阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

旧中川には何となく秋の気配が漂いだしていた。

2020年08月28日 | 身辺あれこれ

8月には30何度の日が毎日続き、月初には一回目の白内障の手術も受けたのでついつい外歩きが減っていた。

両眼の手術も終わり予後も順調なので、しばらくぶりにわずかな距離だったがウオーキングして脚力の衰えはないことが確認できた。

水辺がすぐそこにあるのは有難いなあと思いながら歩いた。眼鏡があっても細部がぼやけていた景色が眼鏡なしでくっきり見えるのは新鮮な驚きだ。

歩行数 4509歩 距離 2.9km

 

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大阪天神橋筋商店街3丁目・与力町「酒房 竹うち」で5M会の集まり     2014年の今日   8月28日に掲載

2020年08月28日 | 食べる飲む

私はほぼ40日ぶりの『酒房 竹うち』でした。JR六甲道から尼崎で同じホームの東西線に乗り換えで「大阪天満宮駅」下車。
このルートが店への最短で、家からドアtoドアで1時間10分。5人集まった5M会になりました。
沢山の品数をおいしく食べて予算以内の支払いでいつもありがたいことです。

 アルバムはBGM付き

帰りも同じルートで最終バスに乗ることが出来ました。タクシー代が上がったので、帰りは出来るだけバスのある時間に駅に着くようにしています。

 M会とは苗字か名前にMがつく人ばかりいたので付いた会の名。

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人は、“その人の生き方”で死んでいく -「賢人論。」第119回(前編)小堀鷗一郎

2020年08月28日 | SNS・既存メディアからの引用記事
一部引用・・・・診療内容は患者の状態によってさまざま。外科医の頃は「救命・根治・延命」といって、何がなんでも命を救って、治して、1分1秒でも患者さんを長く生かすことが仕事でした。しかし、訪問診療ではそうではない医療も考えなくてはなりません。

例えば、97歳の寝たきりのおばあちゃんがいて、調べてもどこも悪いところが見あたらなかったとします。ただ、ご飯を食べることができず、眠ってばかりいる状態です。この場合、僕らは徐々に体が衰えて死に近づいていくのを静かに見守るしかありません。食べられないからといって入院させて点滴をしたとしても体が受けつけなくなっており、かえって苦しませてしまうことになるんです。

「在宅死」か「入院死」か?正解は1つではない
みんなの介護 死期が近づいている患者にとって、点滴や手術などの積極的治療が望ましい医療行為とは限らないわけですね。しかし、家族から検査や治療を要求されることもあるのではないでしょうか。

小堀 はい。こういった事例もありました。

長男夫婦と同居していた101歳の女性が、突然、自力でベッドに上がれなくなってそのまま寝たきりになってしまった。女性は次第に食事も取れなくなり、ある日、清涼飲料水を100ミリリットル飲んで寝入ったまま、2日間目を覚ましませんでした。

当初、家族は「在宅看取り」を行うと決めていました。ところが、女性が息を吐くときに発するかすかな息遣いを耳にした長男が「苦しそうだ。母がかわいそうで耐えられない」と言い出し、急遽入院させることになったんです。そして、中心静脈栄養による栄養管理と、併発した肺炎に対する気管切開・人工呼吸器の装着が行われました。

はじめの1ヵ月は家族も頻繁に病院を訪れていたのですが、女性に意識がなかったために、家族の訪問に対する反応もなく、次第に家族の足も遠のいていきました。女性はその後10ヵ月余りを暗い集中治療室で1人で生き続けました。そして、ある日夜勤の看護師がナースステーションのモニター画面の波形が平坦になっていることに気づき、死亡が確認されたのです。

この事例の女性が本来迎えるはずだった“望ましい死”とは、小柄な体を丸めて横たわっているそばで、家族や主治医、介護関係者が見守る10ヵ月前の「老衰死」のはずです。長男を責めるつもりはありませんが、結果として彼の判断は病院における「孤独死」を招いてしまった。

それまで僕は、患者さんや家族の要請通りに対応するのが務めだと思っていましたが、このことがあってからは方針を転換し、自分の意見を伝えるようになったんです。

みんなの介護 そもそも終末期医療における延命治療は行き過ぎではないかという見方も広まっているように見受けられます。

小堀 ただ、だからといって「在宅死」ばかりが“望ましい死”とも限りません。

以前、事前の話し合いでは在宅死を望んでいた一人暮らしの末期がんの患者さんが、最後の最後に気持ちを翻し、病院のベッドでチューブにつながれて輸血を受けながら、笑顔を浮かべて幸せそうに亡くなった。人知れず1人で死を迎えるよりも、医療の恩恵にあずかって死ぬことの満足を選んだんです。

人によっては「在宅死」より「入院死」を望むケースもあります。いつ、どのタイミングで判断するかによっても結果は違ってくる。結局のところ、訪問診療医の仕事というのは「どうすれば“その人らしい死”を迎えられるか」を当人はもちろん、家族や介護関係者とも一緒になって考え続けることです。繰り返しになりますが、「人は、“その人の生き方”で死んでいく」。そこに、これだ!という正解はないんですよ。


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