阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

3月27日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年03月28日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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「 山菜の季節」 「御神渡り」 「ばったり会った人」 「新居浜駅の買い物」   阿智胡地亭便り⓵   こんなエッセイを2002年頃からメールで友人知人に発信した。

2022年03月28日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

#1 山菜の季節  ’02/2/17

2月、3月は春の山菜の季節です。
最近はこの時期になると[ふきのとう、たらの芽、こごみ、山ウド]などが
スーパーの店頭にも出るので有り難い。昔は、産地に遠いところでは
業務用専門の八百屋にしか置いてなかったのですが。
この山菜に[マイタケや自然薯]などを加えての天ぷらは、旬を食べているという
実感もあり本当においしい。土曜、日曜に家で山菜を冷酒でやるときりがありません。


<ふきのとう>は千葉、茨城に住んでいた13年間は買ったことはありません。
近くの畑の陽当たりのいい法面の同じ場所に毎年必ず<ふきのとう>が
顔を出します。その場所を覚えておいて春の兆しが感じられると見に行きます。
雪の中から顔をだしたところを覚えておき、食べごろになると摘まんで来て、
ミジンにして味噌汁に入れると、台所は一瞬にして春の香りで一杯になります。
またみじんぎりをたっぷり味噌に混ぜて、焼き味噌を作ってごはんに
乗せると、何杯もお代わりすることになるし、酒のツマミにも絶妙です。

何ヶ所も<ふきのとう>が出てくる場所を押さえておいて、次々子供達と取りに行くのは
毎年の楽しみでした。生える場所によって少しずつ成長の速度が違うのです。
神戸に来た当初は<ふきのとう>が手に入らず寂しかったのですが、数年後三ノ宮の
地下商店街の八百屋で見つけ、それから毎年そこに買いに行きました。
ここ3、4年は近くのスーパーの棚にも置かれるようになっています。

<たらの芽>は切り取っても、すぐに新しい芽が吹くので栽培作物としてもペイし、
需要も増えてきているので、最近は熊本の阿蘇山麓などで栽培され、参入する
農家も増えているそうです。
昔から考えると匂いは少し薄くなったような気はしますが、まあそれなりの価格で
買えるので、このシーズンはこの大好物を冷蔵庫に欠かす事はありません。
外で山菜の天ぷらと言うとそれなりの値段を取られますが、このシーズンは
スーパーか近くの八百屋で手に入る材料で家で山菜を楽しんでいます。

# 2御神渡り  ’02/04/07

4月3日の日経関西版夕刊の「プリズム現代第一集/身近に迫る温暖化」というコラムに諏訪湖の
御神渡りの事が出ていたのでご紹介します。記事中の「八剣(やつるぎ)神社」は父が生まれ育った
地区の氏神で、父の実家があった場所から300mくらいのところにあります。

全面結氷した湖面に、盛り上がった亀裂が走る長野県・諏訪湖の「御神渡り」。


信州の厳しい冬を代表する景観として知られるが、最近はめったにお目にかかれない。
三月、諏訪湖に近い八剣神社で行われた恒例の御神渡り奉告祭では、宮司の宮坂清さんが
「波打ち寄せる明けの海にて、御渡りのござなく候・・・」と、今年も御神渡りのない「明けの海」
だったことを神殿に告げた。・・中略、厳しい冷え込みが氷を収縮させ、大音響とともに湖面に
割れ目が(真ん中を切り裂くように一直線に盛り上がって)走る。冷え込みが緩むと今度は氷が
膨張し、割れ目に張った新しい氷を湖面上に押し上げる・・・というのが御神渡りの出来る仕組み。


マイナス10度以下の夜が続かないと、氷は十分収縮しない。御神渡りは諏訪大社の神が湖面を
(上社から下社へ)渡った跡と伝えられ、その道筋で吉凶を占うなど神聖で大切な現象とされてきた。
・・中略、その記録が「湖上御度注進録」として八剣神社に伝わっている。室町時代から途切れる
ことなく560年間。これほど古い自然現象の観測記録は他に例がない。温度計のない時代の貴重な
気象記録でもある。(地球の気象データとして世界的に利用されている)その注進録によると、
御神渡りがなかった年は江戸時代に十九回、明治に三回、大正に二回、戦前の昭和に二回と
きわめてまれだった。ところが、戦後の昭和は十三回に増え平成では十二回と出現しない方が
普通になった。・・中略、御神渡りどころか湖が全面結氷しない年も増えてきた。氷が薄く危険な
ため、地元警察は「氷上への立入り禁止」を通達。冬の風物詩だったワカサギの氷上穴釣りも
難しくなった。湖上でのスケートは、今や過去の風景だ。


「ここ数年、どこかに忘れ物をしたまま、春を迎え続けているような気分です」と宮坂さん。
古くからの風習や伝統にも、温暖化が影響を与えつつあるようだ}

 御神渡り:父から、「子供の頃毎冬、夜中にバリバリバリっと大きな音が湖面から聞こえたものだ。
その回数が多い年ほど豊作だと皆喜んだ」と聞いた事がある。旧制諏訪中学の冬の体育の時間は
諏訪湖でのスケートだったそうで父はスケートは確かに上手かった。

八剣神社:諏訪大社の7年目ごとの御柱(おんばしら)祭りの記録に残っている200回目、
すなわち1200年目の祭りの年に親戚の家に泊まり従兄と八剣神社にお参りした。彼の説明では、
諏訪大社の子社の中でも格式で筆頭に近い古い神社で、もしかしたら大和族により出雲から
追われて諏訪に逃げた大国主系神(出雲族系)の諏訪大社よりも古く、それ以前から、
当地に住んでいた原住縄文系の部族の祖先神を祭った神社かも知れないと。


建物は何回も補修されているが、あるときの工事の時に甲斐の武田が諏訪を占領した時の
武田兵の落書きが見つかり、それは今でも残してあるそうだ。ここも7年に一度4本の御柱を
新しく建て、古い柱は小さく分割し祭神名を書いて氏子が頂き、家の神棚に7年間備える。
私も頂いて帰り、家の神棚に上げている。
諏訪の地の神が神戸まで連れて来られて驚いているかも知れない。

  宮司の宮坂清さん:八剣神社の氏子が住む小和田(こわた)地区は宮坂姓が多い。
清酒「真澄」の醸造元もこの地区の宮坂醸造だ。

  小和田(こわた):「わた」は日本古代語で水、海、船着き場を表す言葉。

「こわた」は規模の小さい船着き場の意か。

  戦没学生の手記を集めた本の題名に「聞けわだつみの声」などと使われたり、平家が福原の都時代に活用した兵庫「大輪田の泊」とか

漢字が導入されてから当て字で色々書かれるが音でわだ、わた」が入っている地名は水辺、海辺に多い。

雅子さまのご実家の小和田さんは「おわだ」と読むが、やはりそういう地名からの名字かも知れない。



#3 ばったり会った人 連休番外篇  ’02/05/03

世間様はどこまでも不景気で、人減らしが続き大変なこの時期に、私は4月後半のある日、
琴平の金毘羅大芝居に行きました。
現在、多度津と新居浜に居住されている元の勤務先の先輩お二人のご配慮で、
国の重要文化財に指定されている琴平の金丸座の公演に行くことが出来ました。
年に一度の歌舞伎公演、しかも今年は片岡仁左衛門一座の出演で連日大入りだったようです。
当日、前から2列めの桝席で「義経千本桜 すし屋の場」などに3時間浸ってきました。
いがみの権太がキセルに火をつけた途端その煙が鼻をさす近場で。



この観劇旅行記はいずれ「あちこち記」でと思いますが、この金丸座の前で
(小説家の立松和平さん)にたまたま出会ったので、これをネタのキッカケにし、過去に
「バッタリ出くわした」人達を指折り数え、連休の番外篇としてワタシのミーハーぶりのご披露です。


*(立松和平さん)は思っていたより顔も大きく身体の厚みがあり、大柄で人より身長が頭一つ
抜け出ていました。大きなリュックを肩にかけていて、たまたま琴平金丸座の入場口で会い、目が合いました。
ふんわりした気分の人のように見えました。

*会った近さの順番で行くとその前は(中島誠之助さん)でした、2ヶ月ほど前、新幹線の東京駅ホームで。
その時は名前はわからなかったが、「お宝鑑定団・・」とかいう番組にヒゲの着物姿で出ている人と、
その時は洋服でしたがすぐわかりました。私より小柄な人でした。番組は見ないけどコーヒーか
なんかのCMでよく見かけていたせいか、瞬間、よく知っている人と思い、目が合った時今日は
と挨拶しそうになりました。

*エジプト考古学の早稲田大の(吉村教授)。新幹線京都駅のホームで。
長い黒革のコートを着て真っ赤なネクタイ。なかなかダンデイなおっさんがおると思ったら彼でした。
柱の陰で携帯を始めましたがカタチが決まっていました。

*小沢昭一の次に好きな(永 六輔さん)、JR浜松町で電車を降りる時、同じ車輌の扉から乗ってきた。
相当な年だと思うが背骨がピンと伸びた大きな人だった。やはりアゴに特徴があった。
自然体でなんとなく落ちついた江戸火消しの頭みたいな雰囲気があった。
ところで小沢昭一は、数十年にわたりラジオの「小沢昭一的こころ」の番組でちょっとHな
「〇〇〇〇お父さん」を出しており、このお父さんのイメージのお陰で私もあちこちで時々
得をさせてもらっている。
広島のどこやらのゴルフ場で、キャデイさんに「何年もあの番組を欠かさず聞いとるけど、
〇〇〇〇 という名前の人に始めておうた。ホンマにおるんやねー。おたくがモデルかね」と
独りだけ大事にしてもらって他のパートナーの顰蹙をかったことがあった。

*神戸製鋼ラグビー部の(大八木)選手、家の近所のホームセンターで。
家族で買物していた。プロレスラーみたいな大きい人で坊主頭で異彩を放っていたが、
普通のかっこうのせいか誰も気がつかず、うちのヨメサンも私が言うまで気づかなかった。
このコーナン大石ホームセンターにはよく来るらしく数回出会っている。

*(岡村隆さん)ナイナイの小柄な方、新幹線の新大阪の上りホームで。
文庫本1冊だけ持ってホームのあちこちを移動しながら床に座りこんで読んでいた。
まだテレビに出始めた頃だったか、自分が見られているかどうかチラチラ周囲を確認しながら
時々場所を変えて列車が来るのを待っていた。

*ギタリストの(クロード・チアリさん)、新幹線の神戸駅改札口で。
広島から家に帰る時、改札口で出会った。一人でたんたんとギターケースを手に持っていた。
確か夙川か仁川あたりに住んでいるはず。

*神戸製鋼ラグビー部の(平尾)選手、当時監督?、積水化学の大阪本社ロビーで。
私が積水の物流部の方を待っていたら、ちょっと離れた場所で、彼が名刺を出して
積水の人と挨拶していた。後で面談相手に伺うと、営業で神鋼製品の売り込みに来てるんやろと。
鼻の下にかっこいい髭を蓄え、例の精悍にして鋭い目付きでにこやかに話をしていた。
一流の人間はどこにいてもかっこええなあ、全身が決まっているなあと思った。

*(桂 文珍さん)、阪急六甲から梅田まで阪急電車の席で約30分隣どうしに座った。
当時関西大学に招かれ講座を持っていた頃で、風呂敷からなにやら難しげな本を出して読んでいた。
途中で前の席のおじいさんが気づいて、「文珍さんやねー」と席を立って親しげに声をかけたが、
電車の中やからとか何とか硬い顔で言われて、じいさんはバツが悪そうに席に戻っていった。

文珍氏とは近所の小さな蕎麦屋でも一回会ったが、その九州佐賀出身の夫婦者がやっていた
すぐれもののソバヤは震災でつぶれた。その後一年間なんども店のあったところに歩いて行って
みたが再開されず、経営者は佐賀に帰ってしまったようだ。あの蕎麦は本当にうまかった。
震災の痛手の一つ。佐賀で再興した蕎麦屋 狐狸庵さんClick

*(松島トモ子さん)、神田美土代町勤務時代に接待帰りの23時過ぎの銀座で。
もう亡くなった紀伊国屋書店の田辺茂一社長ともう一人と3人で肩を組んで酔っぱらって
よろよろ歩いていた。小さい時のあこがれの童謡歌手や、元気でがんばってやと暫し見送った。

*(司馬遼太郎さん)、千葉県南柏の社宅から家族でたった一回だけ食事に行った有楽町の東京會舘で。
何か文学賞の授与式があったのか廊下ですれ違った。昭和54年頃?。白髪ですぐ司馬さんとわかった。

*(尾崎紀世彦さん)、羽田空港で。「又会う日まで」でレコード大賞かを取った後だったか。
テレビでは大きく見えていたが、実際は身長160cmくらいで小柄なので驚いた。

誰も皆、あちこち出張や旅行やなんやかんやで動いていると、誰かにバッタリ出会うもんです。

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2022年3月6日追記

2003.8.10作成

  落語家二人

*(桂文珍さん)  新大阪のホームで列車の入線を待っていた。車内で読む「週間文春」と「お~いお茶」を確保した後は、
いつもの癖で目の前を行き来する人達をバードウォチングならぬピープルウォチングを楽しむ。

背をしゃんと伸ばして夏物を涼しげに決めた奥さんの後を、ゴルフウェアーらしいポロシャツを着た旦那が荷物を持って
トボトボついていく。アタッシュケースを持った紺のスーツの若い女性が男の同僚社員らしいのと急ぎ足で通り過ぎる。

若い男女の外人が6、7人でトランクの山を横においている。ツアーらしいがガイドはいないなあ。
女性が小柄だし、着ているものの色とコーデネイトが洒落てるからからアメリカ人じゃなくてラテン系みたい。

あら、向こうからくるおっさんあれは桂文珍みたいやなあ。荷物をカートで引っ張っている。
お伴なしで一人で動いてるんだ。彼は私のすぐ隣に来て立ち止まった。やはり文珍だった。

5、6年前に阪急六甲から梅田まで隣どうしに座った桂文珍とはこれで3度目の遭遇だが、
いままでになく自然体で周囲の人は誰も気付かない。気のせいか彼は少し仏頂面に見えた。

テレビと違うのは薄いサングラスをかけているだけだ。彼は早く来すぎたのか私の乗った列車には乗ってこなかった。

*(笑福亭鶴瓶さん) 乗った飛行機の21のB席は窓際3列の真ん中の席だった。この伊丹空港発のフライトは乗客に子供が多く満席だった。

シートベルトを締めてぼんやり乗って来る人をみていたら、笑福亭鶴瓶みたいな男が通路をこちらに来る。
その後ろに名前は知らないがテレビで顔は見たことがあるのが続いている。

みたいではなく間違いなく鶴瓶だった。彼は20のD席、若いのが20のC席に座った。
飛行中二人は半分の30分ほどスケジュールの話をしていた。あのダミ声の大阪弁で。

着陸して皆が席をたったとき、彼の前の席の女性が後ろを振り向いて握手を求め、それに対して笑って握手を返していたくらいで、
殆どの人は気付かないままで機内から下りていった。

運動会などの集団の中から自分の子供をすぐ見分けられる視覚の識別能力は、動物の始源的な能力の一つらしいが、
例え一度も会ったことがない他人でもいったんインプリンテイングされたイメージと同一人物が目の前に現れたら、
無意識かつ即座にその人だと認識するという経験は何度あっても面白い。

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2004年頃の出会い

*(小田実さん)、最終の東京行き新幹線に乗るべくJR芦屋駅で京都行き新快速に乗りかえようとした2004年頃、

ホームで黒いコートの背中の広い大柄な男のすぐ後ろについた。

電車が入ってくるとき横顔に電車の前方ライトが当たり、そのがっしりした顎の男の横顔が浮かび上がった。

小田実さんだった。確か当時彼は家族で芦屋に住んでいた。

高校生の時から40数年ずっと本も買ってきた憧れの人が目の前にいることに驚き嬉しかった。

二人だけの列は誰も降りてこないドアから乗ったあと、右と左に分かれて座った。彼も新大阪で降りて、新幹線の改札口に向かった。

恥ずかしながらミーハー辛好の大切な思い出です。

*(仰木 彬 監督)、もう何の用事で乗ったのか忘れましたが、2004年頃三ノ宮から神戸市営地下鉄に乗りました。

昼下がりの車両はガラガラに空いていて、乗客は私とはるかむこうに座っている一人の初老の男の二人だけでした。

見るとも無く視線を向けたそのもう一人の乗客は、地下鉄の中だというのにサングラスをかけていました。
軽く背中を座席の後ろにもたれかけて目をつむっているようでした。

その初老の男の「すがたカタチ」は「決まって」いました。

身体のどこにも力が入っていないリラックスした彼のまわりに、そこだけ何ともダンデイな空気が流れていました。

オリックスの仰木監督だと気づきました。

この沿線にグリーンスタジアムがありますが、まさか監督が一人で地下鉄に乗っているとは思いませんでした。

世の中には歳をとって、こんなに「姿かたち」が美しくなる男がいるんだと思いました。

一回限りの、しかもわずかな時間の、仰木彬という人との個人的な出会いの思い出です。


#5新居浜駅の買物  ’02/06/24

先々週、四国営業所に仕事がありましたので半年ぶりに新居浜へ行きました。

①仕事が終ってから、新居浜で新居浜高専の先生方お二人と3時間半にわたり飲りました。
最初の店が一人1200円、次の店は鯨の立田揚まで食べその他3品ほどとジンロ一本取って
一人1500円でした。

どこで飲んだら合計一人2700円で3時間半飲めるんやという質問が来るのは、必至なので言って
おきますが、最初は新居浜駅の横のウドン屋、次がちょっと市内へ移動して「養老の滝」です。
このウドン屋は、愛媛県、香川県では普通の一年中「おでん」がある店です。
西宮の勤務先の近くの讃岐うどん屋も主人が讃岐出身かして同じシステムで、一年中おでんがあり、
鍋からお皿に自分で好きなおでんを取って注文したうどんがくるまでそれを食べています。
この二県出身の人は日本全国うどん屋に行けば一年中おでんが食べられると思っていますから
他県へ就職してこれが標準ではないと知った時、相当な衝撃を受け、国へ戻る人があると聞いた
ことがあります。??

帰りの特急に乗る前に、新居浜駅の売店で定番の買物をしました。

ハラダの栗タルト、母恵夢、星加のゆべし、別子あめ、しょうゆまめ、黒胡麻きなこ棒。
平均単価400円、締めて2450円なり。

新居浜駅は始めて降りた昭和41年と違うのはビジネスホテルが近くに見え、最近コンビニが出来たくらいで36年間ほとんどそのままです。
すぐに駅前アーケードがある他所の駅とは違い、土産は駅売店でしか買えませんが、駅売店の品揃えがなかなかいい。
ほとんど昔の駄菓子屋みたいに地元でしか買えないアイテムが揃っています。

家族にとっては昔からの新居浜出張土産の懐かしい20数年前からの味覚ですから、袋をどさっと開けると歓声があがるのが張り合いです。

②土産といえば、あちこちに行った経験談で唯一家族に感謝されているのは、旅行先でこれはというものを見つけたら、
後で買おうとか明日買おうとか帰りに同じルートを通からその時買おうと思ったら駄目。明日は時間があるかどうか、その店が開いているかどうか、
品物があるかどうか、ルートは予定変更で違う道にいくかもしれない。思ったらすぐ買ってしまう。特に海外旅行では彼女達にとって、このアドバイスは有効だったようです。

③国内出張では帰りの汽車までに時間がある時は、駅や商店街の土産物屋ではなく、地元のスーパーの食品売り場によく行ったものです。
例えば、高岡の駅ビルにある店の「イカの一夜干し」よりスーパーの方が、物があたらしく値段も安い。
また、外の土地にはないその土地独特のお菓子や食べ物がある。

高岡駅と言えば全国の百貨店の駅弁大会でもメジャー品「鱒のすし」を買う時は、時間がなくとも一階の全店においている誰でも知ってる有名ブランド品ではなく、
2階のひと気の少ない売り場へ行って、地元でしか知られてない弱小「鱒のすし」屋の品を買ったものです。地元の人は他所への土産などで買う時は
皆ここで買っていると代理店の社長から教えてもらいました。
大量生産の自動生産でなく、人手で少量作っているので、鱒のスライスの厚みも一定でなく、バラツキがあり買うたびに少しづつ味が違うと言うファージイな代物ですが、これはうまかった。

もう何年も高岡には行ってませんが、いずれJRのジパング倶楽部の会員になれる歳になたら、
北海道小樽から九州長崎まで仕事で行った場所を相方と訪ね、高岡駅の2階にも必ず行くつもりにしています。


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じいちゃん と ばあちゃん と わたし   5歳児の描く

2022年03月27日 | 身辺あれこれ

消される前に撮れてよかった。

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宝田明の他界を悼む 半澤健市 (元金融機関勤務) 「リベラル21」掲載

2022年03月27日 | SNS・既存メディアからの引用記事

引用元。


《金融マンの私と東宝の関わり》
 1950年代に、東宝の青春スターとしてデビューし、多様なジャンルで活躍した俳優宝田明(たからだ・あきら)が逝った。2022年3月14日であった。

 東宝と、私が務めていた東洋信託銀行(現「三菱UFJ信託銀行」)との取引関係から私は入場券を購入する機会が多く、東宝ミュージカル、東宝歌舞伎、劇映画をよく観たものである。

社内の映画同好会で、東洋信託本社が同居していた日本橋橋畔の野村證券講堂を借りて「二人の息子」(千葉泰樹監督/松山善三脚本・1961年)の上映会を催したことがある

 宝田が兄役で団地に住むエリートサラリーマンを、加山雄三が弟役で白タクの運転手を演じた。

戦後企業社会のスタートの頃の話である。映画は、三世代家族が多かった家族共同体が、経済成長の道行きで変貌してゆくさま示した佳品であった。

二人の息子である宝田と加山の新鮮な演技に感動したのを私はよく覚えている。

《宝田明における戦争と平和》

宝田明は「満州国」(現在中国東北地区)で満鉄勤務の家族として、1934年に生まれ、45年の大東亜戦争敗北で日本本土へ引き揚げた。

その途上で彼は自分と近しい人々がソ連軍から、筆に書けない屈辱を受けたのを見た。

彼は、チャイコフスキーやトルストイを生んだ「ソ連」を芸術の国として評価できないと語った。

 彼は自らも加害者の一員であった戦争から学んだ「反戦平和」の理念を尊いものとして考えていた。

それをテレビや講演で、芸能が話題の席でも話した。自分の反戦平和論にクセがあることを自認していたが、逆にそれは彼の真情をよく訴えるものであった。

《宝田と観客は大衆の誇りである》

なるほど宝田明は、黒澤明・小津安二郎・溝口健二ら巨匠作品への出演はなく、あっても主役を演ずることはなかった。

しかしこの長身でスマートな二枚目は、東宝モダニズムによく似合い、メロドラマ映画やミュージカルの日本化で優れた達成を示した。

 代表作「ゴジラ」の出演者として、「巨獣の姿、伊福部昭のテーマ音楽」と共に、世界の大衆によって記憶されている。

 表現の自由と反戦の思想を、世論を忖度して曖昧にする演技者は、日本に多い。
 しかし、このエンターテイナーは、自分の言葉で「反戦平和」を語った。
 人々はそのことを密かに感じ続けていた。彼の訃報に対して人々は瞬時に反応した。

「Yahoo!」ニュース訃報欄に一日で750件を超える弔文が寄せられた。

俳優と観客の「エンタメ共同体」は生きていたのである。私もその一人である。

宝田明よ 安らかに眠れ!

 *強調黒字は管理人*

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諏訪高島城 「保存協力会」発足へ 長野日報

2022年03月27日 | 諏訪便り

2022年3月25日 6時00分   復興から半世紀が経過した「諏訪高島城」。保存と活用に向けた市民運動が始まる

諏訪地域の歴史的な象徴である「諏訪高島城」(諏訪市高島1)の保存と活用を民間レベルで盛り上げていこうと、諏訪観光協会や大昔調査会など7団体が「諏訪高島城保存協力会」を発足させる。30日午後1時から諏訪商工会館で設立総会を開き、規約や事業計画、役員を決める。代表理事には諏訪家第15代当主の諏訪忠則さんが就任する予定だ。

保存協力会の発足は2020年の高島城復興50周年記念事業がきっかけ。市の委託で大昔調査会が担当した記念誌の編集を通じて、高島城に寄せる地域住民の思いの強さを改めて確認できたという。発起人10人を中心に昨年秋ごろから準備をしてきた。

高島城は明治維新に伴い撤去されたが、何度も復興運動が持ち上がった。成就したのは4度目の挑戦。諏訪市大手でかっぽう旅館を営んでいた中島篤平が呼び掛け、岩本節治市長(当時)が引き継いで期成同盟会が発足すると、7212人から9536万円余の寄付が集まり、全額寄付で1970年に現在の復興天守が完成した。木造の冠木門や冠木橋、角櫓は小和田太子講が施工し、庭園は諏訪造園業組合の奉仕で実現している。

保存協力会は、諏訪観光協会、諏訪商工会議所、諏訪造園業組合、小和田太子講、史跡御廟保存会、大昔調査会、スカイシープロジェクト合同会社と個人で発足する。仲間を増やしながら、市や地域住民と協力し、高島城の歴史的価値や観光資源としての魅力を高めていく目的だ。

高島城や高島藩に関する▽文化財の保存・活用、高島城運営への協力▽地域住民や観光客への情報発信、地域の観光振興―を事業の柱とし、初年度は会員アンケートで活動状況を把握し、事業内容を検討する考え。

関係者は「天守復興から続く縁を 大切に市民主体のムーブメントを起こしたい」と話す。設立総会終了後には、市文化財専門審議会委員で工学院大学総合研究所客員研究員の二村悟さんの講演「復興高島城の現代建築としての魅力」をビデオ上映する。一般の聴講も歓迎している

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3月26日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年03月27日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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一部引用・・

こんなふうに民主主義は壊されるのか

――あそこまでは、ちょっとやそっとじゃ、できないですよね。

横田 ほんとうに陰謀論を信じている。トランプの選挙に不正があると心底、信じている。その気持ちにウソはない。そこが空恐ろしい。

 でも彼らの人生だからね。今回の本はテーマとして、政治家のウソや陰謀論を野放しにすると民主主義は壊れてしまうというものですが

その前段にはトランプ信者の話をちゃんと聞いて、僕は間違っていると思うけれども、その人たちの話を読者に伝えようというのがあります。

この本に出てくる人たちが駄目かどうか、それは読んだ人が決めることであってね。

――本書の副題は「私の目の前で民主主義が死んだ」です。連邦議事堂襲撃事件の日、そう痛切に思ったとあります。

横田 あの日、ホテルの部屋に戻ってテレビでみていたら、4人が亡くなったと聞いて、こんなふうに民主主義は壊されるのかと思いました。

不正選挙がウソだってわかっているから余計に悔しかった。

 

 

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成城石井が「海老とオクラのシンガポール風焼きビーフン 」を売り出した。       星州炒米粉 三題

2022年03月26日 | ある日のランチ

エスニック惣菜では成城石井の一番人気という「シンガポール風焼きビーフン」は高く積まれて店頭でも目立っていた。

具がしっかり入っていてカレー味も立ち、調理も丁寧でおいしい。泡盛などの酒肴にもよく合う。539円なのでちょっと高めに感じるが時々買って帰ることになりそうだ。

 ◎ 家で常備品のケンミンの焼きビーフンカレー味もうまい

◎ あいかたがもう17年ほど作り続けてくれている星州炒米粉 従来からあるケンミンのビーフンがベースだ。  

この日の家の昼食は久しぶりに「シンガポールビーフン」だった。

錦糸町の台湾料理店でおいしい焼きビーフンは食べられるが、残念ながらシンガポールビーフンのメニューはない。

しかし旨いシンガポールビーフンが家で食べられるのがありがたい。

 

昼飯はシンガポールビーフン  (阿智胡地亭の非日乗  2005年07月02日(土)掲載) 

今日の昼メシは「シンガポールビーフン」でした。前から相方に作って欲しいと頼んでいましたが、ついに作ってくれました。うまかったです。

聞くと数日前の新聞にシンガポールビーフンの記事がレシピと一緒に出ていたのだそうです。

このビーフンとの最初の出会いはシンガポールでした。

昭和50年代の中ごろインドネシアによく出張で行っていましたが、その行き帰りには今のチャンギー新空港の前の旧シンガポール空港を利用しました。

どこの空港でも、乗換え時間があると時間一杯まで必ず隈なくその空港見学をしたもんですが、あるときシンガポール空港で喉が渇き、

隅っこにある前から目をつけていた小さなレストランに入りました。

そこのメニューを見ると「星州炒米粉」と言うメニューがありました。シンガポール市内では見たことがない料理でした。

元々ビーフンは台湾から生まれたもので、台湾でビーフンの美味さを知ってからメニューにビーフンがあれば必ずオーダーするようになっていました。

迷わずビールのサン・ミゲルの小瓶と「星州炒米粉」を頼みました。何が星州かわからなかったのですが、黄色い色のカレー味のビーフンが出てきました。

ビーフンにカレー風味がマッチして初めての味でしたがうまかったです。

それからはこの空港でトランジットの時も店に直行してサン・ミゲルと「星州炒米粉」を楽しみました。

シンガポールにはイギリスの植民地時代にイギリス人が統治のための使用人として連れてきたインド人の子孫が今、シンガポール人として多く住んでいます。

そしてシンガポールの中国人も中国の福建省から出稼ぎでイギリス統治の当時のマレーシアへ苦力(クーリー・労働者)として出て来た中国人の子孫が多いのです。

福建省は台湾の原住民、高砂族以外の殆どの現在の台湾人(本省人)の出身地でもあります。台湾の米粉とインド人のカレー粉がシンガポールで合体してシンガポールビーフンが出来たのでしょう。

「星州」とはシンガポールの漢字表記でした。


これから我が家のメニューの定番の一つとしてカレービーフンを入れていいかと確認したら、相方からOKのサインが出ました。嬉しいことです。

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大阪市が運営する『帆船 あこがれ』を見学しました。          10年前の今日2012年3月26日「阿智胡地亭のShot日乗」掲載

2022年03月26日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

大阪南港を母港とする帆船「あこがれ」を月曜会のメンバーが見学しました。

「あこがれ」は“日本丸”や“海王丸”を造った住友重機械工業社の浦賀工場で1993年に竣工しました。

海洋諸国では地方公共団体や帆船愛好家団体が帆船を持って、若い世代に海に対する関心を持ってもらうべく乗船や航海体験をさせています。

日本では行政として唯一「大阪市」が体験用帆船を所有し、これまで20年間、海洋国家日本の次世代のために貢献してきました。

乗船してみると、まことにこじんまりした船でしたが、勝海舟や福沢諭吉などは、ほぼこの大きさの船「咸臨丸」で太平洋を渡ったのです。

幕末の日本人の「国家が存続するために、それぞれの人たちが持つた使命感ーミッション」を果たそうとする気概の重さ、大きさを思います。


 「あこがれ」が係留されているATCは毎週日曜日にはコスプレ愛好者が集うそうで、多くの男女が非日常の衣装で異界の自分を楽しんでいました。









「あこがれ」の沿革と歩みはこちら
案内して頂いた吉川指導員、ありがとうございました。
○この2枚はHPの壁紙からダウンロード。



橋下市長さん、大阪市の中高生の課外活動に最適の帆走体験が“あこがれ”で出来ます。そして海洋国家日本のためにもこういう教育の場は貴重だと思います。

これからもこの帆船の活用を是非考えてください!

◎HPは こちら


“あこがれ”の主要目

起工 1992年6月19日
進水 1992年11月24日
竣工 1993年3月31日
船種 帆船
用途 国際航海に従事する練習船
船型 全通平甲板型
帆装形式 3本マストトップスルスクーナー
主要寸法
 全長 52.16m バウスプリットを含む
垂線間長 36.00m
型幅 8.60m
 型深 5.90m 上甲板まで
満載吃水  4.50m
総トン数 362トン(国際)
航海速度 8.5ノット
主機関 4サイクルディーゼル
最大出力 320PS×1基
プロペラ フェザーリング式可変ピッチプロペラ
搭載人員
 乗組員   10名
 訓練生等   40名(ただし国内での1日コースの場合は60名)
帆枚数/帆面積
 横帆3枚/約215㎡
 縦帆10枚/約568㎡13枚/約783㎡
 総帆 通常セットしている帆の枚数と面積13枚/約783㎡
マスト高さ(最高) 約30m 上甲板上

参考 咸臨丸Wikipediaから

艦歴

発注: 1855年(江戸幕府)
起工: 1855年 (オランダの造船所)
進水: 1856年
就役: 1857年
退役: 1871年沈没

性能諸元

排水量: 620 t
全長: 48.8 m
全幅: 8.74 m
吃水:
機関: 3本マストの帆
100馬力の蒸気機関
燃料: 石炭
最大速: 6 ノット (10 km/h)
兵員:
兵装: 砲 12門
1860年、日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節団一行がアメリカ軍艦ポーハタン号にて太平洋を横断。

咸臨丸はポーハタン号の別船として、旧暦1月13日品川を出帆、旧暦1月19日に浦賀を出港、旧暦2月26日(太陽暦3月17日)にサンフランシスコに入港。

艦長は勝海舟。(正確には勝海舟は「軍艦操練所教授方頭取」、木村摂津守は「軍艦奉行」であったが、勝が艦長、木村が提督と考えると現在の呼称に最も近い

福澤諭吉やジョン万次郎らも乗船していた。

万次郎以外の船員は大半が船酔いで、技術アドバイザーとして乗船していたジョン・ブルック大尉他、アメリカ人乗員の助けを借りての航海であった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「あこがれ」から「みらいへ」船名を変え母港を神戸へ☞ちら

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3月25日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年03月26日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像クリックで記事全文に飛びます。

 

 

 

 

 

 

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旧中川河畔のトワイライトタイム

2022年03月25日 | 身辺あれこれ

2週間ほど前の いつもの定点観測ポイントの風景。

歩行数 8678歩 歩行距離 5.4㎞

 

 

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「人類の起源」「生物はなぜ死ぬのか」「海の民の日本神話」    図書館から予約本の到着メールが来たので借りにいってきた。

2022年03月25日 | 乱読は楽しい

予約を入れてから自分の順番が来るまで結構待った本もあって嬉しい

 歩行数 3361歩   歩行距離 2.1㎞

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神戸北野通りと北野坂     16年前の今日2006年3月25日「阿智胡地亭のShot日乗」掲載

2022年03月25日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

もう一月ほど前になりますが薄暮の神戸の北野町を歩きました。


北野坂から街並みを見下ろすと暗くなる寸前でもあり、またオフシーズンでもあったので観光客の姿はありませんでした。

 

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3月24日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年03月25日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像クリックで記事全文に飛びます。

 

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台湾のお粥を食べに行ったら店が満席で断念し ベトナムの鶏肉お粥を食べて大満足で帰った。

2022年03月24日 | 食べる飲む

以前あいかたが 今は千葉に住んで長い 阪神間在住当時からの友人と 両国から錦糸町まで歩いた時にみかけたという錦糸町のお粥の店へスカイツリー通りを見ながら向かったら

 想定外なことに店の前まで人が並んで待っていた。しかも若い人ばかりだった。Σ(・□・;)台湾のお粥に はまった人はやはりこのあたりにも沢山いるのだ。

止む無くそのまま「北斎通り」を歩いて両国の蕎麦屋「穂乃香まで歩くことにした。

かなり歩いてようやく蕎麦屋「穂乃香に近づくとここも10人ほど並んでいる人が見えた。二人とも並ぶのは苦手なので 近くのベトナム料理店「ホイアン」を目指してまた歩いた。

ホイアンに入ると店は若いベトナム人のグループで満員に近かったがいい席に座れた。

どの席のベトナム人のグループも楽しそうに喋り合っていた。見ると遠くの席に白人の青年が若い女性といたがその彼はいかにもフランス人という風貌だった。

かってフランスはベトナムの宗主国だったことがあるからフランス人はベトナム料理になじんでいる。

メニューに確かお粥があったと相方が言い、私もそうだと思い出した。「鶏肉おかゆ」と「牛肉フォー炒め」を頼んだ。お粥は時間がかかりますがと言われたがそのまま注文した。

まず「牛肉フォー炒め」が来たので「パクチー」を追加で頼んだ。

かなり後に お粥がビックリするほどの量で来た。

普通で考えると三人分は有る量だと思ったが お粥の想像以上の旨さのためか ものも言わずに自分だけで 三分の二ほど食べてしまった(笑)。

店の入り口からは店内の広さは想像できないが店はかなりの大箱だ。この日は20人は客がいたが日本人の我々二人とフランス人の青年一人以外は

店内は全てベトナム人のお客だった。グループの男女はベトナム料理のいくつかの皿を次々に平らげていたが全くの東京の下町言葉の人もいて

そうかもう東京生まれのベトナム人も沢山日本にはいて当たり前なんだなと思った。だいぶむかし パリのラーメン屋でこの店はパリ在住日本人の拠り所らしいと思ったように

この「ホイアン」というベトナム料理の店は彼らベトナム人の食事の拠り所の店かもなと想像した。

それにしても今回食べたお粥は台湾のお粥と違う旨さがあって病み付きになりそうだ。

 歩行数 6142歩 歩行距離 3.8km

 

 

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「10ヶ月児とのアイコンタクト」    阿智胡地亭便り⓺    #26から#30  こんなエッセイを2002年頃からメールで友人知人に発信した。

2022年03月24日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

#26 10ヶ月児とのアイコンタクト   2003.6.23

電車の中に入っていくと2人席の一つが空いていたが、窓際の席には若いのが大きく足を広げていた。
もう少し先を見ると女性の横が空いていたのでそちらに座った。
座って気がつくと彼女は赤ちゃんを膝に乗せていた。足元には大きなカバンとリュックが置いてあり、
隣の席にはみ出さないようにつつましく縦に積んである。
彼女の足がようやく下におろせるくらいの大きな荷物だった。

そんな荷物なので孫を見せに実家に里帰りした帰りかなと思いながら、座っていると、
窓の外を見ながら子供に小声でひっきりなしに話し掛けている。「あっチョコレートの看板や、
お菓子の工場かなあ。反対側の電車が来たよ、あれに乗るとオジイチャンの家に帰るんやけどね」

赤ちゃんはおとなしく膝の上にだかれて立とうとしているがまだつっぱるだけで立つことは出来ない。

冷房は入っているが汗かきのボクには利きが悪いので、夏の必需品の扇子を
後ろのポケットから出して扇いだ。

しばらくすると「あれ扇子やよ。うちわと違う動きが面白いんかしら」という声が聞こえた。
横を見ると赤ちゃんがこちらに向き直って扇子の動きをじいっと見ている。

つい「パタパタ」「パタパタ」と言いいながら赤ちゃんの顔にも風が行くように扇いでみた。
真っ黒な前髪が風にあおられて少し動いた。そして赤ちゃんがニッコリ笑った。

「ごきげんさんやね。ぐっすり眠ったあとかな」とお母さんに言うとそうなんですと言った。

何ヶ月ですか、10ヶ月です。うちも娘が二人いて、こんな時もあったはずやけど、おおきなると
そんな時代があったこと忘れてしまって。そんなもんなんですか。

赤ちゃんは二人の話を静かに聞いている。何回もパタパタをしてあげるとその都度ボクの
目をじっと見上げてうれしそうに笑う。

黒い瞳の可愛い男の子だった。しばらくこの子と目を合わせた。彼はまったく視線を外さない。
気持ちよさそうに風を受けてボクをじっと見つめる。

生まれて10ヶ月の赤ちゃんと昨日東京で退職の行事をすませたばかりの61歳の男の二人が
お互いじっと目を合わせる。涼しい風って気持ちいいねえ。ほんとやねえ、おじさん、と
言っているように思えた。

乗った電車が芦屋に近づき、新快速は自分の下車駅の六甲道には停まらないので普通電車に
乗り換えようと準備を始めたら「おじさん降りられるみたいやねえ」と母親が子供に話し掛けた。

「丈夫な子オに育ちや~」と行って席を立つと「ありがとうございます」と彼女が言った。

先に動き出した普通電車をすぐに新快速が追い越しかけたが、向こうの窓からこちらに気がついた
彼女が軽く会釈したのが見えてボクもあわてて頭を下げた。電車は速度を上げて通過していった。

生まれて10ヶ月目の赤ちゃんと、楽しい出合いがあって、何となく明日からの毎日が
楽しくなりそうで、少し弾んだ気持ちで六甲道駅の改札を出た。

出会ったとさ。

('04.2.11の神戸新聞[文芸欄]エッセ-・ノンフィクション部門に「小和田 満」の筆名で入選・掲載されたエッセイです。
男の子に出会ったのは'03.7月の第一週でした。あの男らしくゆったりした子は、
どんな14歳の子になっているのか一度会って見たい気がします。)

#27霞ケ浦と九十九里浜から来た小父さん達  2003.7.10

霞ケ浦編

ある日、勤め先の神田から流山市(千葉県)の社宅に帰ると、夕食に焼いた
ワカサギやゴリやハゼ、川エビの佃煮が出てきた。
好物なのですぐに食べてみたら、とてもおいしい。どこで買ったのと相方に聞くと今日
自転車の荷台に箱を乗せた小父さんがやって来て、アパートの一軒一軒を回った。
味見をしてみたらおいしかったので買ってみた。ねえ、おいしいでしょうという。

小父さんにどこから来たのと聞いたら、霞ケ浦から来た。これからも買ってくれるなら
時々寄るよと言ったので寄って下さいって頼んでおいたわよ。
とても凄い茨城弁で言葉は半分くらいしかわからなかったけど、仲間が霞ケ浦で取った
魚を自分で加工してそれを常磐線の駅毎に下りて行商していると言っていたわ。

小父さんはその後、ほぼ定期的に寄ってくれるようになり、スーパーで買うのとは違い
取ってすぐの加工で、新鮮で化学調味料も入ってなく、おいしくて子供も喜んで食べた。

私の通勤最寄り駅の南柏から会社のアパートへ来るまでに、途中のお客さんに殆ど売れてしまい、
残り物しかない日もあるので、来客の手土産や神戸に帰省するときの土産にする時は、
小父さんの自宅の電話番号を聞いておき、あれを300g、これを200gとか頼むようになった。

顔を見て話すぶんにはなんとか理解出来るけど、電話で本物の茨城弁を聞き取るのは
ホント大変と言っていた。 茨城県の言葉が東北弁のエリアに入るのはそれまで知らなかった。

ある日、帰宅すると子供達がバケツを覗き込んで騒いでいた。
今日は小父さんが、生きたドジョウを持って来ていたのでアナタが柳川が好きだから
明日の休日の晩に柳川鍋をしようと思って買った、と言う。

突然、何かで読んだか聞いた料理法を思い出した。鍋に汁と豆腐とドジョウを一緒に
入れて火にかけると、まもなく熱くてたまらないドジョウがいっせいに豆腐に頭を
突っ込んでドジョウ豆腐が出来る。それがとてつもなくおいしいと。
翌日、相方はそんな料理法は聞いたことないと半信半疑だったが、強引なダンナに
負けてトライしてくれた。

台所は修羅場になった。ガスをつけてしばらくするとガタガタという大きな音がして
蓋を押しのけて必死のドジョウ達が鍋から飛び出した。
コンロの上の鍋から落ちたドジョウが台所の床を這い回る。
子供達はキャアキャア言って逃げ回る。
そこら中水浸しで、鍋の中の豆腐はカタチがないほどグチャグチャだ。

無言で冷ややかにこちらを見る相方の目を外し、必死でドジョウを捕まえた。
結局その晩はドジョウを捌いて、相方の当初レシピどうり柳川鍋に落ち着いたが
食べおわったのは随分遅かった。水浸しの床掃除は当然、自分以外誰もやってくれなかった。

その騒ぎとは無関係に子供が飼ってみたいというので、ベランダで一匹だけ小さな
バケツに別にしていたドジョウは、一週間後、幼稚園児の長女がつかんで遊んでいた時
手からスルリと抜け出し、あっという間にアパートの四階から下へ落ちた。

あーツ、お父さん、ドジョウが落ちたヨという娘の声で4階から下へ一気に階段を駆け降りた。
ドジョウは芝生の上で何もなかったように動いていた。
ドジョウを掴んで上がって来ると心配顔の娘達は大喜びだった。
 その後、このドジョウは餌をもらい丸々と太り、長くベランダのバケツに住み着いた。

しかし相方は小父さんからドジョウを買うことは2度となかった。

10年くらい経って神戸に住むようになり、元町商店街の外れに泥鰌料理専門の
小さな店をみつけ、二人で柳川鍋をつついた時、相方がアナタは時々とんでも
ない事をおもいつくからと当時を思い出して笑った。
そして、今思い出したけど、ドジョウ豆腐はたしか落語のネタのどれかにあったんじゃないと言った。

#28 セロリ栽培・日本はじめて物語  2003.7.14

戦前、日本では野菜のセロリ(celery/和名・オランダ三つ葉)は
殆ど知られていませんでした。

☆ 日本が太平洋戦争に敗けた後、米軍(英、豪州軍も)が日本各地に占領軍として
数多く駐留しました。
昭和20年の占領初年から、この8月15日で丸58年が経過し、彼らは名前が変わって
同盟軍として58年経つ今も、継続して駐留してくれています?
 占領軍のトップであるゼネラルマッカーサー始め米軍将兵は生の野菜をサラダで
常食するのでその材料の調達が毎日毎日必要でした。

しかし日本に新鮮な野菜はありましたが、生で食べる事が出来る野菜は
調達出来ませんでした。

なぜなら、当時の日本では、殆どの野菜農家は日本列島太古からの伝統リサイクル
黄金肥料(早い話が人糞肥料)もかなり使っているのがわかったからです。
 戦前の日本では今の中国、台湾人と同じで野菜を生で食する習慣は
一般家庭では殆どありませんでしたし、日本人は昔から低コストで資源の
有効活用をしていたのです。

止むなく占領軍の調達部は日本政府に命じ、清潔な環境で化学肥料のみを用いて
野菜を作らせるようにしました。

米軍調達部”野菜栽培Cord”で作らせた野菜の中には、ジャガ芋、ニンジン、
キャベツ、玉葱、などに交じって彼らの好物ではあるが、それまで日本では
あまり栽培された事が無い種類がいくつかありました。

その一つにセロリがありました。

当時の農林省は、アメリカ本国でセロリを栽培している土地の気候風土を調べたところ、
寒冷地が適地であり、朝夕と昼間の気温差が大きく、カラッとして湿度が低い土地に
良質のセロリが育つという事がわかり、北海道や長野県で試験栽培しました。

長野県で栽培されたのは八ヶ岳の麓の高地で、現在の茅野市や
今ペンション村で知られる原村あたりがその中心です。
 
色々と試行錯誤の結果、アメリカで取れるセロリ並みの品質のものが出来るようになり、
苗の生育、成長途中、取入れ、洗浄、梱包、輸送と米軍検査部門の厳密な検査にパスし
関東、中京地区の米軍駐屯地へ出荷されるようになりました。
 その輸送箱にはわざわざ「清浄野菜」というラベルが貼られて出荷されました。

日本の普通の八百屋(日本にスーパーが出現する10数年前の時代です)で売られて、
我々の親や我々が日々食した野菜は、彼らにとっては清浄ではなかったのですね。
 
☆ 中学校の夏休みに母の里の八ヶ岳山麓の地区へ四日市から遊びに行って、
始めてセロリに 出会ったとき、セロリが積んである土間へ入ると、あの独特の匂いが
漢方薬の匂いのようだと思いました。ただしその後長い間セロリは四日市の家の
近くの八百屋では見かけませんでした。

そして時代が下って、セロリも徐々に人に知られるようになり、関西でも万博以降
マーケットにも少しづつ出回るようになり、今ではどこのスーパーでも売られている
野菜になりました。
 
茅野の私の母方の従兄はもう何十年もセロリ専業農家をやっていますし、
また諏訪地方ではセロリは、ごく普通のポピュラーな野菜として味噌汁の具や
漬物にも使われて良く食べられています。
 
洗ってマヨネーズをつけて一本そのままバリバリ食べるのと、
漬物にしたセロリの浅漬けは私の大好物の一つです。

諏訪・茅野地区は寒天や凍豆腐(高野豆腐)の産地でもあるほどの寒冷地なので、
お米の単位あたりの収穫量は良くない土地ですが、セロリは東京という大消費地へ
出荷が出来る夏季の有利な近郊野菜として栽培が長く続いています。
恐らく今でもセロリの出荷額では日本の中では長野県がトップだろうとおもいます。

*最初に農林省から試験栽培を言われた農協の一つの組合長を
していた母の兄である伯父と一緒に、日本で最初にレタス栽培導入に携わり、
今も専業でレタスを作っている従兄から今回の前半の話を聞きました。

♪ところで昭和20年代後半の朝日新聞に連載された「ブロンディ」という
アメリカ家庭漫画があり、亭主のダグウッドが会社で弁当を食べる場面で、
紙袋からパンとは別に、白くて長いものを出してかぶりついている場面がよくあり、
あれはなんだろうと長年思っていたのですが、あるとき
「ひょっとしてセロリじゃないか」と思い当りましたがどうなんでしょうか。

#29 今年も月下美人の花を食す   2003.7.27

家に[月下美人]の鉢植えが二つあります。元々は母が育てていたもので恐らく20年以上家にあるものでしょう。
昔から毎年花をつけるのでウチでは毎年咲くのは当然の鉢なのですが数年前までよく新聞に「月下美人が花をつけた」と
写真入りで報道されることがあり、よそさんでは、花が咲くのがそんなに珍しいことかいと思っていました。


①月下美人はサボテンの一種だと思いますが、普段は乾燥種の葉が茂るだけで何の面白味もありません。
ところが一年に一度だけ強烈な芳香と共に真っ白な大輪の花をつけます。
花は夕方に開花すると明け方にはしぼんでしまいます。今夜は開花すると見当をつけて見ていないとサカリを見逃します。
たった一夜しか咲かないはかない花で、しかも夜間にだけ開くということからナルホド[月下美人]と名付けられたんやと納得する花です。


今年は合計6つ開きました。ファイル#0078は19日時点での蕾です。後の二つのファイルが本日27日の23時頃開花した満開の写真です。

いま、何とも言えない生臭い花の匂いの中でこれを書いていますが、この匂いは恐らく乾燥地帯の中で花粉を仲介する
虫か鳥を呼び寄せるための必死のシグナルなんだと思います。

②広島の単身赴任から戻った3年前から、家の中の鉢植え管理はどうせ家の事は何もしないんだからそれくらいやったらと、
事前打合わせもなく、知らないうちにボクの仕事になってしまいました。鉢の冬期の水遣りは結構神経を使うだけに、
今年も月下美人がつぼみをつけたのに気がついた時は内心「やったね」と快哉を叫びました。

花は二回楽しめます。夜間、花を目と鼻で楽しむのが一つ。朝それを摘んで、夕食にさっと湯を通したあと
三杯酢にして食べるのが月下美人開花の2番目の楽しみです。

今年は一回目の開花4輪を既に三杯酢で冷酒と共にやりましたが、明晩は今咲いている2輪をもう一度楽しみます。
匂いと舌触りはホヤに少し似ているかもしれません。

8年前のあの大震災が1月だったお陰で、水をやらなくとも何とか生き延びたウチの月下美人に今年も
「よっ、いつまでも美人やねぇ、来年も頑張りや」と声をかけ、ちょっと肥料もやって養生して一年後を期待して水遣りを続けます。

開いたあと食ったとさ

#30 九十九里浜から来た小父さん  2003.8.04

あらっ、この人あの魚屋の小父さんじゃないかしらと夕刊を見ていておもわず大声を出した。
えっどうしたのとテレビを見ていた二人の娘が、相方の両脇から頭を突っ込んで一緒に記事を読んだ。

「九十九里浜の海水浴場で水泳監視人が死亡」と出ていた。<これより遊泳禁止>の旗を無視して遠くへ泳ぎ出した高校生二人が、
共に溺れかけ地元のボランティアの監視人が泳ぎだして二人を助けたが、二人目を岸に連れ戻したあと心不全で亡くなったという記事だった。

昭和55年の秋、南柏の会社のアパートを出て取手市の隣りの藤代町に家を買って引越した。
JR取手駅からバスで10数分の戸建住宅ばかり900戸ほどの住宅地だった。
*1(今年の選抜に茨城県代表で出た県立藤代高校へは光風台というその宅地の入り口から10分ほどのところにある)

引越挨拶で近所をまわったとき、数軒の奥さんがその場で色々教えてくれた中に土曜日に魚屋さんが小型トラックで来て、新鮮な魚を買えるわよ、
そのトラックは前からお宅の家が建ったところの前に停まるからって教えてくださった。

家は住宅地の入り口にあるバス停まで歩けば10数分かかるという奥まった場所で、日常の買物はまわって来るスーパーの小型バスに乗るか
自転車で行くしかなかったが、自転車では結構距離があり難儀だった。

土曜日になると「魚屋だよ、魚屋だよ」と大きな声がして家の前にトラックが止まり近所の奥さん方が集まった。
取手駅のイトーヨーカドーまで行けばサカナは買えたが、この小父さんの毎週の行商のおかげで新鮮なイワシやサンマ、カツオなどが
手に入りうちもご近所も皆助かっていた。この小父さんに7年ほどお世話になった。

相方が小父さんといろいろ雑談する中で、小父さんは50歳代中頃で九十九里浜で漁師をしながら民宿を始め、
民宿シーズン以外はこうして行商をするようになったと言うことがわかった。

夕方のNHKのローカルニュースでも放送され小父さんの顔写真が映された時、相方と子供達は声がなかった。
 特に3歳で引越して、小父さんが来ると毎回、相方について出ていた次女は、彼とは7年間近く毎週会っていた。
次女は生まれて初めて身近に知っている人が死ぬという経験をして、今でもあの時の事は忘れられない、
特に人の命を助けて自分が死ぬ事をする人がいるんだと忘れられないと言った。

毎月の家のローンと夫の呑み代・麻雀などの遊び代で手いっぱいで子供のおやつ代にまわる金はなく、
おやつは母親手作りのジャムやオカラと人参のケーキ、きなこ飴などしかなかった子供には小父さんが無造作に
ビニールを破ってハイといつも手渡してくれるヤクルトは本当においしくて毎週土曜日が楽しみだったと言う。

それからもう魚屋さんは来なくなり、その事に慣れ出して2ヶ月くらいしたら「魚屋だよ、魚屋だよ」と女の人の声が聞こえた。
外に出てみたら、あの見慣れた車の側に初めてみる女の人とその息子らしい若い人がいた。

予想どおり、あの小父さんの奥さんと長男で「これから引続きまわってきますので、ウチのお父さん同様よろしくお願いします」と挨拶された。
あの日の事を聞いてお悔やみを言った。

その秋に神戸に引越したので、そのあとどうされたか分からないけど、7年も毎週顔を合わせていたあんなに気風のいい人が、
ああいう亡くなり方をするなんていまでも忘れられない。海から遠く離れた土地で牛久沼の鰻やフナや鯉なんかはいつでも手に入る所だったけど、
あの小父さんのお陰で海の新鮮な魚も食べる事が出来てあの7年間は本当に魚には不自由しなくて済んで、ありがたい人だったと相方は言った。

いつものように飲んで麻雀をして終電で深夜1時過ぎに帰ったら相方が、今日大変なことがあったのと小父さんが亡くなった話をした日のことは私も覚えている。

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