38:二世小佐川常世の竹村定之進妻桜木

この図は、寛政六年五月河原崎座の「恋女房染分手綱」に登場する小佐川常世役の桜木である。
この常世という女形は、愁嘆事に秀いで、花やかさに乏しく「実六分花四分」と評された役者である。
しかし当時の有名な女形であった瀬川菊之丞、岩井半四郎につぐ名女形であった。
そうした常世の芸風が、この絵では実によく描出されていて、写楽の役者絵の本質を実によく具現しているといっていい。
顔面描写の固さにも、打掛の緑に対して、着物の薄紅の対照にしても、襟の白の部分を広くとったことにも、どこか寂しさがあり、切腹して果てる妻の心情といったものが如実に感じられ、ごく地味な絵であるが、写楽の芸術を知る上では、最も重要な作品の一つであると思う。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この図は、寛政六年五月河原崎座の「恋女房染分手綱」に登場する小佐川常世役の桜木である。
この常世という女形は、愁嘆事に秀いで、花やかさに乏しく「実六分花四分」と評された役者である。
しかし当時の有名な女形であった瀬川菊之丞、岩井半四郎につぐ名女形であった。
そうした常世の芸風が、この絵では実によく描出されていて、写楽の役者絵の本質を実によく具現しているといっていい。
顔面描写の固さにも、打掛の緑に対して、着物の薄紅の対照にしても、襟の白の部分を広くとったことにも、どこか寂しさがあり、切腹して果てる妻の心情といったものが如実に感じられ、ごく地味な絵であるが、写楽の芸術を知る上では、最も重要な作品の一つであると思う。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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