以前から小松左京さんは関西ではその親しみやすい言動で愛されてきた。小松さんは西宮で育ち、中学も神戸一中の卒業生でTVで見かけても喋る言葉はジュンカン(純粋関西弁)だった。
だからてっきり生まれながらの関西人かと思い込んでいたが、父親は房州人で母親は東京の出身だったと知って驚いた。
Wikipediaから⇒先祖は阿波(徳島県)の小松から千葉の外房に行った漁師の一族[1]。父親は明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)夜学在学中に東京の老舗の漢方薬屋の娘と婚約しのちに結婚した[1][2]。父親が薬学を捨て電気機械の商いを志し、大阪で金属加工の町工場を興したため、大阪府大阪市西区で五男一女の次男として生まれた[2]。4歳のとき兵庫県西宮市に転居し、その後は尼崎と西宮で育った[2]。引用ここまで。
彼もまた家の外では関西弁だが家に帰ると両親とは関東言葉で会話していたのだろう。
NHKの「100分で名著」で小松左京が取り上げられて、宮崎哲弥が指南役として目からウロコの話をした。宮崎哲弥の話を面白く聞いているうちに、
(全く同じことを、異なった観点から感じていらっしゃったのが宮崎さんでした。SFという文学の奥深い可能性について、番組テキストではこんな風に語られています。
「世界の存在理由、宇宙の存立構造を解き明かすことで個々の実存の意味を定める、という古来「神話類」が果たしてきた役割を、近現代において担ってきたのはSFなのです。
元来広義の文学は神話説話や宗教叙事詩を含み、かかる機能性を具備していたのですが、近代文学の成立とともに「神話類」が駆逐されてしまいます。(中略)近代において「神話類」が退場した後の空位を、「サイエンス」やテクノロジーのリアリティを用いながら占めていったのがSFだったのです」)
どうも自分は小松左京をほんの一部しか知らないなと思いだした。この人は日本の文学史の中でとてつもない大きな存在なのかもと思いだした。
小松左京は大変なボリュームの知的生産をしている。彼の全集全50巻の最終巻は自伝だった。
いつもの図書館の蔵書検索をネットでするとその自伝があった。小松左京は秀才ではなく天才の一人だが凄いのは人との付き合いの中で自分の石を磨いて宝石になっていったことだと思った。
【内容情報】(「BOOK」データベースより)
1973年に発表した『日本沈没』が大ベストセラーとなり、2006年にはリメイク映画も公開され話題を呼んだ、日本SF界の巨匠・小松左京。その原点とも言える、戦後の焼け跡から始まった青春時代、文学との出会い、SF作家の道を歩むに至った契機とは、どのようなものだったのか?また、今なお輝き続ける膨大な作品群を生み出した執筆の舞台裏では、どのような着想や人々との出会いがあったのか?文学の枠を超え、宇宙とは、生命とは、そして人間とは何かを問い続ける作家の波瀾万丈の人生と創作秘話。
一部紹介・・「神戸一中の二年上の僕の尊敬していた先輩が特別幹部候補生で海軍に行ったんだけど、
終戦前に練習機のエンジントラブルで墜落死している。彼の家族も阪神間の大空襲で全滅したから・・」
小松左京展で“かんべむさし”さんの講演を楽しんだ 2011-08-28 掲載
お題は「神戸・人・小松左京」。江戸時代の神戸の回船問屋・北風家、鈴木商店の大番頭・金子直吉と鈴木商店の興亡史。桂枝雀と野坂昭如は
中郷町2丁目、3丁目で戦前の同時期に少年時代を過ごしたこと。小松左京の突拍子もないお調子者の一面と繊細な正義感、そして幅と奥の深い包容力。
戦時中の神戸一中で配属将校から中学生の小松が、4時間殴られ蹴られボロボロにされた拷問のこと、教師たちの忠君愛国教育から、
敗戦後手のひら返した民主主義教育の浅ましさ。星新一や筒井康隆とSF人たちのエピソード。中学同級の高島忠夫とのバンド活動。
そして聞きたかった小松左京と開高健の交友関係。やはり二人は肝胆相照らす仲だったそうだ。
盛りだくさんの内容の一時間半を堪能しました。肉声で聴く日本のSF作家の内輪話はやはり面白い。
会場で不動坂の日本料理「西嬉」の女将さんに声をかけられてびっくりしました。
彼女も昔からのSFファンなのだそうです。