孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

カンボジアの過去・現在・未来

2012-12-25 21:36:54 | 東南アジア

(ポル・ポト時代に“反革命分子”とみなされた人々を収容するために使用されたトゥール・スレンに展示されている収容者(=処刑者)の写真 
ひざに乳飲み子をかかえた女性です。背筋を伸ばし正面を見つめるその姿は、自らとわが子に襲い掛かる不条理のなかで、絶望を見つめているかのように思えました。女性の目元を伝うものがあります。涙でしょうか。女性は当時の外務副大臣の妻だそうです。カンボジアと聞くと、この写真が思い起こされます。
「カンボジア2008 ①狂気の記憶(前編)・・・トゥール・スレン」http://4travel.jp/traveler/azianokaze/album/10209621/

新たな国際空港建設 高速道路で直結させれば問題はない
カンボジアには10年前にアンコールワット遺跡、5年前に首都プノンペンを観光したことがありますが、プノンペンの空港がどんな所だったかは記憶がありません。
他のアジア各国の主要空港と同じように、プノンペンの空港も移転拡充する計画があるようです。

****カンボジア、観光客増加見込み 首都近郊に新空港****
カンボジアは首都近郊に、新たな空の玄関となる国際空港を建設する。今後予想される外国人観光客の増加に対応するのが目的だ。同国のフン・セン首相は、新国際空港を首都プノンペンから90キロに位置するコンポンチュナンに建設すると言明。2025年の運用開始を目指すと述べた。現地紙プノンペン・ポストが報じた。

新空港の建設は現在、同国空軍が利用中の空港滑走路を民事転用する形で進められ、敷地面積は768万平方メートルとプノンペン国際空港(450万平方メートル)の約1.7倍になるという。
政府関係者は首都中心部から90キロという立地について、首都中心部から70キロ離れているマレーシアのクアラルンプール国際空港を引き合いに出し、高速道路で直結させれば問題はないという認識を示した。

カンボジア政府は現在、外国人観光客の呼び込みに注力しており、11年の280万人から20年までに700万人に増加させる目標をたてている。これにともない、首都のプノンペン国際空港が手狭になると予想されることから、首都に年間1000万人を受け入れ可能な新空港を建設すると発表していた。【12月25日 SankeiBiz】
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“首都プノンペンから90キロ”で“高速道路で直結させれば問題はない”・・・・本当でしょうか?
早朝の便など、遠い空港は何かと不便です。

五ツ星高級ホテルが並び建つシェムリアップ
それはともかく、東南アジア観光については、最近は民主化が進行しているミャンマーが脚光を浴びていますが、カンボジア観光の目玉であるアンコール遺跡群への外国人観光客も順調に増加しているようです。

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カンボジアの観光業を支える「ドル箱」、北西部シェムリアップ州にあるアンコール遺跡群が、順調に訪問観光客数を伸ばしている。
アンコールワット、アンコールトムなどの有名寺院を抱える遺跡群は、なみいる世界遺産の中でも、常に「行ってみたい世界遺産」ランキングの上位に挙がる壮大で華麗な建造物だ。
シェムリアップの中心部は小ぢんまりとした街だが、それでも五ツ星の高級ホテルが並び建ち、乾季の観光シーズンを迎えるこれからはますます華やかさを増す。

シェムリアップ州観光当局によれば、ここには2012年1月から8月までの8カ月で少なくとも100万人の外国人観光客が訪れた。シェムリアップ空港にこの期間、降り立った外国人は約136万5000人。前年同期の104万8000人より約3割も増えていて、「このうち少なくとも85%が遺跡群を訪れている」というのが、当局の見立てだ。

最も多いのは、国境を接する隣国ベトナム、企業進出もめざましい韓国や中国からの観光客。順位は多少入れ替わるが、日本人観光客は、だいたいその3カ国の次点につけている。それだけでなく、国境にあるもう一つの世界遺産「プレアビヒア」をめぐり武力衝突まで発生したタイとの関係が改善されてからは、タイ人観光客が急増している。

また、経済力を増してきたラオスからも多くが訪れるようになった。シェムリアップだけでなくカンボジア全土の統計になるが、タイ、ラオスから同国を訪れた人の数は、2012年上半期でそれぞれ9万2000人、10万7000人。どちらも前年同期の2倍近い人が訪れている。(後略)【12月4日 DIAMONDonline】
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歴史的にカンボジアとの民族感情がよくないベトナムからの観光客が最も多いというのは意外です。(敵対感情を持っているのは主に支配を受けることの多かったカンボジア側で、ベトナム側にはあまりないのかも)
また、海外観光とは縁遠い“貧困”といったマイナスイメージがあるラオスからも多くの観光客が訪れているというのも。地理的には隣国ですから、当然と言えば当然ですが。
東南アジア世界も時々刻々変化しているのでしょう。

隣接する村では栄養不良の子どもたち
国際的観光地アンコール遺跡群の観光客で賑わうシェムリアップに隣接する村に、栄養不良の子どもたちがいて、中学校すらない・・・というのも、カンボジアの今の現実です。

****100万人が訪れる世界遺産のすぐ隣にある貧困 観光産業の光と影****
・・・・500世帯ほどが暮らすクラウ村は、住民の6割近くが遺跡の保全修復や監視員などとして働く「遺跡を支える村」だ。だが、世界中から競うように援助資金や人材が集まる世界遺産の遺跡群とは対照的に、彼らの暮らしは貧しいままだった。

破壊された人々の暮らしをゼロから作り直すチアさんの活動
村には壊れた木造の橋しかなく、雨季には人々は泳いで川を渡った。安全な道路もなかった。子どもたちは、みな小柄。13歳の子どもたちの身長と体重を測ったら、日本の同年の子どもの平均より身長は20センチ低く、体重は20キロも少なかった。クラウ村の小学校には毎年約200人が入学するが、6年生まで学校に残るのはそのうち60人余り。あとは働き手となるため、小学校を辞めてしまう。

チアさんはまず、村に安全なコンクリートの橋を造ることから始めた。こつこつと自分の人脈で寄付金を募り、自ら作業場に足を運ぶチアさんの姿は、遺跡修復事業に携わる日本人たちの心を動かし、2005年には彼らも参加するJSTが発足した。

チアさんたちJSTの事業は、内戦で根こそぎ破壊された社会をゼロから作り直しているかのようだ。橋、道路、学校、食料。教育を建て直し、経済を生み出し、文化を根付かせる。チアさん自身が、奪われた半生を取り戻すかのようにもみえる。

ポル・ポト時代を知らない30代以下が国民の7割を占めるようになったカンボジアだが、社会と経済を再建しようとする原動力は、やはりポル・ポト時代と内戦の体験ではないかと私は思う。この国の40代以上の人々は、心のどこかに「生き残った者の責任感」を抱える。それが生きることへの執着と情熱となって新生カンボジアの骨を形づくっているように、私には見える。カンボジアの人々と共に歩むのであれば、日々肉づきのよくなる身体ではなく、この見えない骨を理解しなくてはならない。

今、クラウ村では中学校の建設が始まっている。クラウ村を含む周辺5村には中学校がない。小学校さえ満足に通わないのは、卒業しても通う中学校がないからだ。チアさんは自身が所有する土地を提供し、JSTが資金を集め、中学校の建設にこぎつけた。いつかこの施設を高校や専門学校にも発展させたいと考えている。【12月4日 DIAMONDonline】
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内戦とポル・ポト時代の混乱
上記記事に登場する“チアさん”とは、下記のようなポル・ポト政権下の厳しい困難を経験した人物ですが、総人口800万足らずのこの小さな国で、200万から300万近くの人間が虐殺されたと言われるカンボジアにあっては、その経験は極めて一般的なものです。

****ポル・ポト政権下でチアさんが味わった苦難*****
チアさんは1966年、シェムリアップ州に生まれた。父親は州立病院の外科医で、比較的豊かな暮らしをしていたが、内戦とポル・ポト時代の混乱で、チアさん一家は散り散りになった。

1975年にポル・ポト派が政権をとって間もなく、一家は父親が医師であることを隠して移住したが、職業がばれて父親だけが連行され、ポル・ポト派に殺害された。当時、前政権下で医師や教師をしていた知識層は、「スパイ」などの疑惑をかけられ、多くが殺害された。

チアさんも、子どもたちを集めた収容所で強制労働をさせられた。灌漑用の堀の造成、田植え、牛の世話。学校へ行くこともなく、十分な食糧も与えられず、朝3時半から夜まで働き続けた。少しでも不満をもらせば「裏切り者」と密告され、殺されるのが当たり前だったから、ため息をつくことさえはばかられた。

暗黒の時代は、10歳そこそこの子どもに生き延びる知恵を授けた。チアさんは出自を聞かれれば「農家」と答えた。文字も読めないふりをした。共同体の中の「だれ」に気を配るべきかを敏感に悟った。農作業中に大けがをして医者に行けなくても、自分の尿をかけ、タバコの葉で傷口をおさえるすべを身につけた。

だがどんなに注意深く息を潜めて生きても、ポル・ポト派の粛清は罪のない国民にまで刃を向けるようになっていた。チアさんの兄2人も、スパイとみなされ、同派に拷問されて殺された。兄弟のなかでたった一人生き延びたチアさんは、タイ国境の難民キャンプへ三日三晩歩いてたどり着き、1980年、14歳のときに日本へと渡った。(後略)【同上】
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カンボジア特別法廷 運営資金が「火の車」】
ポル・ポト派(クメール・ルージュ)の行った虐殺の理由を明確にし、その責任を問う“過去の清算”がカンボジア特別法廷で行われています。
カンボジアが明日に向かって前進するためには、“あの時代は何だったのか?”という“過去の清算”が必要なステップと思われます。

カンボジア特別法廷が難航していることは、このブログでもしばしば取り上げています。
(2月25日ブログ「カンボジア特別法廷  裁かれるポル・ポト政権の狂気」http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20120225
元ポト派幹部である被告の高齢化のため、時間との勝負になっていますが、財政的にも厳しい状況にあります。

“過去の清算”が必要・・・とは言いましたが、一方で、“あまり過去を蒸し返したくない”という気持ちが国民の一部にあるのも容易に推測されます。加害者側にいた人間は特にそうでしょう。
かつて自身がクメール・ルージュに属していたこともあるフン・セン首相なども、現在規模以上の法廷の拡大は望んでいません。

国際的な資金拠出(日本が約半分を負担)が滞っているということですが、カンボジア側の支出も抑制的なようです。
“そんな過去の詮索に金をかけるより、新しい空港でも作った方が将来のカンボジアのためになる”・・・といったところでしょうか。

****ポル・ポト裁判 財政危機 被告高齢化も真相究明の壁****
資金は援助国頼み/判事・職員給与ストップ
旧ポル・ポト政権(1975~79年)の大量虐殺を裁くカンボジア特別法廷が、慢性的な財政危機に陥っている。各国からの安定的な拠出金を確保できずにいるためで、判事や職員らの給与をはじめ、運営資金が「火の車」という台所事情は、元ポト派幹部である被告の高齢化とともに、真相を究明するうえでの障害となっている。

特別法廷は、国際スタッフとカンボジア人スタッフとで構成される「混合法廷」。協定上は諸外国から選ばれた判事、検察官、職員、弁護士の給与などは国連が、またカンボジア人の判事、職員の給与などはカンボジア政府がそれぞれ負担することになっている。

内訳をみると、国連負担分では日本が最大の49%を拠出しており、以下オーストラリア12%、米国9%、ドイツとフランスが各6%の順。一方、カンボジア負担分では、カンボジア政府が実際に拠出しているのは18%のみで、日本(38%)など他の援助国に資金を依存しているのが実情だ。

2006年に始動した特別法廷は、これまでに約1億8680万ドル(約157億円)を支出し、カンボジアを含む各国からの拠出は約1億7030万ドル(約143億円)にのぼる(いずれも今年10月末現在)。特別法廷は年間予算を国連などに提示するが、総じて各国とも苦しい財政事情を背景に拠出を渋り、予算は恒常的に不足している。

特別法廷は「カンボジア人スタッフ約300人の12月分給与の支払いが遅れ、来年も払えない状況にある。国連の拠出も来年3月以降はメドがついておらず、懸念は深刻だ」と指摘している。
財政難で職員の空席補充もできず、職員の数は減少している。このため特別法廷は、公判の頻度を減らすという苦肉の策もとってきており、裁判の長期化の要因ともなっている。【12月25日 産経】
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移り行く時代
今年10月には、「カンボジアはシアヌークそのものだ」と言われていたシアヌーク前国王が療養先の中国・北京で亡くなりました。
何かをする、しないに関わらず、時代は変化していきます。

****シアヌーク前国王死去 激動のカンボジア現代史を体現****
「カンボジアはシアヌークそのものだ」と言われる。フランスからの独立、クーデター、内戦、ポル・ポト政権下における暗黒の時代、そして和平と再生…。彼の生涯はまさに、激動のカンボジア現代史を体現している。

シアヌーク前国王が即位したのは1941年。前国王は「王の十字軍運動」と称してフランス、米国などを歴訪し、フランスとの交渉や、国際社会への働きかけに尽力した。その末に完全独立を果たしたのが、53年11月のことだ。

前国王が国家元首に就任して以降の60年代初頭、カンボジアは近隣諸国が政情不安な中にあって、「平和の島」と言われ、現在でも「サンクム・チャ」(旧社会)といえば、この時代を指す。東西冷戦構造のまっただ中にあって、前国王は中立政策をとり、東西両陣営から援助を引き出した。

その後、反米、中国へと傾斜していく。
カンボジアは65年以降、隣国のベトナムで燃えさかるベトナム戦争の戦火に引きずり込まれていった。ベトナム戦争における米軍の空爆はやがて、カンボジア領内におよび、国内では左派の勢力が台頭し、後に「ポル・ポト」と名乗るサロト・サルも活動を始める。シアヌーク前国王は、この勢力を「クメール・ルージュ」(赤いクメール)と呼び軽蔑した。

70年代、東西冷戦がデタント(緊張緩和)の時代にあって、カンボジアの政治体制は、70年のクーデターによる親米のロン・ノル政権、75年からのポル・ポト政権、79年からのベトナム指導型の社会主義政権であるヘン・サムリン政権と、大きく動いた。
とりわけ、共産主義社会を急進的に建設しようとしたポル・ポト政権時代は、鎖国状態にあり宗教、伝統文化、学校教育などあらゆるものが根本から否定、破壊され、国民が大量に虐殺された「暗黒の時代」と言われている。

ロン・ノル将軍にクーデターで国を追われたシアヌーク前国王は、北京で「カンボジア民族統一戦線」を結成し、「反ロン・ノル」を掲げポル・ポト派と手を結んだ。それもポル・ポト政権が誕生すると幽閉され、彼の子供たちなどは虐殺されている。
また、親ベトナムのヘン・サムリン政権に対抗しポル・ポト派と再び組み、ソン・サン派と3派連合政府も樹立した。

シアヌーク前国王がポル・ポト派を軽蔑し、またその犠牲者でありながら彼らの側に立ったことは、カンボジア現代史の大きな矛盾の一つといえるだろう。【10月16日 産経】
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