佛教は紀元前5世紀の中葉にお釈迦様によって作られた世界宗教です。
それがインドで2つに分かれ、上座部仏教(南伝仏教やテラワーダ仏教とも呼ばれます)と大乗仏教(北伝仏教)の二大宗派になりました。
上座部仏教はインドで紀元前4世紀頃に初期仏教から生まれ、それがスリランカに渡り、現在のようにミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムなどに普及しています。
一方、大乗仏教はインドで紀元前1世紀頃に作られ、1世紀以後に中央アジアから中国、朝鮮、台湾、日本へと伝承されました。
この関係を図に示すと1番目の図面のようになります。
1番目の写真は仏教のいろいろな宗派が何時出来て、何処へ伝ったかを示しています。この図解は東京大学仏教青年会の作った図解で、http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/05.html に掲載されています。
この図の示すように、インドでは5、6世紀頃に密教が盛んになり、それが中国を通して日本にも入って来ました。
空海が唐の青龍寺の恵果に指導を受け、真言密教として体系付けた真言宗が日本の密教の始まりになりました。
また最澄によって創始され天台宗も日本密教に分類されます。真言宗が密教専修であるのに対し、天台宗は天台・密教・戒律・禅の四宗相承である点が異なっているそうです。
それはさておき、インドでの仏教は13世紀初頭には完全に消滅してしまったのです。
それでは大乗仏教とはどのような教えなのでしょうか?
答は簡単至極です。大乗仏教の重要な経典の般若心経を理解すれば良いのです。
般若心経とはお釈迦様が弟子のシャーリプトラ(舎利子)へ向かって話したことをまとめたお経です。私自身は「般若心経」が大好きです。とても短い上にお釈迦様の教えの全てが詰まっているのです。
このお経は玄奘三蔵法師がインドから持って来て、唐の長安の大慈恩寺で漢文に翻訳したものです。そして大雅塔に全てのお経を大切に保管したのです。余談ながら私は1982年にこの大雅塔に登りました。幸な時間が流れました。
それはさておき、玄奘三蔵法師が翻訳した漢文の「般若心経」を示します。
摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神咒、是大明咒、是無上咒、是無等等咒、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多咒。即説咒曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経
(般若心経は、「大般若経」という600巻の経典(約300万文字)の内容を、わずか276文字に凝縮したものです)
この漢文の意味は次に掲載されています。
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/hannya.htm
このお経は日本人の文化の基調になりました。
大乗仏教では盧舎那仏像をはじめ抽象的な意味のあるいろいろな仏像を用いるのが特徴です。観音像、薬師像、不動王像、弘法大師像などなどいろいろな像が崇拝の対象になっています。
これとは対照的に上座部仏教ではお釈迦さまの像しかありません。
大乗仏教の特徴はヒンズー教と同じように多種類の仏像を崇拝することにあります。多神教的な信仰形態なのです。
ですから日本で神道と混淆することが容易だったのです。日本の仏教は偶像崇拝を禁じた釈迦の教とはおおいに違う仏教なのです。
今日の挿絵代わりの写真は昨日撮って来た清瀬市の圓通寺の風景です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料======================
大慈恩寺とた玄奘の経典の翻訳作業;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%85%88%E6%81%A9%E5%AF%BA
隋の大興城にあった無漏寺(一説に浄覚寺)の故地に、648年(貞観22年)、皇太子の李治が、亡母(文徳皇后)追善のために建立したのが、大慈恩寺である。その名は「慈母の恩」に由来する。
各地から、良材を集め建てられ、その規模は、子院(塔頭)10数院を擁し、建築物は総数1,897間、公度僧だけで300名という大寺であった。帰朝した玄奘は、本寺の上座となり、寺地北西の翻経院で仏典の漢訳事業に従事した。当寺での、玄奘の訳経活動は、658年(顕慶3年)までの11年に及び、合わせて40部余の経典が漢訳された。玄奘の弟子である基(窺基)は、師から相承した法相宗を宣教し、「慈恩大師」と呼ばれた。
652年(永徽3年)、大雁塔が建立される。当初は、玄奘がインド・西域から持参した仏像や経典を収蔵するための塔であった(大雁塔の項を参照)。
唐代半ば以降、大慈恩寺の境内には、大きな戯場があり、俗講や見世物が行われていた。また、牡丹の名所としても知られ、それを詠んだ多くの漢詩が知られ、藤も植えられていた。春には、寺が所有していた南にある通善坊の「杏園」で杏の花が、夏には、寺の南池で蓮の花が咲き、秋には、柿がなり、紅葉につつまれたと伝えられる。