次のようなメールを50年を越える長い付き合いの山内さんから7月24日に受信しました。
⇒コロナ禍の中、延期していました4回目の四国遍路、六週間で終え、先週末無事帰宅しました。遍路中の思いを帰ってから少し整理してみました。
長~いですが、宜しければ、読んでみて下さい!勿論スルーOKです。
ご存知の様に、四国遍路では、「空海さんとの同行二人」と言うことが常套句の様になっていますが、私は一度もそんな思いを持った事はありませんでした。
先ずは、「何故私は、“同行二人”を空海さんと一緒と、とらえないのか?」について、二点だけ、説明させて頂きたいと思います。
一点目;私は、中学時代に「人は、何の為に生きるのか?」と言う、言わば人間の価値に関わる問題に出くわしてしまい、
大学では、「般若団」と言う実践と理論の両面から坐禅に取り組むクラブに入り、大学近くの祥龍寺と言う禅寺から大学に通いました。
今もって、毎朝の坐禅は、私の生活の基底を支えてくれているように思います。仏教を少しかじりだして、直ぐに得た確信がありました。
それは、前回も書きましたように、地位、健康、富、家族等いわゆる“(世間的)幸せ”全てを捨てた、
と言うか、それに満足出来ずに出家された釈迦が、「私を信じたら、事業がうまく行く、家庭円満になる、健康になる・・」なんて
ご利益を言う筈は、絶体にないと言うものでした。“ご利益”を説く限り、空海さんが、いくら立派な方でも、
日常の私と同じ次元にあると言わざるを得ず、いくら世間の人が信じていても、私にとっては、“同行二人”の二人目にはなり得ないと考えています。
二点目;いくら偉そうに言っても、私も、社会に役立つことを目指して、言わば、比較・代替可能なone of themの自分として生きて来ました。
しかし、釈迦は、人は、生きる為には、one of themとして生活せざるを得ないけれど、実は、比較・代替不可能なonly oneの生命として生まれ来たと、
終世説かれた方だと理解しています。学生時代に、おこがましくも、「釈迦に出逢いたい」と言う野望を抱いた私にとっては、
「同行二人」とは、“現実のone of them”と“生来のonly one”の二人の自分と考えざるを得ないのです。
ただ、釈迦のonly oneは、“世界でたった一つの花”のように、他人と比較した自分に居直ったような、“言葉が描くonly oneの自分”ではなく、
誤解を恐れずに言えば、比較は勿論言葉にすら出来ない“当の本人が感じる以外に術の無いonly oneの自分”、
言わば「究極のonly one」とでも言うべきものであろうと考えています。何か、ややこしく聞こえるかも知れませんが、実は静かに、
自分の日頃を“観”てみますと、「何かを相手に伝えようとする時、いつも自分の体験や感覚に1番近い言葉を選んではいるが、
自分の体験や感覚そのものは語れていない」事に気付くと思います。その上、「体験や感覚は、言葉にした時には、その体験や感覚は、
実は少しとは言え、過去のものである」ことにも気付く筈です。①例えば、“リンゴの味やアロマの匂い(口に鼻にしたら、
自分にその気が無くても、自ずと味や匂いが現れます。同時に、それは自分にしか分かりません。
相手に伝えようと言葉にしたとしても、自分の体験を完全に表現することは不可能であり、かつ言葉にした時には、
既に過去の記憶でしかありません。)”、その他の五感の全ても、同じです。ホモサピエンスは、
お互いの体験や感覚を言葉によって疑似共有することで、社会生活を成り立たたせて来ました。言葉で通じ合えますから、
何か同じ体験をしてると錯覚しているのです。言葉が、この共通概念を創ることによって、人間の社会生活を可能にしたと同時に、
自分を“one of them(共通概念)”と思い込む錯覚に陥いっているのです。
釈迦は、「ビッグバン由来の生命に生かされながら、かつ宇宙広しと言えども、たった一つの自分だけの体験や感覚の世界を“究極のonly one”として、
我々は生きている」事に気付いた最初のホモサピエンスだろうと思います。誰も見る人もいないのに、道端で生き生きと咲いている名も知らぬ草花、
たった一週間の生命を懸命に生き切る蝉など、自然界の姿に、自分の生命の本来の姿を見る思いがしてなりません。
コロナ騒動で、多くの人が感じた今と自分の生命のかけがえの無さの思いは、この事を教えてくれていたのではないでしょうか、
②しかも、“究極のonly one”とは、“世界と隔絶した一人ポッチの自分”と言うことでは、決してありません。むしろ逆なのです。
「古池や・・」や「静けさや・・」の芭蕉の歌は、“静けさ”の代表の様な歌ですが、古池や岩を歌ってはいますが、
本来、自分も他人も無い本来の体験や感覚の世界の様子を歌っているのではと私は理解しています。この歌の“古池”や“岩”は、
どんな蛙や蝉が飛び込んで来ても、自分の世界の一部であるかのように、何も気にしないで、全てを受けとめているかのように感じませんか。
世界を自分として生きているとでも言うのでしょうか。禅宗では「他己(他人と言う名の自己)」と言う言葉で、この事を表現しています。
事実、“美味しい!良い匂い!”とか感じたその瞬間には、“良い匂い”や“美味しい味”だけが、そこには在るだけで、
自分とか対象とかの意識は全く消えているのではないのでしょうか。これは、その時、“古池”や“岩”の様に、
自分が、対象と出逢っているからとは言えないでしょうか。現代人は、良い匂いや音楽で心が落ち着くと
「それって、何とかホルモンのせいよね!」とか言って、何か分かった気になってしまいます。
頭の納得だけで終わるとすれば、本当に勿体ないことだと思います。
ホモサピエンスが、ホルモンの存在に気付くはるか前から、生命は、その様に働いて来たのです。
ノーベル賞など及びもつかないこの驚愕すべき本当の生命の不思議を、見落としてしまっているのですから。
これって、折角コロナ騒動が、感じさせてくれた、“何気ない今や自分の生命のかけがえの無さ”を、直ぐに忘れて生きている
自分の日常とダブって来るように思われてなりません。自分も忘れ、時も忘れて遊ぶ孫たちの姿を、何か羨ましく、懐かしく感じるのは、
本来の自分の生命の姿を観る思いがするからかも知れませんね。
いずれにしても、人生そのものが、「“頭が描くと言うか言葉が創り出したone of themの自分”と“生命の体験と言う究極のonly oneの自分”の同行二人」だった
のだと言うこと、そして人が神になると言うハラリ氏の本が世界的ベストセラーになる様なAIと生命操作の時代の今こそ、
人知の及ばない生命の不思議さ・生命を生み出し育んでくれている地球の不思議さに、もっと思いを致すべきではないか、
近代においてホモサピエンスは、「普遍的人権」と言う素晴らしい共通概念を紡ぎだしましたが、
生命は全て“究極のonly one”であると言う事実こそが、この理念の実体を成しているのではないかと、改めて痛感させられた遍路でした。
重度知的障がい者の話で長い長い駄文を終わりたいと思います;
生まれついたままに、言葉や概念の無い、従って比較・代替不可能の一生を送る重度知的障がい者が、もし我々を、認識できたら、
「折角“究極のonly one”と言う生命を授かりながら、自分を“one of them”と思い込んで、概念の世界で右往左往して生きてるなんて、
五体満足の人って、なんて不幸せなんだろう」と呟くのではないでしょうか❗“役に立つ”かどうかは、相手が決めることとすれば、
もし重度知的障がい者のこの声が、自分に聞こえたら、その時、重度知的障がい者は、どんな聖職者もどんな学者も及ばないほど、役に立っていると言えるのではないでしょうか!
ピースボートで船旅に出るとき、還暦の時に出逢い、その後20年近く私の坐禅の師である人から頂いた
「人は、“生命から生まれ、生命を旅し、生命に帰る。”どうか良い旅を❗」との言葉が、何度も頭を過りました。
追記①;もし一度遍路してみたいと思われる、あるいはそう言う方が近くにおられる皆さまへ;
「遍路は、誰でも、出来ます」と言いたいと思います❗最初の頃は、私も、どこまで歩いたら遍路の目処が立つのかと言う質問を、経験者に良くしたものです。
経験者は、大体「まぁ、足摺岬到着かなぁ」とか答えていました。しかし今私がその問を聞かれたら、「それは、歩いた距離の問題ではなく、
あくまで、SDGならぬ自分のSWPの問題です❗」と答えると思います。SWPとは、サステイナブル・ウオーキング・ペースの頭文字です。
要は、いつまでも歩き続けられる自分のペースと休憩のタイミングに気付く事が出来さえしたら、誰でも遍路は完結出来ると言うことです。
特に、私は、休憩の時に、足や体の疲れが、回復していくのを感じられるようになったら、もうしめたものと思っています。
だって、疲れが回復する限り、次の一歩は、必ず踏み出せるからです。その気で自分を“観”ていれば、誰にでも分かることです。
後は、自分のペースで「歩く・休憩」をただ繰り返すだけです。つまりは、お遍路の時も、“頭の産み出す不安や意欲に煽られることなく、
ただ、自分の生命を感じ、ただ、生命に任せる”ことが、一番大切なように思います❗(実は、“SWP”は、私の造語ですが、遍路も坐禅も、
そして生きると言うことそのものが、“生命がただ生命してるだけなのに、自分が一歩を踏み出さないと何も始まらない❗”と言う行為だった❗と、
ハッキリ気付かされたのが、今回の遍路の成果だったように思います❗)
追記②;因みに、遍路でも読まない人のいない「般若心経」ですが、今回この様な解釈に至りました。申すまでも無く、「観自在菩薩」で始まります。
私は、今までの説明で、見るの字を“観る”と書きましたが、実は、これは“観自在菩薩”の“観”なのだと理解しています。
①で書いた様に“究極のonly oneとして自分を観ることを指しています。“観自在”とは、①の様に自分を観て、なおかつ②のように、
自分や他人だと拘らずに、つまり他人すらも“他己”ととらえ、“(自由)自在”であるとの意味だと思います。その後に、“深般若”と出てきますが、
観自在こそ、深い智恵だと言っているのだと思います。そして、この時、“照見五蘊皆空”つまり、「自分とは、生命がただ生命しているだけで、
自分など何処にもいないとも言えるし、その生命が体験や感覚を通して自分だけの世界を展開してくている、つまり、自分は無いとは言えない
、頭や言葉ではとらえられない、そこで“空”だと、自分の正体に気付く❗」と言うことかと思いました❗
長い長いお粗末な駄文読んで頂き有り難うございました。
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山内さんから2015年に頂いたメールの中に遍路について触れた次のような箇所がありましたのでご参考まで
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遍路体験から私が感じたこと 2015年11月
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私がした遍路の概要
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・総行程1200kmとも1400kmとも言われる88ケ寺を約7kgの荷物を背負って、1番から
88番まで、徒歩で踏破。寺の中には800mや900m級の山にあるのが3つほど、4・500m級
の山にあるのは10程度。寺と寺の間が100kmを超えるところもあります。一回目は68歳の時、
父の初盆前に42日間で、二回目は70歳の時、35日間でしました。来年秋には 今度は 逆回りで、
最初の遍路で出会った友達とテント持参で歩く予定です。
・二年ほど前から始めた修験道は、今年大峰奥崖修験道を全て踏破しましたが、今後も75歳くらいが、
限度かと思っていますが、遍路は出来れば85歳位まで続けたいと今は思っています・・・。
② それで結局遍路ってどうだったの?
・“遍路は歩禅”とは、私と同じような年齢で二回の歩き遍路をした父が書き遺した言葉ですが、私も私な
りに“遍路は、歩く坐禅だ!”と実感しました。
・“遍路とは道に迷うことである”とでも言えるくらい道に迷います。その時の思わぬ人の思わぬ親切そし
て果物などのいわゆる接待→心からの感謝の念が自然に生れる瞬間です。生きているというよりは、生か
されているという感覚が、自然に無理なく出てくる瞬間です。
・10日も歩いていると体で痛くない所を探すのは不可能なくらいになります。宿に入るともう明日はアカ
ンと思う事が何回もありました。でも、一晩寝ると、不思議と疲れが取れています!そんな生命力が自分
にあったのです!これも日常的にはわれわれが、忘れ去っている感覚と言えます。自分は生命が生きてく
れているのだという感覚が、自然に無理なく出て来ます。
・坐禅をしていると、時間が気にならなくなる時が確かに訪れます。一週間接心していても、坐るにつれて
時間の経つのが次第に速くなり、そしていつの間にか終わったということは珍しくありません。遍路でも、
山間部では限りなく山裾、海辺ではこれでもかこれでもかと連なる岬が、目に映りながら全く気にならず、
今の一歩をただ今一歩するだけという心境が確かにやってきます。過去があり未来が在るのではなく、時
間は、只今・今と過ぎていることを実感する瞬間です。
③遍路のあとの体験
坐禅をしていると、見るとか聞くではなく、目に入るとか耳に入ると言った感覚が自然に生れます。特に聞
くは、耳をつむるわけにはいきませんので、否が応でもその感覚は、ごく自然のものと言えます。また思う
の前に勝手に思いが浮かぶという感覚も直に生れます。しかし大体それは坐禅中だけの感覚に終わっていま
したが、二回の遍路を終えた後、ある朝ベッドで目が覚めた時、いつものように鳥の声が聞こえ、日の光が
眼に入り、いつものようにあくび・伸びがつい出てきましたが、いつもとは少し違って、その時は、鳥の声
が聞こえ、日の光が見え、あくびや伸びが出てくるのは、本当に自分が意識して出したものだろうか?とい
う疑問が、突然湧いてきました。これらの一連の事は思わずともおのずと起きているのではないのか。丁度
寝ている時の呼吸や心臓の動きのように!しかし鳥の声や日の光入ってきた、あくび・伸びをしていると言
う実感は生々しく間違いなく存在しています。しかもこの実感は、いつものように横のベッドで寝ている妻
に、会話である程度は、伝えることは出来ても、絶対に共有することはできません。宇宙広しと言えども、
私だけの実感です。実感である限り、私にとっても、一生で、たった一回キリの実感です。日ごろは世界が
先に在り、その中に自分は生れ出て、世界の一員として生きていると思いこんでいたのが、実はナマの実感
の世界では、世界は、自分の実感が、一瞬・一瞬創りだしているとも言うべきではないのか、五官に入って
くる人やモノそしてコトは、全て自分の人生の中身と言えるのでないかと感じもしました。
その後は、ベッドの上だけでなく、早朝の爽やかさの中で庭やベランダに立ったり、修験道で、日のまだ上がる前の山道を歩いていますと、
同じような実感が生れてきます。気付いて見ると、それは、正しく学生時代以来つかず離れず付き合って来た坐禅の中身でもありました。