575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

猫の顔     遅足

2010年01月16日 | Weblog
我家の猫は雌。
しかし顔は、どうみても雄、というか「おとこの顔」です。
とくに、昼間は瞳孔が細く、きつい目つきです。
この目でジロリと睨まれると、コチンときます。
「おまえ、女の子だろう。もう少しやさしい目をしたらどうなんだ。」
と思ってしまいます。

でも、よくよく考えれば、いや、よくよく考えなくても、
猫に「女らしさ」を求めても、詮無いこと。

わかってはいるのですが、今日も、あの目で見られると・・・
なんとも不思議な気分です。

子どもの本など読んでいると、やはり雌猫はやさしく
雄猫は雄雄しく描かれています。
テレビの番組でも、動物に人間生活を投影して楽しんでいる。
万物のモノサシは人間なんですが、猫にとって見れば
「お前、なに言ってるんだ。バカだにゃー」と言ったところでしょうか?


  猫の背のかゆいところに冬日射す   


  
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初句会同行二十のたうちぬ   朱露

2010年01月16日 | Weblog

       豊橋落語天狗連のメンバーの俳句会。
       月例六十回目だが俳句は落語と違う、
       ということが段々分かってきた所だ。
       落語ではコテンパンの私威張る順番。

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ウグイス      草女

2010年01月15日 | Weblog
 日本人にとって馴染み深い鳥の一つで、その名やホーホキェキョと聞きなしされている囀りを知らない人はまずいない。しかしその姿を見たことがあるかの問いに答えられる人は少ないだろう。笹藪や灌木の多い茂みを好み姿を見せるのは、繁殖期に囀るときぐらいなのだ。それも3~4mの低い枝で葉に隠れて囀ることが多い。だから、
バードウオッチャーといえども全身のウグイスをゆっくり観察する機会は殆どない。

 我が家は吹上公園の東150m位の所にあって、餌を置いては鳥を30余年に渡って呼んでいる。こんな場所なのに結構がやって来る。多くやってくるスズメとメジロに混ざってウグイスも来る。30年の間に鳥と居間の距離が縮まり、2,3mの餌にウグイスもくる。野山で見ることができない全身のウグイスである。一見茶色で地味な鳥である
が、端正で精悍な姿である。茶色は正確な色ではなく、茶褐色に灰色が混ざった黄緑なの
だ。お腹は背中より白い。ウグイス餅はインチキでメジロ餅のほうが合うと思ったこ
ともあるが、ウグイス餅が正解で、地味ながら緑色なのだ。
 精悍なのは姿のみで、弱い立場にいる。自分より小さいメジロに追われ、周りを気にしながら餌場に来る。猫や人が去った瞬間、メジロが到着する前がウグイスの出番で、こんなとき全身のウグイスを楽しんでいる。

 歌をわすれたカナリヤという童謡があったが、殆どの鳥は繁殖のため囀る。相手を
得るためであったり、縄張りを宣言するためであったりするが。その時期がすぎると、囀ることができなくなる。歌えないカナリヤはまた歌うようになるから、背戸の山に捨ててはいけない。いまのウグイスも歌を忘れた状態で地鳴きのチャッ、チャッ、としか鳴けない。我が家では、2月10日前後が初音のころである。自分自身が驚いているような、へたなホーホキェキョを囀ってしばらくすると、ウグイスを見ることがなくなる。

 いったいどこへ帰っていくのであろうか。長年の疑問である。

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牡蠣鍋や嗅覚確実減退す    朱露

2010年01月14日 | Weblog

      五感は視・聴・嗅・味・触の五つだ。
      匂わない牡蠣は味覚も蜂の頭もなし。
      従って五感のうち二つが怪しくなる。
      牡蠣鍋の思い出を食いつつ酒を飲む。

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俳句と絵画   麗

2010年01月14日 | Weblog
去年、大阪市立美術館で開催されていた
日本画家の「小野竹喬」展を見てきました。
生誕120年を記念しての展覧会。80歳を超えても新しい
画風にチャレンジしていく姿に、45歳なんてまだまだひよっこと思え、
絵画からエネルギーをもらって帰ってきました。
小野竹喬は芭蕉の「奥の細道」に刺激をうけ、芭蕉の俳句をもとに絵を描いています。

「奥の細道句抄絵」として「暑き日を海にいれたり最上川」の作品は
暖かい色合いで最上川に沈む日輪が優しく描かれています。
30年以上前に俳句と日本画のコラボを実践していた竹喬。

山頭火の句に絵をつけた池田遥邨も有名ですが新しい日本画家を知ることが出来て
嬉しい一時でした。
自分の俳句に絵を描くなんてことが出来たら最高の趣味になりそうですね。
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句会ちかづく    遅足

2010年01月13日 | Weblog
今回の宿題は去年今年。

行く年を惜しみつつ新しい年を迎える。
そんな気持ちの季語です。

難しいので、図書館から本を借りてきました。
愚足さんも愛読の、ひらのこぼさん著、俳句発想法100の季語。

いろいろな発想法が紹介されています。
①なにか移り行くものに思いを託して。
  天窓を過ぎ行く星座去年今年 片山由美子

②身の回りの日常の景を詠むことによって
新年の感慨を。
 針に糸通してゐるや去年今年 細身綾子

③そんな感慨を無視する。逆手に取る。
 なにが去年今年なものか早寝せる 清水基吉

④日常の見過ごしている、ちょっと不安な感じを詠む。
 非常災害用保存飲料水去年今年 池田澄子

この他、家族や恋人など人間関係を詠む句も。

日常のささやかな、ものやこと。
それが去年今年という感慨を持って眺めると
新鮮に感じられるようです。
とすれば、案外、身近に素材はころがっているようです。

   もの捨ててものを忘れて去年今年  遅

    朝からと思ったら

   雪女うしろ姿のとけてをり  遅


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霙降るお食事処人気なし   朱露

2010年01月13日 | Weblog

   霙(みぞれ)は溶けかかる雪で氷雨とも。
   「お食事処」は我が家の道路向こうの家。
   「人気」はこの場合「ひとけ」のつもり。
   日本語は何故こうもひねくれているのか。

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うっかり退治    鳥野

2010年01月12日 | Weblog
今年の目標は、と一丁前に尋ねられたら、答えは「うっかり退治」。

このところ色んなポカをやらかしました。

バスタブの栓を忘れていざと、浴室に飛び込んだら空っぽ。温度設定をせず、あやわや水風呂に入る羽目。コーヒーメーカでミルの粉をフィルターに移さずに、ガラス容器は只の熱湯、ETC。
歳の所為としても、いやになります。

友人曰く「それって、ボケの始まりよ」 そっか。

 ・ わたしにもいいとこ一つはありそうで おらんだげんげの走り根たぐる

                             鳥野


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泥をかぶる    遅足

2010年01月11日 | Weblog
演出家の蜷川さんが、若者たちに「真田風雲録」を
演出しているところがテレビで紹介されていた。

蜷川さんは、若者たちの演技に満足できない。
なにかが欠けている。
コトバで、実際に演技して、指導する。
が、意に添わない・・・

蜷川さんが考え付いたことは奇想天外であった。
若者たちに、頭から、バケツ一杯のドロをかぶせたのである。

演技が変わった。

本番の舞台はドロの海。
若者たちは何かを掴んだようである。

   

最近の若者は「ゆとり世代」と呼ばれているとか。
ゆとり教育を受けてきたこと。
いま一つの特徴は、ケータイで育った世代であること。

その特徴は、直接、人と話すことに極端に慎重。
人を傷つけたり、傷つけられることを恐れるという。
ましてドロをかぶることなど思いもよらないであろう。

蜷川さんが行ったのは、こうした間接的なコミュニケーションを壊し、
体の原始的な感覚を呼び覚ますことだったかも知れない。

オーケストラの指揮者も、コトバでイメージを伝えるが、
肉体感覚に根ざした比喩がよく使われるという。

春の季語に「春泥」がある。
しかし、ドロ道など、もうあまり見ることがない。

そういえば、ドロをかぶる、という表現があったが・・・
もう死語かな?


   春泥や曽祖父にもつ博打うち  


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母の思い出   遅足

2010年01月10日 | Weblog
母が元気なころです。
デイケアから帰って、アイスクリームを
一個ぺろりと平らげました。

そして、こう言ったのです。
「馬勝った。牛負けた。」

「なに?」

「うま、かった。うし、まけた。」

なんとダジャレでした。
これまで一度も聞いたことのないもの。
子供のころの覚えたダジャレかな。

  寒灯の礼儀正しく瞬きぬ

  
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冬籠り敵は幾万ありとても   朱露

2010年01月10日 | Weblog

      ニキロ往復歩き四キロ即ち一里。
      時速四キロだから相当遅く歩く。
      家に着くと四畳半に立てこもる。
      何をするかなど軽々しく言わぬ。


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実朝の海木枯しのあるばかり    遅足

2010年01月09日 | Weblog

昨年、伊豆へ遊びにいってきました。
冬型の気圧配置で、さすがの伊豆も寒風のなか。
天城峠を越えると相模湾。
駿河湾よりは少し穏やかですが、
それでも木枯しが吹き抜けていきます。
砂浜をあるけば、砂が顔をうってきます。
波頭は風にさらわれ、海面には、無数の天馬の足跡・・・

その情景を詠んだ句です。
一応のカタチは出来ているのですが・・・
なにかが足りません。

このままでは一種の慣用句のままです。
慣用句は、効率よく意味を伝えてくれますが、
それだけに新鮮さがありません。

慣用句の関節を外して、一つ一つのコトバを
自由に解放してやらないと。

実朝 海 木枯し

名詞ばかりバラバラ事件に。

木枯しのなかにいた時の身体感覚を頼りに
接着剤となるコトバが飛び込んでくるのを
待っています。
もう一ヶ月、まだ現れません。

   


 木枯しは天馬の蹄
       波を蹴り実朝の海駆け抜けていく

  

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初句会相も変わらぬその中で    朱露

2010年01月09日 | Weblog

     顔触れが代わり映えしたらやり直しだ。
     相も変わらずの顔触れだからいいのさ。
     相も変わらぬ顔で突然凄い句を作った。
     こんな素晴らしい事件が世にあろうか。

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アオキ 草女

2010年01月08日 | Weblog
 ミズキ科アオキ属の常緑低木で、どこにでも生えている。植物観察会のリーダー
はアオキが生えるということは、土地が肥えているということだと常に言っている。反対にコシダが現れてくると痩せて乾いた土地だそうだ。海上の森でも、アオキが多い場所があり、コシダばかりのところありと森の様子は様々である。森全体にアオキは多い。
 幼かったころ、友達の家では、トイレが庭にあるのがふつうであった。トイレの
近くにはヤツデ、ナンテン、アオキなどが植えられていた。余りにもありふれている木とおもっていた。欧米 殊にイギリスで愛でられていると知ったとき、珍し物好きなのであろうとしか思わなかった。

  正月をむかえるとき、玄関にはセンリョウと決めている。理由は好きだから。洗面所、流し、トイレは気分次第で適当に選んでいる。今回思いかけず、孫の面倒をみる日が多くあり、ゆっくり花やさんへ行くことができなかったので、庭で物色することにした。ケルトの人々は真冬に緑の葉を持ち、赤い実を付けている植物に生命の元気を感じ新年を迎える時それを飾った。その精神がクリスマスツリーとして今なお生きているのは、その精神が多くの人々に共感されているからだ思っている。センリョウも緑色の葉に朱色の実である。その線で物色すればまず、フユサンゴ。そのあとは? 庭の北の隅にアオキが赤い実を付けていた。アオキかあと思いつつ切って余分な葉や枝を落とし、白い小さな一輪ざしに活けてみて価値観が変わった。
 艶やかな葉と赤い実、枝も緑色、だからアオキなんだけど、実に美しい。台所の流の灯りに葉も実もキラキラ輝いている。アオキをこのように見たのは初めてだ。 春先、花を咲かせる頃、雌花か雄花かとルーペで覗きこむことはあっても、この木たくさん実を付けていると思うことはあっても観賞することはなかった。新年そうそうの反省。
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炬燵寝やショパン流れる夕間暮れ  朱露

2010年01月08日 | Weblog

    「ショパン生誕二百年記念」C D を買った。
    「雨だれ」は我慢したが「英雄」で泣いた。
    炬燵に寝ころんで泣いたのは初めての経験。
    私の半分しか生きない男に打ちのめされる。

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