写真帳(デジカメ写真のファイル)を捲っていたら、アッ こんな写真も有ったのか、と新しい写真を見つけた ので補足説明。
民宿の門柱の上で睨みを効かせていたボス猫と思われるヤツのUPです。ふてぶてしい顔でカメラ目線。
キツネ顔の猫とは、こんな顔です。
安里屋のクヤマは美味しい物を食っていたと書いたが、ではその当時の一般庶民は何を食っていたかと言 えばこの通り。人頭税を払うため、朝から晩まで牛馬のごとく働いてこの食事、長生き出来る訳がありません。
安里屋クヤマの屋敷跡のヒンプンに書かれてあった「安里屋ユンタ」のでだしの歌詞「安里屋ぬ(の)クヤマ によう、目差主ぬ(の)くゆたらよう」本来の安里屋ユンタの歌詞です。 琉球王朝の地方行政制度は、今の県ま たは複数の市町村をくくった行政単位に相当する「間切」と市町村に相当する自然集落単位の「シマ」から構成さ れていました。各シマには琉球王府から、大屋子(おおやこ)・与人(よひとorユンチュ)・掟(おきて)・目差(めざ し)と呼ばれる役人が派遣されていた。与人は村長相当、目差は助役相当だったらしい。すなわち安里屋のクヤ マは、助役をふって村長の妾(現地妻or賄い女)を選んだと言う訳でした。尚、この「シマ」と言う概念は、沖縄本 島から八重山諸島に至るまで、現在でも生きています。(参考文献「琉球王国」高良 倉吉著)