阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

高校の同期会(いざよい会)に126人が集まりました。            10年前の今日2012年9月19日の本ブログ掲載 

2022年09月19日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

恩師は3名出席された。同じクラスの人は15人参加。卒業以来初めて会う人もいてやはり出席して良かった。

 通学で毎日乗降したJRの駅前はもう全く別の風景になっていて 当時の面影は全くない。

同窓会の会場は巨人の原監督が一億円を払う羽目になりその原因を作った場所であると、メディアに報道されたJR芦屋駅前の「ホテル竹園」だった。 

 通学当時も読売巨人軍の関西の定宿だった駅前の旅館「竹園」は、今はホテルになった。

校歌を歌ったのは何十年ぶりだろう。

 

帰りは芦屋川沿いの道を阪急芦屋川駅に向かった。






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阿智胡地亭は高校の途中で転校したので 二つの高校に在籍したが、二つの高校はともに夏の全国高校野球大会の優勝校だった。

#33「夏の甲子園大会」 2003.8.23記

テレビで今年の夏の第85回高校野球の入場式というのを始めから終りまで見た。

入場行進の先頭の方に歴代優勝校の全校旗がそれぞれ掲げられて行進するということを初めて知った。

一緒に見ていた相方に「ボクが在籍した高校と卒業した高校の二つの校旗があそこに入って行進してるんや」とつい自慢気に言ってしまった。

「もう何回も何回も聞いてるから知ってる。ホントに良かったね」と返事がかえってきた。

 昭和30年の第37回大会は初出場の三重県立四日市高校が高橋投手の力投で優勝した。高橋投手はその後ジャイアンツに入団したが、
投手としては芽が出ず長くスコアラーとして巨人軍に在籍したと思う。当時四日市市で中学一年だったボクの同じ学年には出場選手の弟もいて、
中学も大騒ぎだったし、四日市市そのものも沸きに湧いた。

  現在の四日市高校


3年後の昭和33年に憧れの四日市高校に入学出来た。野球部はその後はだいぶたってもう一度だけ代表になったことがある。

ボクは父親の転勤で一年の一学期だけ在学して四日市高校を出てしまった。

昭和27年の第34回大会は兵庫県立芦屋高校が優勝している。データによるとこの優勝チームからプロ野球選手に植村や本屋敷*
(立教で長島茂雄と同期)が出ている。豊田泰光も水戸商業の選手としてこの大会に出場している。

*(internet 「ミスター日記」から引用)

「立大に進んでから感じたことですが、甲子園に出場した選手というのは、その背中から自信のオーラを発しているように感じられました。
大学の同期で、その後、阪急(現オリックス)、阪神で活躍した本屋敷錦吾さんもその一人です。本屋敷さんは芦屋高校で甲子園に出場して
いたのですが、入学当初から技術の高さもさることながら、非常に洗練さたプレーぶりに圧倒された記憶があります。やっぱり甲子園経験者は
違うな、というのが私の第一印象でした。」引用終わり。

 ボクが兵庫県立芦屋高校に転校し、在学した昭和33年から36年当時も、学校は報徳や育英など強豪の多い兵庫県でも常に代表を狙う位置にいた。

現在名古屋に在住する田中昭氏の送ってくれた資料によると彼の出身校である大阪府立北野高校とは、昭和24年に春の選抜大会の

決勝戦で対峙しており、この大会では延長戦の熱戦の末、準優勝だった。

 このように昭和20年代、30年代は常に兵庫県大会の上位校を維持し、ボクの在学中の34年だったか35年の春の選抜大会にも

藤投手を擁して、(もうその頃は名前が出なくなった北野高校と違って)バリバリの兵庫県代表として出場した。

 現在の芦屋高校


この選抜大会の試合当日は全校で授業は早めに終り、学校から歩いてすぐの阪神芦屋川駅から全学年の生徒が電車で甲子園に移動した。

乗車時間は15分ほどの近さである。甲子園球場のアルプススタンドで応援したのはその時が始めてだった。

野球部の練習は狭い校庭でやはり強豪だったサッカー部(全日本の加茂元監督も芦屋高校のOB)やラグビー部と同時に入り乱れて

練習していたが、藤投手はひときわ身体が大きく目立っていた。社会人になって入社した会社で、藤投手のお兄さんに懇意にして頂くとは当時知る由もなかったが。

自分がたまたま在籍した二つの県立高校が、夏の高校野球で優勝したことがあると言うだけの事なので「それがどうした」と切返されることも多いが、

高校野球のシーズンになると 入社した企業でずっと営業をやっていたボクは、初訪問の会社の技術部や資材部の方々との会話の糸口のネタとして、

通った二つの高校の夏の野球大会優勝校の話を随分利用・活用させてもらったものだ。

 四日市高校&芦屋高校の野球部員の皆さんどうもありがとう(笑)。

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庄野潤三さんが亡くなった

2022年09月19日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

2009年09月29日(火)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

2009年9月21日、大阪出身の作家「庄野潤三」さんが亡くなった。88歳だった。日本の作家の中ではこの人と、神戸出身の「野坂昭如」さんとの付き合いは10代後半からだから長い。

 庄野潤三さんは、教師をしたあと朝日放送に転職して、間もなく東京支局に転勤し、しばらくサラリーマンと物書きの二足の草鞋を履いていた。

小田急線の生田の丘に家を造り、長女と男児二人の日常生活をその成長にあわせて書いていった小説が多い。

私は彼の、孫の全員の名前、例えば、はにかみ屋のふーちゃんの名前も知っている。 

仕事で小田原駅に下りた時は、長女(書中では金時のお夏)が結婚してすむ南足柄山へ行く、伊豆箱根鉄道の「大雄山線」の改札口でしばらくたたずんだこともある。

一族の就職、結婚、それぞれの連れ合いの係累のことなども。大阪へ父母の墓参りに来ると必ず泊まる、グランドホテルの部屋、

そしてホテルの竹葉亭の座る席が決まっていたことも知っている。それぞれの小説を読んだ時の自分の生活も含めて頭の中をいろんなことが駆け巡る。

彼の小説は「明夫と良二」を読んだのが最初だと思う。

主な作品は初版で買い揃えたが、古い本は大阪の古本屋で探してかなり揃えて持っている。

時々、どれかを枕元にもってくるといつもなんとなく心が落ち着く

 庄野潤三さん、貴方という小説家を知って私は良かったです。本当にありがとうございました。

 これからも楽しんで繰りかえし読んで行きます。

  追記 もう一人の大阪外国語学校出身の小説家である司馬遼太郎の本もよく読んできたが、庄野潤三は大阪外国語学校で司馬遼太郎の2年先輩で、

英語と蒙古語の学科の違いがあったにせよ、二人の付き合い、交流についての記事を読んだ事がない。

 戦後、大阪外国語大学になったとはいえ、学生数の少ないカレッジだから顔はお互い知っていたと思うが、なんかあったのだろうかと不思議な気がする。

なお神戸在住の華人系作家「陳瞬臣」は司馬遼太郎と大阪外国語学校同期で、お互い付き合いがあった。

これまで読んできた難波や梅田などの古本屋巡りもして集めた庄野さんの本。 残念ながら2018年2月の引っ越しに伴い断捨離した。

 

 

 

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9月18日に目に留まったSNS・メディアの記事

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