後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「小金井公園の梅林の今日の開花の様子です」

2021年02月18日 | 写真
公園内にある梅林には、28品種・100本の梅の木が植栽され、見頃の時期には梅まつりが開催されます。今日行ってみたらかなり咲いていました。今日の梅林の開花の様子を写真で示します。
写真の出典は、https://iwalkedblog.com/?p=34854 です。









「日本の仏教を客観的に考える(2)日本の大乗仏教とは何か?」

2021年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
佛教は紀元前5世紀の中葉にお釈迦様によって作られた世界宗教です。
それがインドで2つに分かれ、上座部仏教(南伝仏教やテラワーダ仏教とも呼ばれます)と大乗仏教(北伝仏教)の二大宗派になりました。
上座部仏教はインドで紀元前4世紀頃に初期仏教から生まれ、それがスリランカに渡り、現在のようにミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムなどに普及しています。
一方、大乗仏教はインドで紀元前1世紀頃に作られ、1世紀以後に中央アジアから中国、朝鮮、台湾、日本へと伝承されました。
この関係を図に示すと1番目の図面のようになります。

1番目の写真は仏教のいろいろな宗派が何時出来て、何処へ伝ったかを示しています。この図解は東京大学仏教青年会の作った図解で、http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/05.html に掲載されています。
この図の示すように、インドでは5、6世紀頃に密教が盛んになり、それが中国を通して日本にも入って来ました。
空海が唐の青龍寺の恵果に指導を受け、真言密教として体系付けた真言宗が日本の密教の始まりになりました。
また最澄によって創始され天台宗も日本密教に分類されます。真言宗が密教専修であるのに対し、天台宗は天台・密教・戒律・禅の四宗相承である点が異なっているそうです。

それはさておき、インドでの仏教は13世紀初頭には完全に消滅してしまったのです。
それでは大乗仏教とはどのような教えなのでしょうか?
答は簡単至極です。大乗仏教の重要な経典の般若心経を理解すれば良いのです。
般若心経とはお釈迦様が弟子のシャーリプトラ(舎利子)へ向かって話したことをまとめたお経です。私自身は「般若心経」が大好きです。とても短い上にお釈迦様の教えの全てが詰まっているのです。
このお経は玄奘三蔵法師がインドから持って来て、唐の長安の大慈恩寺で漢文に翻訳したものです。そして大雅塔に全てのお経を大切に保管したのです。余談ながら私は1982年にこの大雅塔に登りました。幸な時間が流れました。
それはさておき、玄奘三蔵法師が翻訳した漢文の「般若心経」を示します。

摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神咒、是大明咒、是無上咒、是無等等咒、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多咒。即説咒曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経
(般若心経は、「大般若経」という600巻の経典(約300万文字)の内容を、わずか276文字に凝縮したものです)

この漢文の意味は次に掲載されています。
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/hannya.htm
このお経は日本人の文化の基調になりました。
大乗仏教では盧舎那仏像をはじめ抽象的な意味のあるいろいろな仏像を用いるのが特徴です。観音像、薬師像、不動王像、弘法大師像などなどいろいろな像が崇拝の対象になっています。
これとは対照的に上座部仏教ではお釈迦さまの像しかありません。
大乗仏教の特徴はヒンズー教と同じように多種類の仏像を崇拝することにあります。多神教的な信仰形態なのです。
ですから日本で神道と混淆することが容易だったのです。日本の仏教は偶像崇拝を禁じた釈迦の教とはおおいに違う仏教なのです。

今日の挿絵代わりの写真は昨日撮って来た清瀬市の圓通寺の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







=====参考資料======================
大慈恩寺とた玄奘の経典の翻訳作業;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%85%88%E6%81%A9%E5%AF%BA
隋の大興城にあった無漏寺(一説に浄覚寺)の故地に、648年(貞観22年)、皇太子の李治が、亡母(文徳皇后)追善のために建立したのが、大慈恩寺である。その名は「慈母の恩」に由来する。
各地から、良材を集め建てられ、その規模は、子院(塔頭)10数院を擁し、建築物は総数1,897間、公度僧だけで300名という大寺であった。帰朝した玄奘は、本寺の上座となり、寺地北西の翻経院で仏典の漢訳事業に従事した。当寺での、玄奘の訳経活動は、658年(顕慶3年)までの11年に及び、合わせて40部余の経典が漢訳された。玄奘の弟子である基(窺基)は、師から相承した法相宗を宣教し、「慈恩大師」と呼ばれた。
652年(永徽3年)、大雁塔が建立される。当初は、玄奘がインド・西域から持参した仏像や経典を収蔵するための塔であった(大雁塔の項を参照)。
唐代半ば以降、大慈恩寺の境内には、大きな戯場があり、俗講や見世物が行われていた。また、牡丹の名所としても知られ、それを詠んだ多くの漢詩が知られ、藤も植えられていた。春には、寺が所有していた南にある通善坊の「杏園」で杏の花が、夏には、寺の南池で蓮の花が咲き、秋には、柿がなり、紅葉につつまれたと伝えられる。

「日本の仏教を客観的に考える(1)釈迦の教えとの違い」

2021年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人のキリスト教信者は仏教的な伝統社会に住んでいます。自分の信仰と日本の仏教との折り合いを考え平穏に暮らしています。そしてキリスト教と仏教の比較もします。カトリックの私も日本の仏教というものをいろいろ考えています。
そこで今日から「日本の仏教を客観的に考える」と題した連載記事を書こうと思います。
その第一回として日本の仏教は釈迦の教えと非常に違うということを書きます。
さてキリスト教ではイエス・キリストの教えがそのまま新約聖書になっています。ですから信者はイエスの教えを直接知ることが出来ます。
しかし日本の仏教では大日如来や薬師如来や観音菩薩など多数の仏を拝むのです。それでお釈迦さまの教えを簡単に知ることが難しいのです。お釈迦さまの教えを新約聖書のように明快に書いた平易な書物が無いのです。
しかしお釈迦さまの教えを解説した本がいろいろあります。それらの本を読むと日本の仏教は釈迦の教えとは非常に違うことが分るのです。
日本の大乗仏教は釈迦の教えとは非常に違うのです。大きな違いの5つの具体的な実例を以下にあげてみます。

(1)釈迦は自分が死んだら墓を作らず、遺骨は野に捨てよと言って入滅しました。
しかし日本の仏教では先祖の墓を大切にし、お寺はお墓の管理で収入を得ています。釈迦の教えとは違います。

(2)釈迦は全ての像を拝んではいけない。仏像など作ってはいけないと教えました。
しかし日本には観音さまや薬師さまや大日如来さまの像が沢山あり、崇拝されています。釈迦の教えとは違います。

(3)釈迦は全ての殺生を禁じました。
しかし現在の日本の仏教徒はこの戒律を破っています。釈迦の教えとは違います。


(4)釈迦は妻や家族から離れて出家しました。
しかし日本の僧侶は妻帯し子供を大切にしています。お寺は世襲制で子供がまた住職になるのです。お寺の住職の世襲制は釈迦の教えとは違います。

(5)釈迦は教えの中心の「色即是空、空即是色」と「受想行識亦復如是」を本当に深く理解し信じるためには家族から離れて出家しなければいけないと教えました。
しかし日本では出家しなくても釈迦の教えが理解でき悟りの境地に入れると信じられています。釈迦の教えとは違います。

以上のような違いのあることを私は重要視しています。
その理由の一つは自分がカトリックの信者だからとも考えています。キリスト教ではイエスの教えを福音書として正確に伝承しています。そのイエス自身の教えを変えないで、そのまま信じるように努力しています。
だから日本の仏教は間違っているなどと皮相的な、そして浅薄な主張をいたしません。
もしそう考えたとしたら宗教というものの奥深さを理解していない証拠です。

さてお釈迦様は2500年程前にインドに生まれ、現在でも世界中の多くの人に信じらている仏教を創ったのです。インドでその後500年くらい経ってから仏教は大乗仏教と上座部仏教の2つに分かれました。
玄奘三蔵法師が629年に陸路でインドに向かい645年に経典657部や仏像などを持って唐に帰還しました。
この玄奘三蔵法師の持ち帰ってきた経典は大乗仏教のものでした。従って現在の日本の仏教は大乗仏教なのです。
一方、上座部仏教の方はミャンマー、タイ、ベトナムなどに伝承されました。

この連載記事の第二回ではこの上座部仏教を説明しながら日本の仏教と比較をしてみようと思います。
今日は5つの具体的な実例をあげて日本の仏教は釈迦の教えとは非常に違うことを明らかにしました。

今日の挿絵代わりの写真は昨日撮って来た神奈川県の宮ケ瀬湖の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「今日のカトリック聖イグナチオ教会の動画配信ミサの写真」

2021年02月14日 | 写真
今日のカトリック聖イグナチオ教会のミサの写真を3枚お送りいたします。
ミサの司式は李聖一神父さまでした。
今日のミサの写真を3枚お送りします。いずれにも李聖一神父さまが写っています。





李聖一 : 1955年生まれ。1976年、イエズス会入会。1985年、司祭叙階。1986年から2015年まで、六甲学院、広島学院、栄光学園で教員として勤務。2003年から2010年まで、広島学院校長。現在、イエズス会系の学校(上智大学・六甲学院・栄光学園・広島学院・上智福岡)の法人合併により、学校法人上智学院のイエズス会中等教育担当理事

李聖一 著、「み言葉とともに 生きる、学ぶ、喜ぶ」の内容
第1章 学びの現場から(「かもしれないライン」に立つ君たちへ/ おもしろい学校? ほか)/ 第2章 聖書のおはなし(はじめに言があった/ 吹く風の中のいのちの息吹 ほか)/
第3章 生き方が語るもの(世阿弥―「初心」と「柔和な心」/ シモーヌ・ヴェイユ―共感できる人に ほか)/
第4章 み言葉、ときどき寄り道(美しい生き方/ 「知る」祈り ほか)

「今日もカトリック関口教会の動画配信ミサにあずかります」

2021年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム
コロナが怖いので今週も教会のミサには出ません。その代わりカトリック関口教会の動画配信ミサにあずかります。

今日は年間第六主日で、10時から始まるミサの動画配信ミサは、カトリック関口教会の、https://www.youtube.com/watch?v=-xaPWwBUhBY とイグナチオ教会のミサは、https://www.ignatius.gr.jp/news/streaming.html にあります。

今日教会に行かない方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

カトリック聖イグナチオ教会は上智大学の構内にありますが大学とは別組織でイエズス会が直接に管理運営しています。イグナチオ教会の信徒数は2009年(平成21年)に14,382人で信徒数では日本最大規模の教会です。
イグナチオ教会はイエズス会の創始者で初代総長のイグナチオ・ロペス・デ・ロヨラの名前にちなむ名称です。

イエズス会は1534年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設されたのです。パリのモンマルトルの礼拝堂で「清貧と貞節、エルサレムへの巡礼」の誓いが立てたのがその始まりでした。
そのザビエルが日本へカトリックを初めて伝えたのが1549年のことでした。それからいろいろな事がありました。

禁教とと隠れキリシタンの歴史が250年も続いたのです。

そこで今日は隠れキリシタンが禁教が解け、明治時代以後に作った教会の写真をお送りします。五島列島に行って自分で撮った写真です。訪れた5つの教会は井持浦天主堂、堂崎天主堂、青砂ケ浦天主堂、頭ケ島天主堂、中ノ浦天主堂です。詳しくは、「遥かな五島列島への旅(1)訪れた5つの天主堂の写真」2015年04月13日 掲載、をご覧下さい。

1番目の写真は井持浦天主堂です。

2番目の写真は堂崎天主堂の写真です。

3番目の写真は青砂ケ浦天主堂です。

4番目の写真は頭ケ島天主堂です。1軒をのぞいて皆キリシタンだったという頭ヶ島。五島崩れの時、信徒は牢から全員逃げ出して島を離れ、迫害が終わってからこの地に戻ってきた。頭ヶ島天主堂は、鉄川与助の設計施工によって建設され、近くの石を切り出して、1919年に完成し、コンパス司教により祝別・献堂された。2001年に国の重要文化財に指定。世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産「頭ヶ島の集落」にある石造りの天主堂。

5番目の写真は中ノ浦天主堂です。

「今日の日記、冬木立と茅葺きの農家の写真を撮りに行きました」

2021年02月12日 | 写真
今日も青空ですが気温が低く寒い日です。快晴で気持ちが良いので冬木立と茅葺きの農家の写真を撮りに行きました。
行った所は小金井公園です。その一角に「江戸東京建物園」という昔の建物の野外展示場があります。コロナで休園中ですが農家だけは柵の外から見えるのです。
冬の木立は黒々として美しいものだと思いながら長い間眺めていました。農家は江戸時代の多摩地区の豪農の家を復元したものです。江戸時代の農村の生活が 偲ばれます。写真を楽しんで頂ければ嬉しく思います。









「今日の日記、武蔵国の国分寺の写真を撮りに行きました」

2021年02月11日 | 日記
今日は晴天で少し暖かい日でした。午後に武蔵国の国分寺跡と現在の国分寺の写真を撮りに行きました。
国分寺がこの場所に天平13年(741年)に出来たのは3Kmくらい南に武蔵国の国衙があったからです。現在の府中市の大國魂神社の隣りに国衙の建物があったのです。
写真を撮りながら悠久の時の流れを考えていました。

1番目の写真は国分寺跡の礎石のある風景です。

2番目の写真は現在の国分寺の楼門です。現在の武蔵国分寺は真言宗豊山派の寺院です。武蔵国国分寺の後継寺院にあたります。

3番目の写真は現在の国分寺です。万葉植物園が境内にあります。冬枯れで花も葉も枯れていました。
1333年に分倍河原の合戦で焼失した国分寺は江戸時代に再建されました。その現在の国分寺は昔の国分寺跡の北に約300mの所にあります。

奈良時代の中頃、聖武天皇は諸国に国分寺の建立を命じました。武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置されました。
武蔵国分寺跡は、全国の国分寺跡と比べても規模が大きく、その歴史的重要性はつとに認められており、大正11年に国指定史跡に指定されています。

4番目の写真は国分寺跡から出土した奈良時代の瓦です。
武蔵国分寺には壮大でした。山門、楼門、金堂、講堂、七重塔、庫裏、僧堂、鐘楼、などなどが東西1,500m、南北1,000mの範囲に華麗に並んでいたのです。

5番目の写真は武蔵国分寺僧寺イメージ図です。出典は、https://www.musashikokubunji.jp/history です。
当時はこの場所には東山道の武蔵路が南北に走り、近くには古墳時代からこの地を治めていた国府、現在の府中市がありました。
国分寺および国分尼寺の跡地の跡地の間を府中街道とJR武蔵野線が横切っています。

もともとの国分寺は鎌倉時代末期の新田義貞と鎌倉幕府側の合戦で焼失しました。その後の1335年に、新田義貞は国分寺跡に小さな薬師堂を建てました。その薬師堂は何度か修理されて現在も残っています。現在の武蔵国分寺の裏山に淋しく立っています。

そんな歴史を想いながら国分寺跡の公園でのんびりして来ました。

「美しく咲き誇る梅も蝋梅もみな外国から来たのです」

2021年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日本で美しく咲いてる花々はほとんど外国からやって来たという話を書いてみたいと思います。もっとも何種類かの花はもともと日本に自生していた日本原産の花です。その花が日本だけに咲く花なら日本の固有種といいます。日本原産の花は中国やその他の国にも咲いている花も含める言い方なのです。例えば桜はもともと日本の山に咲いている日本原産の花ですが中国やヒマラヤにも咲いているので日本固有種ではありません。山桜をいろいろ改良したのがソメイヨシノです。
さてこの季節に美しく咲いている花は梅と蝋梅です。梅は奈良時代に中国から来ました。蝋梅も中国から室町時代にやって来たのです。

1番目の写真は梅の花です。

2番目の写真は蝋梅(ロウバイ)の花です。
その他、季節ごとに咲き誇る花々の大部分は渡来植物の花々なのです。皆様はそんなことにご興味があるでしょうか?

私は昔から歴史に興味がありました。特に地方、地方の歴史や少数民族の歴史を調べて、独りで楽しんでいます。その延長で動物や植物の進化にも興味があります。そして日本で現在見られる花々の歴史、渡来の歴史にも興味があります。
そこで渡来植物のことを調べてみました。そうしたら慶応大学の磯野直秀名誉教授が発表している「明治前園芸植物渡来年表」を見つけました。素晴らしい研究書です。
それは昔は、http://koara.lib.keio.ac.jp/.../xoonips/download.php... に出ていましたが現在は削除されています。
下のにその一部をご紹介いたしますが、是非原文をご覧下さい。植物学の素人にも簡単に理解出来る平易な文章で書いてあります。明治維新以前の渡来植物はみな中国からやって来たのです。下記は中国からの渡来植物の時代別の一覧表です。
(1)奈良、平安期
梅、菊、ボタン、シャクヤク、アサガオ、シモクレン、ケイトウ、ジュズダマだどなど。
(2)鎌倉期
ナンテン、フヨウ、ムクゲなど。
(3)室町期から安土桃山期
スイセン、ホウセンカ、ジンチョウゲ、ヒガンバナ、ロウバイ、ソテツなどなど。
(4)江戸時代(17世紀)
シュウカイドウ、サルスベリ、レンギョウ、ハクモクレン、オシロイバナ、エニシダ、ヒマワリ、などなど。
(5)江戸時代(18世紀)
キョーチクトウ、ハボタン、ニチニチソウ、など。
(6)江戸時代(19世紀)
ノボタン、ダリア、オジギソウ、コスモス、カンナ、キンギョソウ、スイートピー、パンジー、ラベンダー、チューリップ、ゼラニュームなどなど。

この研究論文の圧巻は30ページから39ページにわたる数百種の渡来園芸植物の年号別の一覧表にあります。
慶雲2年(705年)から始まって、明治1年(1968年)のそれぞれの年号に渡来した園芸植物の名前が明記してあるのです。それはこの研究者のライフワークと言っても過言ではありません。
驚くことにわれわれが普通日本古来の植物と思っていた梅も柿も皆渡来植物なのです。

日本にある花々は大部分外国からやって来たことは明らかです。しかし元々日本に自生していた花もある筈です。
それではと「日本原産の花」を検索しましたところ「お花の写真集」というホームページがありました。日本原産の花々の写真が沢山掲載されています。もっとも日本原産といっても東南アジアや中国、シベリアにもある花々です。日本だけの固有種ではありません。
その中から幾つかの写真をお送り致します。原産の花を園芸種に改良したものもあります。

3番目の写真がマンサクです。

4番目の写真がテッポウユリです。

5番目の写真がハナショウブです。

6番目の写真がフヨウです。

7番目の写真がナデシコです。

8番目の写真がアジサイです。

9番目の写真がカラスウリです。
その他にも日本原産の花々は沢山あります。
日本の固有植物については、http://d.hatena.ne.jp/naturalist2008/20110520/1305903018 をご覧下さい。キンラン、エビネ、クマガイソウ、ウラシマソウなどがあります。

上に書いたように多くの植物は海を渡って日本に来たのです。 そのことは世界中同じで、植物たちは国々の間を行ったり来たりしたのです。渡り鳥が運んだり、人間が運んだのです。
特に美しい花々はその種子や苗を人間が大切に運んだのです。運んだ人の名前は分かりません。しかし外国から運んで来た種や苗が日本の土で花を咲かせたときの感動は大きかったに違いありません。そのようなことを想像するのが楽しいのです。しかし所詮、素人の調べ方なので間違いもあると思っています。

植物や花のことを調べるのは、世の中の政治や国際紛争や経済問題を調べるよりずっと楽しいのです。そうではありませんか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「冬の武蔵野、雑木林の中の散歩道」

2021年02月10日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は八王子の郊外に行き、冬の武蔵野の雑木林の中の散歩道の写真を撮って来ました。以前に元気だった時によく散歩した都立小宮公園です。今日は私が車を運転して行き駐車場で待っている間、家内が雑木林の中の写真を撮って来てくれました。車窓から落葉した梢の美しいシルエットを飽かず眺めていました。冬の雑木林は静かで幻想的な雰囲気です。こんな時間の過し方も良いものです。
小宮公園の雑木林の中の散歩道の写真をお楽しみ下さい。









「ゴーギャンとゴッホの喧嘩と彼等の絵画」

2021年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム
1888年、ゴーギャンは南仏アルルに移っていたゴッホの「黄色い家」で9週間にわたり仲良く共同生活を送りました。しかし二人の間には数々の行き違いが起こり、ゴッホの精神は次第に異常をきたすようになったのです。12月23日の夜ゴッホが自分の耳を切ったのです。
ゴーギャンの後年の回想によると、ゴッホがゴーギャンに対しカミソリを持って向かってくるという出来事がありました。その後で自分を傷つけてしまったのです。
翌日ゴッホはアルルの病院に送られました。そしてゴーギャンはアルルを去ったのです。
今日はゴーギャンとゴッホの絵画をご紹介いたします。

1番目の写真はゴーギャンの『マルティニークの風景』1887年、です。
1887年、ゴーギャンはパナマを訪れた後、6月から11月までの約半年、南太平洋のマルティニーク島に滞在しました。ゴーギャンはパナマ滞在中に破産しフランス法に従い起訴され国の費用で本国に戻ることになります。しかしゴーギャンはフランスに帰らずマルティニーク島で船を降りてしまいます。この南太平洋の島では原住民の小屋に住んで人間観察をしながら絵を描きます。夏になると暑く雨漏りがし、ゴーギャンは、赤痢とマラリアにも苦しんだと言います。

2番目の写真はゴーギャンの『ナヴェ・ナヴェ・モエ(聖なる泉)』1894年、です。この絵は原住民の女の優しさを描いた絵のようでです。

3番目の写真はゴーギャンの『タヒチの女(浜辺にて)』1891年、です。この絵から女の強い生活力を感じます。

4番目の写真はゴーギャンの『海辺の騎手たち』1902年、です。南の島の人々が競馬などをして生活を楽しんでいる様子が伺えます。

5番目の写真はゴッホの「夜のカフェテラス」1888年、です。
「夜のカフェテラス」は、ゴッホがフランスのアルルに滞在していた時に制作された作品です。ゴッホは広場の角に立ちイーゼルを立てて絵を描いていたと言われています。

6番目の写真はゴッホの「糸杉と星の見える道」1890年、です。
「糸杉と星の見える道」はゴッホがサン=レミ=ド=プロヴァンスの精神病院で療養していた時に制作した作品です。

7番目の写真はゴッホの「カラスのいる麦畑」1890年、です。
「カラスのいる麦畑」は、ゴッホの最晩年に描かれた作品のひとつです。聖書の中で「麦刈り」はしばしば人の死の象徴として語られており、ゴッホ自身も死のイメージとして好んで麦畑の主題を描いています。
作品の暗鬱な雰囲気と晩年に描かれた作品ということからゴッホの絶筆作と言われることの多いこの作品ですが、実はこの作品が完成されてから、ゴッホが死ぬまでには25作品ほどの絵を描いています。

さてゴッホの生涯はよく知られているので、以下にゴーギャンのことをご紹介します。
ゴーギャンのフルネームはウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン( Eugène Henri Paul Gauguin )と言います。1848年に生まれ 1903年に死んだフランスのポスト印象派の画家でした。
ゴーギャンは南太平洋の島々が好きだったのです。
移住した目的はヨーロッパ文明と「人工的・因習的な何もかも」からの脱出であった言われています。
タヒチでの最初の3週間は、植民地の首都で西欧化の進んだ住宅で過ごしました。しかしその住宅を出ておよそ45キロメートル離れた場所にアトリエをと泊まるために自分で竹の小屋を建てます。ここでタヒチ時代で最も評価の高い作品を描いています。
ゴーギャンはタヒチの古い習俗に関する本を読み、アリオイという独自の共同体やオロ (神)についての解説に惹きつけられたそうです。そして、想像に基づいて、絵や木彫りの彫刻を制作しました。
そしてこんな死に方をします。
マルキーズ諸島に住んいたゴーギャンの体力は相当落ち込み体の痛みも激しくなります。再びモルヒネに頼るようになります。死は、1903年5月8日の朝、突然訪れたました。
それに先立ち、ゴーギャンはヴェルニエ牧師を呼び、ふらふらすると訴えます。ヴェルニエ牧師はゴーギャンと言葉を交わし容態が安定していると考えて立ち去りました。ところが、午前11時に近くの住人ティオカがゴーギャンが死んでいるのを発見します。
そして翌日、マルキーズ諸島のカトリック教会のカルヴァリー墓地に埋葬されたのです。
ゴーギャン死亡の報は、1903年8月23日までフランスに届きませんでした。遺言はなく、価値のない家財は現地で競売に付され、手紙、原稿、絵画は9月5日に競売にかけられたます。このように財産が速やかに処分されてしまったため、彼の晩年に関する情報が失われてしまった言われています。妻メットが競売の売上金を受け取ったは僅かおよそ4000フランでした。詳しくは、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%B3 にあります。

この様にゴーギャンの死に方は淋しい南の島でした。しかし彼の絵画作品は力強く100年以上たった現在でも輝いております。人々へ元気と勇気を与えています。芸術は永遠の価値を持っているのです。

今日は主にゴーギャンの絵画と生涯についてご紹介しました。それにしてもゴッホもゴーギャンも痛ましい人生を送った天才でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、白鷺と水辺の写真を撮りに行った」

2021年02月08日 | 写真
この季節は水辺に白鷺が集まります。午後から清瀬市の金山緑地へ白鷺と水辺の写真を撮りに行きました。
10羽ほどの白鷺が水辺にいました。こんなのどかな風景を見ているととても平和な気分になります。
金山緑地から県境を超えて埼玉県の田園地帯を少しドライブして来ました。今日も何事も無く平穏に暮れていくでしょう。家内が撮って来た写真をお送り致します。







「シルクロードのロマン(4)平山 郁夫の『シルクロード美術館』を訪ねる」

2021年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム
平山郁夫はシルクロードのロマンに魅せられた画家でした。1960年代から足繫くシルクロードに行き数々の風景画を描きました。八ヶ岳の山麓の甲斐小泉には平山 郁夫の『シルクロード美術館』があります。2年前にこの美術館を訪ね写真も撮って来ました。広い立派な美術館でした。平山 郁夫は1930年に生まれ 2009年に没しました。
今日は平山 郁夫の絵画をご紹介いたします。

1番目の写真はシルクロードを行く玄奘三蔵法師をテーマにした『仏教伝来』です。東京藝術大学で助手を務めていた1959年ごろの制作です。平山郁夫は三蔵法師を非常に尊敬していました。この制作が切っ掛けになり中国の長安とローマを結ぶシルクロードに強い興味を持ちその風景画を沢山描くようになります。

2番目の写真は2019年に訪ねた甲斐小泉の平山郁夫シルクロード美術館に展示してあった「月光砂漠行」です。
平山郁夫は1968年以降シルクロードに関連する国々を数十回訪問し各地の風景画を描いています。訪れた国は中国、中央アジア、西アジア、東南アジア、地中海地域などシルクロードと関連のあった国々約37カ国です。平山郁夫の一生はシルクロードに魅せられた生涯だったのです。

3番目の写真は同じくシルクロード美術館に展示してあった「アフガニスタンの砂漠行」です。
この美術館の1階にはシルクロードと関連のあった陶磁器、織物、イスラーム美術の彫刻、ガンダーラ美術の仏像、硬貨など約9000点の一部が展示されています。平山郁夫のシルクロードにかける情熱の強さに圧倒されます。

4番目の写真はインド洋を東西に繫ぐ「海のシルクロード」です。
「シルクロード」という名称はドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『China(支那)』で1877年に作った名前です。ドイツ語でSeidenstraßenと複数形になっていますが,全て内陸の交易路を意味し海のシルクロードは含まれていませんでした。「海のシルクロード」は後世の人々が付けた名前です。

5番目の写真は『流水間断無』(奥入瀬渓流) です。この絵の大きな原画もシルクロード美術館 に展示してありました。

6番目の写真は平山郁夫シルクロード美術館に展示してあった北杜市から見上げた「甲斐駒岳」です。

7番目の写真は平山郁夫の郷里の尾道から四国を繫ぐ橋を描いた「白い橋 因島大橋」です。平山郁夫は1930年に 広島県尾道市瀬戸田町に生まれ尾道市で育ちました。
平山郁夫の頭には常に仏教的祈りがあったようです。平山郁夫は先の戦争や原爆被爆の体験から、終生「平安と鎮魂」を求めていたのです。
奈良の薬師寺に奉納された壮大なスケールの『大唐西域壁画』と『ナーランダの月』は正しく心の平安と全ての死者の鎮魂を祈った壮大な絵画です。平山郁夫の絵画の裏には静かな仏教的祈りがあるのです。
誤解を恐れずに書けば、全て宗教画なのです。それが平山郁夫の絵画の強みでもありますが弱みになる場合もあるのです。
宗教的になって芸術性が弱くなるのです。しかし皆とても美しい絵です。私は彼の絵が大好きですが、家人は何となくつまらない絵だと言います。困ったものです。
今日は「シルクロードのロマン(4)」として平山郁夫の心静まる風景画をご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


====参考資料===========================
平山 郁夫(1930年6月15日 - 2009年12月2日[)について、

日本画家、教育者。日本美術院理事長、一ツ橋綜合財団理事、第6代・第8代東京藝術大学学長を務めた。文化勲章受章者。称号は広島県名誉県民、広島市名誉市民、鎌倉市名誉市民。 (https://ja.wikipedia.org/wiki/平山郁夫)

旧制広島修道中学3年在学中、勤労動員されていた広島市内陸軍兵器補給廠で広島市への原子爆弾投下により被災。この被爆経験が後の「文化財赤十字」活動などの原点になっている。
第二次世界大戦後は実家に近い旧制忠海中学に転校した。ここでは高橋玄洋と同級生となっている。卒業後、清水南山(祖母の兄)の強い勧めもあり東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。前田青邨に師事する。
東京藝術大学で助手を務めていた1959年ごろ、原爆後遺症(白血球減少)で一時は死も覚悟したこともありました。郁夫の作品には仏教をテーマとしたものが多い。

仏教のテーマはやがて、古代インドに発生した仏教をアジアの果ての島国にまで伝えた仏教東漸の道と文化の西と東を結んだシルクロードへの憧憬につながっていった。そのあと、郁夫はイタリアやフランスなど、ヨーロッパ諸国も訪ねている。
郁夫は1960年代後半からたびたびシルクロードの遺跡や中国を訪ね、極寒のヒマラヤ山脈から酷暑のタクラマカン砂漠に至るまでシルクロードをくまなく旅している。その成果は奈良・薬師寺玄奘三蔵院の壁画に結実している。
アッシジのサン・フランチェスコ聖堂壁画の模写、法隆寺金堂壁画の模写、高松塚古墳壁画の模写や、ユネスコ親善大使として中国と北朝鮮を仲介して高句麗前期の都城と古墳と高句麗古墳群の世界遺産同時登録に寄与した功績で韓国政府より修交勲章興仁章(2等級)を受章した。

また、国内外を問わず長年にわたって後進の指導に当たる。日本への敦煌研究者及び文化財修復者など受け入れ事業などを提唱し、敦煌莫高窟の壁画修復事業にあたって日本画の岩絵具を用いた重ねの技法を指導するなど、現地で失われた美術技法の再構築と人材育成に尽力した。「文化財赤十字活動」の名のもとカンボジアのアンコール遺跡救済活動、敦煌の莫高窟の保存事業、南京城壁の修復事業、バーミヤンの大仏保護事業などの文化財保護や相互理解活動を評価されるなどその活動は幅広く社会への影響も大きい。

「年間第五主日のカトリック関口教会の動画配信ミサにあずかりました」

2021年02月07日 | 写真
今日のカトリック関口教会のミサの写真を3枚お送りいたします。
ミサの司式はホルヘ神父さまでした。神父さまは関口教会の助任司祭です。
写真を3枚にはいずれにもホルヘ神父さまが写っています。
ミサの動画は、https://www.youtube.com/watch?v=IiLs-Sao-cs に出ています。





ホルヘより、自己紹介申し上げます。2020年06月19日

関口教会の皆様、わたしは東京教区の助祭、ホルヘ・マヌエル・マシアス・ラミレス(Jorge Manuel Macias Ramires)と申します。メキシコ合衆国のハリスコ州のグアダラハラ出身です。この度、新型コロナウイルス緊急事態宣言の最中、小平教会から関口教会への異動となりました。まだお会いできていない方も大勢いらっしゃいますが、コロナが終息したあとに、皆様と共にマリア大聖堂でミサに与ることを楽しみにしています。

私の名前について簡単に説明いたします。メキシコでは通例、名前と洗礼名は一緒なのですが、わたしは2つ(ホルヘとマヌエル)付けられました。メキシコ人は皆、名字を2つ並べます。最初の名字(マシアス)は父親の名字、二番目の名字(ラミレス)は母親のものです。名前が長いのでホルヘとだけ覚えてもらえれば結構です。兄弟8人の中でわたしだけが司祭の道を選びました。わたしが8歳の時、自分の教会の主任司祭のような神父に憧れて、神学院に入りました。

わたしはこれまで日本の色々な教会で司牧させて頂きましたが、こんなに大きな教会は初めてです。今わたしは関口教会共同体に派遣されることに喜びと希望を覚えています。・・・以下省略

「銀座の街頭で追悼イベントをする人々の風景」

2021年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日です。日曜日には宗教的な記事や写真を掲載することにしています。
そこでまず銀座の街頭で望月崇英さんという人の追悼イベントをする人々の風景写真を2枚お送りします。

1番目の写真は望月崇英さんの友人らが手を合わせて冥福を祈っている光景です。

2番目の写真は望月崇英さんの冥福を祈り、色紙に感謝の気持ちを書く女性です
この2枚の写真の出典は2021年2月5日の東京新聞です。この追悼イベントの説明は次の東京新聞の記事にあります。
『托鉢の僧・崇英さん 惜別の花束撤去 銀座・和光本館前で友人ら「気持ち引き継ぐ」』 
 1月18日に新型コロナウイルス感染症のため66歳で亡くなった僧侶の望月崇英さんをしのび、望月さんが托鉢たくはつをしていた東京の銀座の和光本館前に手向けられた花束などが、望月さんの誕生日に当たる2月5日夜、友人たちに引き取られた。(梅野光春)
和光本館前で托鉢を続け1月に亡くなった僧侶の望月崇英さんの友人らが5日、手向けられた花束の前で手を合わせて冥福を祈った。
 望月さんは2010年8月から、平日の正午~午後4時に和光本館前で托鉢を続け、身の上相談にも乗った。11年の東日本大震災後は東北地方を訪ねて犠牲者を弔い、亡くなる直前まで何度も足を運んだ。知人からは、米国滞在中に付けられたという「アントニオ」の愛称で親しまれた。
 死去後、和光本館前で花束を供え、手を合わせる人の姿が多く見られた。ボランティアで望月さんと被災地を訪ねた白井糺ただしさん(73)=世田谷区=が「彼はきれい好きで、人に迷惑をかけるのを嫌った」と花束を整理してきたが、誕生日を節目に片付けようと、知人5人と集まった。
 午後7時、花束の脇に立てた約30本のろうそくに灯をともし、「ハッピーバースデーアントニオ」と小さな声で合唱しながら別れを惜しんだ。白井さんは「彼を知る人が多いから、花束がたくさん供えられたのだろう。彼の気持ちを継ぎ、また被災地を巡りたい」と話した。(終わり)

以上の記事を読んで私はいつも賑わっている銀座の街角にこんな光景もあることに感銘を受けました。華やかな銀座にこんな宗教的な光景があるのです。何故か心が静かになります。
この追悼イベントのことを私に教えてくれたのは崇英さんの在米中の友人の矢花陽子さんでした。私の以前の崇英さんの記事に対するコメントとして教えてくれたのです。それには次のような文章もついていました。崇英さんは在米時代はアントニーさんと呼ばれていたそうです。

・・・アントニーさんは生前、目標は「蒼い空になること」と申しておりました。
まるで彼のキャラクターそのものです。上を見上げればアントニーさんいつでもそこにいるような気がします。あのお坊さんは出世をして、今はもっと広い場所でお経を唱えていると信じています。
コロナで心細くても友人たちと身を寄せ合えない、なんとも辛い時期ですが、それでも希望を信じて生きてゆきます。アントニーさんを忘れないで。・・・

この文章で私は判りました。崇英さんは生まれつき非常に優しい性格だったのです。高野山で阿闍梨の修行をして僧になったから優しくなったのではないのです。優しかったから阿闍梨の修行をしたのです。

今日ご紹介した銀座の街頭である人の追悼イベントをする人々の風景はすがすがしい光景です。人間の美しい愛の風景です。こんな風景も銀座にあるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)