
【原文】
筆を執れば物書かれ、楽器を取れば音を立てんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤だ打たん事を思ふ。心は、必ず、事に触ふれて来きたる。仮にも、不善の戯をなすべからず。
あからさまに聖教の一句を見れば、何となく、前後の文も見ゆ。卒爾にして多年の非を改むる事もあり。仮に、今、この文を披げざらましかば、この事を知らんや。これ則ち、触るゝ所の益なり。心更に起らずとも、仏前にありて、数珠を取り、経を取らば、怠るうちにも善業自から修せられ、散乱の心ながらも縄床に座せば、覚ずして禅定う成なるべし。
事・理もとより二つならず。外相もし背かざれば、内証必ず熟す。強ひて不信を言ふべからず。仰てこれを尊とむべし。
【現代語訳】
筆を手に取れば自然と何かを書きはじめ、楽器を手にすれば音を出したくなる。盃を持てば酒のことを考えてしまい、サイコロを転がしていると「入ります」という気分になってくる。心はいつも物に触れると躍り出す。だから冗談でもイケナイ遊びに手を出してはならない。
ほんの少しでも、お経の一節を見ていると、何となく前後の文も目に入ってくる。そして思いがけず長年の過ちを改心することもあるものだ。もしも、今、この経本を紐解かなかったら、改心しようと思わなかっただろう。触れることのおかげである。信じる心が全く無くとも、仏の前で数珠を手に、経本を取って、ムニャムニャしていれば自然と良い結果が訪れる。浮つく心のまま、縄の腰掛けに陣取って座禅を組めば、気付かぬうちに解脱もしよう。
現象と心は、別々の関係ではないのだ。外見だけでも、それらしくしていれば、必ず心の内面まで伝わってくる。だからハッタリだとバカにしてはならない。むしろ、仰いで尊敬しなさい
◆鎌倉末期の随筆。吉田兼好著。上下2巻,244段からなる。1317年(文保1)から1331年(元弘1)の間に成立したか。その間,幾つかのまとまった段が少しずつ執筆され,それが編集されて現在見るような形態になったと考えられる。それらを通じて一貫した筋はなく,連歌的ともいうべき配列方法がとられている。形式は《枕草子》を模倣しているが,内容は,作者の見聞談,感想,実用知識,有職の心得など多彩であり,仏教の厭世思想を根底にもち,人生論的色彩を濃くしている。