廃業速報:2010.12に閉館
山形県は新庄地方をツーリング。旅で困るのが朝の身の整いトイレ、
洗顔やら・・で筆者は朝風呂を探すのだがここでの朝風呂は新庄温泉。
【Data】含重曹ー食塩泉 38.8℃ PH8.2 源泉:新庄温泉
映像:西八甲田蒼荷大滝の手前にある青荷温泉開祖湯守・歌人丹羽洋岳の石碑。
『水上の
櫛ケ峰早やも雪白み
とらへし岩魚さびて細りぬ』(丹羽洋岳)
解釈:青荷渓谷の瀧は水量も枯れ、深山に初雪が降る頃、生簀の岩魚は寂しくも
痩せて見える。歳の経つのは早いものだ。岩魚に己が身を重ね合わせ人生を詠む。
本県初の短歌グループ蘭菊会を結成した歌人丹羽洋岳。大正5年若山牧水が来県
し、板留の洋岳宅に半月余滞在し、洋岳は短歌を伝授されている。40代初に青荷
温泉に移り住み晩年まで歌を作り続けたとの事。ランプで有名な青荷温泉は温泉
を愛でる文人の里でもあり、本物の温泉地だ。今もなお愛湯家で温泉場は賑わう。
映像:青荷温泉館内にランプが灯る風情が心を落ち着かせる。
青森県西八甲田山系青荷渓谷にある一軒宿、夏は車で行けるが、冬は雪上車という隔絶の世界。そんな中、薄暗い館内にランプが灯る頃、都会からのお客様が訪れる。空気も水もランプ色に変わる。…そして闇になると川面にホタル火が舞う。…ここも夏色。
映像:大鰐温泉茶臼山の頂上部に建てられた増田手古奈の師、高浜虚子の句碑
『手古奈母 お萩に新茶 添えたばす』 (高浜虚子)
俳人高浜虚子も又、全国の温泉地に足跡を見ることが出来る。歌会、句会は主に
会場を温泉地で行う。明治・大正・昭和初期の著名温泉地に歌碑・句碑が多いの
はその故である。又主催者は比較的裕福な土地の有力者である事も一因といえる。
医師増田手古奈が師である高浜虚子を大鰐温泉に招いたことは容易に想像できる。
高浜虚子程の文人が訪れ句碑がある温泉地大鰐は青森県でも一級の温泉地である
ことは疑いのない。その温泉地が、漫然とお湯を提供するだけでは人は訪れない。
お湯に親しむ、楽しむ、遊ぶ工夫が無いのが今日衰退の原因。実にもったいない。
温泉地は一寸工夫するだけで一寸発想を変えるだけでお湯が活きる。復活を願う。
≪Mémoire(メモワール)動物観察 ボタンエビ 2010.8.12≫
北海道自然遺産知床半島を巡り羅臼側に辿り着く。
ここでの野宿は道の駅「知床・らうす」だ。ここの
売店で見つけたがボタンエビ。貴重な北の食材だ。
映像:大鰐温泉茶臼山の中腹に建てられた。増田手古奈の句碑(2008.6.29)
大鰐温泉は湯治客、観光客で賑わった時代があった。今の町勢からは考えられない。
しかし茶臼山に登ればその時代の繁栄が偲ばれる。共同浴場で熱い湯を味わった後、
茶臼山に登る。八幡宮を過ぎた後曲がり角に、医師で俳人増田手古奈の句碑がある。
『山の温泉(ゆ)や 夕鶯の いつまでも』 (手古奈)
解説:いで湯の里の茶臼山にウグイスが啼く頃、春の夕刻であろう。湯船に浸かり
ウグイスの啼鳴に、ユッタリとした心地よい時が流れる~小生はこの句をこの様に
味わった。この取材時にも、遠くウグイスが啼いていたのが印象深い。名湯名啼だ。
映像:知床半島、日本最東端の出湯、露天風呂相泊温泉から北方領土が眺められる、
その遥か先は蟹工船の舞台カムチャッカの海だ(2006.9.6取材)
未曾有の経済危機、アメリカの経済基盤がゆらぐ資本主義経済の崩壊予感。そんな中、日本では蟹工船がブーム、一体日本はどこへ行こうとしているのか?農業と技術と勤勉の日本、昭和の時代に戻らなければ?戻れないのだろうか?(2008.08.10)
石川啄木は貧困の生活を抜け出せなかった。最後、苦しみの中から社会主義への軌跡も垣間見れるが、文学の呪縛から逃れることもなく、苦しみと哀しみの言葉の発露に終わった。しかし、これは個人的懊悩にすぎない。
今、小林多喜二『蟹工船』が読まれてるとか、その舞台が北海道の果てカムチャッカの海だ。釧路まで流れた啄木はその先、根室、知床そして厳冬の海域での地獄の苦しみを知っていただろうか?今の世は蟹工船が読まれる程、世相が逼迫してるのだろうか?
啄木のあまりに哀しい境遇に、共感すればする程、その先のテーマにたどり着く。豊か過ぎる私たちが、何も無いただの『島国の民』に戻った時、その時は啄木の様に嘆き、悲しみの歌だけで終われるだろうか?
一部石油産出国の余りある富の現実、享楽の日々を黙って見ていられるだろうか?世界は長い下り道に差し掛かっている。今までの権力、資産家、格差という構造に、資源、資本、先端軍事の独占という極端な世界状況が加わる。
日常茶飯事にヒトが死んでいく状況を瞬時に把握する私たちは、世情に麻痺しつつある。喜び、悲しみ、苦しみ、愛、優しさ…お父さん、お母さん、恋する人、友人…人類が千年かけて獲得した大切な絆文化が魔法の水『石油』で燃やされてしまう。
宇宙的時間からすれば、星の瞬きも及ばない私たちの生命。私たちは何処から来て何処へ行くのだろう?この狭い地球で何をやっているのだろうか?素裸になり温泉に入り、普段の有り様を考えるのもたまには良い、だから又、ガンバれる。 ~啄木の夢・追想~
映像:石川啄木記念館の寓居前に、妻節子の真新しい歌碑が建っている。
『この船は
海に似る瞳の君乗せて
白帆に紅の帆章したり』 (石川節子)
啄木の資料を整理し、妻の歌碑を発見。今までその存在に目を向けなかった事を深く反
省。自らも肺を病み幼子を抱え、文無しの啄木に従う生活は如何ばかりか。この歌碑を
詠んで妻節子の素晴らしさを理解できた。この妻が居たから珠玉の作品が生まれたのだ。
天才‣偉人には恐妻・悪妻が多いのが世の常、身近な夫の偉大さを見失う所に夫婦連れ
合の悲劇がある。妻節子はシッカリと啄木を理解し支えた。しかし二人とも27歳で生涯
を閉じる早死であった。美人薄命、天才若死とはこの事也。石川節子という女性に感動。
解説:啄木が文学を志し始めた頃を歌ったのだろう。『海に似る瞳の君乗せて』の表現
は夫の才能を信じ、世間に認められる作家となる様願う、深く愛する心情が伝わる。
参照:石川啄木夫妻写真
映像:釧路の奥座敷川湯温泉で足湯を楽しむ学生。8月蝦夷ユリの花が咲いていた。
歌人啄木が沐浴を詠んだ珍しい歌を一首紹介。
『朝の湯の 湯槽のふちに うなじ載せ ゆるく息する 物思ひかな』(一握の砂)
解説:私共温泉ファンには、不遇の天才歌人が温泉にどの様に親しんだのか気になる
ところ。困窮を極めた啄木が朝湯をする環境にあるのは、函館湯の川か、釧路の奥座
敷川湯温泉のどちらか。家族を小樽に残し、一時放蕩三昧の釧路川湯温泉と思われる。
しかし、後日、関係が深かった芸者小奴が啄木の残した遊興代の精算に苦労した事を
考えれば、温泉を楽しむ境地ではなかったらしい。その中で『…ゆるく息する物思ひ
かな』の表現に、憔悴した啄木の精神・肉体に一時、温泉のいやし効果が推察される。
参照#石川啄木(哀しみの歌人)探訪紀行
映像:釧路港が一望できる知人岬米町公園に設置された石川啄木の歌碑(2006-09-21)
釧路と言えば石川啄木。我が青春の切ない想い出とは別の意味で物悲しい郷愁を感ず。
不遇の天才歌人啄木は函館~小樽~札幌ついには釧路に職を求めて来た。74日しか
居ない啄木を釧路人は篤く持て成す。市内に23もの歌碑が建立され幣舞橋から米町公
園迄の“啄木ロード”は啄木の面影や歌に触れられ、最も古い歌碑が知人岬の先端、米
町公園にある大きいもので、 釧路の海と港が一望出来る。明治41年4月、啄木は逃げ
るようにして釧路港から出帆する。そういう石川啄木の影を追って来てしまった私・・・。
碑銘:『 しらしらと 氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の 冬の月かな 』(一握の砂)
解説:啄木が釧路に居たのは1月から4月、-20度の釧路の情景をよく切り取っている。
後日:2012年に石川啄木が上京の船坂田丸に乗り込んだ地(離別後)に記念碑が建てら
れた。釧路にはこういう啄木の歌碑・記念碑が27基も設置され盛岡の70に次ぐ。
参照#石川啄木(哀惜の歌人)探訪紀行
映像:本州最北、大間崎にある石川啄木の歌碑(2006-08-19 取材)
『東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 』 (一握の砂)
『大という字を百あまり 砂に書き 死ぬことをやめて 帰り来れり』 (一握の砂)
『大海に むかひて一人 七八日 泣きなむとすと 家を出でにき』 (一握の砂)
啄木のあまりに有名な失意の歌。青森県大間崎にある啄木碑の三つの石塔の真ん中に
刻まれている。この句は当初からこの大間の地を想って書かれた説と函館大森海岸説
がある。啄木と言えば函館とういうのが一般的かもしれない。この歌は在京時の作で、
小島とは本州地続きの灯台の島「弁天島」の事で青年時磯遊びをした記憶を基に創作
したと思われる。明治期この地は白砂もあり、磯蟹も沢山いたそうな。大間までの旅
は当時難儀なもの、いかなる思いでこの地に遊んだか、石川啄木の境地を想像できる。
函館大森海岸での想い出は楽しいものであり、この句の物悲しさは不遇であった東京
の果ての弁天島の事と解釈するのが自然と思う。今では蟹も居ず、白砂も無い。先の
青森朝日放送取材陣ヘリコプーター遭難はこの周辺で起こった。新たな悲しみの地だ。
一首謹呈:
『最北の 石碑に刻む 啄木の 哀しみは 今何処なり』 (和)
映像:石川啄木の生家、渋民宝徳寺境内にひっそりとある歌碑。啄木の始まりの地
にある石碑としては寂しい佇まい。ひばの木は今も天に向かい起立している。
碑文『ふるさとの 寺の畔の
ひばの木の
いただきに来て 啼きし閑古鳥』 (啄木)
啄木はこの生家を追い出され一族を伴い流転する。それでも夢を捨てきれず上京。
文京区に居を構える。しかし彼はお金が無かった。彼を金銭的に支えたのが金田
一京助博士であった。啄木の悲しみは貧困に尽きる。しかし追い詰められた境遇
は珠玉の歌篇を生み出したのである。東京の代表的歌を掲げ啄木物語を終えたい。
『石をもて 追はるるごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし』
『ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく』
(歌集「一握の砂」より)
参照:上野駅構内にはこの啄木の碑がある 石川啄木歌碑(東京都上野駅)
映像:盛岡市渋民地区から望む姫神山
石川啄木がこよなく愛した山、岩手山と対峙している目立たない山だが円錐形
の優しい山容にホッとする。標高1,124m。東北自動車道を南下すると盛岡近)
郊では、右に岩手山、左に姫神山が視認できる。日本二百山に選定されている。
記録:標高1,123.m 独立峰(非火山系) 花崗岩構成残丘 北上山地 日本二百名山
日本百名山:作家深田久弥が選定した100の名山には入っていないが、名著の
後記には次の様に記述されている
『・・・森吉山、姫神山、舟形山など、いい山ではあるが少し背が足りない』
詩歌:心を打つ歌人・石川啄木の山の歌を歌集『一握の砂』より二題
かにかくに 渋民村は 恋しかな おもひでの山 おもひでの川
ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな
解説:姫神山は独立峰として山容は方位360度どこから見ても秀峰である。同じ
規模、独立峰として心に残るのが鹿児島の開聞岳、遠くから山を見付けて
麓まで駆け付けたくなる。筆者は、津軽岩木山の麓で幼い日々を過ごした。
啄木の山に寄せる簡潔な歌は、お山に向かう時、いつも脳裏に浮かぶのだ。
…ふるさとの山に向いて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」
山男山女の間では、姫神山は岩手山の奥さんで、早池峰山は愛人だそうだ。
温泉#姫神山の麓に湧く姫神温泉『ユートランド姫神』
映像:渋民村尋常小学校の2階、1~2年の教室
小さな教室、小さな机、小さな椅子。窓の外には遥か遠く岩手山、青白い流れの北上川。
喜びも、悲しみも分かち合う村の子ども達。時代は極端な貧富の差で、どちらかといえ
ば、みんなが貧しい時代。それでも、キット元気な唱歌が聞こえたのだろう。いつの世
も、子ども達は天使だ。そんな学び舎の一時の啄木の夢の職場であったのだが・・・・