2012年06月26日(火)
20120625 再稼働反対 首相官邸前に1万1000人
大飯原発再稼働に反対する大規模なデモが首相官邸前で行われた。 このデモはツィッターなどで参加を呼び掛けたもので、警察によるとおよそ1万1000人が参加した。コメンテーターの一人はよく取材で首相官邸に行くので以前から知っており、この時も見たそうだが、1万1000人てことはないでしょうね、と語る。そして毎週やっているが、人数は激増していると言っていい。 さらに大阪の関西電力本店前でもデモがあったり、野田首相の地元の船橋でも2000人以上が集まりデモがあったという。スーパーニュースアンカーより |
東京電力:独環境団体が表彰 ブラックプラネット賞
福島第1原発事故を理由に東京電力に昨年の賞を贈ると発表した。27日の株主総会で、黒く汚れた地球儀をトロフィーとして手渡す考えだ。 人災を起こした経営者、大株主、原子力ムラの人々みなに贈りたい」と選考理由を説明。 会長らメンバー4人は東電株の保有者だが、東電側は「株主名簿に載っていない」と総会出席を拒んでいるという。 |
オスプレイ沖縄配備 「人為ミス」改ざん圧力 10年オスプレイ事故調査 2012年6月25日 琉球新報 【米ワシントン23日=松堂秀樹本紙特派員】米軍普天間飛行場に8月に配備予定の垂直離着陸輸送機オスプレイをめぐり、現場司令官の更迭や事故調査責任者の除隊が続いている。 米雑誌「ワイアード」が21日付で報じた。同誌は2010年にアフガニスタンで発生したオスプレイ墜落事故で「機体に問題があった」とする調査報告を空軍上層部が「人為的ミス」に改ざんするよう圧力をかけていたと指摘。米フロリダ州で6月13日に発生した墜落事故の直後に米空軍が「機体の構造的欠陥を疑うような理由はない」と発表したことを疑問視した。 米国防総省はフロリダの墜落事故の調査が終了していないにもかかわらず「機体に問題はない」と繰り返し強調している。オスプレイ配備に県民が猛反発する中、事態収拾を急ぐ米側の説明に一層の疑義が生じそうだ。 今回のフロリダ州の墜落事故で、訓練を指揮していた第8特殊作戦航空隊のグローバー中佐が更迭された。 米国防専門誌「インサイドディフェンス」(電子版)は、グローバー中佐の解任理由について、事故機が所属していた空軍ハールバート・フィールド航空基地(フロリダ州)のスライフ司令官の見解を掲載。同司令官は「同航空隊に求められる高いレベルの任務を維持するため新たなリーダーシップが必要だった」と述べ、墜落事故を人為的ミスで収拾させたい米空軍の意向をにじませた。 スライフ司令官は、現場の指揮官を更迭する一方、事故の全容が判明していない段階で「構造的欠陥はない」と発表。だが、こうした米軍の公式見解についてワイアード誌は「空軍は戦闘機の不具合の際にも人に責任を押し付けようとした過去がある」と指摘し、対応を疑問視。10年にアフガニスタンで墜落したオスプレイの事故調査責任者、ハーベル空軍准将(当時)がエンジン出力の低下を事故原因の一つに挙げた報告書をまとめた際に、空軍が「操縦士の責任にするよう」圧力をかけたことに言及した。 ハーベル氏は報告書を提出後、除隊。米空軍の週刊誌「エアフォース・タイムス」に11年1月に掲載された記事で、同氏は「報告書の改ざんを求める強い圧力があったが、私の心と頭はパイロットのミスではないと言っていた」と述べ、真実を貫いたことを訴えている。 ワイアード誌によると、00年にはオスプレイの構造的欠陥を隠すために整備記録を改ざんした米海兵隊のリバーマン中佐(当時)も更迭された。 |
畑村委員長 東電の最終報告を批判 6月25日 21時44分 NHKニュース 政府が設置した原発事故の調査・検証委員会の畑村洋太郎委員長は、25日の会見で、先週、東京電力が、みずからまとめた最終報告について、「自分たちに全く落ち度がないというのはおかしい」と批判しました。 この中で畑村委員長は、東京電力が今月20日に公表した最終報告で、事故対応は基本的に妥当だったと評価したり、事前の津波の想定や対策が、国や学会の基準に従っていたなどと弁明に終始したりしている点について、「自分たちに落ち度がないというのはおかしい。津波の想定や対策についても、誰かが決めたことに従っていればいいという考えに見えるが、それは違う」と批判しました。 そのうえで、事故の当事者以外に立場の異なる複数の組織が事故を検証し、結果を公表して比較することが重要だという認識を示しました。 また、去年6月以降、延べ769人から聞き取りを行い、ほぼ調査を終えたということで、最終報告を来月23日に公表することを明らかにしました。 |
暁方ミセイ 真夜中に出た列車はいまごろ真っ暗い 山の中を、 ごおごお もう帰還しない兵士のように 途方もなく疾走しているだろう かつて わたしもあの青いラインの車両に乗り込み 灰色の折畳み式椅子に座して 暗い夜中をゆく窓を見た ふいに現れる 皓々とした工事場の灯り (なにを掘り出しているのだろう、) それは 凍えた年の瀬の裸電球のように 現れたりするのだが・・・ そのときわたしは 二度と この場所に居ることがあるだろうか と、考えていた 狭い通路には人々の抜くんだ呼気が充満し 点々と灯る小さなランプが 目を閉じると 青く点滅していた どの、 穏やかな長い風 温かさや静寂のなかに あったとしても 先のことが、 空を 染め変えないことなどない なにひとつ待たない流れが わたしを老婆にしてしまう。 ただ、 仄かに青白む 冷えた窓にくりぬかれた わたしは 二十歳でした いっさんに駆けぬけ 燃えしきる工事場のランプを 見つめた、 わたしは 身体分だけの身体で あの場所に座し いずれ掻き消えていく ひとつの灯りでした だれにも否定することができない 現実の真摯さを以って いつか死んでしまうことが はっきりとわかった わたしは燃えた事実を携えて 二十歳でした |
検査院、東電を調査へ 原発賠償の資本注入で 2012年6月25日 12時01分 東京新聞(共同通信) 福島第1原発事故で、被害者への多額の賠償責任を負い、公的資金1兆円の出資を受け実質国有化される東京電力に対し、会計検査院が検査を実施する方針を固めたことが25日、関係者への取材で分かった。 政府の原子力損害賠償支援機構を通じた資本注入は、7月25日に実施される予定。検査院は政府が議決権の過半数を持った段階で、東電を検査対象に指定した上で、実地検査などの調査に着手する方針だ。 検査では、東電が持つ資産の規模や、人件費などの経費の妥当性を含めた業務全般について、効率性や経済性の観点から幅広く調査。問題点が見つかれば、改善の処置を要求する。 |
樋口さんの大連の小学校時代の知り合いが最近亡くなったことを知り、久しぶりに樋口さんのことを思い出しました。2005年9月30日掲載のエントリーを再掲載します。 ⇒☆今日の新聞に「帰らなかった日本兵」◇インドネシア独立運動に身を投じた「1000人の声」◇と言う記事が出ていました。その書名の本が発刊されたと言う文化欄の記事の題名でした。 ♪これを見た時、昭和51年にジャカルタで出会った樋口さんを思い出しました。樋口さんは、そのとき阿智胡地亭が随行した会社のSさんの大学時代の同窓ですが、国籍はインドネシア人でした。戦争前に愛媛県のN市にあった何社かの会社の共同独身寮で、会社は違ったけれどSさんとラグビー部の親友だったと聞きました。 ☆{「帰らなかった日本兵」とは、日本の敗戦後、再支配を目指して攻めてきたオランダや英国など連合軍に対するインドネシアの独立運動に身を投じ、祖国日本に戻らなかった兵士たちである。数は確認できただけでも約一千人。多くが独立後に現地女性と結婚、インドネシア国籍となった。} ♪樋口さんは召集を受け会社の寮から帝国陸軍に入隊し、部隊はインドネシアのスマトラ島に駐屯していたそうですが、戦争末期の戦いでオランダ軍の捕虜になり、銃殺される寸前に、駆けつけた(長く樋口さんが青年達を教育していた村の)村長の嘆願のお陰で釈放されました。そしてその後、インドネシア独立戦争の時に、インドネシア国軍に参加するよう頼まれ、そのまま将校として銃を取りインドネシア兵を指揮し、オランダ軍との熾烈な戦いに加わったそうです。 日本には原爆が落とされ、空襲で殆どの町や村が焼けてしまったと聞かされ、もう自分の親兄弟も皆亡くなってしまったと思ったことも、インドネシアに残った理由の一つでしたとも言われました。 樋口さんは秋田鉱専(現秋田大学)で鉱山学を学んだキャリアを生かし、国軍の技術将校として重用され、インドネシアの国籍を取り、栄進され、個人的にも、インドネシア婦人と結婚されました。 インドネシアが独立し、日本と国交が回復したあと日本の親族とは連絡が取れ、そのご交流を再開されているが、もう妻、子供もあり生活の基盤もこちらにあるので、日本に戻ろうとは思わなかったそうです。そして日本の国が戦後、経済復興を遂げていきつつあるのを心から喜んでおられました。 「こうして日本企業が昭和40年代からインドネシアでビジネスを盛んにするようになり、いろいろなお手伝いをしてお役に立てて、私などは幸せです、戦友の多くは、せっかく太平洋戦争で生き残ったのに、インドネシア国軍の将校としてオランダ軍と戦い、戦死したものも多くいますから」と言われました。 はじめてホテルに現れてお会いした、樋口さんは色浅黒く、濃い口髭を蓄えた、目の鋭い精悍な男性でした。そしてお話をされる間、温和な笑みが顔に絶えることはありませんでした。 子供さんはアメリカの大学に留学されているとかで、アメリカと日本にも仕事で良く行っていますとの話でしたが、海外出張が当時2,3回目の阿智胡地亭には、こんな風に生き抜いてきた日本人がいるんだと強く心に残りました。 ◎{終戦からすでに60年。千人を数えた残留日本兵の生存者も、現在は9人にまで減ってしまったが、その方々のご存命中に発刊でき、ほっとしている。日本でより多くの方に読んでいただくためウェブサイトも開設した。現在残留日本兵の子孫は、二世、三世を含めおよそ2千人である。・・・} ♪ジャピンドとはジャパニーズ・インドネシアンを略して言う言葉だそうですが、樋口さんは、自分が、ジャピンドと呼ばれるような人生を送ることになるとは、思ってもみませんでしたと言われました。 ☆出所:2005.9.30 日経朝刊44面。ヘル・サントソ衛藤 画像は最近のジャカルタ・・webから。 |
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