後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「飛永頼節の抽象画の世界、原爆死者への鎮魂のための絵画群」

2020年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム
飛永頼節さんは長崎で原爆の被害者になり街の惨状を見てしまいました。黒焦げになった遺体が道に折り重なっていました。飛永頼節さん自身は何とか生き延びましたが原爆で死んだ人々への鎮魂の気持ちが心に残ります。その思いは強く彼の生涯を貫きます。
その鎮魂の祈りを抽象画に昇華させ「レクイエム」という絵画群を描き続けました。大変評判を呼び「レクイエム」は飛永頼節さんの代表作になりました。
絵の色調が微妙でこの世の色合いでないのです。あの世の色彩です。ここにその微妙な色合いが再現出来ないのが残念です。
さて以下に彼の画集の後書きにある文章の抜粋をお送りいたします。

「あの日1945年8月9日、被爆、気を失った。当時私は久留米高専の学生で、長崎の兵器工場へ学徒動員で来ていた。意識がもどって見ると街中に黒焦げの死体がころがっている。
科学技術の進歩によって生まれた原子爆弾がが人間の尊厳を打ち砕くのだ。
深い衝撃を受けた私は技術者になる道を諦め、画家になる決心をした。
原爆で人影が石壁に残る。その不気味な人影をモチーフにして鎮魂のための抽象画を描こうと決心した。作品の構成要素として直線を多用しよう。無駄な衣を脱ぎ捨て、後に残った素材、例えば直線や一元的な空間で画面を構成する。
原爆で一瞬に「もの」になった人、「影」となった人、それらの形象に私は、いのちの再生、人間性の蘇生を願い、その作品に静寂・明澄性・光の表現を与えたい。
それが芸術に於ける復活の祈りであり、レクイエムであると信じ、更に状況を超えた ”存在” であることを念じ、絵を描き続けている。」

私は彼の言葉、「それが芸術に於ける復活の祈りであり、レクイエムであると信じる」に感銘を受ける。彼の揺るぎない固い信念に圧倒さます。
飛永頼節さんはそういう信念を貫いて抽象画を描き続けたのです。
非常に数多くの「レクイエム」という絵画群の中からほんの少しだけ写真をお送りいたします。

1番目の写真は「レクイエム19」で、2005年作です。アクリル・キャンバス、116.5cm X 91cmの大きさです。

2番目の写真は「レクイエム20」で、2009年作です。アクリル・キャンバス、91cm X 72.5cmの大きさです。

3番目の写真は「自画像」で、2009年の作品です。アクリル・パネル、41cm X 32cmの大きさです。

4番目の写真は「レクイエム1-1」で、2010年作です。アクリル・パネル、194cm X 130.5cmの大きさです。

5番目の写真は飛永頼節画伯です。

それにしても飛永頼節さんの「レクイエム」という絵画には深い精神性が込められているのですね。ですからこそ静寂で明澄な「レクイエム」という絵画群が飛永頼節さんの代表作になったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「飛永頼節の抽象画の世界、その多様な構図と色彩の美しさ」

2020年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム
飛永頼節さんは最近知り合った抽象画の画家です。お話を聞きどうしても絵が見たくなりました。そうしたらご自分の画集を一冊下さいました。1927年生まれですが、とてもお元気で現在も描いておいでです。
数十枚の抽象画を見て感動を覚えました。構図が面白く澄んだ色彩が美しいのです。
私は大胆に数十枚の抽象画を2つのグループに分類しました。若いころの情熱に溢れた華やかな絵画と老境に描いた鎮魂を主題にした一群の「レクエム」と題した絵画です。原爆で亡くなった人々の鎮魂を祈る絵画です。
そこで2つに分類した絵画を2つの記事としてご紹介したいと思います。今日は若いころの情熱に溢れた華やかな絵画です。
前置きはこれぐらいにして、さっそく5枚の絵画をお送りいたします。

1番目の写真は「聖母子(2)」です。1979年作のアクリル・キャンバスで91cmx72.5cmの大きさです。
飛永頼節さんは長崎県生まれでキリシタン文化を背負っているのでしょう。飛永頼節さんの父上は五島列島の警察署長でした。先祖は隠れキリシタンの島に住んでいたようです。

2番目の写真は「いのち(1)」です。1985年作のアクリル・キャンバスで116.5cmx91cmの大きさです。

3番目の写真は「或る晴れた日に(1)」です。1986年作のアクリル・キャンバスで162cmx130.5cmの大作です。

4番目の写真は「燃える大地」です。1989年作のアクリル・ペンキ・紙で62.2cmx46.4cmの大きさです。飛永頼節さんは長崎で原爆に被爆しました。生き延びましたが街の惨状が心に焼き付いているようです。

5番目の写真は「鳥」です。1997年作のアクリル・紙で26cmx26cmの大きさです。

ここに示した絵画は5番目の「鳥」以外大きな作品です。私は絵画の写真を見る時、原作の大きさを考え、原作の迫力と美しさを想像しまます。今回もそのように見ると飛永頼節さんが精魂込めて描いている様子が目に見えるようです。
それはさておき最後に飛永頼節の略歴を示しおきまずす。
1927 長崎生まれ、1945 長崎にて被爆、1953 行動美術研究所に学ぶ。
現在はTama Artist and Citizen Netに所属している。
主な個展 や展覧会は以下の通りです。
1961〜'63年、読売アンデパンダン展(東京都美術館)
1962 〜'64年、集団α展(東京・第一画廊、京都・青銅画廊 吉仲太造・末松正樹等と)
1965年、日本、今日の美術展(東京・村松画廊 アートクラブ・代表岡本太郎
1970年、日本の肖像展、ミニモニュマン展(東京・サトウ画廊)
1971年、自然、人間拡張への反証展(東京・サトウ画廊)
1975年、第1回東京展(東京都美術館)
1976年、今日の<空間>展(横浜市民ギャラリー・横浜市主催)
1977〜'82年、コンフリュアント展(横浜市民ギャラリー・横浜市主催)
1979年、日本現代美術の20人展(立川・伊勢丹 - コミッショナー山本太郎・野村太郎)
1984〜'96年、ポイントナウ展(横浜市民ギャラリー)
1994〜'05年、TAC(多摩現代美術家会議)展
受賞は2005年、藝術出版社主催、第11回美奄大賞展にて大賞受賞

今日は飛永頼節さんの若いころの情熱に溢れた華やかな抽象画を5枚ご紹介いたしました。続編では鎮魂を主題にした一群の「レクエム」と題した絵画をご紹介する予定です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「珍しい朴の木の花の写真をお楽しみ下さい」

2020年06月17日 | 写真
昨日は書いていて心が暗くなるような記事を2つ掲載しました。「アメリカの黒人差別反対デモが続く8つの具体的な原因」と「白人警官と黒人、今アメリカで起きている実態の赤裸々な報告」です。
そこで今日は単純に花の写真だけをお送りいたします。珍しい朴木(ほうのき)の花です。朴木は深い山奥に生えている大木です。大きな純白の花が高い梢に咲きます。
高い梢に咲くので写真を撮るのが難しいのです。
今日はそんな朴木の花の写真をお楽しみ下さい。

1番目の写真は3年まえの5月に山梨県の上野原市の山奥で私が撮った朴(ホウ)の木の花です。

2番目の写真の出典は、https://minhana.net/wiki/ホオノキ です。

3番目の写真の出典は、
https://blogs.yahoo.co.jp/san_tarimo/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-53-c2%2Fsan_tarimo%2Ffolder%2F989081%2F27%2F33421227%2Fimg_0%3F1400056940&i=1
です。

4番目の写真の出典は、
http://parfum-satori.com/blog/2016/05/magnolia-obovatathunb-1.html です。

5番目の写真は山奥にある私の小屋の周囲にある森です。左手の手前に朴の木の大木があり高い梢に花が咲きます。白い花びらがチラチラ見えるだけです。朴の木の葉は大くて美しいので拾ってきて朴葉味噌につかったり食物を包んだりしました。今日はそんなことを思い出して楽しい気分です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「白人警官と黒人、今アメリカで起きている実態の赤裸々な報告」

2020年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム
黒人差別反対デモの原因を数日間、いろいろ調べていましたら衝撃的な記事を見つけました。
日本語が流暢で知的なテレビタレントのパックンが書いた記事です。白人警官と黒人の対立の実態を赤裸々に書いた報告です。
少し長い記事ですがお読み頂きたいと思い、そのままお送りいたします。
パックン著、「暴動だ。黒人の間で警察に対する怒りが爆発し、アメリカの街が燃えている──」

写真はフロイドの殺害現場で、ろうそくを手にたたずむ人(ミネソタ州ミネアポリス、6月3日) LUCUS JACKSON-REUTERS

丸腰の黒人が白人警官に窒息死させられた事件。パックンがマジメに、デモがこれほどまでに拡大した理由を解説する。黒人たちの苦境、燃え上がる暴動、火に油を注ぐ大統領――これが今のアメリカだ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/aa0a086c499491bc9bd3c997cc8b023133a86b22?page=1
では、これは「いつの話」なのでしょうか。2014年に、ミズーリ州セントルイスで丸腰の黒人男性が警官に射殺されたとき? 2001年に、オハイオ州シンシナティで丸腰の黒人男性が警官に射殺されたとき? 1992年に、カリフォルニア州ロサンゼルスで丸腰の黒人男性が警官に半殺しにされたとき? 1979年に、フロリダ州マイアミで丸腰の黒人男性が警官に殺されたとき?

「2020年5月に、ミネソタ州ミネアポリスで丸腰の黒人男性が警官に殺されたとき」と答えた人、正解! いや、残酷な事件や被害を広げるような暴動はいつ、どこで起きたって、警察の行動としても、抗議の仕方としても、どうみても不正解だろう......。

前述の例は、黒人に対する警察の暴力と、そこから生まれた暴動のほんの一部にすぎない。しかも暴動が起きなかった同種の事件の数は、その何千倍にも及ぶ。2015年の1年間だけで丸腰の黒人が100人以上、警官に殺された。平均で週2回の頻度、近所の八百屋が特売品を出すペースで、丸腰の黒人が警官に殺害されている。

「丸腰」と限定しなければ、その数字はもっと上がる。黒人男性が警官に殺される割合は1000人に1人で、25~29歳の黒人男性の死因ランキングでは、これが6位に入っている! 中には警官の正当防衛もあるが、そうでないケースも多い。だが、黒人を殺した場合、警官への罰則はほとんどない。2015年の100件以上の丸腰黒人殺害に関わった警官の中で、有罪判決を受けたのはたったの5人。

でも今回爆発した国民の怒りは、こういった殺害事件だけから生まれたものではない。警察の差別的な行動は毎日のように起きているのだ。代表的なのは職務質問。車社会のアメリカだと、車を止めて、運転手と車の中を調べるtraffic stop(車両停止)の形が一般的だが、白人のほうが運転することが多いのに、黒人のほうが倍ぐらいの確率で警察に止められる。

止められた後、身体や車中を捜索される確率は白人の4倍。「黒人のほうが禁止物を持っていることが多いからでは?」との疑問が浮かぶ人もいるだろうが、実際に捜索された場合、白人のほうがより高い割合で、麻薬など法に触れるモノを保持している。まず白人を疑え! と、僕からは言いづらいけど。

警察が肌の色だけで疑うことはracial profiling( 犯人の特徴を「人種的に」推論すること)という、法律でも禁じられている間違った取り締まり方。だが問題視されてから何年たっても、これはなくならない。同じような軽犯罪で通報された場合、黒人は白人の倍ぐらいの確率で逮捕される。使用率はあまり変わらないのに、マリフアナ保持容疑で逮捕される確率は黒人が白人より約4倍高い。黒人は白人の約5倍の率で麻薬関係の犯罪で投獄される。しかも、それが「冤罪」である割合が白人のおよそ12倍!

デモ拡大の4つの要因
殺人の冤罪も7倍多い。イメージが先行することは実害にもつながっているのだ。大阪人は「みんな面白い」と思われるのもつらいと聞くけど、「みんな犯罪者」と思われるほうがよっぽど怖い。

職務質問、逮捕、投獄、殺害。普段からそんなことをされている黒人たちは、警察や司法制度に対する怒りが常に沸点間際に来ていてもおかしくない。だが、今回のような規模の爆発は珍しい。

抗議デモは全国600以上の都市で行われている。事件を起こした4人の警察官が全員逮捕、訴追されても反発は収まらない。(新型コロナウイルス対策の外出制限が解けたばかりなのに)外出制限が発令されても、1万1000人以上が逮捕されても、警察や参加者を含め18人が死亡しても、各地のデモは続く。ごく一部の人による略奪や放火を伴う暴動ももちろん起きている。なぜこんなことに?

要因は主に4つ考えられる。1つは、事件自体のむごさ(暴力描写をします。気になる方は以下の2段落は飛ばしてください)。ジョージ・フロイド(46)が食料品店で20ドルの偽札を使おうとしていると疑った店員が、警察に通報。4人の警官が現場に駆け付け、フロイドを乗っていた車の運転席から引きずり降ろし、後ろ手に手錠を掛けてパトカーに乗せようとした。しかし後部座席に1回乗せてから、なぜか反対側のドアからまた引きずり降ろす。その後、白人の警官1人が路上にうつぶせになったフロイドの首の上に膝を乗せ、全体重をかけて地面に押さえ付ける。

フロイドは最初、「お願い! 息ができない!」と苦しんでいたが、数分たつと全く動かなくなる。通行人が「動いていない!」と注意しても、脈拍がなくなっても、救急隊員が来ても、9分近い間、警官はずっとフロイドの首に乗ったままで窒息死させたとみられる。

実に残忍な事件の一部始終を通行人が携帯電話で撮影し、フェイスブックに動画をアップした。これが2つ目の要因。証拠映像がはっきりしていて、一気にSNSで広がった。

動画を見た人が動きだしたのは、警察への慢性的で普遍的な不満があったからだけではない。今年2月にジョージア州で白人の元警官がジョギング中の黒人男性を車で追い掛け、射殺。3月にはケンタッキー州で、黒人女性が自宅で寝ているところに警官が玄関ドアを破壊して侵入し、射殺──などと、同種の事件が最近相次いでいた。怒りがちょうど高まっていたときに事件が起きた。このタイミングが、3つ目の要因。

差別主義者のセリフで
タイミングとしては、新型コロナ危機と重なったのも大きい。単純に、感染症への不安や巣ごもり生活の疲れの影響もある。4000万人もの新規失業者がいて、デモに参加する時間的余裕のある人が増えたこともある。

だが、それだけではない。昔から黒人の失業率は白人の倍ぐらいで、貧困率も倍以上。白人家庭に比べて、黒人家庭の平均資産額は10分の1ほどだ。サービス業や肉体労働など、テレワークが不可能な仕事に従事する黒人の割合は高く、外出制限が発令されたときに解雇されても「つなぎ」の貯金がない人が非常に多い。

さらに、黒人は交通関連やゴミ収集など感染拡大・外出制限中にも休むことができない「必要不可欠な部門」に従事している割合が白人より高い。特に、医療や介護に従事している割合は50%も高い。その分、感染する確率も高い。しかし、白人に比べて保険加入率が低く、受けられる医療の質が劣る傾向にある。故に、感染した場合の結果もひどくなる。黒人のコロナによる死亡率は白人の2.4倍だ。実は、フロイドもコロナに感染していたことが解剖で分かった。死因はコロナウイルスではなく警官の膝だが。

最後の要因は現職の大統領。ドナルド・トランプはオバマ政権が始めた警察の監視制度や黒人コミュニティーとの関係改善策を廃止したり、コロナ対策を怠ったりして、3つ目の要因に間接的に関わっているのは確か。だが、それよりも事件後の対応がさらに状況を悪化させたと思われる。

トランプも最初は「悲劇的な事件」への捜査を呼び掛けたり、遺族へ理解を示したりしていたが、すぐ強硬姿勢に転じた。まず「When the looting starts, the shooting starts. (略奪が始まると銃撃も始まる)」とツイートした。韻を踏んだキャッチーな表現だが、トランプのオリジナルではない。これは1960年代に、マイアミで暴力的な手段をもって公民権運動に対応した、悪名高い保安官の口癖だった。大統領が「撃つぞ」と威嚇した上で、差別主義者のセリフをパクってもいるのだ。

同様に、ホワイトハウスでの会見でトランプは「法と秩序の大統領だ」と自ら名乗ったが、「法と秩序」も黒人にとっては嫌な歴史を持つ。

この表現は1960年代の公民権運動中にリチャード・ニクソン大統領が、1980年代の麻薬戦争中にロナルド・レーガン大統領が用いたもの。どちらも黒人を厳しく取り締まることを意味し、そこから生まれた司法制度の「強化」が前述の逮捕率や投獄率などに見られる人種間の「司法格差」を著しく助長したと言われている。

トランプが芸能界の先輩レーガンと弾劾騒動の先輩ニクソンにあやかりたいのは分かるが、黒人と警察の関係改善を目指すときには絶対に使ってはいけない表現だ。

「秩序」を取り戻すために、トランプは「何千人もの重武装した兵士や軍人、警官を派遣する」と、米軍を投入する意向を示した。自国軍の銃口を国民に向けさせるのは、極めて異例なこと。これは抗議デモの参加者だけではなく、軍関係者からも反発を呼んだ。

国防長官も反対意見を示し、元統合参謀本部議長は「アメリカは戦場ではない。国民は敵ではない」とツイートした。そのとおりだが、「法に従う全市民の権利を守る」という大統領のミッションに賛同する人もいる。ちなみに、守りたい「権利」としてトランプが挙げたのは、今回のデモに全く関係ない「憲法修正第2条の権利」、つまり銃を持つ権利のみ。
国民を分断させ再選?
今こそ最も重要とされる、言論の自由、平穏に集会する権利や政府に請願する権利を保障する修正第1条には、トランプは言及しなかった。「平穏にデモをする人の味方だ」と言い張ったが、その直後、ホワイトハウスの目の前の広場で平穏にデモをしていた人々に催涙ガスを打ち込み、退散してもらった。なぜならトランプは広場を渡り、近くの教会に行きたかったからだ。

まあ、こんなときは誰もが祈りたくなる。しかし、トランプの目的は平和祈願ではなく......写真撮影。手に聖書を持ち、教会の前に立っただけ。記者に「それはあなたの聖書?」と聞かれたトランプは「これは聖書だ」と、「ジス・イズ・ア・ペン」方式で、事の無意味さを表した。

銃好き、軍好き、聖書好きな大統領のパフォーマンスに喜ぶ国民は何人かいるかもしれないが、必死に司法制度の改善を呼び掛ける国民も、必死に街を守ろうとする地方政府も、必死に平和を取り戻そうとする双方の交渉人もさらに怒っているはず。リーダーがいないままでは融和も結束もできそうにないが、それもトランプの狙いかもしれない。

ジェームズ・マティス前国防長官はアトランティック誌への寄稿で、トランプは「国民を団結させようとしない。そんなふりさえしない。むしろ私たちを分断させようとしている」と抗議をつづった。トランプは前回の大統領選で国民を分断させて当選した。今回も一部の国民だけの支持を固め、再選につなげようとしているように見える。もし、投票日までにこの炎が鎮火したとしても、当選した日にはまた発火する気がするけど。

アメリカの街はいま燃え続けている。社会、経済、医療分野で普段から不平等な立場に置かれた上、コロナ危機で不公平な大打撃を受ける。小さなウイルスから大きな軍隊までさまざまな脅威にさらされ、日頃から警察に殺されても、政府は味方にならない。そう感じる黒人が爆発したくなる気持ちは分かる。それに共鳴する他の人種の大勢の仲間の気持ちも。理由もなく燃えているわけではない。もちろん過去には、暴動が警察の監査強化、司法制度改正などにつながったこともあるが、それでも放火、略奪、暴力などは許されるものではない。それははっきり言っておこう。

でも、暴動に目を奪われてはいけない。大事なのはこの大炎上を起こした制度、機関や社会自体を変えること。そして、火に油を注ぐ大統領を代えることだ。

「アメリカの黒人差別反対デモが続く8つの具体的な原因」

2020年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はアメリカの黒人差別反対デモが続く8つの原因を具体的に分かり易くご紹介したいとおもいます。
原因を数日いろいろ調べていましら次の記事が明快に原因を具体的に説明しているのです。
『アメリカの「反人種差別デモ」がこれまでのデモとまったく違う理由』
(https://news.yahoo.co.jp/articles/566ab4d2b43017b54af46c584e8d1424231883c5?page=1 )
これは非常に長い記事なので整理し短くし以下に箇条書きにしてご紹介いたします。
ミネソタ州ミネアポリスで白人警官に膝で首を押さ殺された黒人ジョージ・フロイドの事件に続いて、最近またアトランタ市で黒人が警官にピストルで撃たれ死にました。
全米、そして全世界で黒人に対する警官の暴力と人種差別に反対する抗議運動デモが大規模に続いています。
このデモがこれまでと何が違うのでしょうか。そしてこのデモの続く原因はどこにあるのでしょうか? 以下に箇条書きにしてご紹介いたします。
(1)「ブラック・ライブス・マター」という組織と社会運動
 ブラック・ライブス・マター(黒人の命は重要だ)は2013年、黒人に対する警官の暴力に抗議する運動として始まった。スローガンとして使われるが組織の名前でもある。始めたのはアリシア・ガルザ、パトリス・カラーズ、オパール・トメティの3人の黒人女性たちだ。
 全米に30以上の支部を持ち、他の人権団体などとゆるやかに繋がりながら粘り強く人権擁護運動を続けてきた。特にリーダーというものを置かず、目標と方法論のみを共有しそれぞれの支部が独自に活動しているが、今回のようにソーシャルメディアを通じて数千人、数万人を動員することが可能だ。これは根が深い一般市民による下からの改革なのだ。そう簡単には終わる筈画が無いのは当然だ。

(2)8分46秒の殺人の実況動画の衝撃。
ジョージ・フロイド事件がこれまでと非常に違ったのは、8分46秒の殺人の模様全てが動画に収められ、全米の人がそれを目の当たりにしたことだ。その恐ろしさに人々は震え上がった。この衝撃は簡単に忘れられない。上院議員や下院議員画が跪いて8分46秒の黙祷を捧げた映像が全米に流れ一層強い印象を与えている。
アメリカ人は黒人差別に反対のレベラル派と賛成の保守派に大別されるが、今回の黒人差別に反対のデモはかなり保守派の人々も巻き込んでいる。

(3)新型コロナウイルスによるパンデミックの最中だった
 今、多くのアメリカ人がコロナの恐怖の中で生きている。多くが失業し、これまでの全てが崩れ落ちて混乱している。それが多くの人たちへ命の大切さを感じさせている。
そして新型コロナウイルスによるパンデミックにへのトランプ政権の対応に白人も、黒人も不満を感じている。
だからコロナ禍でずっと家にいた人たちが、命のリスクを負ってでもデモに参加すべきだと感じているのだ。
白人含め多様な人種が集まっている。これは黒人だけの問題ではないと皆がつ自覚しているのだ。

4)白人達も怒っている
好きか嫌いかは別として白人には特権がある。貧乏だろうが苦しんでいようがこの社会で白人というだけで優遇される。肌の色のおかげで黒人が持っているような不安を抱えて生きる必要はない。それがまさに特権だ。もし全ての命に価値があるなら、なぜ黒人が殺され、移民が迫害され、白人以外にはないチャンスを得ることができるのか? 
こんな思いがリベラル派と保守派に広がっているのである。

(5)多くの有名人から大企業までがこぞってデモに賛同している
 今回注目すべきもう一つは、多くの有名人から大企業までがこぞって活動に賛同していることだ。
ビヨンセやJay Zなどの黒人アーティストらは以前からブラック・ライブス・マター運動に賛同してきたが、しかし今回は有名人たちも一般人と同様、こみ上げる思いをストレートにぶつけている。
自ら抗議デモに参加し、関連団体への寄付を盛んに呼びかけるアリアナ・グランデ。
トランプ大統領の対応を痛烈に批判するテイラー・スイフト。警察暴力の犠牲になった黒人の家族に約2億円を寄付したカニエ・ウェスト。
そして運動への1億円の寄付を表明した韓国のグループ・BTSなどなど数多くのアーティストが運動に参加していて、若者への影響は計り知れない。

(6)トランプ大統領の発言が火に油を注いでいる。
 今回の抗議運動の目的は、人種差別的な政治家を選挙で落選させるのが目標なのだ。そのターゲットは大統領や上下院議員のみならず、市会議員や地方検事も含まれる。制度的人種差別をなくすには、それを動かす政治から変えなければならないという考え方だ。
ツイッターで8600万人のフォロワーを持つテイラー・スイフトは今回の件で「白人至上主義者と人種差別を煽り続けた上に、今度はデモに対し力による制圧を奨励するあなた、トランプ大統領を11月の選挙では絶対に落選させる」とコメントし、これまでのツイートで最大の200万以上の「いいね」がついた。
 同じく、この春トランプに批判的な発言をしたセリナ・ゴメス(インスタのフォロワー数は約1億8000万人)は、自身のポストでブラック・リーダーたちを紹介している。特に若い有権者への影響力を自ら知る有名人たちの動きが、11月の大統領選にどんな影響を与えるのかも注目される。

(7)企業も行動しなければ“差別容認”と思われる
 6月2日、人種差別を考える啓発運動「ブラックアウト・チューズデー」が開催された。真っ黒に塗りつぶされたソーシャルメディアのポストがあふれたことを覚えている人も多いと思うが、実はこれを発案したのはレコード会社などエンタメ業界だった。彼らがアップルやアマゾン、フェイスブックといった企業と共に、ブラック・ライブス・マター運動への賛同を表明したのだ。
コカ・コーラ、マクドナルド、ナイキのほか、医薬品大手のMerckやファッションブランドのコーチ、エンタメ業界ではMTV、Netflixなども次々に声明を出し、運動への協力を表明している。
そこには企業としての思惑ももちろんある。運動の中心になっている若い世代は、すでにアメリカの消費人口のほぼ半分を占めている。そして特に若い世代の半分近くは白人以外の有色人種でもある。こうした消費者に対応していかなければならないからだ。

(8)ブラック・ライブス・マター運動の最終目標は世界からあらゆる人種差別をなくす事だ

ブラック・ライブス・マター運動の最終目標は、世界からあらゆる人種差別をなくす事だ。そして運動を支えるのは、中高年層と比べて多人種の人々だ。若い世代の存在が大きい。彼らにとって人種差別はもはや他人事ではなく、肌の色を越えて多様な人間が共存する未来を見ている。現に運動は国境を越えて広がり、カナダのトルドー首相もデモに参加するなど、グローバルな人権運動へと移行しつつある。東京の渋谷での黒人に対する警察暴力への抗議デモも報道されている。

あまり長くなるのでここで一応終わりとします。

今日の挿絵代わりの写真は石楠花の写真をお送りします。
写真の出典は、https://horti.jp/2152 です。「花木の王様」と呼ばれるシャクナゲは、咲いている花姿が美しく、低木で育てやすいことから、庭木として人気があります。特に近年は、ヤクシマシャクナゲをベースとした小型品種がたくさん作られています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






「夫婦の間でお互いの人権を尊重すれば夫婦円満になる」

2020年06月15日 | 日記・エッセイ・コラム
あなたの奥様はあなたの人権を大切にしてくれますか?あなたは奥様の人権を尊重していいますか?お互いに人権を尊重すれば夫婦円満になります。読めば、もっともっとあなたの夫婦仲が良くなります。
ところで、人権とは何でしょうか?あなたは明快に説明出来るでしょうか?
そこで、今日は「人権」という抽象的な概念を具体的に考えてみようと思います。

今日の記事は次の3つの部分から成り立っています。
1)夫婦の間でお互いの人権を尊重すれば夫婦円満になる。
2)人権に対する考え方はアジアと西洋では違う。
3)1961年に始まったアムネスティの人権の考え方の普遍的重要性を強調したい。

1)夫婦の間でお互いの人権を尊重すれば夫婦円満になる。
よく人権は「人間が人間らしく生きる権利で全ての人間が持っている権利」と言われています。この言い方は抽象的で意味が分かりません。
そこで夫婦が人間らしく生きる権利を次のように具体的に書いてみます。
(1)生きるために必要な最低の衣食住を夫婦が獲得する権利。(個人の財産権も含む)
(2)政治家の投票の場合、夫婦が別々に自由に選べる権利。
(3)一般的に政府による検閲が無く新聞やテレビが自由に政治的発言をする権利。
(4)デモや集会に、夫婦が別々に自由に参加しても良い権利。
(5)夫婦が別々に職業を自由に選べる権利。
(6)外国旅行を夫婦が別々に自由にして良い権利。
(7)一般的に移住を自由に選べる権利。
(8)夫婦関係をつくる場合、同性婚も含めて結婚相手を自由に選べる権利。
(9)どんな宗教でも夫婦が別々に自由に選べる権利。
(10)夫婦が別々に自由に宗教的戒律に従わない権利。
(11)お葬式や墓の形式を夫婦が別々に自由に選べる権利。
(12)その他いろいろな個人の権利を夫婦が別々に自由にする権利。
この様に具体的に書き出してみると人権にはいろいろな種類があって人権と纏めて議論することの間違いが明快に分かります。

2)人権に対する考え方はアジアと西洋では違う。
ここで人権問題を夫婦の人権から切り離して、人間個人の人権の問題として深く考えてみたいと思います。
すると人権に対する考え方はアジアと西洋では違うのです。
この違いを宣言したのが1993年の「バンコク宣言」です。
(https://www.hurights.or.jp/japan/learn/q-and-a/2010/03/post-10.html )
 1993年、人権の普遍性に真っ向から対立する主張が起こりました。冷戦後、はじめて開催される「世界人権会議」の準備のため、アジアで開かれた地域会合で、いくつかの国の政府代表者が「アジアには欧米とは異なる人権の考えがある」と強力に主張したのです。
その結果、人権とは相対的なもので、アジアでは社会権の実現が優先され、個人より集団の発展の権利が優先されるべきである。人権は国内問題であるから外部の介入は許されるべきではないという主張がなされたのです。これが盛り込まれたのが、「バンコク宣言」です。
これらが「アジア的人権論」と呼ばれる考え方です。

この「アジア的人権論」が出来た原因には次の2つの深い理由があるのです。
(1)発展途上のアジア諸国では欧米人の考える人権では内戦が起き餓死者が多くなるという切実な理由。
(2)欧米人の考える人権はイスラム教や仏教やヒンズー教に違反している。
例えばお釈迦さまはこの世の全ては空なのだから私欲を捨てて悟りの境地へ入れと言いました。私欲を満足させるような人権は捨てるべきなのです。
「バンコク宣言」はアジア人の叫びなのです。
しかし「アジア的人権論」には危険性もあります。例えばこれを盾にして中国はチベット人やウイグル人の人権を蹂躙しています。

3)アムネスティの人権の考え方の普遍的重要性を強調したい。
私は最後に1961年に始まったアムネスティの人権の考え方の普遍的重要性を強調したいと思います。
アムネスティ・インターナショナルは世界中で起きている人権侵害の存在を知り、「苦しんでいる人を助けたい」と願う人びとが集まり結成されたのです。
誰もが紛争や貧困、拷問、差別などの人権侵害で苦しむことのない世界の実現を目指しているのです。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/アムネスティ・インターナショナル )
独裁政権下のポルトガルで学生2人がカフェで「自由のために!」と、乾杯したために逮捕されたことに対して、1961年5月28日の新聞に英国の弁護士、ピーター・ベネンソンが記事を投稿したことをきっかけに多数の人々の支持を得て発足したのです。
その組織は国際連合にならって編成されており事務総長が組織全体の総責任者となっています。
1976年にエラスムス賞を受賞し、1977年にはノーベル平和賞を受賞しました。また翌年の1978年には国連人権賞も受賞しています。
アムネスティを私が讃える理由はその活動が一切の政治権力と関係なく「苦しんでいる人を助けたい」という願で行っているからです。
この政治的中立性故に、幾つかの国々の政治権力者がアムネスティを恐れています。

話が散漫になりましたので、今日の記事の主張を箇条書きにします。
1)夫婦の間でお互いの人権を尊重すれば夫婦円満になる。
2)人権に対する考え方はアジアと西洋では違う。
3)1961年に始まったアムネスティの人権の考え方の普遍的重要性を強調したい。

今日の挿し絵代わりの写真は桐の花です。写真の出典は、https://kurashi-no.jp/I0020239 です。
桐の 原産地は中国です。花言葉は「高尚」です。花言葉は中国の神話から来ています。伝説上の「鳳凰」は桐の木にだけ止まるのです。ですから桐は神聖な木です。このことから花言葉は「高尚」なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






「今日のキリストの聖体の主日のミサを動画配信で与りました」

2020年06月14日 | 日記
今日はキリストの聖体の主日です。ミサを動画配信であずかりました。
日本の全てのカトリック教会はコロナ感染予防のためにミサを止めています。
しかし、https://www.youtube.com/watch?v=EfbG48qwjIo で東京大司教区の本部の関口教会の主日のミサの動画配信をしています。
今日も自宅で10時からの聖霊降臨のミサに動画配信で与りました。この動画配信のミサには日本中のカトリック信者のうち2万人以上が参加し祈っています。
関口教会の写真と今日のミサの写真2枚をお送りいたします。

1番目の写真は函館のカトリック元町教会です。以前に自分で撮った写真です。

2番目の写真は今日のキリストの聖体の主日のミサです。

3番目の写真も今日のキリストの聖体の主日のミサです。

「黒人差別反対のデモと自分が差別しない態度」

2020年06月12日 | 日記・エッセイ・コラム
この6月8日に、「黒人を怖がる日本人と厳しい黒人差別の日本社会」という記事を掲載しました。
そうしたら黒人が怖いというコメントを沢山貰いました。日本人は道で黒人と出会ったら内心怖がる人が多いのです。目を伏せて恐る恐る通リ過ぎます。日本人は黒人を怖がり、嫌い、黒人を日本社会に受け入れないのです。ですからこそ、日本には黒人が居ないのです。黒人の観光客も少ないのです。
日本は間違いなく厳しい黒人差別の国なのです。
これは恥ずべき日本の文化です。日本人はこの事実をまず認識して考え方を変えなければなりません。黒人へ対する態度を変えるべきです。
このように書くと必ず、「私は絶対に黒人差別をしていません。それよりも中国人のチベット人やウイグル人の差別や弾圧を非難すべきだ」というコメントを頂きます。
こういうコメントは日本が黒人差別の国だと正視しないで、問題を中国人のチベット人弾圧へすり替える態度なのです。卑怯な態度なのです。困ったものです。
それではどうすれば良いのでしょうか?
正解は自分自身の考え方を変えることです。黒人へ対する態度を変えることです。
私自身は以下のように変えようと努力しています。
(1)「全ての人種には絶対に優劣は無い」という呪文を繰り返し小声で言う。
(2)「全ての人種は人間として自分の家族を同じように愛している」という呪文を繰り返し小声で言う。
(3)道で会った黒人を怖がらず優しい視線を送る。
(4)電車の中で黒人の隣の席が空いていたら躊躇せず座る。
(5)エレベーターで黒人と偶然一緒になったら「ハロー」と挨拶をする。
(6)観光地で黒人を見かけたら「日本に来てくれて有難う」と話しかけ短い会話を楽しむ。

一般に人種差別はどこの国にもあります。心の中の差別は消し難いものです。しかし自分自身の態度や行動は変えることが出来ます。いや変えるべきです。
それにしても忘れられない思い出があります。あれは1960年から1962年のオハイオ州コロンバス市のことでした。
貧乏な留学生でした。妻と相談して家賃の安い黒人街へ引っ越そうとしました。空き家も見に行きました。黒人の家主が親切に家の中を案内してくれます。その後、大学で親友の白人の同級生に黒人街への引っ越しのことを相談しました。
そしたら彼が大反対するのです。絶対に黒人街へ引っ越してはいけないと言うのです。
そして彼は理由を具体的に縷々と説明したのです。彼の言う理由と説明はここに書きません。彼と黒人の名誉のために書けません。
帰宅後この話を妻にしました。妻は静かに、「貴方が引っ越したいならついて行きます」と言うのです。
引っ越しは止めました。止めて良かったか悪かったかを何時までも考えています。
それ以来、私は「全ての人種は人間として自分の家族を同じように愛している」という呪文を時々小声で言っています。

今日は黒人差別反対のデモに関連して自分自身がどのようにして人種差別を克服しようとしているか書いてみました。
今日の挿絵代わりの写真は日本最大級のユリの花畑の写真です。宮城県、一迫(いちはさま)ゆり園の大群落です。
私どもが2008年の初夏に訪れ、撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)









「南くりこま高原一迫ゆり園」
https://www.miyagi-kankou.or.jp/kakikomi/detail.php?id=1408
小高い丘の起伏をそのまま生かした広さ30,000㎡の「南くりこま高原一迫ゆり園」には、スカシユリ系、オリエンタル系、テッポウユリ系など世界中のユリ200品種15万株、ヘメロカリス20品種2万株が咲き誇るます。品種数では日本最大級と言われています。 
◆開催期間/平成30年6月22日(金)~7月25日(水)
 ※開花状況により早期閉園の可能性あり
◆場  所/南くりこま高原一迫ゆり園
◆時  間/8:30~17:00
◆入 園 料 /有料:大人670円、小~高校生310円
◆交  通/東北自動車道・築館ICより車で約15分。
JR仙台駅・旧さくら野仙台店前(32番)より東日本急行バス「一迫総合支所前」行きにて終点下車、徒歩約15分。
JR東北新幹線・くりこま高原駅下車、タクシー約25分。
◆駐 車 場 /無料駐車場(約300台)あり

「美しい富士五湖めぐりの小さな旅へご案内しましょう」

2020年06月11日 | 日記・エッセイ・コラム
富士五湖は北の外輪山の内側に東西に連なる美しい高原の湖です。東から西へと山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖と5つ並んでいます。いずれも懐かしい曽遊の地です。
昨日、思い立ってこの富士五湖めぐりの小さな旅に行きました。
今日は昨日撮った風景写真に従って皆様を富士五湖めぐりの旅へご案内します。写真は山中湖から順に本栖湖へと変わって行きます。

1番目の写真は富士五湖から見上げた富士山です。昨日の東京は晴天でしたが富士五湖地方はあいにくの曇りで五合目以上は厚い雲に覆われていました。

2番目の写真は山中湖とその向こうにある筈の富士山です。蒸し暑い東京とは違い爽やかな高原の風が吹いていました。

3番目の写真は山中湖から河口湖へ向かう道です。忍野八海に南に広がる大きな森の中の道です。昨日は清冽な雪解け水が豊かに湧き出ている忍野八海を思い出しながらこの森の中の道をゆっくり走りました。

4番目の写真は河口湖の西岸からの風景です。富士山の裾野だけが写っています。

5番目の写真は何十年も岸辺に舫ってあるヨットです。昨日も何時ものようにありました。よく見ると最近も帆走したようにメインブームにカバーとロープが絡んでいます。ここ河口湖に来る度に、富士山を見ながら帆走する素晴らしさを想像して気分が良くなります。家内がヨットの傍まで下りて行って写真を撮って来ました。

6番目の写真は河口湖から西湖へ上がる途中にあるトンネルです。このトンネルを抜けると西湖が眼前に広がり別世界になります。

7番目の写真は西湖です。ここはバスの便がとても不便で寂しい湖です。人々が車を水際まで下ろして遊んでいます。私もここに来るたびに美しい西湖の水際を散歩したものです。

8番目の写真は青木ヶ原樹海の中の道です。西湖から精進湖へ行くにはこの広大な青木ヶ原樹海を抜けて行きます。深い、そして美しい樹海です。

9番目の写真は精進湖でです。ここには昭和天皇も泊まった山田屋という古い旅館があります。まだ子供が小さかった頃に家族と泊った懐かしい旅館です。少し見すぼらしくなってしまいましたが現在も営業しています。

10番目の写真は精進湖のすぐ隣にある本栖湖です。ここではドイツから持ち帰ったゴムボートを浮かべ子供たちと遊んだ湖です。茫々50年くらい前の思い出です。

帰りに車が富士五湖を離れるにしたがって美しい青空になりました。東京は昨日一日中晴天だったようです。

さて美しい富士五湖めぐりの小さな旅はここで終わりです。お付き合い下さった皆様に感謝いたします。ありがとうございました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「はるばる潮来から引っ越して来たアヤメが庭に咲く」

2020年06月10日 | 写真
はるばる潮来から引っ越して来たアヤメが今年も庭に咲きました。
2008年の6月17日に茨木県の潮来のアヤメ祭りに行きました。お祭りなので、あやめの咲いている湿地の周りには露天が沢山出ています。いろいろな土産物を売っていましたが、根のついたアヤメの株も売っています。買って来て庭に植えたら翌年、見事な花が咲きました。それ以来、12年になりますが、毎年、毎年、我が家の庭に潮来のアヤメが咲いています。
今朝6時に起きて庭に咲いたアヤメの写真をゆっくり撮りました。
その後、長年使っているコーヒー淹れ機に水とコーヒーの粉を入れスウィッチを入れました。後は自動でドリップ式にコーヒーを淹れてくれます。コーヒーの良い香りがしている頃、家内が、「お早うございます」と言いながら起きてきました。
コーヒーとトーストと目玉焼き、サラダの朝食です。こうして老後の静かな一日が始まりました。

アヤメの花の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「701年以来の律令国家の地図を楽しむ、あなたの住んでいる国は?」

2020年06月09日 | 旅行記
毎日ブログ、https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama に記事を掲載しています。そのブログの編集ページには毎日のアクセス数と過去6時間にどの記事に何人の人がアクセスしたかなどの情報が出ています。昨日の総アクセス数は1160人で、総数293万のブログ中で392位でした。
そして過去6時間のアクセス数で多い記事は1位がトップ記事の「地方史発掘の趣味、埼玉県三芳町の農業遺産」でした。
2位は2017年08月21日に掲載した「701年以来の律令国家の地図を楽しむ、あなたの住んでいる国は?」でした。続いて10位までの記事が順位に従って出ています。
ブログの面白い点は良い記事を書くと過去の記事でも多くの方が読んでくださることです。
昨日2位になった「701年以来の律令国家の地図を楽しむ、・・・」という記事は3年前の記事ですが毎日のようにトップ10に入っています。
ご興味のある方々の多い記事です。
そこで今日はこの記事を少し読み易く編集して再度お送りすることにしました。

「701年以来の律令国家の地図を楽しむ、あなたの住んでいる国は?」(2017年08月21日掲載のコラム)
律令国家を学校で習ったことを憶えていらっしゃいますか?
律令国家の制定は大化の改新(645年)に始まり、その確定は大宝律令(701年)で完成したと考えられています。
この律令国家は最近では、「令制国」と書くのが普通です。
この令制国のそれぞれの地方の名前は明治維新までの1166年間(1867年から701年を引いた年数)日本人が使って来た名前なのです。そして現在も使われることが多いのです。

今日はこの長い間、日本人が馴れ親しんで来た律令国家、すなはち「令制国」の全国地図を見て楽しみたいと思います。

1番目の写真は全国の令制国(律令国家)の地図です。出典は、https://www.start-point.net/syakai/ryouseikoku_list/ です。
この地図こそ奈良時代から明治初期まで、1166年間も日本の地理的区分の基本的な地図だったのです。
現在の日本地図は明治維新の廃藩置県のよる新しい1都1道、2府、43県に分かれた地図になっています。
しかし江戸時代以前の歴史を少しでも考える場合には律令国の名前と場所を考える必要があるのです。それだけではありません。現在の日本の地方文化を語るときにも生きた言葉としてよく使われているのです。
皆様は阿波踊りや讃岐ウドンという言葉をご存知でしょう。美濃紙や越後米、丹波栗なども。出羽三山という山々や飛騨山脈もあります。伊予ミカンや伊賀忍者という名前もあります。武蔵野や相模原などの地名もあります。古来の井戸掘り方法に上総(かずさ)掘りというものもあります。

このように1100年以上も続いた律令国家の名前とそれぞれの地方の特徴は現在の日本でも大変重要なのです。
皆様が現在住んでいらっしゃる場所は律令国家の名前で言うと何という所なのでしょう?
その首都の国府や役所(国衙)は何処にあるのでしょうか? その国府や国衙(こくが)跡をご覧になったことがありますでしょうか?
そんなことを考えていると、自分が「いにしえの世界」に帰って遊んでいるような気分になります。
そこで私の住んでいる場所をご紹介したいと思います。

ここは武蔵国です。奈良や京都から東山道(中山道)を東に歩き、現在の埼玉県で脇道の武蔵路に曲がり、南下した所です。
そこ東京都府中市に、武蔵国の国府と国衙があったのです。
一昨日、この府中市の国衙跡の再現展示物の写真を撮ってきたので、その写真でご説明いたします。

2番目の写真は府中市の国衙の再現展示物の説明板の写真です。広さ、200mX300mの広場に太い柱を持った立派な役所の建物(国衙)があったと説明してあります。場所は現在の大國魂神社の境内に隣接した東側です。

3番目の写真は国衙の建物の柱と展示館の写真です。展示館には発掘品の一部が公開されています。国衙からの出土品の大部分は、府中郷土の森博物館に展示されてます。
国衙の建物の柱は朽ちてしまっていたので高さが分かりません。しかしその太さと本数から相当大きな役所の建物があったことが推定されています。

4番目の写真は国衙に隣接した大國魂神社の中門と拝殿の屋根の写真です。

5番目の写真は拝殿の写真です。全く余談ながら、ここで孫の七五三のお祝いをしました。

大國魂神社の写真を示したのはこの神社が古墳時代から南関東地方の重要な神社だったからです。府中市には大熊神社古墳もあり古代から重要な集落だったのです。その理由で大和朝廷がここに国府を置き、国衙を建てたのです。そして北に少し距離を置き国分寺や国分尼寺も作ったのです。
そしてこの府中市は江戸時代にも甲州街道の重要な宿場として繁栄していた所だったのです。
ところが明治時代に鉄道の中央線が府中を通らなかったので往時の隆盛ぶりが消えたのです。
少し長くなったので今日はここで一旦止めます。詳しくは参考資料をご覧下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================================
(1)令制国一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E5%88%B6%E5%9B%BD%E4%B8%80%E8%A6%A7
(2)明治初期までの令制国の配置と名前
令制国一覧(りょうせいこくいちらん)は、7世紀後半からの日本国内の地方行政区分、国(令制国)の一覧である。
令制国は、奈良時代、平安時代から江戸時代の長期にわたってほとんど変更がなかった。
以下の一覧では、五畿七道に従って配列し、廃止・消滅したものや一時的に存在した諸国はその中に字下げして付ける。この一覧が、すべての国を列挙するためのもので、多くの改廃を記していないことに注意されたい。それらの詳細は、各国の項目に記す。
日本全体を総称する際には、「日本六十余州」などと表現することもあった。

1)五畿

畿内
1、山城国 やましろ(山州、城州、雍州)
2、大和国 やまと(和州)
3、河内国 かわち/かはち(河州)
4、和泉国 いずみ/いづみ(泉州)
5、摂津国 せっつ(摂州)

2)七道

1、東海道

伊賀国 いが(伊州)
伊勢国 いせ(勢州)
志摩国 しま(志州) - 8世紀初めまでに伊勢国より分立。
尾張国 おわり/をはり(尾州)
三河国 みかわ/みかは(三州、参州)
遠江国 とおとうみ/とほたふみ(遠州)
駿河国 するが(駿州)
伊豆国 いず/いづ(豆州) - 680年に駿河国より分立。
甲斐国 かい/かひ(甲州)
相模国 さがみ(相州)
武蔵国 むさし(武州) - 771年、東山道から東海道に所属変更。
安房国 あわ/あは(房州、安州) - 718年に上総国より分立。741年に上総国に併合されるも757年再分立。
上総国 かずさ/かづさ(総州)
下総国 しもうさ/しもふさ(総州)
常陸国 ひたち(常州)

2、東山道

近江国 おうみ/あふみ(江州・近州)
美濃国 みの(濃州)
飛騨国 ひだ(飛州)
信濃国 しなの(信州)
諏方国 すわ/すは - 721年に信濃国より分立。731年に再統合。
上野国 こうずけ/かうづけ(上州)
下野国 しもつけ(野州)
陸奥国 みちのおく/みちのく/むつ(奥州/陸州) - 陸奥国は7世紀に常陸国より分立。
石背国 いわせ/いはせ - 718年に陸奥国より分立。数年後に再統合。
石城国 いわき/いはき - 718年に陸奥国より分立。数年後に再統合。
出羽国 でわ/では(羽州;山形県、秋田県の一部) - 712年(和銅5年)に越後国出羽郡を割いて出羽国を建てる。
陸奥国 (1869-) りくおう/むつ - 陸前・陸中等を分割後の部分。
陸前国 りくぜん - 1869年に陸奥国より分立。
陸中国 りくちゅう/りくちゆう - 1869年に陸奥国より分立。
岩代国 いわしろ/いはしろ(岩州) - 1869年に陸奥国より分立。
磐城国 いわき/いはき(磐州) - 1869年に陸奥国より分立。
羽前国 うぜん - 1869年に出羽国より分立、現山形県に相当。
羽後国 うご - 1869年に出羽国より分立、現秋田県に相当。

3、北陸道

若狭国 わかさ(若州)
越前国 えちぜん/ゑちぜん(越州)
加賀国 かが(加州) - 823年に越前国より分立。
能登国 のと(能州) - 718年に越前国より分立。741年に越中国に併合されるも、757年に再分立。
越中国 えっちゅう/ゑつちゆう(越州)
越後国 えちご/ゑちご(越州)
佐渡国 さど(佐州、渡州) - 743年に越後国に併合されるも、752年に再分立。

4、山陰道

丹波国 たんば(丹州)
丹後国 たんご(丹州) - 713年に丹波国より分立。
但馬国 たじま/たぢま(但州)
因幡国 いなば(因州)
伯耆国 ほうき/はうき(伯州)
出雲国 いずも/いづも(雲州)
石見国 いわみ/いはみ(石州)
隠岐国 おき(隠州)

5、山陽道

播磨国 はりま(播州)
美作国 みまさか(作州) - 713年に備前国より分立。
備前国 びぜん(備州)
備中国 びっちゅう/びつちゆう(備州)
備後国 びんご(備州)
安芸国 あき(芸州)
周防国 すおう/すはう(防州、周州)
長門国 ながと(長州)

6、南海道

紀伊国 きい(紀州)
淡路国 あわじ/あはぢ(淡州)
阿波国 あわ/あは(阿州)
讃岐国 さぬき(讃州)
伊予国 いよ(予州)
土佐国 とさ(土州)

7、西海道

筑前国 ちくぜん(筑州)
筑後国 ちくご(筑州)
豊前国 ぶぜん(豊州)
豊後国 ぶんご(豊州)
肥前国 ひぜん(肥州)
値嘉島 ちか - 876年に肥前国より分立。数年後に再編入。 現在の長崎県平戸島及び江島、平島を除く五島列島及び附属島嶼。
肥後国 ひご(肥州)
日向国 ひゅうが/ひうが(日州、向州)
大隅国 おおすみ/おほすみ(隅州) - 713年に日向国より分立。
多禰国 たね - 702年に日向国より分立。824年に大隅国に併合。
薩摩国 さつま(薩州) - 702年に日向国より分立。
壱岐国 いき(壱州) - 古代は「壱岐嶋」[1][2]。
対馬国 つしま(対州) - 古代は「対馬嶋」または「対馬国」

「黒人を怖がる日本人と厳しい黒人差別の日本社会」

2020年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム
6月04日に私は、「黒人差別反対のデモが何故日本で起きないのか?」という記事を掲載しました。
その骨子です。
トランプ大統領が黒人差別反対デモの鎮圧に軍隊を使うと言ったことで黒人を支持するデモが全米とヨーロッパの主要な都市で行われています。まさしく欧米社会は広汎な黒人差別反対運動で揺れ動いているのです。しかし日本では黒人差別反対デモなどありません。
そこで黒人差別反対のデモが何故日本で起きないのかという問題を考えてみたいと思います。
その理由です。
1 白人と黒人の対立は19世紀の黒人奴隷制度の確立以来の歴史があるので、差別反対のデモなどでは解消しない。何もしないのが正しい態度だ。
2 アメリカやヨーロッパは日本とは異質の世界だから日本は黒人差別反対の騒ぎに巻きまれる必要はない。
日本人は以上のように考えているようです。
この記事に対する反響は非常にあり、ご意見も沢山頂きました。その中に、日本には黒人が居ないのだから余計なことは考えるな、デモなんかしてはいけないという趣旨のコメントがありました。
しかし私は日本人も人類のメンバーとしてアメリカの黒人差別には反対すべきだと思っていました。
そうしたら昨日大阪で次の通りデモがあったのです。

「黒人の命守れ」大阪でデモ行進 千人結集、「日本にも人種差別」、https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/582386
 米中西部ミネソタ州で起きた白人警察官による黒人男性暴行死事件への抗議が全米に広がる中、日本でも人種差別問題への関心を高めようと、さまざまな国籍や人種の約千人が7日、大阪市で「黒人の命を守れ」とデモ行進した。参加者からは「差別に抗議する声が世界に広がっている」「日本にも人種差別はあり、人ごとではない」との声が聞かれた。

写真は米国の黒人男性が白人警官の殺された事件を巡り、大阪でデモ行進する人たち。(6月7日午後)
 関西在住の米国人らが会員制交流サイト(SNS)を通じて呼び掛けた。参加者は「対岸の火事じゃない」などと英語や日本語で書いたプラカードを掲げ、中之島公園を出発。米国総領事館前の通りを含む約2キロを「人種差別反対」と声を上げながら行進した。(共同通信)
上の記事の中に「日本にも人種差別はあり、人ごとではない」と書いてあります。
その通りです。日本人は黒人を怖がり、嫌います。黒人を日本社会に受け入れないのです。ですからこそ、日本には黒人が居ないのです。黒人の観光客も少ないのです。
日本人は道で黒人と出会ったら内心怖がる人が多いのです。目を伏せて恐る恐る通リ過ぎます。日本には黒人の働き口が無いのです。これは厳しい黒人差別です。
これは以前のことですが、ニューヨークでのことです。ある日本人と同じホテルに泊まったことがありました。その人は昼間の路上で5回も黒人の強盗に会う経験をしたのです。 彼の言うことを聞くと彼は黒人が恐ろしく路上で会うと怖くなって顔が青くなるそうです。そうすると黒人は彼の首を掴んで、「金を出せ!」と言います。彼は用意しておいた50ドルを手渡し難を逃れます。
この話に驚きましたが私は一度も強盗に会ったことがありません。私は黒人が怖くないのです。路上で会ってもごく自然な態度ですれ違います。
あるときJR中央線の電車へ一人の黒人の男性が乗り込んで来ました。その男が椅子に座ると、その隣には日本人は座りません。周囲の日本人が珍しいものを見るように視線を送ります。これは冷酷な黒人差別です。
こんな国へ黒人は来ないのは当然ではないでしょうか?

今日はここまでにします。続編では自分の人種差別を自分で克服する方法を書きたいともいます。

「地方史発掘の趣味、埼玉県三芳町の農業遺産」

2020年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム
埼玉県に伊勢物語の「三芳野の里」にちなんだ三芳町があります。巨大なケヤキに覆われた美しい農村です。大きなケヤキの並木の風景が素晴らしいので何度もドライブに行く場所です。
樹木が大切にされている訳は「落ち葉の堆肥で農地改良」を江戸時代から連綿と続けられているからです。この300年にわたる「落ち葉農業」は珍しく農林水産省認定の日本農業遺産になっています。
私はこの美しい三芳町が好きになりその地方の歴史を調べています。

今日は三芳町の歴史をご紹介したいと思います。
まず昨日、三芳町に行って撮って来た写真をお送りいたします。

1番目の写真は三芳町を南北に走っている「いも街道」の並木です。三芳町は有名なサツマイモの産地です。

2番目の写真は日本農業遺産の「落ち葉農業」の説明板です。日本農業遺産は全国で15ほど認定されています。

3番目の写真は三芳町の中心に再現されている江戸時代の農家です。中に入り囲炉裏や座敷の様子を見ることが出来ます。

4番目の写真は三富の開拓300年の記念碑です。三芳町は江戸時代に三富と呼ばれていたのです。
さて三芳町は江戸時代の川越藩主の柳沢吉保によって開拓されます。
この地方は火山灰が降り積もって痩せた関東ローム層です。落ち葉を発酵させた堆肥を加えることで徐々に肥沃な農地に変えてきたものですこの土壌改良は現在も川越芋農家により続けられているのです。
関東ローム層は痩せているだけでなく、水はけが良過ぎて水田稲作がしにくいのです。しかし三芳町では薩摩芋の導入によって成功した農村です。サツマイモで有名になったのです。
3番目の写真の農家は薩摩芋で財をなした江戸時代の農家の島田家です。

さてこの三芳町はどのように開拓され出来上がった町なのでしょうか?
元禄7年(1694年)に、この土地は、幕府評定所の判断で川越藩の領地になりました。
これにより当時の川越藩主柳沢吉保は新田開発を推進し、開発が行われたのです。
開発が始まってから2年後の元禄9年(1696年)に検地が行われ、上富91屋敷、中富40屋敷、下富49屋敷の合計180屋敷の新しい村々が人工的に出来上がったのです。これが三富新田です。「富」の由来は「豊かな村になるように」との古代中国の孔子の教えに基づくものと言われています。
そして柳沢吉保は私の山小屋のある山梨県北杜市柳沢の出身で江戸幕府で老中になった人です。

5番目の写真は山梨県北杜市柳沢から見た甲斐駒です。ここに戦国時代から柳沢一族が住んでいました。こ柳沢吉保の出身地だったのです。
江戸時代は各藩が新田開発を盛んにした時代だったので全国各地に新しい農村が沢山出来ました。

その後の宝永元年(1704年)に柳沢吉保は先祖発祥の地、甲府藩15万石の藩主になるのです。そこでも新田開発に取組み大きな業績を上げたと言われています。
江戸時代の始めは1200万人いた日本人が江戸の中期には3300万人に増加したのは江戸幕府や各藩による新田開発によると考えられます。
このように江戸時代日本の近代化の準備段階として大変重要な時代だったのです。
郷土史を単に限られた地域に限定しないで全日本的な視野でつなぎ合わせると大変重要な発見が出来るのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の三位一体の主日のミサを動画配信で与りました」

2020年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は三位一体の主日です。ミサを動画配信であずかりました。
日本の全てのカトリック教会はコロナ感染予防のためにミサを止めています。
しかし、hhttps://www.youtube.com/watch?v=RIutdhnFElE で東京大司教区の本部の関口教会の主日のミサの動画配信をしています。
今日も自宅で10時からの聖霊降臨のミサに動画配信で与りました。この動画配信のミサには日本中のカトリック信者のうち2万人以上が参加し祈っています。
関口教会の写真と今日のミサの写真2枚をお送りいたします。

1番目の写真は2017年3月20日に行われた東京教区の新しい神父の司祭叙階式です。

2番目の写真は今日の三位一体の主日のミサです。

3番目の写真も今日の三位一体の主日のミサです。

「クイズです、仏教は多神教?一神教?それとも哲学?」

2020年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム
この記事は昨年の6月30日に掲載した記事ですが、ご関心のある方が多く、今でも多くの方がご覧になっています。そこで再度掲載することにいたしました。
気軽にお読み頂けるようにクイズになっています。少し考えてお楽しみ下さい。
問題は、「仏教が多神教?一神教?それとも哲学?ですか?」という問題です。

仏教が好きな方々は多いと存じます。お寺さんとはご縁がなくても、仏教そのものには興味があり好きですという方々も多いと思います。
クイズ風に軽く考えていますが、真面目に仏道の修行をしている方々を軽く考えているわけではありません。
しかし少し距離を置いて仏教のことを考えてみようとする問題提起のつもりです。

まず質問に使われている三つの言葉の言葉の定義を始めにいたします。
(1)多神教;
多くの人が一つの宗教だと考えているある宗教体系の中に数多くの神や、神と類似の超越した存在を信仰している場合に、それを多神教と定義します。
神と類似の超越した存在にはいろいろありますがお釈迦さまもその一例です。
(2)一神教;
ある宗教体系の中に唯一の神か、神と類似の超越した唯一の存在を信仰している場合に、一神教と定義します。
(3)哲学;
宇宙の全ての現象の規則性、法則性を論理的に考えた全ての考え方と定義します。
仏教は物質界は空(くう)であり、空なるものこそ物質界の本質であると言って、一つの宇宙観を提唱しているので哲学の一つと定義することも可能です。
ちなみに孟子や孔子の教えは人生訓が多くて、あまり哲学的ではないようです。

このクイズの答えのヒントとして、日野市の高幡不動の写真を示します。自分で撮って来た写真です。
高幡不動は701年に始まった古刹で、関東三大不動の一つです。弘法大師の真言宗のお寺です。
高幡不動の仏教は多神教のようです。その証拠写真を順々に示します。

1番目の写真は中心柱の下に釈迦の骨があると考えられる五重塔です。中国では石造りの塔が多いようですが、日本では木造のものになりました。

2番目の写真は本尊の不動明王像を祀った本堂の写真です。不動信仰のお堂です。

3番目の写真は本堂の中で護摩を焚いている僧侶の写真です。密教の儀式ですね。多く参拝客が僧侶の後ろで一緒に祈っていました。

4番目の写真は高幡不動の一番奥にある大日堂の写真です。大日如来信仰のお堂です。

5番目の写真は弘法大師を祀った大師堂です。
高幡不動の境内の中の人々の動きも観察して来ました。
人々は真っ先に本堂に行きお賽銭をあげます。僧侶が護摩を焚き、太鼓を鳴らし、読経している本堂の中に、20人位の人々が上がり、座って読経を聞きながら祈っていました。それはご不動様への祈りです。
それが終わると奥の大日堂に行き、大日如来さまへお賽銭を上げます。
その帰路に大師堂があるので弘法大師さまへお祈りを捧げお賽銭をあげます。
その先には、釈迦の骨がある五重塔があるのですが、多くの人は素通りして帰っていきます。
私はこの様子を観察して、嗚呼、仏教は多神教なのだと納得しました。

しかし、よくよく考えるとある人は意識的にお釈迦さまだけを拝んでいる人もいる筈です。
不動明王や大日如来や大師像を礼拝しながら、それらの向こうにお釈迦さまが見えるのです。一番重要なのはお釈迦さまだけなのです。
このような信仰の内容を持った人にとっては仏教は一神教なのです。

さて仏教は哲学であると考える人々は宗教を信じない人に多いと思います。
あるいはキリスト教の人もそのように考えているようです。

ですから結論を言えば、今日のクイズの答えは、仏教は多神教、一神教、あるいは哲学のどれも正解なのです。
そのどれかが正解だという人は、仏教に対するその人自身の信仰の仕方や内容によって決まるものと思います。

最後に私自身の答を書きますと、仏教は哲学です。しかし時々、仏教を一神教的に信じている自分があります。恥ずかしい話ですが自分はキリスト教と仏教の混淆宗教なのかも知れません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)