いていました。
この寒い山里にも間違いなく春が来るのです。昨日撮って来た写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

1番目の写真はJR奥多摩線の軍畑駅の下の多摩川の流れです。

2番目の写真は川井駅の下の国際フィッシングセンター付近の多摩川の風景です。

3番目の写真は奥多摩町、川井の多摩川のそばに咲いていた梅の花です。

4番目の写真は満開になっている梅の木の全体の写真です。

5番目の写真は鳩ノ巣駅の北側の山の斜面にある棚沢の集落に登ってそこから御岳の山を撮った写真です。

6番目の写真は国際フィッシングセンターの近くにあるカフェのGreen Mom の写真です。このテラスの上から美しい多摩川の眺めが楽しめます。

7番目の写真はGreen Momを経営しているご夫婦の写真です。
このカフェの地図やメニューは、Green Mom、https://green-mom.business.site/ に詳しく出ています。
昨日は私は有機栽培のコーヒー、家内はブレンドコーヒーを飲みましたが申し分のない味でした。
このカフェでは酒饅頭も売ってます。お土産に買ってきましたが、上品な和菓子のような味の酒饅頭でした。
カフェから多摩川の流れと山稜の雑木林を見つつ、コーヒーを飲むと実に楽しいのです。悠々とした気分になります。
さて奥多摩一帯はこの奥多摩町と隣の檜原村から出来ています。 檜原村は多摩川の支流の秋川沿いにある村です。
そこの村役場の中にも美味しいコーヒーを出す「せせらぎ」というカフェがあります。このカフェは次の記事で紹介しました。
「山里、檜原村へ銀座のコーヒーを楽しみに行く」、2019年01月12日掲載記事。
・・・ご主人の幡野庄一さんが以前、銀座で喫茶店を経営していた頃と同じ味わいのコーヒーを出しているのです。少し古風なブラジル産のコーヒーを基調にした奥深い味です。・・・
奥多摩には美しい自然があるだけではないのです。美味しいコーヒーもあるのです。それも奥多摩の魅力です。
自由な時間のある老境なので、春になったらまた「鳩ノ巣」行ってみようと思います。
最後に「鳩ノ巣」という地名の由来を書いておきます。
江戸時代、明暦の大火で荒廃した江戸の復興のために奥多摩の木が多数伐採されたそうです。木材は多摩川を流して江戸に運ばれます。
現在の棚沢の渓谷付近には人夫が寝泊まりする飯場小屋がありました。そこの水神社に二羽のハトが巣をつくり、それを村人達が霊鳥として愛護したことからこの地は「鳩ノ巣」と呼ばれる様になったと言われています。この神社は現在でも渓谷内の大きな岩山の上にあります。
「鳩ノ巣」は江戸時代にできた地名だったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

教養としてのキリスト教・・・謝肉祭、灰の水曜日、四旬節そして復活祭

2019年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム
欧米の人々は無宗教の人もいますが多くの人はキリスト教の影響を強く受けています。洗礼を受けて信者になっている人も多いです。
ですから欧米の文化や社会の背景にはキリスト教があると言えます。そして政治の世界も当然、キリスト教の影響を受けています。
従って欧米人と交流したり、いろいろな事業を協力しあって進めて行くためにはキリスト教のことを知っていると便利なのです。ことが円滑に運ぶのです。その上欧米人に親しみを感じます。同じ人間だという実感が持てます。

そこで今日は間もなくやって来る復活祭(イースター)の前の謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、そして四旬節のことを簡単に説明致したいと思います。
これからやって来る順序は、謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、四旬節、そして最後に復活祭(イースター)という順序になります。
しかしそれぞれの宗教的な意味を説明するためにはこの順序を逆にして説明したほうが分かり易いのです。
(1)今年は4月21日の復活祭
復活祭 (イースター) とは、十字架にかけられ死んだイエス様が3日目に蘇られたことを記念する、キリスト教の最も重要なお祝いの日です。クリスマスより重要とも言えます。
その復活祭の日の決め方は、「春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日」です。 この決め方に従うと2019年以降の復活祭は次の通りです。2019年4月21日、2020年4月12日、2021年4月4日、2022年4月17日になります。
(2)40日間の四旬節
復活祭前に節制した生活を送る準備期間を四旬節(40日間)と呼びます。40という数字は、イエス様が荒れ野で40日間断食をされたことに由来しています。それに倣って40日の間に断食をしたり節制したりする習慣が生まれたようです。
もう少し厳密に言うと、四旬節が始まるのは その直前の水曜日 、すなはち「灰の水曜日」 からです。
(3)日本人にも理解し易い灰の水曜日
「灰の水曜日」という名前は、この日に司祭が灰で信者の額に十字の印をつけることに由来します。自分が灰のように消えてなくなるはかない者であることを認め、ただ神の慈しみによって生かしていただいていることを思い起こすのです。この意味は仏教の無常の考えと同じなので理解し易いです。
灰の水曜日に用いる灰は、前の年の「枝の主日」に祝別されたシュロの枝を焼いて作られます。エルサレムにイエス様が入城した時に群衆が棕櫚の葉を手に持って打ち振り、歓迎しました。シュロの枝は勝利と歓喜の象徴として、凱旋の行列に用いられるといわれますが、イエス様がこれによって人間の栄華も歓喜も、灰のように塵になる儚いものであることを教えたのです。
(4)日本人には分かり難いバカ騒ぎの謝肉祭
謝肉祭はカーニバルとも呼ばれますが、これは分かり難い祭です。
断食をしたり節食をして静かに過ごす40日の四旬節に入る前に、思いっきり飽食をして仮装をして踊り狂います。この世の楽しみを思う存分してから40日間の静かな節制生活に突入するのです。このようなバカ騒ぎをイエス様が喜ぶか私は疑問に思っています。
しかし賑やかな謝肉祭も灰の水曜日の前日にピタリと止めます。
ですから有名な南米のリオのカーニバルも「灰の水曜日」の前日に終り静かになります。

以上はカトリックの習慣です。しかし欧米では夏のバカンス以外の休日は、多くカトリックの習慣に従って決まっています。ですから謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、そして四旬節、そして最後の復活祭(イースター)などは欧米社会の歳時記として定着しているのです。堅苦しく考えなければそれらは欧米社会の楽しい風物詩なのです。
その上、復活祭(イースター)はクリスマスと共に日本の俳句の季語にもなっています。

今年も謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、四旬節、復活祭(イースター)が巡って
来ますので、こんなことを書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿し絵代わりの写真はイタリアは水の都のヴェネツィアのカーニバルです。https://www.nta.co.jp/media/tripa/articles/1xPbO からお借りした写真です。
中世に起源を持つヴェネツィアのカーニバルでは街全体が仮面舞踏会の会場となります。
メイン会場となるサン・マルコ広場には舞台が設置され、仮装コンクールなどが開催されるそうです。それにしても日本の伝統には仮面舞踏会というものが無いので私には異様な光景に見えます。しかし仮装が念入りでいかにも伝統的なヨーロッパ文化を感じます。









デパートにはもう雛祭が来たようです

2019年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム
雛祭はたしか3月3日と覚えていました。ところが今日デパートへ行ったらもう雛祭が来たようにお雛様たちが飾ってありました。婦人服売り場も春の色です。
デパートの季節は早く回るようですね。先程、立川の高島屋で撮って来た写真をお送りします。









美しい日本の教会の写真(9)木造で1番古いカトリック宮津教会

2019年02月11日 | 写真
京都府の日本海側の宮津市にるカトリック宮津教会は明治29年に建てられました。
国宝の大浦天主堂は明治12年に建てられたので、それに次いで日本で2番目に古い教会になります。
そして現役の木造教会としては日本一古い教会なのです。
ステンドグラスの美しい畳敷きの教会です。信者は入り口で靴を脱いで畳の上を静かに歩きます。
畳敷きの教会も良いものです。少し寛いで自然な気持ちで祈ることが出来のです。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。
出典は、http://pupa.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_f70a.html です。









この教会の歴史です。
1888(明治21)年、パリ外国宣教会のルイ・ルラーブ神父は宮津に居を定めて、宣教を開始しました。ルラーブ神父の当時の受け持ち区域は、若狭(福井県南部)から但馬(兵庫県北部)までに及びました。
1895(明治28)年に、地元の旧家・田井五郎衛門氏から敷地の寄贈を受け、翌年の5月、当時としては珍しいフランス風の構造に木造・畳敷きという和洋折衷のロマネスク式の聖堂「洗者聖ヨハネ天主堂」が竣工され、献堂式が行われました。
1907(明治40)年には、教会敷地内に、現在の京都暁星高等学校の前身である「宮津裁縫伝習所」が設立されました。

1927(昭和2)年の丹後大震災の際には、戸塚文卿神父を中心とするカトリック医療団が救護活動に尽力しました。尚、この戸塚文卿神は私どもの小金井市に桜町病院やヨハネ女子修道会を作った医学博士の神父でした。その延長に現在のカトリック小金井教会があるのです。

 1935(昭和10)年、ルラーブ神父の来日50周年が祝われました。この年、ルラーブ神父の司祭叙階金祝を記念して「宮津暁星幼稚園」の設立が決定され、翌年に同幼稚園が開園されました。
 1941(昭和16)年、56年間日本で宣教活動を続けてきたルラーブ神父が、83歳で帰天されました。
1996(平成8)年5月6日には、献堂100周年の記念ミサが教区長・田中健一司教によってささげられました。
宮津教会は、日本に現存する2番目に古いカトリック天主堂として、今も現役の教会として祈りがささげられています。

主日のミサ:9:30(7~9月は於・加悦教会)
〒626-0023 京都府宮津市宮本500
TEL:0772-22-3127 FAX:0772-22-3684    (続く)

孤独死は何故起きるのでしょうか?

2019年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム
高齢者になると独りで住んでいる人々のことを考えるようになります。夫婦の一方が亡くなった人や一生独身だった高齢者と話をする機会が増えてきます。
そのような一人暮らしの人は淋しそうです。やがて孤独のなかで死んで行くのです。
このように書けば反発する人も多いと思います。私は反論しません。しかし上に書いたことは半分本当です。真実です。
そこで今日は孤独死の一つのタイプを書いてみたいと思います。
私の友人だった人に孤独死に憧れ、現在深い山林の中で独り暮らしをしている男がいます。
一生独身でしたので家族と縁が遠いのです。
30年ほど前に山林を買い、その中に家を作り一人で住み始めました。
自分で4輪駆動の車を運転して甲州や信州の旅を楽しんでいました。家の周りにはいろいろな草花を咲かせ、モリアオガエルを育てながら山の生活を満喫していました。
私は何度も彼のところに遊びに行って楽しい時を過ごしました。
シイタケの原木を貰ったり、クリンソウやワスレナグサの鉢植えも貰って来ました。
モリアオガエルの樹上の卵塊も見ました。家の中で飼育中のモリアオガエルの可愛い姿を何度も見ました。私自身の山林の中の小屋から500メートルだけ離れていたのです。
ですから私の小屋の庭でも何度も二人でバーベキューもし一緒にビールを飲みました。
彼は私の山林の中の友人だったのです。
その彼は孤独死に憧れていてその準備が出来て居ると何度も話していました。
その彼も高齢になり自分で車を運転できなくなりました。
途端に買い物と病院通いが出来なくなりました。眼が見えなる病気の治療のために毎月遠方の病院まで通院していたのです。
その時近所の別荘に来ている男が親切にも彼の通院と買い物に車で連れて行ってくれたのです。その上、山林の家の周囲の草刈りまで何度もしてくれたのです。
私は感動して彼の別荘を訪れたこともありました。
そんな親切なボランティアが5年ほど続いたとき別れが突然やって来ました。
山林の中の家の男が愚痴を言い出したのです。非難の対象は通院してる眼科の医者へ対する悪口です。自分の面倒を見ようとしない市役所の福祉課の役人達の悪口を言うのです。
通院に5年間も連れて行った別荘の人は静かに忠告しました。高齢になったら全ての人に感謝したほうが良いのですと言ったのです。しかし聞く耳を持っていません。親切に5年間も助けてくれた別荘の人に反論したのです。見るに見かねた私は別荘の人に味方をしました。そうしたら山林の中の独り暮らしの男は怒り出し絶交を言い出しました。こうして山林の中の独男は孤立無援になりました。彼は何年か後に文字通り孤独死をするでしょう。
後で親切な別荘の人と話し合いました。彼は良いことと信じ助けたつもりでしたが、迷惑だったのでしょう。自分が愚かだったのですと言います。そして淋しく微笑んでいました。

人間の矛盾は深い深い闇です。助けて貰えば心底から感謝します。しかし同時にその親切を余計な干渉だっと考える人もいるのです。そして親切な人を憎むのです。人間の罪の深さです。
よく「高齢者は全ての人へ感謝すべきです」という話を聞きます。しかしこの言葉は「高齢者は全ての人へ単純に感謝だけすべきです。親切を干渉と考えてはいけません」と変えるべきなのです。
いきなり卑近な話で恐縮です。うちの家内は私に四六時中うるさく干渉して来ます。時々うるさいと怒鳴ってしまいます。しかし単純に感謝だけすべきです。親切を干渉と考えてはいけませんと自分へ言って今日の記事の終りとします。

今日の挿し絵代わりの写真は新潟県長岡市旧三島町にお住まいの方のブログからお借りしました。
写真は雪の妙高山をバックに広がる菜の花畑です。(https://blog.goo.ne.jp/kaneko2345/e/a554cd186a15c40f00fafe7cc422a5e8 )

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

今年初めて咲いた菜の花の写真

2019年02月10日 | 写真
日本の南の方ではもう菜の花が咲いていることでしょう。
ここ東京の郊外では毎年今頃咲き出します。
毎年、写真を撮る場所は国分寺市と調布市のある畑です。一株二株ですが毎年咲くのです。
今年も何度か観察に行きましたが、今日は昨夜の雪がうっすらと残る中写真を撮って来ました。
始の3枚の写真は調布市の畑で後の2枚は国分寺市の畑で撮りました。
皆様お住まいの土地では菜の花が咲いているでしょうか?









美しい日本の教会の写真(8)国宝、世界遺産の大浦天主堂

2019年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム
長崎の大浦天主堂を、私は日本のカトリックの本山と勝手に思い込んでいます。勿論、カトリックの本山はバチカン以外にはありませんが。
江戸幕府による250年のキリシタン禁制の中を信仰を守り通した潜伏キリシタン達が突然現れたのがこの大浦天主堂だったのです。このドラマチックなニュースは世界を巡り人々を驚かせたのです。日本人の誠実さ精神の強さを証明した事件でした。
大浦天主堂は明治12年に現在のような美しい姿に建てられた日本最古の教会です。昭和8年(1933年)に 当時の国宝保存法に基づき国宝に指定されたのです。これは洋風建築としては初の国宝指定でした。
何度も訪れて写真を撮りましたが、今日は2013年に撮った写真をお送り致します。

1番目の写真は長い石の階段の下から見上げた大浦天主堂です。
初めの天主堂はパリ外国宣教会宣教師のフューレ神父とプティジャン神父が1864年に完成しました。それを1879年(明治12年)にプティジャン神父達が現在の姿に改築したのです。

2番目の写真は現在の天主堂の祭壇です。ステンドグラスの窓からの光が祭壇を美しく照らしています。
同じ場所に1864年に完成した旧天主堂に浦上の潜伏キリシタンが現れプティジャン神父に密かに信仰者であることを名乗ったのです。しかし時期が早過ぎました。幕府は信者を捕らえ流刑にしたのです。
日本の禁教令は明治5年まで居留外国人以外へは厳重に執行されていたのです。
幕府と明治政府は名乗り出たキリシタンを逮捕し流刑にしました。これが有名な浦上4番崩れなのです。

3番目の写真は天主堂の右に回り込み側壁と窓の様子を撮った写真です。
窓のデザインが古風で壁も少し汚れていて時代の経過を示しています。
この写真を撮った反対側には昔の神学校が建っていました。

4番目の写真は天主堂の壁に触ったあとで見上げて撮った写真です。壁に触って眼を閉じると浦上のキリシタン達がプティジャン神父に話かけてい場面が見えてきます。

5番目の写真は昔の神学校の写真です。天主堂の東の隣に建っています。大浦天主堂の傍に司祭館や神学校の建物を設計したのはド・ロ神父でした。
2013年に訪れた時にはキリシタンの踏絵やマリア観音などの展示をしていました。そしてコルベ神父の特別展も開催していたのです。
コルベ神父はアウシュービッツ収容所で他人の命の身代りになって処刑された神父さんです。
コルベ神父は長崎で活躍していたのです。1881年にヨハネ・パウロ2世が長崎に巡礼の旅をした時もコルベ神父ゆかりの建物も訪問しました。
大浦天主堂は昭和20年8月9日の長崎市への原爆投下によって破損しましたが、爆心地から比較的離れていたため焼失は免れました。その後破損個所の修理は昭和27年に完了します。

最近この大浦天主堂は世界遺産にもなりました。
大浦天主堂の世界遺産に関しては次の拙著にも書いてあります。
大浦天主堂や神学校を建てたプティジャン神父やド・ロ神父についても詳しく書いてあります。
『国宝 大浦天主堂などキリシタン教会群が世界遺産へ!』、2013年04月17日 掲載記事です。

なお国宝の大浦天主堂が、観光客の増加に伴い、ミサのためには不都合となったので昭和50年(1975)11月、長崎教区が大浦天王堂の隣接地に新らしい大きな教会を建てています。大浦天主堂では普通のミサはありません。
新らしい教会の主日ミサは土曜日は19:00、日曜日は7:00時と10:00時です。主任司祭はぺトロ下口 勲 神父です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)



雪の日は静かに玉堂と竹喬の風景画を眺めている

2019年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は天気予報通り小雪が舞っています。私の車には夏用の普通タイヤしかついていませんので家に蟄居です。
こんな日は日本画や油彩画を眺めて過ごすが良いのです。そこはかとなく元気になります。楽しい気分になります。
そこで川合玉堂と小野竹喬の日本画を取り上げて眺めることにしました。
川合玉堂は明治6年愛知県に生まれ昭和32年に84歳で没しました。
昭和19年から32年まで奥多摩の御岳駅の傍に住んでいました。そこには現在、玉堂美術館があります。何度も行った馴染みの美術館です。
川合玉堂の絵画は自由闊達でのびやかです。上品で穏やかです。自然の風景、草木、小鳥などを愛する心が画面に温かい雰囲気をかもし出しています。

1番目の写真は「行く春」という六曲一双屏風の左隻です。

2番目の写真は「行く春」の右隻です。
「行く春」という絵画は玉堂の生涯の傑作と絶賛される作品です。 
この屏風を何年も前に国立美術館で見たときの感動を忘れられません。
写真の左から散りかけた桜花が画面中央へ伸びています。水豊かな山峡の流れに大きな水車を乗せた船が連なってしっかりと係留されています。激しい流れを使って水車を回す「水車船」なのです。船の中には臼がが並んでいて穀物を挽いているのが想像出来ます。雄大な自然と人々の生活が描がれているです。そして過ぎ行く春が時の流れのはかなさを暗示しています。

3番目の写真は「彩雨」という傑作で、「行く春」と並んで玉堂の二大傑作と言われています。
この絵の右下の方に2人の傘をさした女性が小さく描いてあります。それで雨が降っていると判然とします。その女性が精密に描いてあり、嫁と姑のように見えるのです。
勿論、傘の2人を見なくても風景が雨もよいに描いてあります。何か懐かしい風景がのびやかに描いてあります。玉堂の絵画の特徴を表している傑作です。
このような玉堂の力の籠った3枚の絵だけでも元気が出てきます。明るい気分になります。

そして一方、心を穏やかにする美しい絵画も思い出します。小野竹喬の優しい美の世界です。小野竹喬は明治22年に生まれ昭和54年に90歳で亡くなりました。
竹喬の画の特徴を一口に言うと柔らかさでしょう。なだらかな線、穏やかな色、それらが見る人の心にそっと浸みこみ、自然に平安な世界にいざなってくれます。

4番目の写真は「西の空」です。素描の1967年の作品です。
空は少し暮れかかって茜色になり始めました。もう少し時間が経てば本当に鮮やかな茜色になると考えられます。なにかほのぼのとした幸せな気分になります。

5番目の写真は『夏の五箇山』です。 1933年(昭和8年)の作で、笠岡市立竹喬美術館の所蔵です。
この絵は戦争前の昭和8年に描かれた四曲の屏風絵です。若い頃の作品なので山々の茂っている樹木の緑の濃淡が丁寧に描いてあります。この絵をしばらく見ていると自分の体が木々の緑色に染まってしまうようです。人間と自然が溶け合うのです。

6番目の写真は「池」です。1967年(昭和42年)の作で東京国立近代美術館にあります。

7番目の写真は小野竹喬の絵を「絵葉書」にしたものの集合写真です。
小野竹喬はもともと家内が好きで美術館に行く度に買い集めた絵葉書の一部を並べて写真に撮ったものです。

こんな事を書いていると暗い雪の日のことはすっかり忘れてしまいます。
それにしても雪国の人々は毎日どんな気持で暮らしているのでしょうか?
冬来たりなば春遠からずです。今日の絵画は桜の絵、春雨の絵、初夏の山の絵、初夏の池の絵など明るい気分になる絵画だけを選びました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

美しい日本の教会の写真(6)東京のカトリック碑文谷教会

2019年02月08日 | 写真
カトリック碑文谷教会は、東京都目黒区碑文谷にある東京教区の教会です。
「江戸のサンタ・マリア聖堂」として1954年にサレジオ会によって建立され、その後運営を東京大司教区が受託しました。別の名前のサレジオ教会としても親しまれています。
36m余の鐘塔を備えたロマネスク様式の大聖堂で、1708年に来日し、小石川切支丹屋敷にて死去した宣教師ジョヴァンニ・シドッティを偲ぶカルロ・ドルチのマリア像「悲しみの聖母」(江戸のサンタ・マリア)の模写が内部に掲げられています。本物の聖画は日本の国宝で、国立博物館に所蔵されています。
鐘はミラノの信者から寄付されたもので、美しい音色を奏でています。










サレジオ修道会は19世紀にイタリアで創設されましたが、現在はイエズス会に次いで世界で2番目に大きな修道会です。
日本には1928年にチマッティ神父等が来て宣教活動を活発に始め、数多くの学校を作りました。
東京都の調布市にはサレジオ神学校を作り、1965年にそこで帰天しました。享年86歳でした。
日本人を愛し、サレジオ会の日本人が第二次大戦で徴兵され、戦死する度に深く嘆き悲しんだのです。
墓はサレジオ神学校の裏手の地下室にあり遺骸も石棺の中に安置されています。(続く)

茅茫々の武蔵野にあった小川村の地方史を調べに行く

2019年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム
江戸時代になる前の武蔵野は茅茫々の荒れ地で、暗い森が散在していました。
遥か西には奥多摩の山並みが碧く輝いています。そんな武蔵野の雑木林に隠れるように数少ない村が散在しているだけだったのです。
しかし江戸幕府が出来ると幕府は武蔵野の開拓を勧めます。地方、地方にいる名主的な有力者や郷士が幕府の許可を得て新しい農地を広げていったのです。開拓した人の名前が現在の町名になっている所が幾つかあります。
例えば現在の小平市の小川町は小川 九郎兵衛が開拓した旧小川村の後身です。
この小平市の小川町の地方史を調べるために昨日は小川寺を訪問しました。撮って来た写真をお送りします。

1番目の写真は小川寺(しょうせんじ)の山門です。臨済宗円覚寺派の寺院です。 小川寺は、小川九郎兵衛が開基となり、碩林を開山として明暦2年(1656年)頃に創建したといいます。

2番目の写真は小川寺の鐘楼です。小川九郎兵衛の開発計画は成功します。貞享(1684-1688年)の頃には開拓者たちの懐も潤っていき、檀家はこぞって梵鐘の寄進に応じたのです。

3番目の写真は本堂です。小川九郎兵衛は自費を使って農民を住み着かせ、開拓に着手する一方で、江戸市ヶ谷の月桂寺住職・雪山碩林大禅師を勧請、薬師瑠璃光如来を本尊として開山したのが醫王山小川寺です。

4番目の写真は庫裏の前に紅梅が咲いていたので撮った写真です。檀家が多く裕福らしくて現在の小川寺はこの古い庫裏の隣に立派な新庫裏が出来ています。

5番目の写真は13佛の写真です。13佛への信仰は江戸時代に出来た日本独特の信仰です。
この13の佛像へ先祖の供養と家族の健康や豊作を祈っていたのです。
十三仏は、十王をもとにして、冥界の審理に関わる13の仏(仏陀と菩薩)です。
不動明王
釈迦如来
文殊菩薩
普賢菩薩
地蔵菩薩
弥勒菩薩
薬師如来
観音菩薩
勢至菩薩
阿弥陀如来
阿閦如来
大日如来
虚空蔵菩薩

6番目の写真は小川九郎兵衛の墓です。彼は寛文9年婿養子市兵衛に家督を譲り、岸村の旧宅に戻ってその年の12月17日に48歳の生涯を閉じました。
小川九郎兵衛安次の墓は昭和62年3月、小平市の史跡に指定されています。
墓はもともと武蔵村山市の禅昌寺にあったのですが小川寺へ分骨されたのです。

7番目の写真は1674年頃の小川村の地割図です、青梅街道の下側の真ん中に小川寺があります。

さて小川九郎兵衛の開拓事業を総括して置きます。
小川村のあった武蔵野台地でも水利に乏しい地域で、考古遺跡も旧石器時代の鈴木遺跡があるくらいで人の住んでいない荒れ野でした。
律令制下では武蔵国多摩郡に属し、官道である東山道武蔵路が来ていましたが人はいなかったのです。
中世には鎌倉街道上道の道筋が南北に通過していますが、農民の定住が困難であった土地でした。
1590年に徳川家康が江戸に幕府を作ったので、江戸城築城のための資材を運ぶ運搬路が整備され、青梅から江戸までを繋ぐ青梅街道も出来ます。
承応元年11月(1652年)老中の松平信綱によって玉川上水の開削が計画され、1654年に玉川上水が完成します。
このよう情勢を受けて、1656年に武蔵国多摩郡岸村(現武蔵村山市)の郷士、小川九郎兵衛が江戸幕府に開拓の許可を出願。1657年から小川村として開拓し、青梅街道に沿って小川用水を整備し小川新田として新田開発を行ったのです。その後小川村を中心に諸村が形成され、青梅街道沿いに小川宿が設置されたのです。
また、延宝6年(1678年)には尾張徳川家の鷹場も設置されます。鷹の街道や鷹の台などの地名が残っています。明治時代以降も都心郊外の純農村地帯であります。
小川寺には、小川九郎兵衛の作った小川分水が現在でも流れています。
小川九郎兵衛の事業は新田の開拓だけでなく、青梅や秩父の石灰や木材などの資材運搬の馬継場を作ったのです。その馬継場は繁盛し人々の生活が潤ったのです。彼は起業家でもあったのです。

こんな地方の歴史を調べるのが私の老境の趣味です。昨日行った小川寺にまつわる小史でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)