11・箱根(湖水図)
小田原を過ぎるといよいよ箱根八里の天下の嶮へかかる。芦ノ湖畔の箱根町まで十六粁。海道一の難所であることはよく知られている。羊腸の山路、亭亭の松並木。旅人は馬の背や駕篭で、また草鞋の足も重く登っていく。そして芦ノ湖畔へ達する。一望にひらける芦ノ湖、遠く富士の白雪、右手に駒ヶ岳、神山、左手に双子山、その裾を街道が通っている。「湖水図」と題されたこの絵は配色の特異さで仏蘭西の印象派に影響を与えたといわれている。その配色の特徴は中央にそそり立つ駒ヶ岳らしい山肌に示されている色彩を用いた絵はない。それだけに広重の絵五十五枚の東海道絵中これだけの思いきった山岳描写と色彩を用いた絵はない。それだけに広重の絵としては特異である。構図的にもすばらしさを見せて、左手に深く沈んだ芦ノ湖の水面、遠山の上に富士が見える。これに対して、右手の峨峨たる重畳の山々、箱根を登りきって箱根町へ下りる道を大名の行列が下がっている姿だけが唯一つの動きとなっている。
小田原から箱根までの間に、俗に箱根七湯と呼ばれる、湯本・塔ノ沢・堂ヶ島・宮の下・底倉・木賀・芦ノ湯の温泉の行列があり、古くから今日まで繁栄を見せている。また芦の湖畔には箱根神社があり、宿場町には本陣、脇本陣の外、旅宿が多かった。元来、箱根越えには足柄峠を通る道と芦の湖畔を通るのと二つの道があったが、江戸幕府は元和四年後者を本道と定め、江戸の入り口ともいうべきここに有名な関所を設けて通行人を取り調べた。ここを通行するのには手形必要とし、特に「入り鉄砲に出女」といって、銃器が江戸へ入ること、江戸に人質として置かれた大名の妻女の脱出、また女人に託しての密書の防牒のために厳重に改めが行われた。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小田原を過ぎるといよいよ箱根八里の天下の嶮へかかる。芦ノ湖畔の箱根町まで十六粁。海道一の難所であることはよく知られている。羊腸の山路、亭亭の松並木。旅人は馬の背や駕篭で、また草鞋の足も重く登っていく。そして芦ノ湖畔へ達する。一望にひらける芦ノ湖、遠く富士の白雪、右手に駒ヶ岳、神山、左手に双子山、その裾を街道が通っている。「湖水図」と題されたこの絵は配色の特異さで仏蘭西の印象派に影響を与えたといわれている。その配色の特徴は中央にそそり立つ駒ヶ岳らしい山肌に示されている色彩を用いた絵はない。それだけに広重の絵五十五枚の東海道絵中これだけの思いきった山岳描写と色彩を用いた絵はない。それだけに広重の絵としては特異である。構図的にもすばらしさを見せて、左手に深く沈んだ芦ノ湖の水面、遠山の上に富士が見える。これに対して、右手の峨峨たる重畳の山々、箱根を登りきって箱根町へ下りる道を大名の行列が下がっている姿だけが唯一つの動きとなっている。
小田原から箱根までの間に、俗に箱根七湯と呼ばれる、湯本・塔ノ沢・堂ヶ島・宮の下・底倉・木賀・芦ノ湯の温泉の行列があり、古くから今日まで繁栄を見せている。また芦の湖畔には箱根神社があり、宿場町には本陣、脇本陣の外、旅宿が多かった。元来、箱根越えには足柄峠を通る道と芦の湖畔を通るのと二つの道があったが、江戸幕府は元和四年後者を本道と定め、江戸の入り口ともいうべきここに有名な関所を設けて通行人を取り調べた。ここを通行するのには手形必要とし、特に「入り鉄砲に出女」といって、銃器が江戸へ入ること、江戸に人質として置かれた大名の妻女の脱出、また女人に託しての密書の防牒のために厳重に改めが行われた。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』