【原文】
夫、人の友とあるものは、富めるをたふとみ、懇ろなるを先とす。必ずしも情あるとすなほなるとをば不愛。只絲竹、花月を友とせむにはしかじ。人の奴たるものは、賞罰のはなはだしく、恩顧厚きを先とす。更にはぐくみあはれむと、やすくしずかなるをば願はず、只わが身を奴婢とするにはしかず。いかが奴婢とするならば、若しなすべきことあれば、すなはちおのづから身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人を従へ、人をかへりみるよりはやすし。若し歩くべき事あれば、みづから歩む。苦しといへども、馬鞍、牛車と心を悩ますにはしかず。 今一身をわかちて。二つの用をなす。手の奴、足の乗物、よくわが心にかなへり。心身のくるしみを知れゝば、苦しむ時は休めつ、まめなれば使ふ。使ふとてもたびたび過ぐさず。物うしとても、心を動かす事なし。いかにいはむや、常に歩き、常に働くは、養生なるべし。なんぞいたづらに休み居らむ。人を惱ます、罪業なり。いかゞ他の力をかるべき。 衣食のたぐひ、又同じ。藤の衣、麻の衾、得るに隨ひて肌を隠し、野邊のおはぎ、嶺の木の實、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじらはざれば、姿を耻づる悔もなし。糧乏しければ、おろそかなる報をあまくす。総てかやうの樂しみ、富める人に對していふにはあらず、たゞわが身一つにとりて、昔今とをなぞらふるばかりなり。 |
【現代語訳】
それ、人が友人を選ぶときは、富者を尊重し、身近に行き来している者を大事にする。かならずしも情ある人や率直な人を愛するわけではない。だがそれなら、絲竹や花月を友としたほうがましである。人に召し使われている者は、賞与が多く、物をくれる人を大事にする。可愛がってくれるとか、平穏無事であることを願ったりはしないものだ。だがそれなら、自分自身を自分の召使にしたほうがましである。どのように自分を召し使うかというと、もしなすべきことがあれば自分で自分の身を使う。面倒でないこともないが、人を従え、人を指示するよりは簡単だ。もし歩くべきことがあれば、自分自身で歩く。苦しいといっても、馬鞍や牛車に心を悩ますよりましである。
それ故自分は、一身を分かって、(主人と召使の)二つの用をしている。手を召使とし、足を乗り物とすれば、自分の思いどおりになる。心が身の苦しみを知っていれば、身が苦しむときは休ませ、元気なときには使う。使うといっても、そうたびたびは度を過ごさない。仕事が大儀であっても気にしない。ましてや、常に歩き、常に動くのは、体にとって養生になる。どうしていたずらに怠けようか。人を悩ますのは罪業である。どうして他人の力を借りるべきだろうか。
それ故自分は、一身を分かって、(主人と召使の)二つの用をしている。手を召使とし、足を乗り物とすれば、自分の思いどおりになる。心が身の苦しみを知っていれば、身が苦しむときは休ませ、元気なときには使う。使うといっても、そうたびたびは度を過ごさない。仕事が大儀であっても気にしない。ましてや、常に歩き、常に動くのは、体にとって養生になる。どうしていたずらに怠けようか。人を悩ますのは罪業である。どうして他人の力を借りるべきだろうか。
衣食のたぐいもまた同じである。藤の衣、麻の布団を手に入るにしたがって身にまとい、野辺の嫁菜、峰の木の実をとってわずかに命をつなぐ。人と交わらないので、姿を恥じることもない。食料が乏しいので、粗末なさずかりものもおいしく感じる。そうじてこのような楽しみは、富者に向かって言うのではない、ただ自分自身に関して、昔と今とを比較して言うだけのことである。
◆(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆[1]。日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。
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