13・沼津(黄昏図)
三島から六粁。沼津に達する。三島の朝霧の図に対し、これは夕方の景色である。画題は「黄昏図」。
広重は、三島では朝の旅愁を描き、沼津では夕暮の感傷を描いている。ここは黄瀬川(木瀬川)沿いの細道、街道から外れた寂しさを見せて、広重の絵の根本ともいうべき感傷性を示している。藍一色の夕空に満月が上がっている。その月明かりの明るさの中に、今宵の宿に重い足を引きずる巡礼の母子と修験道者の姿が、なにか哀愁をさそう。保永堂版五十五枚中、月の絵はこれ唯一枚であり、その効果はこの絵を秀作としているが、三島の朝霧の図より幾分落ちる。というのは左手の川向こうの林、つまり絵の左半分が単調であるからである。しかし風景画に、悲しさ、あわれさという人の心を描き出したこの絵は、広重の芸術を知る上で重要な作品である。
沼津は海に近く、千本松原は海道の名所の一つであり、黄瀬川は治承四年奥州から馳せ参じた源義経と兄頼朝対決の場所でもある。また西海に没した平維盛の娘十二才の六代御前は、この千本松原で首を討たれるのを、文覚上人が命乞いをしたところでもある。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三島から六粁。沼津に達する。三島の朝霧の図に対し、これは夕方の景色である。画題は「黄昏図」。
広重は、三島では朝の旅愁を描き、沼津では夕暮の感傷を描いている。ここは黄瀬川(木瀬川)沿いの細道、街道から外れた寂しさを見せて、広重の絵の根本ともいうべき感傷性を示している。藍一色の夕空に満月が上がっている。その月明かりの明るさの中に、今宵の宿に重い足を引きずる巡礼の母子と修験道者の姿が、なにか哀愁をさそう。保永堂版五十五枚中、月の絵はこれ唯一枚であり、その効果はこの絵を秀作としているが、三島の朝霧の図より幾分落ちる。というのは左手の川向こうの林、つまり絵の左半分が単調であるからである。しかし風景画に、悲しさ、あわれさという人の心を描き出したこの絵は、広重の芸術を知る上で重要な作品である。
沼津は海に近く、千本松原は海道の名所の一つであり、黄瀬川は治承四年奥州から馳せ参じた源義経と兄頼朝対決の場所でもある。また西海に没した平維盛の娘十二才の六代御前は、この千本松原で首を討たれるのを、文覚上人が命乞いをしたところでもある。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』