最近、九州から壱岐・対馬・釜山と、朝鮮通信使の跡を
たずねてる旅に行ってきました。
ちょっと面白かったので、旅の記録を紹介します。
駐車場でバスを降り、だらだらした坂を登る。
両側に石垣を過ぎると南の見渡せる場所に出る。
リアス式の地形の入り組んだ地形、みどりの丘が連なっている。
「あの辺りが徳川家康、右が前田利家の陣のあったところです」
とガイドさん。
ここは佐賀県の名護屋城址。
天下統一を果たした豊臣秀吉が、朝鮮出兵を計画、
実行に移したのが1592年。ざっと400年前のこと。
秀吉は、最前線の基地として、
松浦党の一族である名護屋氏の居城があった
この地に、巨大な城郭を築いた。
その規模は大坂城に次ぐとされている。
全国から集まった軍勢は、およそ20万に近い。
小西行長・宗義智の第一陣が出兵したのを皮切りに、
壱岐・対馬を経て、次々と朝鮮を目指した。
大規模な城も、今は、石垣が残るばかり。
ウイークデイということもあってほとんど人影はなかった。
ガイドさんの話では、最近は、韓国からの観光客も増えて、
熊本城を案内、「加藤清正の城」と説明すると、
石垣を蹴っ飛ばしていく人もいるという。
天守閣のあとに立てば、北方はるかに、壱岐から対馬へ。
古代から日本と朝鮮を結んだ海の道が続いている。
周囲は緑の丘、森から、ほととぎすの声が聞こえる。
太閤の夢の続きや明け易し
当時、大国の明も過っての勢いは失われ、
平和が続いた朝鮮では、軍事力が弱体化していた。
20万の大軍をもってすれば、明を従わせることが出来ると
秀吉は本気で考えていたのだろうか?
朝鮮出兵の動機については、様々な説があり、
信長の遺志を継いだものという説明もあるが、
これは説明になっていない。
有力な説は、戦国時代を通じて、日本を動かしてきた
天下統一へのシステムが、簡単には方向転換が出来なかったというもの。
戦後日本の高度経済成長を支えてきたシステムが
破綻したと分かっても、容易には方向転換が出来ない今の日本。
同じなにかが作用しているのだろうか?
家康の平和外交路線への転換には、朝鮮出兵・関が原の戦いという
戦争プロセスが必要だったのだろうか?
不穏な動きを感じた朝鮮王朝は、様子を探るために使節を送っている。
正使は、戦争が近いことを警告、
副使が、侵略はあったとしても先の話と否定した。
朝鮮内部では、派閥争いが激烈で、
副使が政権派閥に属していたことから、
副使の意見が取り上げられ、王は警告を無視してしまった。
名護屋城址を案内して下さったガイドさんの名は谷丸さん。
ここに城郭を築くために、各地から石工が集められた。
戦が終っても、なかにはこの地に残った人もおり、
谷丸という姓は、その子孫かも知れないとのこと。
朝鮮出兵は、1598年、秀吉の死によってようやく終る。
国交が回復したのは、関が原の戦いのあと、
徳川秀忠が将軍になった1607年である。
朝鮮通信使の一行は、釜山を出発、対馬・壱岐と
海を渡って九州へ、そして江戸に向かった。
旅は、この逆をたどり、壱岐、対馬から釜山までの5日間。
唐津東港からフェリーに乗って、壱岐へ向かった。
たずねてる旅に行ってきました。
ちょっと面白かったので、旅の記録を紹介します。
駐車場でバスを降り、だらだらした坂を登る。
両側に石垣を過ぎると南の見渡せる場所に出る。
リアス式の地形の入り組んだ地形、みどりの丘が連なっている。
「あの辺りが徳川家康、右が前田利家の陣のあったところです」
とガイドさん。
ここは佐賀県の名護屋城址。
天下統一を果たした豊臣秀吉が、朝鮮出兵を計画、
実行に移したのが1592年。ざっと400年前のこと。
秀吉は、最前線の基地として、
松浦党の一族である名護屋氏の居城があった
この地に、巨大な城郭を築いた。
その規模は大坂城に次ぐとされている。
全国から集まった軍勢は、およそ20万に近い。
小西行長・宗義智の第一陣が出兵したのを皮切りに、
壱岐・対馬を経て、次々と朝鮮を目指した。
大規模な城も、今は、石垣が残るばかり。
ウイークデイということもあってほとんど人影はなかった。
ガイドさんの話では、最近は、韓国からの観光客も増えて、
熊本城を案内、「加藤清正の城」と説明すると、
石垣を蹴っ飛ばしていく人もいるという。
天守閣のあとに立てば、北方はるかに、壱岐から対馬へ。
古代から日本と朝鮮を結んだ海の道が続いている。
周囲は緑の丘、森から、ほととぎすの声が聞こえる。
太閤の夢の続きや明け易し
当時、大国の明も過っての勢いは失われ、
平和が続いた朝鮮では、軍事力が弱体化していた。
20万の大軍をもってすれば、明を従わせることが出来ると
秀吉は本気で考えていたのだろうか?
朝鮮出兵の動機については、様々な説があり、
信長の遺志を継いだものという説明もあるが、
これは説明になっていない。
有力な説は、戦国時代を通じて、日本を動かしてきた
天下統一へのシステムが、簡単には方向転換が出来なかったというもの。
戦後日本の高度経済成長を支えてきたシステムが
破綻したと分かっても、容易には方向転換が出来ない今の日本。
同じなにかが作用しているのだろうか?
家康の平和外交路線への転換には、朝鮮出兵・関が原の戦いという
戦争プロセスが必要だったのだろうか?
不穏な動きを感じた朝鮮王朝は、様子を探るために使節を送っている。
正使は、戦争が近いことを警告、
副使が、侵略はあったとしても先の話と否定した。
朝鮮内部では、派閥争いが激烈で、
副使が政権派閥に属していたことから、
副使の意見が取り上げられ、王は警告を無視してしまった。
名護屋城址を案内して下さったガイドさんの名は谷丸さん。
ここに城郭を築くために、各地から石工が集められた。
戦が終っても、なかにはこの地に残った人もおり、
谷丸という姓は、その子孫かも知れないとのこと。
朝鮮出兵は、1598年、秀吉の死によってようやく終る。
国交が回復したのは、関が原の戦いのあと、
徳川秀忠が将軍になった1607年である。
朝鮮通信使の一行は、釜山を出発、対馬・壱岐と
海を渡って九州へ、そして江戸に向かった。
旅は、この逆をたどり、壱岐、対馬から釜山までの5日間。
唐津東港からフェリーに乗って、壱岐へ向かった。