12・三島(朝霧)
箱根から、十五.一粁下った宿場が三島。ここから岐れて天城越えをして伊豆下田をへ至る下田街道が発しているが、東海道と下田街道との分岐点に三島神社がある。この絵はその三島神社の鳥居前、早や立ちの旅人を描いて五十五枚中の準役物といわれる佳作である。廻し合羽にくるまるようにしている馬上の旅人は、まだねむ気が残っているのか、あるいは朝寒か笠の下にうつ向いている。駕篭の旅人も腕を組んでいる。薦にくるまった旅人も見える。そしてこれらの旅人とは反対に街道を下る荷を担いだ旅商人の姿。この一群の旅人に焦点を合わせ、他は一切、背景の神社の鳥居も町並みも、すべて藍と鼠の朝霧の中に模糊としてかすんでいる描写の技巧は、木版画独特のボカシの技術を活用して成功している。ことに、霧の中に遠く影が消えようとしている笠に杖の人と二人の人影はまことに旅愁を思わせる広重の絵の特徴であるセンチメンタルな気分を見せている。画題は「朝霧」とある。
三島神社は、四国伊予の三島明神の分祀されたもので、治承四年八月十七日、神社の神事に際し伊豆へ流されていた源頼朝がこの神社に祈願ををこめて旗挙げをした。そのために鎌倉幕府の異常な崇敬をうけていたという。伊豆の一宮である。箱根の峠を越えた人、また越える人の宿泊地として繁栄を見せた宿場で、三島女郎衆によっても知られている。富士山の白雪がとけて流れて、この三島女郎の化粧水となる、その俚謡もあるくらいで、町には清冽な水が流れている。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
箱根から、十五.一粁下った宿場が三島。ここから岐れて天城越えをして伊豆下田をへ至る下田街道が発しているが、東海道と下田街道との分岐点に三島神社がある。この絵はその三島神社の鳥居前、早や立ちの旅人を描いて五十五枚中の準役物といわれる佳作である。廻し合羽にくるまるようにしている馬上の旅人は、まだねむ気が残っているのか、あるいは朝寒か笠の下にうつ向いている。駕篭の旅人も腕を組んでいる。薦にくるまった旅人も見える。そしてこれらの旅人とは反対に街道を下る荷を担いだ旅商人の姿。この一群の旅人に焦点を合わせ、他は一切、背景の神社の鳥居も町並みも、すべて藍と鼠の朝霧の中に模糊としてかすんでいる描写の技巧は、木版画独特のボカシの技術を活用して成功している。ことに、霧の中に遠く影が消えようとしている笠に杖の人と二人の人影はまことに旅愁を思わせる広重の絵の特徴であるセンチメンタルな気分を見せている。画題は「朝霧」とある。
三島神社は、四国伊予の三島明神の分祀されたもので、治承四年八月十七日、神社の神事に際し伊豆へ流されていた源頼朝がこの神社に祈願ををこめて旗挙げをした。そのために鎌倉幕府の異常な崇敬をうけていたという。伊豆の一宮である。箱根の峠を越えた人、また越える人の宿泊地として繁栄を見せた宿場で、三島女郎衆によっても知られている。富士山の白雪がとけて流れて、この三島女郎の化粧水となる、その俚謡もあるくらいで、町には清冽な水が流れている。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』