阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

阿智胡地亭便り⑨  #41 #42  こんな便りを2002年頃からメールで友人知人に発信した。

2021年07月06日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

#41 <イノシシファミリーと福祉事務所の話> 2003.12.08記

その一、 (二日続きでイノシシファミリー)
 
①6日の土曜日20時過ぎ、愛知県豊田市近くの足助町から神戸に帰り、家の横でタクシーを下りた。
後ろでバタバタという鳥の(一瞬カラスかと)大きな羽音みたいな音がした。
 こんな時間に鳥はいないよなと思い、後ろを振り向くと、街灯の下でイノシシ4頭のシルエットが
向こうを向いて走っていった。
そのうち一匹が遅れがちに必死で仲間を追いかけていく。遅れて走っていたのは子犬ほどの大きさのウリンボウだった。
両親とアニキと妹の4頭のような構成だった。

 
ああ、良かったこっちの方にこなくてと思いながら、あせりまくって急いで鍵を開けて家に入った。
今、イノシシが4頭そこにいたと「ただ今」の前に言ったら、野次馬根性旺盛の相方は「大丈夫だった」、
「お帰り」も何も言わず、2階の窓を開けに走り、窓から顔を出して外を見ながら「どこどこ、どこにいるのと」言った。
 
②翌日の7日の日曜日21時前、新三田の大正庵の月例メンバー忘年会の帰り、御影の駅から家の近くまで
ほろよい加減でふらふら歩いていたら、藪の中から突然3頭のイノシシが飛び出してきた。 
大きさはそれほどではなく、中型犬の程度だったのでとりあえずほっとした。
ここでいつものオビエが出てはいかんと気を取り直し、そしらぬ顔で歩く速度を変えずに歩いた。
一匹がすぐ真横を走りぬけ、2匹は向かうか戻るか躊躇したあと藪に戻った。
 
そのまま後ろを見る勇気はなく、黙々と家に向かった。幸い追いかけてこなく彼らは
彼らの目的地に向かったようだった。ここ何年か、家中みな身近に遭遇していたが私は始めての面前の出会いだった。
 今年は気候不順で六甲山の自然の食べ物の生育が良くないのかもしれない。
しかしこういう出会いは、常にオビエて生きている辛好の心臓に良くないのは事実だ。
 
その二、(福祉事務所の契約所員
 
晩飯の時の次女の話:
 友達のTちゃんがこんど、一年契約で福祉事務所に勤めだしたんだけど、
今日電話があってこんな話をしていた。生活保護家庭をまわるのが仕事で、所長から職場の先輩に
しばらくついてまわってくださいと言われて、そのつもりでいた最初の日、一緒に回ることになっていた
職場の先輩に、急に別件が出来たからここへ一人で行ってきてといわれた。
 
新人に対してそれはないんじゃないと思ったけど、仕事やしと思って住所を訪ねてベルを押したら、
「おう、誰やねん」と男の人の声が返ってきてドアを開けてくれない。
ベルを何回か押したが「ウルサイワイ、誰じゃ」という声しかしない。
 よっぽど帰ろうと思ったけど、初めての仕事やしと思って「福祉事務所のものです」と言いながら
ベル押し続けたら「なんやねんウルサイワイ」と突然ドアが開いた。
目の前にはパンツいっちょうの全身刺青のおっさんが立っていた。
瞬間カラダがフリーズした。それでも必死でガタガタ震えながらなんとか規定の質問をして帰ってきた。
 
別の日、一人暮らしの女性の別の住まいに日常訪問をした。
この二人はいつか自分の担当になって、それぞれが定期訪問先の一つになった。
 そんなことを続けていたある日、たまたま神戸新聞を読んでいたら女に包丁で刺し殺された男の記事が出ていた。
いつもならそんな記事の中身は読まないのにどういう訳か、その日に限って読んでいくと、殺された人と殺人容疑者の
名前が自分が定期訪問しているあの二人だった。
 
そういえばこのところ男のほうが留守だった。でも女のほうは殺人があった日と報道された日の後も
訪問時に家にいて何回か話をしていた。そして次女の友達は一番最近に容疑者と会話した人間として、
「ワタシ警察の事情聴取を受けてん」と話したそうだ。
 
4年で転校した小学校の同じクラスになって、中学も同じのあのTちゃんのことだよねと聞くとそうだと言う。
随分タフな女の子になったねと言うと、「そう、一人で喫茶店に入ったら、危ないからだめと親に言われて素直に
大学2年まで守っていたのに子なのに、変われば変わるのよね」と言う。
 
次女の親友4,5人は知っている限り、一人一人皆、時々の学校の先生のお気に入りのタイプの子はいないようだが、
今となれば親を頼りにせず、皆わが道をタフに渡っているような気がする。
どうしているかなと時々彼女たちの事を次女に聞くが、「そんなん、どうでもいいじゃん」とかわされることが殆どだが、
時々こうして大好きな彼女たちの動向が知れるのも楽しい。

#42 <酒蔵の道>  2003.12.23記

その一) 酒蔵の道(サカグラのみち
 
家から浜の方へ真っ直ぐ下っていくと阪急神戸線、山手幹線道路、JR神戸線、国道2号線、阪神電鉄本線、
国道43号線を直角に横切って、灘五郷のうちの御影郷の酒造会社が並ぶ地域に辿り着く。歩いても40分くらいの距離だ。
 
江戸時代から灘五郷と言われているが、魚崎郷、御影郷、西郷の三郷が現在の神戸市東部にあり、
今津郷、西宮郷が西宮市内にある。神戸市の三郷は阪神電車の駅名で言えば、東の方から西へ魚崎、住吉、御影、
石屋川、新在家ときて大石駅までの狭い範囲に全て含まれる。
 
大手の酒造会社はそれぞれ資料館や記念館を開設しており、昔の酒造りの有様や道具・器具類を展示したり、
自社の酒を販売したり、コーナーを設けておいしい出来立ての酒を有料ながら飲ませている。
 
桜正宗記念館、菊正宗酒造記念館、白鶴酒造資料館が魚崎郷にあり、御影郷と西郷には
瀧鯉蔵元倶楽部酒匠館、泉勇之介商店(灘泉)、神戸酒心館、こうべ甲南武庫の里、沢の鶴資料館があり
白い壁の土蔵の間の道が「酒蔵の道」として整備されている。そしてモデルルートの誘導標識も立っている。
  神戸酒心館

 
八年前に震災で壊滅的な被害を受けた地域だが、ようやく全ての施設が復旧して全行程五時間ほどの
ほろ酔いトリップを楽しむ人も増えてきたと聞く。
 
家から車で10分ほどで行ける福寿酒造の神戸酒心館には豆腐と蕎麦料理をメインとする和食レストランが
併設されており、酒もうまいが、豆腐と蕎麦そのものが
うまいせいか豆腐と蕎麦好きの中老年でいつも流行っている。
 
神戸に立ち寄られモダンかつレトロ神戸のスタンダード観光コースを済まされたら
この「酒蔵の道」も一度ためされることをお勧めします。ご一緒に歩きましょうか。
 
その二) <おから>と<いしる>
 
先日の晩、夕食のおかずに「おから」が出てきた。いつものおから料理よりおいしい。
このあいだ蕎麦を食べたあと神戸酒心館の売店で買った「おから」に、今日届いた
「いしる」を入れてみたと言う。いままでのおから料理と旨みが違う。
 
酒心館に併設されている販売店は全国各地の健康食品・調味料・酒器などを
扱っており、味は間違いないものばかりだ。おからもいいものだったのだろう。
 
「いしる」は初めて聞く名前だった。東北の「しょっつる」と同じ魚醤の一種だという。
瓶のラベルを読むと日本三魚醤の一つと書いてある。語源は「いお(魚)のしる」かと書いてある。
魚醤と言うものの中ではベトナムのニョクマムが一番有名だと思うが、日本にも昔からある調味料らしい。
この魚醤醸造法は南方照葉樹林文化にルーツがあると言われている。冷温物流チエーンの発達のお陰で
コープコウベが取り扱いだしたので家でも初めて買ってみたとのこと。生産者は金沢市にある会社だった。
 
酒は「福寿」ではなく買置きの「梅錦」を冷やでやったが、「おから」はこれに良く合った。
 うまいと言うと「でしょデショでしょ」とうるさい。「いしる」を入れたらどうだろうと閃いたのが大正解、
おからにちくわと平天を刻んで入れて、これに生姜、ゴマ、ミリン、お酒、しょうゆと砂糖で整えたと。
確かに好きなおからがこの日はもう一味違っていた。うちの「定番の一品」に登録が決まった。

 

 

酒心館の「さかばやし」でせいろを一枚食べました。

 

2014年07月04日 | 食べる飲む

 

まあまあの手ごたえで打ちっ放しを終えた後、昼時になっていたので御影塚町の「丸亀製麺」に行きました。残念ながら駐車場は一杯で止める場所がありません。
止む無く隣の「酒心館」の「さかばやし」で蕎麦にしました。



支払金額は丸亀製麺の予定額450円の倍になってしまいましたが、「さかばやし」の「せいろ」はひさしぶりでおいしく食べました。



ショップの「東明蔵」はご婦人方で混んでいました。団体客のようでした。やはり山中教授のノーベル賞受賞晩餐会に供された
日本酒「福寿」の蔵元として知名度が上がったのかも知れません。

 朝日新聞の記事から。2012年12月8日03時00分
ノーベル賞晩餐会に神戸の酒
写真:ノーベル賞の晩餐会で振る舞われる「福寿」

 山中伸弥・京大教授が出席する10日のノーベル賞授賞式後の晩餐(ばんさん)会で、神戸市東灘区の神戸酒心館(しゅしんかん)が造る清酒「福寿(ふくじゅ) 純米吟醸」が振る舞われる。
 益川敏英氏らが受賞した2008年の晩餐(ばんさん)会で、スウェーデンの取引先が主催側に薦めてくれたのがきっかけで、日本人が受賞した際の定番になった。
10年に続き3回目の納品だが、今年は地元・神戸大学医学部卒の山中教授とあって酒蔵の喜びもひとしお。「お酒好きと聞く。存分にうちの美酒に酔って下さい」
 

 

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シャンツアイ(パクチー)の芽が出てきた。

2021年07月05日 | 花・草・木・生き物

相方がメールでシャンツアイのタネをオーダーして、種が届いてからタネの殻を割って一晩水に漬けてから 植えてくれた。

一週間ほどで芽が出ると袋に書いてあった

  昨日撮影

 

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日乗      7月4日

2021年07月05日 | 阿智胡地亭日乗

歩行数 5933歩 歩行距離 3.9㎞  都議選の投票をしたあと東大島へバス、 東大島から亀戸へバス  亀戸街中散策

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「スマホの見すぎ」が招く世にも恐ろしい3大弊害 集中力低下、うつ、肥満などデメリットは深刻     東洋経済オンライン

2021年07月05日 | SNS・既存メディアからの引用記事

一部引用・・・「スマホ脳」と聞いてドキッとした人は多いのではないか。多くの人が長時間利用している自覚があるうえ、「何となく良くない」ことを感じているためではないだろうか。スマホの長時間利用には確かに弊害がある。今回は、長時間利用で起きる3つの副作用と対策までを解説していく。画像クリックで全文に飛びます

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阿智胡地亭便り⓼   #36と#40  こんな便りを2002年頃からメールで友人知人に発信した。

2021年07月05日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

「#36 広島の銘酒 賀茂泉の話     2003.9.23記

ある日の夕飯に日本酒の一合瓶が一本出てきた。ラベルを見ると「賀茂泉」とある。知らない銘柄だ。
次女が大学に行きはじめて半年ほどたった頃だった。

このお酒はどうしたの?と聞くと「ビジュアルデザイン学科の同じクラスの子から貰った」と言う。
そう言えば、その女友達はマンションに下宿をしていて、
次女はそこに仲間と時々遊びに行くようになったと聞いていた。そんなある日、母が持ってきたからと
言って彼女が一本ずつ一合瓶を渡してくれたのだそうだ。
女の子のお母さんが娘の下宿に日本酒を持ってくるって面白いねと言うと、その子は広島の西条って
言う所から来ていて、実家がそのお酒を造っているって云ってたと言う。それはいい友達ができたね、
これからもどんどん貰って来てよと軽口を叩きながら飲んだら、辛口でおいしかった。

それから半年した頃、転勤辞令が出てボクは広島の中国支社勤務になった。

そして2ヶ月ほどたった頃大阪支社のある営業部から連絡があり、排水装置だったかのPRに、
西条の賀茂泉酒造に行くので同行して欲しいと言ってきた。
「西条の賀茂泉」?なんか聞いたことがあるなと思った。夜、家に電話して確認したら
「そう、お父さんが飲んだのは賀茂泉だよ」と次女が言った。
翌日、広島の夜の繁華街である「流川」の酒屋で聞くと、良く知られて有名なのは賀茂鶴ですが、
知る人ぞ知るで、結構酒飲みや酒好きにフアンが多い
広島の地酒ブランドですと言うことだった。

JRの西条駅で降りて10分も歩くと「賀茂泉」の工場につく。西条は灘、伏見と並ぶ
日本三大銘醸地と言われているのははじめて知った。
杜氏の増田さんと面談した。肩書きは常務取締役だった。仕事の話が済んで雑談になったとき、
信州上諏訪に宮坂醸造という会社があって「真澄」という酒を出しています。
ご存知でしょうか?と聞いてみた。「協会7号酵母」の蔵元でしょう、杜氏なら誰でも知っていますよと言われた。
この7号酵母は戦後まもなく宮坂醸造の酒蔵から発見され、
非常に質がいいのでかなりの全国の造り酒屋に移植されているという話を教えてもらった。

その後、あつかましい話ではあったが思い切って、かくかくしかじかでこちらの経営者のお嬢さんと
思われる方から頂いたお酒を、半年ほど前に家で飲ませてもらいました、お礼を申し上げたいので
ご紹介いただけませんかとお願いしてみた。増田常務はきさくに専務を呼んできてくれた。

専務に挨拶をしたが、突然わが子のことを持ち出されたゆえか、さすがにちょっと戸惑われていた。
それでも帰り際に流川の夜のマップを持ってきて、
この印をつけた店ならいつでも「賀茂泉」を飲んでもらえますと教えてくれた。

あまり関西ではみかけない「真澄」が、どういうワケか広島ではあちこちの店においてあるし、
勿論「賀茂泉」はあるしで、広島で日本酒を飲む場合はこのどちらかを良く飲んだものだ。
また東京や大阪からの出張者に広島の地酒で何がおいしいと聞かれたら、娘さんのご縁もあって、
躊躇なく皆さんに「賀茂泉」をすすめた。


もっとも時々、広島へ賃貸のワンルームの部屋の掃除に来る相方は、ほんの一口か二口しか飲めないのに、
マンションの近くの酒屋で試飲した同じ西条の「白牡丹」がお気に入りで、帰ったあとの冷蔵庫の甘い
一合壜を片付けるのはボクの役目だった。

 「#40 溜池の人とサヨナラを」2003.11.25作成。メールマガジン発信

その1

 25年お店やってきて結局借金しか残らないんだから、私ってお人よしなんだよね。
でも、まっいいか、いろんな人とお会いできてそれなりに私も楽しかったし。

この店私40で始めたんだよ。この頃なんか疲れた気がする。もうやめようかなって近頃時々思う、
とママが言った。今年の7月始めのことだった。

  学校の先輩に連れられて、店に初めて来たのは昭和53年の秋だった。店が開店して半年後くらいだったらしい。
東京勤務になって4年目だった。同窓の集まりの後、同じ会社に勤務していた先輩二人がそれぞれ別の時に、
連れてきてくれたからその会社が使っていた店かもしれない。

何回かこの店で先輩たちに飲ませてもらったが、当時は貿易部に所属していて、赤坂国際ビルにあった商社に
月に何回か仕事で行っていた。

商社から歩いて10分ほどのこの店に、打合せが遅くなると、いつの頃からか寄るようになった。
勤務先がある神田美土代町周辺の麻雀屋や居酒屋には職場の仲間と毎晩のように行っていたが、
カウンターのあるスナックは他に行ったことがなかったし知らなかった。

店から地下鉄千代田線の国会議事堂前駅までも歩いて10分程で、地下鉄に乗れば会社のアパートがある南柏まで
一本で帰れたのも理由の一つだった。


一人で飲みに行くのもサラリーマンになって初めてだった。自分より年配の客ばかりの店でずっと小さくなって座って飲んでいた。
あるとき客が少なくてママと長く話をしたとき、彼女が三重県の松阪出身だと知ってこちらも四日市に住んでいたことを言い、
東京の悪口や、いややっぱり東京は凄くて面白いねなどといろいろ話をしたことから、夜遅くなって彼女が酔うと
説教をされることになってしまった。

アナタはねえ、もっと自分の思ったことを先輩にもいいなさいよ。ただニヤニヤ笑いながらハイハイ人の言うことだけ聞いて
ここにいても仕方ないでしょ。キミはなんかじれったいよ、顔には言いたいことが出てるんだから。

言われても自分でも自覚していることだから腹は立たなかった。そのうち社内の飲み会の後などに仲間とも行くようになり、
結局昭和62年に大阪に転勤するまでの9年間、年に3、4回顔を出していた。

そして大阪から出張で東京に宿泊したある日、2年ぶりに店に顔を出すとちょっと待ってねと言いながら椅子に乗って、
高いところの棚を探し埃だらけのボトルを見つけて出してきた。

たしかウイスキーのお湯割りに丁子を入れるのよねと言って、女の子にそう指示した。そして新しい名刺を頂戴と言われて出すと、
それを見て、良かったね、こんな肩書きがついたんだと喜んでくれた。

この商売をやってるとね、自分の為でもあるんだけど店の永いお客さんがだんだん上がっていくのを見るのが本当に嬉しいのよ。
特にキミはへらへらしてるだけでどうなるか心配だったから。

それから10年ほど毎月のように大阪から東京への出張があったが、店には年に1,2回くらい寄った。ボトルはだんだん素早く出てくるようになった。

最初はクラシックしか流していなかった店にもそのうちカラオケセットが入り、客はますます年配者が増え、客の数も少しづつ減っていった。
そしてママはいつも酔っ払っているようになった。ただよく変わっていた女の子は、落ち着いた四十代の人が定着するようになっていた。

一人客が多い店で、皆大体たまたま隣に座った客と話すのだが、あるとき隣の席の客にママが、清家さんと名前を呼んで話をしているので、
もしかしたら宇和島のご出身ですかと話しかけてみた。

その65,6才に見える客は、良くご存知ですね、退職して今大分に住んでいますがもともと宇和島ですと言う。

清家姓の出身地はほぼ100%宇和島だ。東京や大阪の新規引き合い先で、お客さんと初めて名刺を交わすとき空気がほぐれるのは、
その苗字で出身地を当てて苗字の話をするときだ。

彼はH製作所に勤務した人で今回は同期会のため上京して何年かぶりにこの店に寄ったと言う。Sが今苦労していましてと言われるので
もしかして社長のSさんのことですかと聞くと彼も同期なんですという。

広い畑で野菜や果物をもう何年も作っているという彼は良く陽に焼けて健康そうだった。

こうして昔のお客様に寄っていただくのは本当に嬉しい。皆さん退職するとき部下に律儀に店を引き継いで下さるけどやっぱり好みが違うんだよね。
これってしょうがないわよねとママが口をはさんだ。

 続く

(続きを書くつもりでしたが、書かないままになりました。これで店に顔を出すのは最後になるだろうと言う出張の夜、ママさんにその旨を伝え、
長いお付き合いのお礼を言い、お互い別れの挨拶を交わして店を去りました。その後のママさんと店のことは知りません。)

* 阿智胡地亭便り#37、#38、#39はメール送信したあと削除してしまったので残念ながら本文も残っていません。



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アメリカのスタジアムが揺れた‼【29号&逆転30号HR】大谷翔平が2打席連続ホームランを放つ!。 こんな体格・能力の日本人が出てくるとは夢にも思わなかった。

2021年07月04日 | SNS・既存メディアからの引用記事

スタジアムが揺れた‼【29号&逆転30号HR】鳴りやまないMVPコールの中大谷翔平が2打席連続ホームランを放つ!両リーグ独走の快進撃が止まらない!SHOHEI OHTANI HOME RUN

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大谷翔平を支える水原通訳を米誌特集 1年目にクラブハウス内の孤立を防いだ助言とは

メジャー1年目のエピソード「クラブハウスで孤立してほしくなかった」

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日乗   ウオーキング    6月26日 28日 29日 30日  7月3日

2021年07月04日 | 阿智胡地亭日乗

6月26日  歩行数 3707歩 歩行距離 2.3km  

 28日  歩行数 4949歩 歩行距離 3.2㎞ 

 29日  歩行数 3375歩 歩行距離 2.1㎞  

 30日  歩行数 2688歩 歩行距離 1.6km 

7月3日  歩行数 3667歩 歩行距離 2.2㎞

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阿智胡地亭便り⑦    #31から#35  こんな便りを2002年頃からメールで友人知人に発信した

2021年07月04日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

#31 遭遇 その1    2003.8.10作成

吉本の落語家二人

①新大阪のホームで列車の入線を待っていた。車内で読む「週間文春」と「お~いお茶」を確保した後は、
いつもの癖で目の前を行き来する人達をバードウォチングならぬピープルウォチングを楽しむ。

背をしゃんと伸ばして夏物を涼しげに決めた奥さんの後を、ゴルフウェアーらしいポロシャツを着た旦那が荷物を持って
トボトボついていく。アタッシュケースを持った紺のスーツの若い女性が男の同僚社員らしいのと急ぎ足で通り過ぎる。

若い男女の外人が6、7人でトランクの山を横においている。ツアーらしいがガイドはいないなあ。
女性が小柄だし、着ているものの色とコーデネイトが洒落てるからからアメリカ人じゃなくてラテン系みたい。

あら、向こうからくるおっさんあれは桂文珍みたいやなあ。荷物をカートで引っ張っている。
お伴なしで一人で動いてるんだ。彼は私のすぐ隣に来て立ち止まった。やはり文珍だった。

5、6年前に阪急六甲から梅田まで隣どうしに座った桂文珍とはこれで3度目の遭遇だが、
いままでになく自然体で周囲の人は誰も気付かない。気のせいか彼は少し仏頂面に見えた。

テレビと違うのは薄いサングラスをかけているだけだ。彼は早く来すぎたのか私の乗った列車には乗ってこなかった。

②21のB席は窓際3列の真ん中の席だった。この伊丹空港発のフライトは乗客に子供が多く満席だった。

シートベルトを締めてぼんやり乗って来る人をみていたら、笑福亭鶴瓶みたいな男が通路をこちらに来る。
その後ろに名前は知らないがテレビで顔は見たことがあるのが続いている。

みたいではなく間違いなく鶴瓶だった。彼は20のD席、若いのが20のC席に座った。
飛行中二人は半分の30分ほどスケジュールの話をしていた。あのダミ声の大阪弁で。

着陸して皆が席をたったとき、彼の前の席の女性が後ろを振り向いて握手を求め、それに対して笑って握手を返していたくらいで、
殆どの人は気付かないままで機内から下りていった。

運動会などの集団の中から自分の子供をすぐ見分けられる視覚の識別能力は、動物の始源的な能力の一つらしいが、
例え一度も会ったことがない他人でもいったんインプリンテイングされたイメージと同一人物が目の前に現れたら、
無意識かつ即座にその人だと認識するという経験は何度あっても面白い。

#31 遭遇 その2 イノシシ カンバック    2003.8.10作成

夜11時過ぎ、飼犬のうち若い方のムーが突然ワワーンと外に向かって異様な吠えかたをした。あっイノシシがまた現れた。
人に対する吠えかたと全然違うのですぐそう思ったそうだ。

相方が道路際の2階の部屋の窓から外を見ると、20mほど離れたゴミの集積所のところに大きなイノシシが1頭とウリンボウが
一匹ビニール袋に鼻を突っ込んでいる。時間が遅いのでバスはもう通らないが、乗用車が何台もそこを避けて大きくふくらんで減速して上がっていく。


集積所の前の一家は総員で玄関の塀ごしに顔を出してこわごわ覗いている。そのお隣はガレージのシャッターの前に置いていた
ビニールをあわてて取り込んでいる。(私は冷酒をやりすぎてこの時間は白河夜船だったので翌朝聞いた)

その一週間ほど前は真夜中にムーが吠えるか吠えないうちに、家の前のお宅の玄関でドーン、ドーンという大きな音がした。
覗いてみたらやはりウリンボウを連れたイノシシがアルミ製の柵に体当たりしているのが見えたそうだ。
前にアルミの柵の中に置いていた生ゴミをやられた事があるおうちだ。


一年ほど前近所の何軒もアルミ製の柵や玄関がイノシシの体当たりで捻じ曲げられ、取り換えざるを得なかった。
うちと隣は建ったのがほぼ40年前と古いので柵は鉄製だが、鉄製のものはどの家も被害がない。
推測だが鉄の(かなけ)のイオンの匂いを避けるのかもと思う。

つまり先祖代々、猟師のトラバサミなどの鉄のワナで痛い目にあってきたので、鉄から逃げるDNAがあるのかも知れない。
理由は不明だが鉄製の物には向かってこないというのは不思議な事実だ。

神戸市が六甲山麓の地区の住民の声を聞いて昨年ようやく「イノシシ迷惑防止令」を出して、餌をイノシシにやるのが禁止されてから、
彼らが近所をうろつくのが少なくなってほっとしていた。

今年の梅雨の長雨や気候不順で六甲山の自然のエサが少なくなったので、またもや人家の近くに出没しだしたのだろうというのが、
朝飯どきの我が家の結論だった。

#32 シャンツアイが茂った  2003.8.16

*どこの空港も飛行機から外に出るとその空港の匂いがします。シンガポール空港(旧空港)のシャンツアイ(香菜)の匂いのように。

(行った人はご存じのように、彼らはどんな料理にも最後に三つ葉かパセリのようにこのハッパをのせます。
シャンツアイは最初あぶらむしの臭いやと思いましたが、すぐに好きになり今も種を買って、夏は家のプランターで栽培しています。
ボク以外家族の誰も食べませんが)
                     (海外あちこち記---その七から)

 今年もベランダのプランターでシャンツアイ(香菜)が青々とした葉をつけている。最初のものは枯らしてしまい、
今のシャンツアイは神戸元町の「ブハラ」というインド料理屋か、六甲道の「上海外灘(バンド)」という中華料理店で食べた帰りに、
袋入りの種を貰ったのがうまく育って毎年開花し、種を取り、代々続いている2代目だ。


 先日、相方がプランターから摘み取って台所に持っていくのが、その香りというか匂いですぐわかった。
晩飯は確かニホンメシと言っていたのに何に使うのかと思っていたら、豆腐の澄まし汁に振り掛けて出てきた。何の違和感もなく、
澄まし汁に合う。和食系にも三つ葉の代用でなくそのまま使えるんだと思った。

シャンツアイは強烈な青臭い匂いがするので、中国、台湾、東南アジアへ行くと、半分冗談ながらこれを食べられるかどうかで、
土地に適応出来るかどうかのリトマス試験紙みたいに使われることがある。好きか嫌いかだけだから、嫌なら「シャンツアイ プーヤオ」(香菜不要)と
言えばいいのだが、シンガポールあたりでは何にでも乗せてくるので、慣れた方が早いような気がする。

ボクは一番始めは、ジャカルタのホテルの中華の店のヤキメシの一口で、この変わった葉っぱは何ですかと聞き、これはうまいと思った。
貿易部員として、8年間アジアを担当したが、幸いなことに食べ物で手がでないものは一つもなかった。というか中国人(韓国以外は
東南アジアも基本は華人系食事)が食うものに不味いものはないという思いは強まったし、今でもそう思っている。

1cmの葉っぱ1枚でもいい匂い(ボクにとって)が台所中に漂うほど独特かつ強烈なので、最初は家族に総スカンを食ったが、
一人でチキンラーメンや焼き飯、ヤキソバにも乗せて食べているうちに、家族も慣れてきて今や家族全員がおいしいと食べるようになった。
やはり独特のウマミがあるのだろう。そしてプランターの春の植え付けも相方がしてくれるようになった。

ある曲が流れてくると、子供の頃のある場面が浮かんでくるように、匂いも時々ある状況を思い出させる。
家で匂いがするとスマトラ島のメダンからトバ湖へ向かう山中で、車が道に迷い、時分どきになってしまい、
路傍に一軒だけあった店で食べたホーコー鍋?にたっぷり乗っていたシャンツアイを思い出したりする。

今では阪神間の殆どのスーパーで売っている香菜、日本人の何でも試してみて良かったら取り入れる能力は全然変わっていない。

今年も茂ったとさ。

#33 茨城県に住んだ日々の子供のおやつ   2003.8.04 作成・メルマガ発信

1、社宅定年が近づき、社宅の身近な人達も次々家を探して出て行くし、下の子も3歳になり3DKの間取りも狭くなってきたので、
会社の住宅融資制度に申し込んで毎日曜に都内や横浜方面も含めて半年ほど家探しをした。

しかし当然ながら手持ち資金と融資枠の限度を合わせても、子供を育てるのに庭付きの家が欲しいという希望は結局、
住んでいた千葉県を越えて利根川の向こうの茨城県でなんとか実現するという事になった。

当時は輸出部門に所属していたから、毎月最低一回は海外出張があり、家から成田空港まで小1時間、
また成田空港へ降りて一時間もすれば家で風呂に入っているという場所のメリットを感じる方が大きく、
神田までの1時間30分から40分の通勤時間は気にならなかった。

サラリーマンだから転勤はあって当然なのに、昭和62年、当時7年間住んだ頃には定年までずっとここに住むものと家族全員が思い込んでいた。

2、「学校から帰ったら時々見たことがない大きなオニギリがお皿に載っていてそれがおやつだった。でもそれは面白くておいしかった。

小学校2年くらいになると悪智恵もついて家にはないスナック菓子が食べたくなると、時にはおやつ時に友達の家に遊びに行って頂いていた。

相方の話ではやはり前から住んでいる近所の方の紹介で、近所の農家が自家消費用にだけ無農薬で作っている米を農家から
買えたのでご飯そのものがびっくりするほどおいしかった。

また取れすぎたといって売りにこられる、これまた無農薬栽培のトマトやキュウリも畑で完熟した野菜だから果物以上においしくて、
おやつに出したらそれで子供は充分満足だったと言う。

そういえば時々台所に枝付きの枝豆や泥のついたフキが大量にある日があったが、あれはどうやって手に入れていたのかと聞くと、
親しくなった農家の人が食べるかねと持ってきてくれた。食べきれないので、ご近所にも配って喜んでもらったとの事だった。

また、水戸納豆の本場の故か小学校の給食にもご飯と納豆が出る日があり、娘の大好物になり家の冷蔵庫には一年365日納豆が
入っていない日はなかった。

次女は小さい時から納豆さえあれば外のおかずはなくても済む子で、三時のおやつにも納豆をうまそうに食べるのは私には不思議だった。


#34  月光写真   2003.9.01作成

石川賢治という写真家の「月光写真展」を29日の夕方、大阪で見てきました。“満月の光だけで撮影”された写真の展示です。

パンフレットの惹句は「太陽光のわずか46万5千分の1の月明かりが紡ぎ出す神秘的なブルーの世界」となっていました。

京都の清水寺、金閣寺、ハワイの火山、海岸、ヤシの木、アフリカの草原、ライオンやピューマまた海の底などが青白い月光の下にありました。
会場のライテイングも薄暮より少し暗めにしてあり、波の音やせせらぎの自然音がBGMで流されていました。

大丸・梅田ミュージアムという足場のせいか沢山の人が来ていましたが、会場はシーンとして人の声はありません。独特の蒼い世界でした。

一見の価値ありです。何事も人がやる前にやるということはエライもんですね。写真の中の星たちが露光時間中に移動するので、
その軌跡が2cmとか3cmの長さの少しカーブがついた細い帯になって写っています。

清水寺の舞台の写真の中で、赤い点がいくつか見えたので近寄って見ると椿の花でした。
ハワイ島の火山の溶岩が赤く発色しているのはわかりますが月からのという反射光にも赤が発色するのは意外でした。

歩いて見てまわるうち、月の光も凄いエネルギーを持っているんだと思いました。そしてふと、その月光もつまりは太陽の光が
月に当たって地球に反射していると思った時、太陽というものは本当に凄いもんだと思いました。

その時、唐突にもう50年以上昔、父方の祖父が上諏訪から家に遊びに来た時の事を思い出しました。ある朝早く、
彼が雨戸を一枚開けて太陽に向かい一礼し、かしわ手を打っているのに子供の私は気づきました。

そういう姿を始めて見たので、何をしているのか聞きました。

たしか「わしらは、あのお天道さまのお陰で毎日生きていけるんだから、毎朝こうしてありがとうございますとお礼を言ってるんだよ」と
いうような答えだったと思います。随分長く思い出す事のなかった祖父の姿が暗闇の中に浮かびました。

会場の出口近くに大きな花だけの写真が4枚並んでいました。遠くからでもすぐ月下美人の花だと気づきました。
ついこの間自分の家で撮ったばかりでしたから。
つぼみから開くまでの連続写真を月の光だけで撮っていました。花弁が露光時間の間に動くので、少しブレているのもいい効果が出ていました。

その後、大阪で友人と痛飲し25時過ぎに家に帰り、そっと鍵を開けて家に入り寝る前にふと家の月下美人の鉢を見ました。
すると知らない間に新しい小さな蕾が2つ付いていました。 また暑さがぶり返したせいでしょうか、
このあいだ美人だと褒め称えたせいでしょうか。いずれにせよ愛(ぅ)い奴です。

「又、月下美人が咲きそう」と大きな声を出しかけてあわてて口を押さえました。せっかく起こさずに家に入れたのだから、
そんなことより明朝のための遅くなった言い訳を考えて置く方が先でした。

#35  「北朝鮮の工作船」  2003.9.04 作成・発信。

7月はじめのある日お台場の「船の科学館」へ行った。

そして海中から引き上げられ、調査が完了した後はここで展示されている北朝鮮の工作船の残骸を見てきた。
この日は新橋のユリカモメの駅で学生時代、弓道部で一年先輩だったY.五十棲さんと待ち合わせた。
彼とは少し前から交信が復活し、この日卒業以来38年ぶりにお会いすることになった。
 ボクにとって「朋あり、遠方より便りあり」は生きている哀歓苦楽の中の楽の大きな一つだ。

この日の小旅行は、彼が事前に男二人のデートコースを練りに練っておられ、外からは何度も見ているが、
内部は初めてのフジテレビ見学は、これも面白かった。

1)工作船は、添付の写真にあるように錆びた鉄のドンガラだった。上陸用の小型高速艇をも積み込んだ
スペースから見ると、生活区域はどこなんだというくらい小さな船だが、スクリューだけは4本も並列に並んでおり、
船体の大きさに不釣り合いな推進力があったことがわかる。

巡視船からの銃弾で何ヶ所も沢山の貫通孔も見えた。また最後は自爆したらしいが、自爆用の装置も積んでいた訳で、
真っ黒に焼けた広い個所があった。本体と合わせて引き上げられた銃火器や生活品、衣服などは第2会場に陳列されていた。

ハングルも当然あったが日本のメーカーの製品も多かった。中国政府の横やり(北朝鮮からの依頼もあってのことかもしれない)で、
引揚までに時間が長くかかり、海中に長期間漬っていたとは思えない保存状態だった。

保安庁の船が追跡を始めた時から工作船が自爆して沈没するまで、記録班?がビデオ撮影しており、
それを公開用に編集したビデオも連続放映されている。

これを見ると、砲撃開始までには停戦命令を日本語、英語、中国語、韓国・朝鮮語と4つの言語でくり返し繰り返し行い、
砲撃開始も「停戦命令に従わなければ国際法に則り砲撃する」と大音声のスピーカーで何度も警告している。

先方からの反撃の砲撃は当然ながら突然であり、ビデオの担当官も驚いている様子がカメラの揺れでわかる。
船の実物とビデオを見ると、
これに乗っていた連中は明らかに戦闘を常に予測している兵士だ。本国からの自爆指示か責任者が叩き込まれている
マニュアルによる自爆かはわからないが(また、自爆かどうかも本当のところはわからないが)、少なくとも十数名の
20代、30代の人間が死ぬ時に将軍様マンセーと言ったか、オモニー(お母さん)と言ったかは知らないが、停船せず、
また逮捕されることなく死んだ。

2)これらを見ていると、かの国は昭和20年から58年間、今も戦時体制にある国なんだと実感する。
見た船体も装備品もよくここまで使っているなあという古い品物が多かった。

この間、戦費や宮廷費用を調達するために、これらの船で大麻から麻薬からなんでも金になるものを日本に持ち込んだり、
潜入者の教育係のため、色々な階層の日本人を拉致してきた。

ある一族とその取り巻きの安寧と永遠の持続のためにだけ、その国の大多数の人間は存在するというのは歴史上どこにもあることだ。

(つい140年ほど前まで日本も、徳川さまご一家ご一統の安泰のため情報封鎖の鎖国をした。
そして厳しい禁令を沢山つくり、他国世間様とのお付き合いをさせないように取り締まった。

この間、向こうの島国人のイギリスがアメリカ、カナダ、豪州など好き放題に切り取り強盗をやる間、
本来彼ら以上にパワー溢れるこちらの島国人は300年間、大きな外航船は作れないし、
お家取り潰しにあわぬようなどお上の顔色を見てビクビク過すしかなかった。なんともったいない300年。

あのころお上が手をださない読み書きソロバンなど普通日本人が寺小屋などで受けた教育は、当時の世界レベルで質量共に
他国を圧していたことを思うと、お上が手を出したら碌な事にはならない例の一つだ)

にしても、北朝鮮にとって気の毒なのは、地球上の時代がこの50年で、もう偉大なる将軍様でも統領様でもないように、
不十分ながらも封建主義から民主主義にシステムが変わってしまったことだ。中国も、ロシア(ソ連)も
北朝鮮を緩衝材に使うだけ使って、今や使い捨てというのも気の毒だ。

3)かの国に自分が今生まれていたらと想像すると、気の毒に思うことは多々あるが、「暴力とカネ」だけがルールで、
ある一族だけのために50数年運営されてきた国の人とはもはや同じ常識は通用しない。
かの国が国として、金一族と共に自滅するしかないとすると、人間とはつらいもんだと思いながら会場を後にした。

(とは言え、昭和20年、アメリカが準備していた原爆をあと5発ほど落していたら、こちらも歴史家におんなじ事を書かれていた可能性もあるが)

Y.五十棲さん、自分では行こうと思い付かないところへ連れて行って頂きありがとうございました。

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最近のムラサキ山芋の葉

2021年07月03日 | 花・草・木・生き物

もう一つの鉢に埋めたムラサキ山芋からも蔓が伸びて葉をつけています

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東京五輪反対報道で視聴率稼ぎのテレビは7月から五輪応援特集にシフトか。 民放各局が五輪応援モードに転換 “中止派”のコメンテーターの危機   BLOGOS

2021年07月03日 | SNS・既存メディアからの引用記事

一部引用・・・6月までテレビの情報番組はだいたいどこの局でも「こんな状況で五輪開催?中止か無観客を!」というトーンだった。

しかし7月になったので大きく変わり、五輪応援特集にシフトする可能性がある。

その先陣をきったのがNHKだ。6月29日のNHKプロフェッショナル仕事の流儀では五輪マラソン代表の大迫傑選手の特集。

次週の7月6日はさらに露骨で「日本を代表する5人のアスリートたちの特別編」を放送予定だ。

まだ民放の情報番組はしばらく五輪反対のポジショントークで視聴率稼ぎに走るかもしれないが、どこかのタイミングで

選手のお涙頂戴物語トーンにシフトしていく可能性は高い。

これだけ五輪反対の声があろうが、五輪がはじまってしまえば多くの国民は反対したことなど忘れ日本人圧倒的有利の大会でメダルラッシュにより熱狂し、

感動し、五輪開催してよかった!という気持ちになるに違いないと政府も都知事も考えているのだろう。

  ・・・・・ 中略 ・・・・・

何が何でも開催するなら、やるべきことをやっておけばこれだけ反対の声はあがらないのに安心安全を繰り返すだけでまるで安心安全な準備をこの1年してこなかったという怠慢ぶり。

空港検疫についても今さらあわてて見直すというお粗末ぶりだ。

でも政府も都知事も何も恐れてはいない。どうせ愚かな国民は五輪がはじまれば反対したことなど忘れて熱狂し、感動するはずだと。

特に海外勢は事前合宿ができず、大会中も行動制限が厳しくコンディションを整えるのは非常に難しいので 、今大会は日本人が圧倒的有利で日本人がメダルラッシュの可能性大。

そうなればさらに愚かな日本人は反対したことなど忘れて熱狂するに違いないとよんでいるはず。

そんなこともあり、今までは五輪反対で視聴率稼ぎのテレビも選手の特集など五輪盛り上げムードに変わってくるはず。

忘れやすい日本人。ただ選挙の時にこれまで現政権が何をしてきたのかは忘れず投票したい。  画像クリックで全文に飛びます。

 

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民放各局が五輪応援モードに転換 “中止派”のコメンテーターの危機

一部引用・・・

世論調査で今夏開催の「中止」や「延期」を求める声が多いなか、これまで民放各局の情報番組は、開催に懐疑的な方向で番組作りをし、コメンテーターも中止論が大勢を占めていた。が、今後は一転して「五輪応援企画」を増やしていく予定だという。

「テレビは五輪開催ありきで7月以降の番組の予定を組んでいたので、もし中止になったら『その枠に何を流すの?』とドタバタになる。でもコロナの危機は煽らねばならず、この間は難しい舵取りを迫られていた。これからは『五輪応援』をきちんと前面に出せるので、ホッとしているというのがテレビ関係者の本音です。視聴者からは今までの方針と違うことに批判は出るかもしれませんが……」(在京キー局の情報番組ディレクター)

 ところが、困ったのはこれまで番組と一体となり「五輪反対」を唱えてきたコメンテーターたちである。

『ひるおび!』(TBS系)などに出演する落語家の立川志らくは6月7日、出演したラジオ番組で「切り替えて応援するのか、最後まで(開催中止を)追及するか、コメンテーターたちは気持ちが揺れ動いている」と明かし、「でもやっぱり中止反対をずっと言ってきたから、私はブレずに期間中もずっとその目で見ていく」と複雑な胸中を語った。

『サンデーモーニング』(TBS系)で「東京で五輪を開催することは反対」と語ったジャーナリスト・大宅映子氏はこう言う。

「私自身は、今では平和の祭典からかけ離れた、カネまみれの五輪なんて止めてしまったほうがいいと思っています。ただ、民放は共同で放送が決まっていたわけで、いくら開催に反対してきたからと、1社だけ抜けるなんてあり得ません。空気を読むことに長けている視聴者もコメンテーターも文句は言わないでしょうね」

 つまり、今後は応援サイドに宗旨替えする人たちも出てくるということだ。さらに、『情報ライブ ミヤネ屋』(日本テレビ系)などに出演する経済アナリストの森永卓郎氏は、今後は反対派の出番は奪われるだろうと予測する。画像クリックで全文に飛びます。

 

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人生に定年はありません 老後も余生もないのです・・・       僧侶 篠原鋭一さんの言葉

2021年07月02日 | SNS・既存メディアからの引用記事

東京新聞2021年7月一日付記事から一部引用。☝

篠原鋭一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

篠原 鋭一 (しのはら えいいち、1944年-)は、日本曹洞宗僧侶長寿院住職)、NPO法人自殺防止ネットワーク風理事長

 

略歴[編集]

兵庫県豊岡市の寺院に生まれる。3歳時に父が亡くなり、母と共に他のお寺に移る。駒澤大学仏教学部を卒業後、仏教系の財団法人に勤める。1979年曹洞宗東南アジア難民救済会議(JSRC、現、シャンティ国際ボランティア会)の結成に参加。カンボジア難民キャンプで教育活動に携わる。

その後、無着成恭師の紹介で千葉県成田市名古屋の曹洞宗長寿院の住職となり、周辺の大学に通う留学生を対象に研究書代の費用援助活動、留学生の出身である中国少数民族の教育活動に従事。

自身のくも膜下出血での自殺未遂をきっかけに、1995年から自殺対策活動を開始。

曹洞宗人権啓発相談員、同宗千葉県宗務所所長、「できることからボランティア会」代表を歴任。

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両国の博多ラーメンの店「ガツン」は今回もおいしかった。

2021年07月02日 | 食べる飲む

2週間ほど前の6月14日の昼時に両国まで出かけた。まっとうな博多ラーメンを食べることが出来る「ガツン」でこの日も大満足だった。

 

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「赤い土地」巡る革命〝聖地〟ツアー 中国共産党100周年、人々の本音はどこに     47NEWS

2021年07月02日 | SNS・既存メディアからの引用記事

一部引用・・・ 

聖地ツアーで取材に応じた人々は、全員が口にした言葉通り現状を無条件に礼賛しているのだろうか。改革派学者はこう指摘した。

 「中国の為政者や政治家の最大の特徴は『現実主義』であること。

多くの党員も同じ。内心何を考えていても、現実の利益、自らと家族の生存、生活のために行動する」

「現状では(党中央を)批判した瞬間に弾圧されあらゆる権利を失うのに、あえて口にする人はいない。

独裁体制とはそういうものだ。恐れを与えられれば十分。『声を上げれば生存が危うい』と思わせれば、それで十分なのだ

画像クリックで全文に飛びます。

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「パンデミックの文明論 」(文春新書)を面白く読みました。 コロナウイルスが浮き彫りにした日本人が暮らす社会と世界各国の社会のそれぞれ

2021年07月01日 | 乱読は楽しい

【「TRC MARC」の商品解説】:

各国の感染症対策を見れば国民性がわかる。新型コロナの話題で意気投合したヤマザキマリと中野信子が、

パンデミックが変えた人類の歴史、古代ローマの女性と日本の女性、「新しい日常」への高いハードルなどについて語り合う。

新型コロナについての議論で意気投合した二人が緊急対談。
古代ローマ帝国から現代日本まで、歴史を縦軸に、洋の東西を横軸に目からウロコの文明論が繰り広げられる。世界各国のコロナ対策を見れば、国民性がハッキリ見える。

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以下面白いと思ったページを何ページか・・

 

 

 

 

 

 

 

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御柱と諏訪信仰紹介 来月からオンライン講座        長野日報

2021年07月01日 | 諏訪便り

2021年6月30日 6時00分 ☝オンライン講座の収録風景=21日、諏訪市駅前交流テラスすわっチャオ

諏訪市駅前交流テラスすわっチャオと市博物館は、御柱や諏訪信仰を分かりやすく紹介するオンライン講座「御柱と諏訪信仰」の配信を7月9日から始める。

12月24日までの全10回シリーズで、動画投稿サイト「ユーチューブ」の市公式チャンネルで視聴できる。エルシーブイでも8月以降に講座を番組化して放送予定だ。

新型コロナウイルスの感染拡大に対応するため、すわっチャオが昨年12月に購入した動画配信用の撮影機材を活用した取り組みで、地域住民をはじめ、全世界に広く発信する狙い。

すわっチャオと市博物館がエルシーブイの協力を得て、県地域発元気づくり支援金を活用して制作する。

御柱の歴史や木やりのルーツ、善光寺御開帳と御柱、諏訪信仰の起こりと神宮寺、神仏習合などをテーマに、多様な分野から講師やゲストを迎え、御柱と諏訪信仰に迫る。

案内役は大昔調査会理事長の高見俊樹さん、スワニミズム事務局長の石埜三千穂さん、仏法紹隆寺住職の岩崎宥全さん。

21日には、すわっチャオ多目的スタジオで第1回と第2回の収録が行われた。高見さんは「改めて身近な御柱と諏訪信仰を多角的に見直していただければ。

10回見終われば御柱が10倍楽しめます」と語った。

石埜さんは「知られていないことに光を当て、分かりやすく伝えたい」、岩崎さんは「諏訪信仰と仏教のつながりを紹介できれば」と話している。

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