リニューアル再掲:津軽と南部の確執の史跡、野辺地戦争墓所 (2008.12.08撮影)
映像:戊辰戦争の後半盛岡藩・八戸藩南部連合と弘前藩の兵士180人が激突。南部連合
軍は40名の死傷者を出し敗走背した。その時の死者27名を祀った墓石・史跡。
(過去の記録:2007.05.26)
下北半島に向かい青森を出て最初に遭遇する歴史的地所はこの野辺地戦争戦死者の墓所。
もう幾度この地を通ったろうか、しかしこの墓所を見る機会はなかった。今始めて見る。
津軽と南部の境は野辺地辺りということはなんとなく思っていたが、この歴史的墓所を
見て明確となる。小港まで津軽、野辺地からは南部(八戸藩)。この地を境に争ったのだ。
戊辰戦争:当初、東北の各藩は奥羽越列藩同盟で徳川江戸幕府支援の一枚岩であったが、
秋田、弘前藩が後半、官軍側にまわり、野辺地戦争となった。北前船などで日本
海側の藩が官軍(明治政府)優位との情報を得ていたのと、やはり仙台伊達藩か
ら遠く、影響力も少なかったのだろう。これで、津軽、南部の確執(津軽と南部
のウマが合わない、何かにと対立する)が更に深まったと推測。 (2007.5.26)
参照#上北地域(野辺地他)温泉地 データ・ベース