阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

アメリカのスタジアムが揺れた‼【29号&逆転30号HR】大谷翔平が2打席連続ホームランを放つ!。 こんな体格・能力の日本人が出てくるとは夢にも思わなかった。

2021年07月04日 | SNS・既存メディアからの引用記事

スタジアムが揺れた‼【29号&逆転30号HR】鳴りやまないMVPコールの中大谷翔平が2打席連続ホームランを放つ!両リーグ独走の快進撃が止まらない!SHOHEI OHTANI HOME RUN

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大谷翔平を支える水原通訳を米誌特集 1年目にクラブハウス内の孤立を防いだ助言とは

メジャー1年目のエピソード「クラブハウスで孤立してほしくなかった」

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日乗   ウオーキング    6月26日 28日 29日 30日  7月3日

2021年07月04日 | 阿智胡地亭日乗

6月26日  歩行数 3707歩 歩行距離 2.3km  

 28日  歩行数 4949歩 歩行距離 3.2㎞ 

 29日  歩行数 3375歩 歩行距離 2.1㎞  

 30日  歩行数 2688歩 歩行距離 1.6km 

7月3日  歩行数 3667歩 歩行距離 2.2㎞

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阿智胡地亭便り⑦    #31から#35  こんな便りを2002年頃からメールで友人知人に発信した

2021年07月04日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

#31 遭遇 その1    2003.8.10作成

吉本の落語家二人

①新大阪のホームで列車の入線を待っていた。車内で読む「週間文春」と「お~いお茶」を確保した後は、
いつもの癖で目の前を行き来する人達をバードウォチングならぬピープルウォチングを楽しむ。

背をしゃんと伸ばして夏物を涼しげに決めた奥さんの後を、ゴルフウェアーらしいポロシャツを着た旦那が荷物を持って
トボトボついていく。アタッシュケースを持った紺のスーツの若い女性が男の同僚社員らしいのと急ぎ足で通り過ぎる。

若い男女の外人が6、7人でトランクの山を横においている。ツアーらしいがガイドはいないなあ。
女性が小柄だし、着ているものの色とコーデネイトが洒落てるからからアメリカ人じゃなくてラテン系みたい。

あら、向こうからくるおっさんあれは桂文珍みたいやなあ。荷物をカートで引っ張っている。
お伴なしで一人で動いてるんだ。彼は私のすぐ隣に来て立ち止まった。やはり文珍だった。

5、6年前に阪急六甲から梅田まで隣どうしに座った桂文珍とはこれで3度目の遭遇だが、
いままでになく自然体で周囲の人は誰も気付かない。気のせいか彼は少し仏頂面に見えた。

テレビと違うのは薄いサングラスをかけているだけだ。彼は早く来すぎたのか私の乗った列車には乗ってこなかった。

②21のB席は窓際3列の真ん中の席だった。この伊丹空港発のフライトは乗客に子供が多く満席だった。

シートベルトを締めてぼんやり乗って来る人をみていたら、笑福亭鶴瓶みたいな男が通路をこちらに来る。
その後ろに名前は知らないがテレビで顔は見たことがあるのが続いている。

みたいではなく間違いなく鶴瓶だった。彼は20のD席、若いのが20のC席に座った。
飛行中二人は半分の30分ほどスケジュールの話をしていた。あのダミ声の大阪弁で。

着陸して皆が席をたったとき、彼の前の席の女性が後ろを振り向いて握手を求め、それに対して笑って握手を返していたくらいで、
殆どの人は気付かないままで機内から下りていった。

運動会などの集団の中から自分の子供をすぐ見分けられる視覚の識別能力は、動物の始源的な能力の一つらしいが、
例え一度も会ったことがない他人でもいったんインプリンテイングされたイメージと同一人物が目の前に現れたら、
無意識かつ即座にその人だと認識するという経験は何度あっても面白い。

#31 遭遇 その2 イノシシ カンバック    2003.8.10作成

夜11時過ぎ、飼犬のうち若い方のムーが突然ワワーンと外に向かって異様な吠えかたをした。あっイノシシがまた現れた。
人に対する吠えかたと全然違うのですぐそう思ったそうだ。

相方が道路際の2階の部屋の窓から外を見ると、20mほど離れたゴミの集積所のところに大きなイノシシが1頭とウリンボウが
一匹ビニール袋に鼻を突っ込んでいる。時間が遅いのでバスはもう通らないが、乗用車が何台もそこを避けて大きくふくらんで減速して上がっていく。


集積所の前の一家は総員で玄関の塀ごしに顔を出してこわごわ覗いている。そのお隣はガレージのシャッターの前に置いていた
ビニールをあわてて取り込んでいる。(私は冷酒をやりすぎてこの時間は白河夜船だったので翌朝聞いた)

その一週間ほど前は真夜中にムーが吠えるか吠えないうちに、家の前のお宅の玄関でドーン、ドーンという大きな音がした。
覗いてみたらやはりウリンボウを連れたイノシシがアルミ製の柵に体当たりしているのが見えたそうだ。
前にアルミの柵の中に置いていた生ゴミをやられた事があるおうちだ。


一年ほど前近所の何軒もアルミ製の柵や玄関がイノシシの体当たりで捻じ曲げられ、取り換えざるを得なかった。
うちと隣は建ったのがほぼ40年前と古いので柵は鉄製だが、鉄製のものはどの家も被害がない。
推測だが鉄の(かなけ)のイオンの匂いを避けるのかもと思う。

つまり先祖代々、猟師のトラバサミなどの鉄のワナで痛い目にあってきたので、鉄から逃げるDNAがあるのかも知れない。
理由は不明だが鉄製の物には向かってこないというのは不思議な事実だ。

神戸市が六甲山麓の地区の住民の声を聞いて昨年ようやく「イノシシ迷惑防止令」を出して、餌をイノシシにやるのが禁止されてから、
彼らが近所をうろつくのが少なくなってほっとしていた。

今年の梅雨の長雨や気候不順で六甲山の自然のエサが少なくなったので、またもや人家の近くに出没しだしたのだろうというのが、
朝飯どきの我が家の結論だった。

#32 シャンツアイが茂った  2003.8.16

*どこの空港も飛行機から外に出るとその空港の匂いがします。シンガポール空港(旧空港)のシャンツアイ(香菜)の匂いのように。

(行った人はご存じのように、彼らはどんな料理にも最後に三つ葉かパセリのようにこのハッパをのせます。
シャンツアイは最初あぶらむしの臭いやと思いましたが、すぐに好きになり今も種を買って、夏は家のプランターで栽培しています。
ボク以外家族の誰も食べませんが)
                     (海外あちこち記---その七から)

 今年もベランダのプランターでシャンツアイ(香菜)が青々とした葉をつけている。最初のものは枯らしてしまい、
今のシャンツアイは神戸元町の「ブハラ」というインド料理屋か、六甲道の「上海外灘(バンド)」という中華料理店で食べた帰りに、
袋入りの種を貰ったのがうまく育って毎年開花し、種を取り、代々続いている2代目だ。


 先日、相方がプランターから摘み取って台所に持っていくのが、その香りというか匂いですぐわかった。
晩飯は確かニホンメシと言っていたのに何に使うのかと思っていたら、豆腐の澄まし汁に振り掛けて出てきた。何の違和感もなく、
澄まし汁に合う。和食系にも三つ葉の代用でなくそのまま使えるんだと思った。

シャンツアイは強烈な青臭い匂いがするので、中国、台湾、東南アジアへ行くと、半分冗談ながらこれを食べられるかどうかで、
土地に適応出来るかどうかのリトマス試験紙みたいに使われることがある。好きか嫌いかだけだから、嫌なら「シャンツアイ プーヤオ」(香菜不要)と
言えばいいのだが、シンガポールあたりでは何にでも乗せてくるので、慣れた方が早いような気がする。

ボクは一番始めは、ジャカルタのホテルの中華の店のヤキメシの一口で、この変わった葉っぱは何ですかと聞き、これはうまいと思った。
貿易部員として、8年間アジアを担当したが、幸いなことに食べ物で手がでないものは一つもなかった。というか中国人(韓国以外は
東南アジアも基本は華人系食事)が食うものに不味いものはないという思いは強まったし、今でもそう思っている。

1cmの葉っぱ1枚でもいい匂い(ボクにとって)が台所中に漂うほど独特かつ強烈なので、最初は家族に総スカンを食ったが、
一人でチキンラーメンや焼き飯、ヤキソバにも乗せて食べているうちに、家族も慣れてきて今や家族全員がおいしいと食べるようになった。
やはり独特のウマミがあるのだろう。そしてプランターの春の植え付けも相方がしてくれるようになった。

ある曲が流れてくると、子供の頃のある場面が浮かんでくるように、匂いも時々ある状況を思い出させる。
家で匂いがするとスマトラ島のメダンからトバ湖へ向かう山中で、車が道に迷い、時分どきになってしまい、
路傍に一軒だけあった店で食べたホーコー鍋?にたっぷり乗っていたシャンツアイを思い出したりする。

今では阪神間の殆どのスーパーで売っている香菜、日本人の何でも試してみて良かったら取り入れる能力は全然変わっていない。

今年も茂ったとさ。

#33 茨城県に住んだ日々の子供のおやつ   2003.8.04 作成・メルマガ発信

1、社宅定年が近づき、社宅の身近な人達も次々家を探して出て行くし、下の子も3歳になり3DKの間取りも狭くなってきたので、
会社の住宅融資制度に申し込んで毎日曜に都内や横浜方面も含めて半年ほど家探しをした。

しかし当然ながら手持ち資金と融資枠の限度を合わせても、子供を育てるのに庭付きの家が欲しいという希望は結局、
住んでいた千葉県を越えて利根川の向こうの茨城県でなんとか実現するという事になった。

当時は輸出部門に所属していたから、毎月最低一回は海外出張があり、家から成田空港まで小1時間、
また成田空港へ降りて一時間もすれば家で風呂に入っているという場所のメリットを感じる方が大きく、
神田までの1時間30分から40分の通勤時間は気にならなかった。

サラリーマンだから転勤はあって当然なのに、昭和62年、当時7年間住んだ頃には定年までずっとここに住むものと家族全員が思い込んでいた。

2、「学校から帰ったら時々見たことがない大きなオニギリがお皿に載っていてそれがおやつだった。でもそれは面白くておいしかった。

小学校2年くらいになると悪智恵もついて家にはないスナック菓子が食べたくなると、時にはおやつ時に友達の家に遊びに行って頂いていた。

相方の話ではやはり前から住んでいる近所の方の紹介で、近所の農家が自家消費用にだけ無農薬で作っている米を農家から
買えたのでご飯そのものがびっくりするほどおいしかった。

また取れすぎたといって売りにこられる、これまた無農薬栽培のトマトやキュウリも畑で完熟した野菜だから果物以上においしくて、
おやつに出したらそれで子供は充分満足だったと言う。

そういえば時々台所に枝付きの枝豆や泥のついたフキが大量にある日があったが、あれはどうやって手に入れていたのかと聞くと、
親しくなった農家の人が食べるかねと持ってきてくれた。食べきれないので、ご近所にも配って喜んでもらったとの事だった。

また、水戸納豆の本場の故か小学校の給食にもご飯と納豆が出る日があり、娘の大好物になり家の冷蔵庫には一年365日納豆が
入っていない日はなかった。

次女は小さい時から納豆さえあれば外のおかずはなくても済む子で、三時のおやつにも納豆をうまそうに食べるのは私には不思議だった。


#34  月光写真   2003.9.01作成

石川賢治という写真家の「月光写真展」を29日の夕方、大阪で見てきました。“満月の光だけで撮影”された写真の展示です。

パンフレットの惹句は「太陽光のわずか46万5千分の1の月明かりが紡ぎ出す神秘的なブルーの世界」となっていました。

京都の清水寺、金閣寺、ハワイの火山、海岸、ヤシの木、アフリカの草原、ライオンやピューマまた海の底などが青白い月光の下にありました。
会場のライテイングも薄暮より少し暗めにしてあり、波の音やせせらぎの自然音がBGMで流されていました。

大丸・梅田ミュージアムという足場のせいか沢山の人が来ていましたが、会場はシーンとして人の声はありません。独特の蒼い世界でした。

一見の価値ありです。何事も人がやる前にやるということはエライもんですね。写真の中の星たちが露光時間中に移動するので、
その軌跡が2cmとか3cmの長さの少しカーブがついた細い帯になって写っています。

清水寺の舞台の写真の中で、赤い点がいくつか見えたので近寄って見ると椿の花でした。
ハワイ島の火山の溶岩が赤く発色しているのはわかりますが月からのという反射光にも赤が発色するのは意外でした。

歩いて見てまわるうち、月の光も凄いエネルギーを持っているんだと思いました。そしてふと、その月光もつまりは太陽の光が
月に当たって地球に反射していると思った時、太陽というものは本当に凄いもんだと思いました。

その時、唐突にもう50年以上昔、父方の祖父が上諏訪から家に遊びに来た時の事を思い出しました。ある朝早く、
彼が雨戸を一枚開けて太陽に向かい一礼し、かしわ手を打っているのに子供の私は気づきました。

そういう姿を始めて見たので、何をしているのか聞きました。

たしか「わしらは、あのお天道さまのお陰で毎日生きていけるんだから、毎朝こうしてありがとうございますとお礼を言ってるんだよ」と
いうような答えだったと思います。随分長く思い出す事のなかった祖父の姿が暗闇の中に浮かびました。

会場の出口近くに大きな花だけの写真が4枚並んでいました。遠くからでもすぐ月下美人の花だと気づきました。
ついこの間自分の家で撮ったばかりでしたから。
つぼみから開くまでの連続写真を月の光だけで撮っていました。花弁が露光時間の間に動くので、少しブレているのもいい効果が出ていました。

その後、大阪で友人と痛飲し25時過ぎに家に帰り、そっと鍵を開けて家に入り寝る前にふと家の月下美人の鉢を見ました。
すると知らない間に新しい小さな蕾が2つ付いていました。 また暑さがぶり返したせいでしょうか、
このあいだ美人だと褒め称えたせいでしょうか。いずれにせよ愛(ぅ)い奴です。

「又、月下美人が咲きそう」と大きな声を出しかけてあわてて口を押さえました。せっかく起こさずに家に入れたのだから、
そんなことより明朝のための遅くなった言い訳を考えて置く方が先でした。

#35  「北朝鮮の工作船」  2003.9.04 作成・発信。

7月はじめのある日お台場の「船の科学館」へ行った。

そして海中から引き上げられ、調査が完了した後はここで展示されている北朝鮮の工作船の残骸を見てきた。
この日は新橋のユリカモメの駅で学生時代、弓道部で一年先輩だったY.五十棲さんと待ち合わせた。
彼とは少し前から交信が復活し、この日卒業以来38年ぶりにお会いすることになった。
 ボクにとって「朋あり、遠方より便りあり」は生きている哀歓苦楽の中の楽の大きな一つだ。

この日の小旅行は、彼が事前に男二人のデートコースを練りに練っておられ、外からは何度も見ているが、
内部は初めてのフジテレビ見学は、これも面白かった。

1)工作船は、添付の写真にあるように錆びた鉄のドンガラだった。上陸用の小型高速艇をも積み込んだ
スペースから見ると、生活区域はどこなんだというくらい小さな船だが、スクリューだけは4本も並列に並んでおり、
船体の大きさに不釣り合いな推進力があったことがわかる。

巡視船からの銃弾で何ヶ所も沢山の貫通孔も見えた。また最後は自爆したらしいが、自爆用の装置も積んでいた訳で、
真っ黒に焼けた広い個所があった。本体と合わせて引き上げられた銃火器や生活品、衣服などは第2会場に陳列されていた。

ハングルも当然あったが日本のメーカーの製品も多かった。中国政府の横やり(北朝鮮からの依頼もあってのことかもしれない)で、
引揚までに時間が長くかかり、海中に長期間漬っていたとは思えない保存状態だった。

保安庁の船が追跡を始めた時から工作船が自爆して沈没するまで、記録班?がビデオ撮影しており、
それを公開用に編集したビデオも連続放映されている。

これを見ると、砲撃開始までには停戦命令を日本語、英語、中国語、韓国・朝鮮語と4つの言語でくり返し繰り返し行い、
砲撃開始も「停戦命令に従わなければ国際法に則り砲撃する」と大音声のスピーカーで何度も警告している。

先方からの反撃の砲撃は当然ながら突然であり、ビデオの担当官も驚いている様子がカメラの揺れでわかる。
船の実物とビデオを見ると、
これに乗っていた連中は明らかに戦闘を常に予測している兵士だ。本国からの自爆指示か責任者が叩き込まれている
マニュアルによる自爆かはわからないが(また、自爆かどうかも本当のところはわからないが)、少なくとも十数名の
20代、30代の人間が死ぬ時に将軍様マンセーと言ったか、オモニー(お母さん)と言ったかは知らないが、停船せず、
また逮捕されることなく死んだ。

2)これらを見ていると、かの国は昭和20年から58年間、今も戦時体制にある国なんだと実感する。
見た船体も装備品もよくここまで使っているなあという古い品物が多かった。

この間、戦費や宮廷費用を調達するために、これらの船で大麻から麻薬からなんでも金になるものを日本に持ち込んだり、
潜入者の教育係のため、色々な階層の日本人を拉致してきた。

ある一族とその取り巻きの安寧と永遠の持続のためにだけ、その国の大多数の人間は存在するというのは歴史上どこにもあることだ。

(つい140年ほど前まで日本も、徳川さまご一家ご一統の安泰のため情報封鎖の鎖国をした。
そして厳しい禁令を沢山つくり、他国世間様とのお付き合いをさせないように取り締まった。

この間、向こうの島国人のイギリスがアメリカ、カナダ、豪州など好き放題に切り取り強盗をやる間、
本来彼ら以上にパワー溢れるこちらの島国人は300年間、大きな外航船は作れないし、
お家取り潰しにあわぬようなどお上の顔色を見てビクビク過すしかなかった。なんともったいない300年。

あのころお上が手をださない読み書きソロバンなど普通日本人が寺小屋などで受けた教育は、当時の世界レベルで質量共に
他国を圧していたことを思うと、お上が手を出したら碌な事にはならない例の一つだ)

にしても、北朝鮮にとって気の毒なのは、地球上の時代がこの50年で、もう偉大なる将軍様でも統領様でもないように、
不十分ながらも封建主義から民主主義にシステムが変わってしまったことだ。中国も、ロシア(ソ連)も
北朝鮮を緩衝材に使うだけ使って、今や使い捨てというのも気の毒だ。

3)かの国に自分が今生まれていたらと想像すると、気の毒に思うことは多々あるが、「暴力とカネ」だけがルールで、
ある一族だけのために50数年運営されてきた国の人とはもはや同じ常識は通用しない。
かの国が国として、金一族と共に自滅するしかないとすると、人間とはつらいもんだと思いながら会場を後にした。

(とは言え、昭和20年、アメリカが準備していた原爆をあと5発ほど落していたら、こちらも歴史家におんなじ事を書かれていた可能性もあるが)

Y.五十棲さん、自分では行こうと思い付かないところへ連れて行って頂きありがとうございました。

コメント (1)
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