後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「曾遊の地、熱海梅林の写真」

2021年02月06日 | 写真
昔、中国から来た親友の周栄章さんと家内の3人で行った曾遊の地、熱海梅林の写真をお送りいたします。出典は、https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_1434/ です。2019年の写真です。日本一開花が早いことで有名な梅林です。


「シルクロードのロマン(3)玄奘三蔵法師のインドへの旅」

2021年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム

玄奘三蔵法師はシルクロードを通ってインドに行き仏教の経典657部を背負ってきました。現在日本で読まれている経典は全て玄奘が背負って来た大乗仏教の経典です。

長安を出発した玄奘は高昌国やヤブグカガン王国で歓迎され旅の支援を受けます。往路はシルクロードの天山北路を通り、帰りは西域南道を通りました。

その道筋の詳細は、天竺への道、第二十三回コラム「玄奘三蔵インドへの旅について」 | お寺の窓口 (oteranavi.com) という資料にあります。

玄奘の往路のルートの概略は、出発(629年)は長安で、そこからシルクロードを西に向かい、天山山脈を越えて現在のキルギス、ウズベキスタンという中央アジアに進んでいきました。そしてアフガニスタンを経て、インドの仏教の中心地だったブッダガヤ近郊のナーランダーに到着したのです。


1番目の写真は玄奘三蔵法師の旅の道程を示した図面です。
この図面の出典は、http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/12.html です。
玄奘三蔵法師の持って来た経典657部は現在、中國、台湾、韓国、日本で読まれているお経のほとんど全てなのです。漢文に翻訳したものです。そして一部はインドのパーリ語の発音をそのまま漢字で表したものです。
玄奘は西暦602年に生まれ、664年に62歳で亡くなりました。
西暦629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教の研究を行って、16年後の645年に経典や仏像などを持って帰還しました。以後、翻訳作業で従来伝承された仏教の誤りを正しながら、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなったのです。

2番目の写真は中国の長安の大慈恩寺の境内にある大雁塔です。ここに玄奘三蔵法師の持ち帰った経典が保管されていました。
私は1981年に許可を貰ってこの大雅塔の最上階まで登ったことがあります。当時は文化大革命の後だったので大雁塔の土の階段が崩れていたことに心が痛みました。現在は綺麗に修復され立ち入り禁止になっていると聞きました。

3番目の写真は大慈恩寺の境内にある玄奘三蔵法師の記念堂です。
写真の出典は、http://www.e-asianmarket.com/xian/xiantemple01.html です。

4番目の写真は西安の青龍寺にある空海の記念碑です。青龍寺は隋の時代、582年に創建されました。空海は、ここで恵果和尚から玄奘が持って来た経典と密教の教義を学びました。写真の出典は、https://bluebird-story.com/qinglongsi/ です。

5番目の写真は埼玉県の慈恩寺にある玄奘三蔵法師の像と玄奘塔です。この塔の下に玄奘三蔵法師の遺骨の一部の頂骨が祀ってあります。この写真は埼玉県の慈恩寺で私が撮りました。
この訪問記は、http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp  の2009年9月14日の掲載記事、「日本の全仏教徒のために海を渡ってきた玄奘三蔵法師の遺骨にお参りして来ました」に書いてあります。
慈恩寺の第50世住職の大嶋見道師と第51世住職の大嶋見順師の2代の住職が心を配り慈恩寺から少し離れた場所に玄奘塔を建て、その根元に遺骨を奉安しています。

私は玄奘三蔵法師を尊敬しています。唐の長安を旅立ち、はるかインドまで行き、16年もインドで仏教を極め、数多くの経典を背負って長安に帰りついたのです。そしてインドの言葉で書かれた経典を漢文へと翻訳したのです。
玄奘三蔵法師の遺骨は長安の東の郊外の白鹿原に捨てられました。釈迦の教えどうり捨てたのです。しかし後に弟子たちが遺骨を拾い集めます。その遺骨の一部が埼玉県にあるのです。不思議です。
インド、中国、日本と広い地域に流れた悠久の時を考えています。人間の想念は時空を越えるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「シルクロードのロマン(2)幻の楼蘭王国とヘディンによる発掘」

2021年02月05日 | 日記・エッセイ・コラム

シルクロードに昔、楼蘭と言う王国がありました。楼蘭の名が現れるのは中国の『史記』の匈奴列伝です。紀元前2世紀頃には楼蘭が存在していたのです。そして紀元後445年に北魏によって滅ぼされ消えて無くなった王国でした。

人々は楼蘭王国のことをすっかり忘れ去り1500年以上の月日が流れます。何処にあったか、どんな文化を持ってていたか全く分かりません。楼蘭王国は歴史の闇の中に消えてしまったのです。

その楼蘭王国の遺跡をスウェーデンの考古学者スヴェン・ヘディンが発見します。彼の1900年の発掘で楼蘭王国の全貌が明らかになったのです。それは20世紀の考古学の大発見でした。

今日は楼蘭王国の興亡と消滅とヘディンによる楼蘭王国の再発見の物語をお送りします。そして楼蘭王国はどんな文化を持っていたか少しご説明したいと思います。

楼蘭はタクラマカン砂漠の北東部、すなわち現在の中国の新疆ウイグル自治区に存在していました。「さまよえる湖」というロプノール湖の西岸にありシルクロードが西域南道と天山南路に分岐する要衝にあったので交易によりとても栄えていました。しかしヘディンの遺跡発見までは謎の王国でした。

楼蘭王国はシルクロードのロマンです。さてここで新疆ウイグル自治区の写真を2枚示します。

1番目の写真は楼蘭があった中国の新疆ウイグル自治区の草原の風景です。新疆ウイグル自治区にはウイグル族の他、漢民族、カザフ族、キルギス族、モンゴル族など様々な民族が住んでいます。

2番目の写真は楼蘭遺跡のあった付近のタクラマカン砂漠の風景です。古い城壁が少しだけ残っています。

写真の出典はhttps://zilgg.blogspot.com/2018/11/blog-post.html です。

さてスウェーデンの考古学者のヘディンはどのようにして楼蘭遺跡を発見したのでしょうか?

1900年、ヘディンはタクラマカン砂漠を北から南へ縦断し、その高低図を作製しました。そうしたらロプノール湖が見つかりました。その場所には多数の螺貝の殻や厚い塩の層、枯れた白楊の林があったのです。その湖の岸に楼蘭があったのです。

ヘディン隊は古代の湖床の上を進んで行きました。そうしたらヘディン隊は偶然いくつかの廃址に遭遇したのです。そこに人々が生活していた痕跡です。そして幸運は重なった。それはヘディンの従者の一人ウイグル人のエルデクが仏塔を含む多数の住居址を発見したのです。その遺跡がヘディンの研究により楼蘭の遺跡だと確定したのです。ここでヘディンの発見した楼蘭の遺跡の写真を2枚示します。

3番目の写真は楼蘭遺跡の仏塔付近です。写真の出典は、http://dsr.nii.ac.jp/rarebook/06/ です。

4番目の写真は楼蘭遺跡の小河墓遺跡です。写真の出典は、http://dsr.nii.ac.jp/rarebook/06/ です。

この発見をヘディンは次のように回想しています。

「思えば彼(エルデク)がスコップを忘れたのは、ただ幸運というよりほかなかった。もしこのことがなかったら私がこの古代都市をもう一度訪れることもなかったろう。また内陸アジアの古代史に新しい予想だにしなかった光を投ずることもなかったろう。あの偉大な発見をなすこともできなかったのだ」(ヘディン著、『探検家としてのわが生涯』より)

ヘディンは翌1901年に再び遺跡を訪ね遺跡からで木簡や紙文書を多数発見して持ち帰りました。ヘディンの持ち帰った漢文やカロシュティー文字で書かれていた文書は専門家によって次々に解読されていったのです。

その解読の結果この遺跡はまぎれもなく古代都市「楼蘭」の遺跡だと判明したのです。そして楼蘭王国の全貌が明らかになったのです。こうして楼蘭はどこにあったかという謎が解決しました。

楼蘭の場所は中国の「新疆ウイグル自治区」の南部にあり、中央アジアにある内陸盆地のタリム盆地内の大部分を領有していたのです。
さて楼蘭王国はどいう文化を持ってうたのでしょうか?仏塔があることから仏教国だったことが分ります。
そして楼蘭に生きた人々やその暮らしについては墓地群から発見されたミイラ化した遺体や帽子や刺繍から分ります。ミイラの写真を示します。

5番目の写真はミイラを調査するヘディンです。写真の出典は、http://dsr.nii.ac.jp/rarebook/06/ です。

このミイラはヘディンが「楼蘭の王女」「砂漠の貴婦人」などと名づけた若い女性のミイラです。ミイラは楼蘭の華やかな文化を物語るようです。その身に色とりどりの絹をまとっていたのです。ヘディンが語っています。「王女の顔の肌は羊皮紙のように固くなっていたが、顔立ちや面差しは時の移ろいによって変わってはいなかった。王女は瞼を閉じて身を横たえていたが、瞼の下の眼球はほんの心持ちくぼんでいた。口もとには今なお笑みをたたえていた。その笑みは何千年の歳月にも消えることなく、その笑みによって謎の王女はますます魅力を増し、人の胸に訴えかけてくる。……「楼蘭の王女」は、二千年の眠りから掘り起こされ、星明りに照らされて今一度まどろんだのである。」(ヘディン著、『さまよえる湖』より)

ヘディンの1900年の発掘後60年あまり、楼蘭をめぐる発掘は途絶えます。ヘディンらが見つけた墓の正確な位置すら定かではなくなりました。しかし近年になって小河墓遺跡や古墓溝遺跡や鉄板河遺跡から、ヨーロッパ系白色人種のミイラが相次いで発掘されました。これらは放射性炭素計測法によって約3800年前の人だったと判明したのです。つまりこれらの人々は楼蘭王国よりも千数百年以上も前にこの地に住んでいた人々でした。

さて今日は楼蘭王国の興亡と消滅とヘディンによる楼蘭王国の再発見の物語をお送りしました。そして楼蘭王国はどんな文化を持っていたか少しだけご説明いたしました。

今日の記事は「貴重書で綴るシルクロード」(http://dsr.nii.ac.jp/rarebook/06/ )を参考にしました。これは実に優れた資料です。著者の方へ深い敬意を表します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「西洋人の考え方を簡単に理解出来る謝肉祭、灰の水曜日、四旬節そして復活祭とは?」

2021年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム
明治維新以来、153年間にわたって日本は西洋の文化を熱心に導入して来ました。そのお陰で日本の科学技術は非常に進歩しました。
しかし西洋の精神文化はそれほど容易には取り入れることは出来ません。その根本のキリスト教の考え方が理解しにくいからです。
そこで今日は何時も彼等の心の中にあるキリスト教を分りやすく説明したいと思います。
キリスト教を手っとり早く理解するために間もなくやって来る復活祭(イースター)の前の謝肉祭(カーニバル)灰の水曜日、そして四旬節のことを簡単に説明致したいと思います。
これからやって来る順序は、謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、四旬節、そして最後に復活祭(イースター)です。
しかしそれぞれの宗教的な意味を説明するためにはこの順序を逆にして説明したほうが分かり易いのです。

(1)今年は4月4日日曜日が復活祭

復活祭 (イースター) とは、十字架にかけられ死んだイエス様が3日目に蘇られたことを記念する祭りです。キリスト教の最も重要なお祝いの日です。クリスマスより重要とも言えます。
その復活祭の日の決め方は、「春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日」です。 この決め方に従うと4月4日が今年の復活祭になります。、2022年には4月17日になり、2023年には4月9日になります。

(2)40日間の四旬節

復活祭の前に節制した生活を送る準備期間を四旬節(40日間)と呼びます。40という数字は、イエス様が荒れ野で40日間断食をされたことに由来しています。それに倣って40日の間に断食をしたり節制したりする習慣が生まれたようです。
そうして四旬節が始まる直前の水曜日 が「灰の水曜日」なのです。

(3)日本人にも理解し易い灰の水曜日
灰の水曜日は2021年は 2月17日です。2022年 は 3月2日で2023年 は 2月22日です。
「灰の水曜日」という名前は、この日に司祭が灰で信者の額に十字の印をつけることに由来します。自分が灰のように消えてなくなるはかない者であることを認め、ただ神の慈しみによって生かしていただいていることを思い起こすのです。この意味は仏教の無常の考えと同じなので理解し易いです。
灰の水曜日に用いる灰は、前の年の「枝の主日」に祝別されたシュロの枝を焼いて作られます。エルサレムにイエス様が入城した時に群衆が棕櫚の葉を手に持って打ち振り、歓迎しました。シュロの枝は勝利と歓喜の象徴として、凱旋の行列に用いられるといわれますが、イエス様がこれによって人間の栄華も歓喜も、灰のように塵になる儚いものであることを教えたのです。

(4)日本人には分かり難いバカ騒ぎの謝肉祭

謝肉祭はカーニバルとも呼ばれますが、これは分かり難い祭です。
断食をしたり節食をして静かに過ごす40日の四旬節に入る前に、思いっきり飽食をして仮装をして踊り狂います。この世の楽しみを思う存分してから40日間の静かな節制生活に突入するのです。このようなバカ騒ぎをイエス様が喜ぶか私は疑問に思っています。
しかし賑やかな謝肉祭も灰の水曜日の前日にピタリと止めます。
ですから有名な南米のリオのカーニバルも「灰の水曜日」の前日に終り静かになります。

以上はカトリックの習慣です。しかし欧米では夏のバカンス以外の休日は、多くカトリックの習慣に従って決まっています。ですから謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、そして四旬節、そして最後の復活祭(イースター)などは欧米社会の歳時記として定着しているのです。堅苦しく考えなければそれらは欧米社会の楽しい風物詩なのです。
その上、復活祭(イースター)はクリスマスと共に日本の俳句の季語にもなっています。

今年も謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、四旬節、復活祭(イースター)が巡って来ますので、こんなことを書いてみました。
なお移動主日・祝祭日表(2018年度~2026年度)は、https://www.cbcj.catholic.jp/wp-content/uploads/2017/10/2018ido.pdf にあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿し絵代わりの写真はイタリアは水の都のヴェネツィアのカーニバルです。https://www.nta.co.jp/media/tripa/articles/1xPbO からお借りした写真です。
中世に起源を持つヴェネツィアのカーニバルでは街全体が仮面舞踏会の会場となります。
メイン会場となるサン・マルコ広場には舞台が設置され、仮装コンクールなどが開催されるそうです。それにしても日本の伝統には仮面舞踏会というものが無いので私には異様な光景に見えます。しかし仮装が念入りでいかにも伝統的なヨーロッパ文化を感じます。









「今日の日記、仲田の森蚕糸公園の樹々の写真を撮りに行きました」

2021年02月03日 | 日記
日野市に「仲田の森蚕糸公園」があります。昔、蚕糸試験場のあった跡地に樹々が生えている森があります。冬にはすっかり落葉して森が明るくなります。落葉すると樹々の姿が青空に美しいシルエットをつくります。枯草のささやかな広場に細い流れがあります。それだけの場所です。此処へ来るとなぜか心が安らかになるのです。
今日はその冬の森の写真を撮りに行って来ました。樹々の風景写真をお送りいたします。









「シルクロードのロマン(1)その道すじと駱駝の隊商の風景」

2021年02月03日 | 日記・エッセイ・コラム
シルクロードは昔から東洋と西洋を繋ぐとても重要な交易路でした。それは紀元前2世紀から18世紀までの間、東洋と西洋の物資を運ぶだけでなく文化や宗教も運んだのです。
「シルクロード」という名前は19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが著書『China(支那)』で言い出したのです。
その後、リヒトホーフェンの弟子で1900年に楼蘭の遺跡を発見したスウェーデンの地理学者ヘディンが自分の本の題に『The Silk Road』とつけたのです。この本の出版(1938年)以後、シルクロードは世界中で有名になったのです。
シルクロードの中国側起点は長安(陝西省西安市)です。欧州側起点はローマでした。しかしどこが起点で終点は何処かなどと明確に定められるものではないのです。
その道筋は古い時代には中国から北上して、モンゴルやカザフスタンの草原(ステップ地帯)を通り、アラル海やカスピ海の北側から黒海に至る交易路でした。
現在のシルクロードは、部分的にほぼこの道に沿っています。
しかしリヒトホーフェンが名付けた「シルクロード」は長安を発って今日の蘭州市のあたりで黄河を渡り、河西回廊を経て敦煌に至る道でした。
ここから先の主要なルートは3本に分れます。そして西トルキスタン以西はさらに多数のルートに分岐しています。
とにかくシルクロードは多数あり、それらは大雑把に西域南道、天山南路(西域北道)、天山北路などと呼ばれています。

1番目の写真はシルクロードの概念図です。最近は海のシルクロードも含めるのが普通です。
この写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89 です。

シルクロードの多くは砂漠地帯で交易には駱駝の隊商が行き来しました。そこで駱駝の隊商の写真をお送りいたします。駱駝の隊商の写真の出典は以下の通りです。
https://www.gettyimages.co.jp/%E5%86%99%E7%9C%9F/%E9%9A%8A%E5%95%86?phrase=%E9%9A%8A%E5%95%86&sort=mostpopular







砂漠を行く駱駝の隊商と言えば「月の砂漠」という童謡を思い出す人が多いと思います。
この童謡は加藤まさをが大正時代に作ったのです。加藤まさをは大正から昭和初期に叙情的な挿絵画家として人気を博した人でした。童謡の歌詞は雑誌『少女倶楽部』1923年(大正12年)3月号に発表されました。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E3%81%AE%E6%B2%99%E6%BC%A0 )
これに、当時まだ若手の作曲家であった佐々木すぐるが曲を付けたのです。
1927年にラジオ放送されたことから評判となり、1932年に柳井はるみの歌唱で録音レコード化され一般に知られるようになりました。
倍賞千恵子の歌が、https://www.youtube.com/watch?v=pefoBsiipW4
https://www.youtube.com/watch?v=pefoBsiipW4 にありますのでお聞きください。

1 月の沙漠を はるばると  
  旅の駱駝が行きました
  金と金と銀との 鞍置いて       
  二つならんで 行きました    

2 金の鞍には 銀の甕
   銀の鞍には  金の甕   
  二つの甕は それぞれに    
  紐で結むんで ありました  

3 さきの鞍には王子様
  あとの鞍にはお姫様
  乗った二人は おそろいの
  白い上着を着てました

4 曠(ひろ)い沙漠をひとすじに
  二人はどこへゆくのでしょう
  朧(おぼろ)にけぶる月の夜を
  対の駱駝はとぼとぼと

  砂丘を越えて行きました
  黙って越えて行きました  

ついでに「月の沙漠記念館」、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E3%81%AE%E6%B2%99%E6%BC%A0 もご覧下さい。
千葉県夷隅郡御宿町の御宿海岸にあります。
「月の沙漠記念館」(1990年開館)には加藤の作品や生前愛用した楽器などが展示されています。

今日は「シルクロードのロマン」という連載記事の第一回目としてその道すじと駱駝の隊商の風景写真をお送りいたしました。ついでに「月の砂漠」という童謡もお送りいたしました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「コロナで急死した修行僧、望月崇英は何を祈っていたか?」

2021年02月02日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はコロナで急死した望月崇英は何を祈っていたかを書いてみようと思います。私の想像です。
まず「コロナで孤独に死んだ修行僧、望月崇英と泣き崩れる少女」という2021年01月25日 の記事の抜粋をお送りいたします。
銀座で托鉢しながら東日本大震災の犠牲者を弔い続けていた修行僧、望月崇英が新型コロナで突然死にました。孤独な死でした。この僧侶、望月崇英は銀座で悩める人々の相談にのり失意の人々を勇気づけていたのです。そんな人々の中に志音という10歳の少女がいました。
志音は望月崇英が托鉢をしていた銀座和光の一角へ行って、そこでずっと泣いていました。手袋を外して傘も畳んでずっと手を合わせていました。
志音にとっては望月崇英はかけがえのない人だったのです。望月崇英は失意の志音さんを祈りで救ったのです。
その祈りの内容はどんなものだったのでしょうか?
それを考える前に一枚の写真をご覧ください。

1番目の写真は2012年3月11日の東京新聞の朝刊1面に掲載された写真です。望月崇英さんが仙台市の海岸で波に向かって祈っていた光景です。祈りの内容は東日本大震災で犠牲になった人々の冥福を祈っていたと想像できます。しかしそれだけではありません。まだ行方不明のまま海に沈んでいる人々があの世で安らかに暮らすようにと熱心に祈っているようです。冷たい3月の海の水が望月崇英さんの足を洗っているのに気が付かない様子です。ここで祈っているのは人間ではなく大日如来なのです。宗教の世界では不思議なことが起きるのです。
托鉢の時も大日如来が望月崇英さんに乗り移って祈っているのです。

2番目の写真は銀座の和光本館前の地下鉄出入り口付近に立って托鉢をしていた望月崇英さんです。
それでは托鉢をして何を祈っているのでしょうか?
托鉢をしている自分の前を通る人のあの世での幸せを祈っているのです。この世でも幸福になるように祈っているのです。困った人々には優しい言葉をかけているのです。そのことに感謝した人がお坊さんの持っている鉢にお金を入れるのです。志音も望月崇英の托鉢に感謝していたのです。
これが托鉢です。寒い日も猛暑の日も和光本館の前に立っています。立っているのは人間ではなく大日如来なのです。
托鉢はお釈迦様の慈悲の心を行動で示したものなのです。仏教の不思議さです。
そのことを説明するため、タイの托鉢の風景写真を3枚お送りします。
タイの托鉢の写真の出典は、https://anotherskies.com/religious-mendicancy です。

3番目の写真は家族が僧たちに食べ物を差し出している光景です。

4番目の写真は裕福な人々がお坊さんへ上げるものを準備をしている場面です。

5番目の写真ではタイの托鉢でお坊さん達に感謝して美味しい食べ物を差し上げていいる様子です。托鉢のお坊さん達は皆お釈迦さまなのです。

話は飛びますが四国のお遍路では同行二人と言います。弘法大師が一緒に歩いてくれるのです。しかし実際には弘法大師が遍路をする人に乗り移って歩いているのです。だからこそ八十八ケ所も歩き通うせるのです。

今日はコロナで急死した修行僧、望月崇英は何を祈っていたかを説明いたしました。そして托鉢の深い意味も説明いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、多摩中央公園の写真を撮りに行く、しかし」

2021年02月01日 | 写真
今日は少し足をのばして多摩市の「多摩中央公園」の風景写真を撮りに行きました。しかし公園と同じ高さの場所には駐車場が無いのです。これでは足の弱い私は公園まで登れません。仕方無く多摩尾根幹線道路に上がり眺望を楽しみながらドライブをして帰って来ました。
ネットからお借りした風景写真をお送りします。写真の出典は、https://1000enpark.com/park/00263/ です。









多摩中央公園は東京都多摩市にある多摩市立の広大な公園です。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%91%A9%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%85%AC%E5%9C%92 )
大きな池と芝生広場が特徴で公園外周には「県木の道」と称する各都道府県の指定樹木を植栽した樹林道があります。
京王線の多摩センター駅から行く場合は、パルテノン大通り(歩行者専用道路)の突き当たりにあるパルテノン多摩の中央部の大階段を登ります。階段の上ると「きらめきの池」と広場があり多摩センターの街並みが眺望できます。
付帯施設として多摩市連光寺1番地から復元移築された「旧富澤家古民家住宅」があります。富澤家は名士で駿河今川氏の家臣でした。その富澤家の建物と日本庭園が一般に公開してあります。

この公園は車で行かないで新宿から京王線で行って、多摩センター駅下車、それから約15分坂をを上って行った方が便利です。丘の上なので空気が新鮮です。

「都立野川公園と戦闘機、爆撃機を作っていた中島飛行機」

2021年02月01日 | 日記・エッセイ・コラム
先日武蔵野公園をご紹介しました。「今日の日記、都立武蔵野公園の写真を撮りに行く」(2021年01月30日掲載)をご覧ください。この武蔵野公園に隣接して都立野川公園が広がっています。その敷地続きに昔、中島飛行機の工場の一つがありました。中島飛行機は戦闘機、爆撃機を作っていたのです。

今日は野川公園をご紹介し、合わせて中島飛行機という会社をご紹介したいと思います。

1番目の写真は都立野川公園の中を流れる「野川」という名前の小川です。この小川のすぐ上流が武蔵野公園です。2つの公園は道路を挟んで繋がっています。

2番目の写真は野川の岸辺で遊んでいる子供達です。この写真の左側に湧き水が豊に出ている泉が3つほどあります。

3番目の写真は野川の南岸側に広がる芝生の原です。この公園はゴルフ場だったのです。戦後に米軍が中島飛行機の工場を接収してゴルフ場を作ったのです。ゴルフ場はこの写真から右の方に1500メートル以上続いています。そこが全て都立野川公園になっています。
ですから野川公園を歩いているとゴルフ場のようになだらかな起伏があり楽しいのです。芝生の草原を囲むように大きな樹々が植えてあります。
なだらかな起伏のある芝原を歩いていると優雅な気分になります。野川公園は優雅な公園なのです。

さて昔あった中島飛行機という会社をご紹介致します。
中島飛行機は1917年に彗星のように現れ、燃えるように成長し通算25、804機の軍用機を大量生産し1945年の終戦とともに煙の如く消えてしまった会社です。
その発展と各工場での生産活動の様子は多くの日本人の記憶から消えてしまいました。
以下は、http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/ からの抜粋です。
中島飛行機は全国に工場がありました。東京では野川公園の隣に工場と三鷹研究所、三鷹市の中心には武蔵野製作所があり、そして杉並区に東京制作所という3つの大きな工場がありました。
戦闘機や爆撃機を作っていたのです。

4番目の写真は中島飛行機が作っていた「隼」という戦闘機です。

5番目の写真は中島飛行機が作っていた「銀河」という爆撃機です。
中島飛行機はこの他にも戦闘機 「疾風」や重爆撃機 「呑龍」や陸上攻撃機「深山」などなどの軍用機を作っていたのです。なお有名なゼロ戦は三菱重工が作っていました。

中島飛行機はアメリカ占領軍によって徹底的に解体されました。その後、その技術は富士重工に残り、名車「スバル360」を生んだのです。
広大な三鷹研究所の跡地の南端に占領軍がゴルフ場にしました。その後、全敷地が返還され都立野川公園と富士重工の自動用エンジン工場と国際キリスト教大学の3地区になったのです。

昨日は家内と散歩しながら中島飛行機の有為変転ぶりを考え、どんな会社にも栄枯盛衰があり、運命にはどうしようもないことを想っていました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


=====中島飛行機物語の序文です==========
1917年、中島知久平を中心に栗原甚悟、佐久間一郎らのたった7名から始まった中島飛行機は消え去ったが、その志は確実に後世の多方面に受け継がれている。

 中島飛行機を代表する技師長であった小山悌氏は終戦後「われわれ中島の技術者は国家の存亡ということで必死に飛行機を設計し生産してきた。しかし、その飛行機により尊い若者の命が奪われたことは間違いのない事実である。過去の飛行機を美化するようなことは決してするまい」と述べられ、それが各技師達の心にあって、中島飛行機の記録や回顧録は極端に少ないものとなっている。

 飛行機に夢を賭けた技術者達のエネルギーは、戦争という異常な歴史に翻弄されはしたが、その行動を振り返ると「純粋に物事を探求し開拓してゆくパイオニアの姿」が浮かび上がってくる。武器としての飛行機には、多くの異論もあろうが、そこには研ぎ澄まされた美しさがあり、旅客機には新世界へ誘うロマンが漂っている。とくにプロペラで気流をかき分け、自分の翼で大気をとらえるレシプロエンジン機に、一途な技術者の顔が見えるような気がする。
====(http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/)===========