作者の神野紗希さんについて、青木ともじさんが論じたものです。
最も好きな句であるのだが、これにも根拠なき魅力を感じる。
この句を生かしているのは八月十五日という季語である。
理由を考えるとすると、
終戦の空虚さの中にある喜びとカンバスの白い「無」の環境にある光とが
どこかでつながっているところであろう。
私は海へ向けてカンバスを立てているのかと思った。
カンバスだからきっと油絵を描いているのだろう。
そこにある余白は未完成によるものなのか、
完成した絵の空白なのかはわからないが、
いずれにしても油絵の持つ鈍い光と余白の持つ透き通った光、
それらの間に終戦の思いというものが見て取れるのではないか。
八月十五日という季語は歴史的な季語なだけに
景が偏りがちなところがあるような気がする。
しかし、彼女の句はカンバスというごく身近な明るい題材を
使っているという新しさもあり、
八月十五日という季語の持つ違った一面を見せられたように思う。
青木ともじ
あの8月15日を境に、日本では、180度価値観が替わった。
教科書に墨を塗り、民主主義という新しい価値へのスタートを切った日本でした。
それから65年。
今考えると、敗戦によってリセットが出来た部分と
出来なかった部分があることが分かる。
日本人は、それまで描いていた絵のある部分を白く塗りつぶして、
そこに新しい絵を描こうとしたのかも?
私には、余白は無地の白ではないように感じられます。 遅足
最も好きな句であるのだが、これにも根拠なき魅力を感じる。
この句を生かしているのは八月十五日という季語である。
理由を考えるとすると、
終戦の空虚さの中にある喜びとカンバスの白い「無」の環境にある光とが
どこかでつながっているところであろう。
私は海へ向けてカンバスを立てているのかと思った。
カンバスだからきっと油絵を描いているのだろう。
そこにある余白は未完成によるものなのか、
完成した絵の空白なのかはわからないが、
いずれにしても油絵の持つ鈍い光と余白の持つ透き通った光、
それらの間に終戦の思いというものが見て取れるのではないか。
八月十五日という季語は歴史的な季語なだけに
景が偏りがちなところがあるような気がする。
しかし、彼女の句はカンバスというごく身近な明るい題材を
使っているという新しさもあり、
八月十五日という季語の持つ違った一面を見せられたように思う。
青木ともじ
あの8月15日を境に、日本では、180度価値観が替わった。
教科書に墨を塗り、民主主義という新しい価値へのスタートを切った日本でした。
それから65年。
今考えると、敗戦によってリセットが出来た部分と
出来なかった部分があることが分かる。
日本人は、それまで描いていた絵のある部分を白く塗りつぶして、
そこに新しい絵を描こうとしたのかも?
私には、余白は無地の白ではないように感じられます。 遅足